00:05
おはようございます。抜粋の精神科リブラでございます。
今日もやって参りましょうか。
スカンクさん、鳥井弘文さんのボイシー聞きましたか?
聞いてない?
何だか今見ようか。
スカンクさんの個人に話しかけておりますよ。
クリーンで甘美な世界Bに浸りつつも、どこかで常に疑い続けることの重要性。鳥井弘文の旅と読書とコミュニティ。
聞いた?また思った。
この前もスカンクさんに同じ話してましたね。
面白いな。
最近僕たち議論教の話してますよね。
たびたび僕が言うじゃないですか。議論教は流行らないよ。
なぜなら考えるのをみんな嫌いだからだと。めんどくさい。疲れるよと。
議論教が流行らない。その証拠としてね。
議論教が流行るんだったらディズニーランドなんかあんなに流行るわけないだろうと。
信仰宗教なんかもそうでしょう。正解を教えてくれるやつね。
東京ディズニーリゾートね。
オンラインサロンね。
こういう答えを教えてくれる系の、一つの価値を提示してくれる系のものがこれだけ流行ってるということはですね。
考えるのがめんどくさいんだよ。人々っていうのはね。
だけど我々は考えていきたいねと。こんなことを言っておりましたよね。
さあ今日から鳥井博文さんのお話。
さっきのどんな話かというと、鳥井さんの話は、
豊弘さんという人の書いたスマートな悪という書籍の中からの引用だったんですね。
その中に書いてある、鳥井さん自体もどこかから引用してるんだけど、その中に書いてあるお話。
クリーンな現実Bというもののことが書いてあるようです。
クリーンな現実Bというのは、
僕らの今の社会はぐっちゃぐちゃだと。複雑でややこしいこの社会の中に、
もっとどういうふうに向き合えばいいのか。どう考えればいいのか。
答えを教えてくれると。
その中の外部のものがですね。
03:01
外部社というのは、僕からするとオンラインサロンだとか宗教だとかと思うんですけども、
そういうものが必要なすべてのものを小綺麗なパッケージにして揃え、
これまでの混乱した現実A、これが本当というのかな。
僕らがもともといる混乱した現実Aは様々な制約や付帯条件があると。
そういうものを全部取り除き、単純でクリーンな別の現実Bというのに、
そういうメッセージが外部からのメッセージをバーッと置き換えられると。
そこには理論整然とした回答が用意されていると。
彼彼女の努力はもちろん必要だけれども、それに従いさえすればベクトルを揃えてもらって、
従いさえすれば答えが見えるというふうなものが、
そういうのにはまるというようなことが語られていると。
僕はそれは、ここの鳥井さんも言っていませんけども、
僕からするとディズニーだとか宗教だとかオンラインサロンだとか、
僕らが抗議で宗教と言っているものですよ。つまり議論をしたりとか、
信じる信じない信じる疑うとはまた別の軸、
考えるというね、信じる信じない疑うみたいな軸から離れて、
考えるというところを僕らは信仰していて、
考える議論教だとかって僕らは言っているわけでしょ。
そうじゃなくて考えない方で答えを教えてもらえる方ね。
僕らが見えているのは考える側と信じる側だよね。
信じる側というのはある種のものを信じて、
それ以外のものを疑う人たちだよね。
オンラインサロンだったらトップの人が言っていることを全面的に信じる。
宗教だったら教祖が言っていることを全面的に信じる。
東京ディズニーリゾートはまたそれの形が違う、
ちょっと形を変えていると思うんだけども、
ディズニーがミッキーが、ミッキーマウスが東京のTDRだな、
ミッキーが価値があるということを考えずにそういうふうに思い込むというような、
考えないというパターンのものがあって、
僕らは考えましょうと議論教だと。
それは広まらないというふうに言っていて、
この鳥居さんやら、豊さんはそういったことを、
豊さんかな、豊博さんはそういったもののことを不都合な、
何とかな現実B、クリーンな現実Bだ。
簡単とした混乱した現実Aからクリーンな現実Bへの橋渡しをしてくれると。
しかしそれはあくまでもフィクションなんだということで言っているわけですね。
鳥居さんの、ここからが鳥居さんの意見ですけど、
鳥居さんとしては混乱した現実Aからクリーンな現実Bに行きたい気持ちはわかるし、
よくある言説というのは、そういったものはフィクションだからそちらに行ってはいけないというふうに一般的には言うけれども、
人は楽をする生き物だし、それはお腹を空かせた犬の前にご馳走をおいて画面しなさいと言っているのと同じく無理であるということで、
06:01
それはやっぱり行くと。
ただし、我々がすべきことは、それは無理なんだけど、
クリーンな現実Bに逃げてしまうということは防ぎようがないのだが、
そこはしかしあくまでも、そこはクリーンな現実Bは幻想なんであると、
フィクションなんであるということを忘れずにいることが大事なんじゃないか、
そんなことをトリーさんは言っていらっしゃった。
僕らが言っているのは、このさっきの言葉と入れ替えると、
僕らが言っていた議論協とかをこれに入れ替えると、
僕らがいつも言っているのは、我々は混乱した現実Aであるということを意識して、
クリーンな現実Bに逃げないように、
我々はなるべく混乱した現実Aの中で頑張って考えていくのが楽しいよね、
でも一般の人は無理だろうな、みたいなそういうことじゃないですか。
言っていることは基本的には一緒ですよね。
そういった単純なメッセージみたいなものにはまらないように考えていこうぜって言っているわけだから、
全く同じことを言っているように僕には聞こえるんですよね。
我々もトリーさんと同じく賢くてすごいよねということが一つは言いたいわけですけども、
ここからが今日の僕の話ですけど、これまでも僕の話なんだけど、
そっくりだなと思うんだけど、この前もトリーさんの話とそっくりだったし、
よくそっくりじゃないですか、皆さんね、そっくりなんですよ。
それはね、何もね、そういう魂が漂っているからとかね、
そういうオカルト的な心が通じているとか、心が通じているかもわからないけど、
オカルト的なスピリチュアル的な話じゃないんですよ。
もっと普通に考えたらそうなんだよ。
よくこうやってあのーっていうフィラーが入ることによって間があるから、
ここで皆さん考えることができるね。
あのー、ジャック・ラカンってご存知?知るわけないか。
ラカンっていう人、僕も難しくてですね、ラカンの話は難しくてちょっとわからないんですけど、
ラカンの解説書みたいなやつがよく出てましてね、
そういうのをいくつか読んだことありますが、
有名なラカン研究者であるジャック・ラカンの、
ラカンっていう精神科医のね、フロイトの弟子の弟子というようなことだと思いますけど、
ラカンのこと好きな人、ラカニアンって言うんだけど、
有名な日本で日本語を代表するラカニアンのシング先生という方がいらっしゃって、
京都大学の先生だと思いますけど、
シング先生の書いてらっしゃる、
昔はラカンの精神分析だったかな、違うな、
ラカンの精神、ちょっとパッとわかんない、ネットで調べるか、もういいか。
ちょっとわかんないんだけど、新書で出ている、
ラカンの何とかっていう、
シング先生が書いているラカンの本ですよ、とにかくね。
シング先生が書いているラカンの本のね、
頭のところに、頭っていうのは書き出しのところに、
09:03
ラカンの精神分析でやっぱり、
あったっていうのは本があったんじゃなくて、
Amazonで今ちょっと見つけたんだけど、
だから文章はちょっとわかりませんけど、
ラカンの精神分析の頭の方にね、
そのエピソードが書いてあってですね、
シング先生が若い頃に患者さんを見ていましたと。
その患者さんの精神分析のようなことをやったのかな、
精神分析、多分そういったことをやってらっしゃったんだろうな、
フロイト系の分析的な介入をしていたんだと思いますけども、
その患者さんは結構大変な患者さんだったみたいですけど、
頭のいい女の人だったと。
なんやらかんやらあって、
同じ患者さんが寿司食べて、
シング先生が寿司食ってたら翌日にお魚の話をしたりとかね、
イメージがあってね。
最終的になんやらかんやらで、
シング先生は最後、確かその女の子はね、
フランスにピアノの留学に行く予定だったんですけど、
結局行かなくて、
シング先生はイギリスに留学に行く予定だったんですけど、
そっちには行かなくて、
結局、なんだか分からないけども、
シング先生は結局楽安の研究をするために、
フランスに行くことになったらしいんですね。
なんとくしくもその女の子は、
フランスに行く予定だったのがなんやらかんやらで、
なんか変わって、
イギリスに結局ピアノ留学に行くんですって、
てなことがあったと。
これは楽安的に言うと入れ替わったんだと、欲望が。
シング先生の中にあったイギリスに留学、
勉強に行くってやつが患者さんの側に行って、
患者さんにあったフランスに行くっていうのが
シング先生に入れ替わったと。
そのイメージの中の寿司みたいなものが魚の形で、
切り身の魚として患者さんの側に行ったりとかするんだけど、
それは、
魂がどうとか、
スピリチュアル的などうのとか言ってるわけではないんですと。
それは実は何ら不思議なことではない。
我々は欲望みたいなものを実は共有していて、
僕らは固有で持っていると思っている欲望は、
実は固有なものではないんだと。
僕が持っている欲望は、
僕らが持っているものだったりするんだと。
いうようなことで、
それから楽安がそういった考えをしているらしくて、
というところが、
本の最初に書いてあって、
そこから楽安の話をしましょうといって始まっていくんです。
ということで、
別にそんな不思議じゃないんですよ。
この時期、この季節にこの同じ日本にいて、
同じようなことに興味が湧くのは当たり前だし、
鳥井博文さんは、
僕らとは全然違う有名な方ではありますが、
鳥井博文さんが、
何かのこの同じこの今、
日本という国の中にいて感じて発したいと思う言葉と、
僕らが発する言葉が同じだのは非常に当たり前のこと。
不思議でも何でもないんだよね。
12:00
こういうのだから、
あまりスピリチュアルとかオカラトンに逃げずに、
まっすぐ捉えていくと、
別に全然不思議ではない、
当然のことだったりするわけですよね。
こういうのは、
一見オカルト的に見えるようなこととか、
スピリチュアル的に説明されるようなことは、
全然科学的な話であったりするんですよね。
僕はそういうのは、
やっぱり科学的に捉えたいね。
いいんですよ。
いいんだけど、
その前も、
曹雅愛さんも何かそういう話をしていたけど、
一旦ね、
コメントで言ったとおりでしたのかな。
一旦グレーで置いておかざるを得ないものがあるよね、
という話で、
もちろん僕もその通りだと思って、
僕もそうなんですけどね。
オカルト系が好きな人とか、
スピリチュアルの人たちの中で、
僕はそういうのがちょっと嫌だなと思うのは、
一旦グレーなものを一旦置いておくのは、
すごくいいと思うんだけど、
彼らあんまり一旦置いておかないよね。
永遠に置いておくでしょ。
僕はね、
置いておくのは一旦だと思う。
やっぱり。
一旦置いたってことは、
もう一回、
要はね、
半数してもう一回出してきて、
もう一回噛まないといけないと思う。
もうブラックボックスに入れて、
これはもうそういうもの、
わからないもの、
わからないもの、
スピリチュアルみたいな感じで、
パチンと切るのは、
あんまりね、
僕は好きじゃない。
やっぱりこの、
第1、第2、第3、第4の位に入れて、
もう一回出してきたいと思う。
やっぱり、
わからないものは仕方がないというふうに、
今は仕方がないという感じが、
僕は好きですね。
もう一回出したい。
うん。
ということでね、
一部スピリチュアルの人たちが、
どっかに箱に入れてしまうのが、
僕は好きじゃないので、
その箱はね、
オカルトの好きの人も、
スピリチュアル好きの人もね、
その箱、
もう一回たまに出しましょうよ。
もう一回噛もうよ。
もう一回噛みましょう。
やっぱり議論狂、
我々議論狂をどんどん広めていって、
鳥居さんもやはり議論狂の人だなと思いましたけどね。
というふうに思いました。
さあ、
今日の放送を振り返ってみましょう。
まとめましょう。
鳥居博文さんの話を、
ボイスを聞いたら、
また、
僕とスカンクさんが話している、
精神のPラインだった、
多分そこで話しているとか、
こちらの放送でも言っているときあると思いますけど、
話しているのと、
同じ内容がまた語られていました。
内容は、
本の引用で、
混乱した現実Aから、
外部の何か力を使って、
綺麗な、
クリーンな現実Bみたいなものを見せるものが、
流行っているけれども、
鳥居さんはここから、
そういったものに逃げちゃうのはしょうがないけれども、
そこはあくまでも、
クリーンな現実Bはフィクションだ、
というふうに思っていくことが大事だと思う、
という放送をされていた。
我々はそのクリーンな現実Bのことを、
宗教が教えてくれる単純な世界だったり、
オンラインサロンで示されるシンプルな世界だったり、
東京ディズニーリゾートに代表される、
シンプルな価値構造であったりというものを、
僕らは主張していて、
そういったものに、
簡単に逃げずに、
議論をしていて、
混乱した現実Aを議論によって、
15:01
一生懸命見ていこう、
というふうに普段言っている。
これってそっくりな話だよね、と思いました。
さあ、そこからそっくりなんだけれども、
そっくりであることというのは、
別にスピリチュアル的でもカルト的でも、
そういったことを用いるまでもなく、
ジャック・ラッカーの言っているような、
概念の、
感覚の共有だとか、
僕らの欲望の、
固有に思っているものは、
実は浮かんでいるようなもので、
この欲望というものは、
割と簡単に、
交換されてしまったりすることがあるよ、
というのは、
ジャック・ラッカーの主張ですよね。
だから別に不思議じゃないよね。
最後、やっぱり、
一旦こういった分からないようなことを置いておくのは、
一旦はいいけれども、
一旦にしましょうよ、
もう一回反するしましょうよ、
という願望というかメッセージを最後に述べました。
はい、おしまい。
皆さんまたこの、
議論協の皆さんまたこのね、
なんだっけ、
コメント欄でまた、
何かあればね、議論しましょうか。
そして、ご意見・ご感想などまたね、
外にも発信していこうという、
我々のこの気持ちでね、
あんまり広がらないとは思いますけども、
こんな話。
しかし、いいじゃないか、たまには書きましょう。
皆さんのXの、
タイムラインに、
書くと、
誰か見てくれるかもわからないじゃん。
財布のコメント欄よりかは見てくれると思うじゃん。
たぶん。知らんけど。
はい、終わりでしょう。
またね、しましょうね。
それでは皆さん、
着る準備をして、
さようなり。