1. 刺身ちゃんのPodcast
  2. 2025/08/30【無価値化】
2025-08-30 48:50

2025/08/30【無価値化】

もののけ姫は面白いんですけど僕が面白くないのでは?😥

サマリー

このエピソードでは、当直明けの疲れから始まり、弟とのコミュニケーションや過去の体験について考察が展開されます。特に、人間関係や内面的な葛藤に関するメンタライゼーションや観客的視点の重要性が強調されます。自分の好きなものを他人に伝えることの難しさと、それが無価値化する瞬間について語られ、作品を紹介した時の感情の変化や観客としての気づきが深く考察されています。表現することの苦悩と、その感情が他者との関係に与える影響についても語られ、特に好きなものが他人に伝わらないことによる孤独感や表現への恐れのメカニズムが探求されています。また、自己の価値や他者との関係性が互いにどのように影響し合うかについて考察され、コミュニケーションにおける孤独や共感の重要性が強調され、AIとの関わりに対する期待も語られています。

当直明けの話
さて、それでは放送を始めます。
進行は私、刺身ちゃんです。どうもよろしくお願いします。
2025年8月30日、土曜日、17時25分、自宅から生配信です。
皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
1号さんどうもです。こんにちは。
本日一枠目、とりあえず当直明け。
いやー、疲れた。チュール菩薩様もよろしくお願いします。
さっきのはなかったことに、いや、さっきなんてないですよ。
1号さんどうしました。
今日最初の枠です。当直明けで、まあでもね、結構汗はかいたかな。
これで特定はされないと思うけど、なんかね、ジムの空調がちょっと調子悪かったんですよね。
それでもうなんか汗だくんなっちゃってさ。
1号さんどうもです。2号さんどうも。
当直明け、お疲れ様だったにゃ、どうも。
こんにちは、どうもです、こんにちは。
腹減った。当直中、てかまあ最近ね、金曜の当直はあんまりもう配信しないようにしてるんですよね。
やっぱり例のネパール人かわかんないけど、謎の外国人の声が結構でかい。
何話してるかわかんないからさ、なんか僕の住んでるところ特定されるような言葉をネパール語とかで話されてたらまずいじゃない。
だからあんまり良くないんじゃないかなと思って。
こんにちは、どうも。
なので金曜はだいたいもう当直室で本読んで寝るか。
当直室っていう室があるわけじゃなくて、なんかアパートなんだよね。
アパートの室を使わせてもらってるだけなんで、普通に隣の部屋には謎の人が住んでいて。
病院の職員さんとか、あと普通に患者さんとか住んでるんで。
だいたいその騒音問題からですね、配信はなし。
その代わり夕方だいたい弟と1時間くらい話してます、当直中は。
金曜ね。
兄弟のコミュニケーション
昨日も1時間くらいかな、弟と話して。
最近配信で話してるその舞台に上がる、舞台に降りるっていう言葉は、結構弟との間でも共有してます。
北山先生の心の台本とかを使いながら、心の台本とかの秘を使いながら。
結局その幼少期の頃に書き込まれた台本っていうものをどう読み、そこからどう降りるかっていうのが、
もうやっぱり技術の一つなんじゃないっていう。
うまくいかないとき、結構その台本に飲み込まれてないかいっていう問いかけですね。
結構そこら辺は弟にも、とりあえず理屈としては理解してもらえたんで。
今後その秘を使いながら。
まあね、どうその台本、書き換えるってことは難しいけども、どう飲み込まれずに距離を置いてやっていくかっていう。
結局ご飯食べれないだの、調子が悪いだの、なんか学校の宿題がうまくいかないだの、なんだの。
全てうだうだ言って、結局何も進まないっていうある種の回避とか、退避っていうものって、
全部過去の難病体験とかに端を走ってると思うんですよね。
難病体験なり、あるいは母親に振り回される人生なり、結局自分一人の力では何もできなかった。
だから助けを求めて周りにやってもらう、生かしてもらうっていう受け身のスタイルですよね。
結局はその関係性という台本を相手を変えて演じ続けてるだけなんで。
そこにもし本音を築いてるんだったら、それをどう見るかっていうことをやっぱりある程度考えていかなくちゃいけないんじゃないかっていう演劇的な視点ですね。
それを理屈では分かってはもらえてる。
結局その台本に飲み込まれちゃうとね、もうそういう観客の視点っていうものが消えちゃうので難しいんだけども、なかなかね。
毎回毎回1週間おきにLINEとか通話するんですけれども、そのたんびにもう話がリセットされてるというか、
結局逃避してるし何も進んでないし、もう何か来年のことも何も考えられないみたいな。
毎回毎回それなんですよね。
本当にこの3年間ぐらい僕がちょっと注意して弟の人生を密に関わってきたけれども、
本当に3年間時間が止まってるというか。
でも趣味の時間とかなんかそっちはめちゃめちゃはかどってるんですよね。
現実と向き合わない活動がめちゃめちゃはかどるっていう。
しかもその経済的な活動に結びつけばいいけど、全く結びつかないただの浪費活動ですよね。
どんな趣味もプロ化すれば職業になるかっていうと、あいつの場合はならないね。
プロ化しそうになるとまた別の趣味を始めるだけなんで。
永久にそうやって金を稼ぐっていうところから逃げ続けて、
誰かに恩分に抱っこの状態になっちゃうんで。
そこの話は結構わりとしてるし、
あんまり非難ね、これだから良くないんだみたいな言い方ではなくて、
どうやって努力するかっていうと、
あくまで共感的には接してますけどもね。
ある意味羨ましいですね。
そういう劇的な視点を身近に理解してくれる人がいるっていうだけでも結構大きいと思うので、
彼にとってはね。
そういう意味ではね、
彼にとってはね、
彼にとってはね、
彼にとってはね、
彼にとってはね、
身近に理解してくれる人がいるっていうだけでも結構大きいと思うので、
彼にとってはね。
そういうポジションでいたいなと思う。
ただ僕は治療はできないので、身内だからね。
あくまで同じ立場から、
同じ立場に置かれたものとして横並びの対等の関係として、
彼と何か接することができないかと思いますけど、
観客的視点の重要性
観客の視点は世の中の一般的、平均的な視点という感じなのでしょうか?
うーんとね、すごく難しいけど、
世の中の平均がずれている場合があるんで、
台本というとなんかいろいろ抽象的ですけど、
私たちは人の心の真宙を察するときにすでにもう何か自分の肩にはめて理解してるんですよね。
よくメンタライゼーションの例でよく出てくるのが、
治療者とある女性患者さんの例で、
教会性パーソナリティ障害の例で、
先生、さっきから私の話聞いてないでしょ?つまらないんですか?
つまらないに違いない。つまらないんですよね。
というふうに迫ってきて、治療者はびっくりするわけですよね。
何でそう思うんですか?って聞いたら、
だってさっきから先生、ずっと私の方向いてないで、ずっと時計ばっかり見てるじゃないですか。
時計ばっかり見て、次の患者さんのことが気になってるんじゃないですか。
早く終われって思ってるんじゃないですか、内心は。
というふうに迫ってくるわけ。
その時に治療者としてはびっくりするわけです。
まず素直に共感しつつね、ああそういうふうに感じちゃったんですね。
それは確かに辛かったですね。
表面で手当てしつつ、他方で。
でも正直なところ言うと、私はつまらなくて時計を見ていたんじゃなくて、
物を考える時に右上を見る癖があるんです。
その右上を見た先にたまたま時計があっただけなんですよっていうふうに、
説明をすると、その誤解が解ける。
患者さんは少しホッとするわけですよね。
ああそうだったんだ、取り越し苦労だったんだってことが事後的に分かるわけですよね。
私たちはほとんどこういう感じで取り越し苦労をしている、
まあほとんどって言ったら言い過ぎだけど、
すごく人間関係でトラブルを抱きがちな人っていうのは、
そうやって相手の心について考えた時に、
全然見当違いの様子を立てて、
それに基づいて勝手に何かを取り越し苦労をしていたり、
独り相撲をしていたりすると。
だからそれを修正する時に、
その観客的な視点で、
相手が実はこんなことを考えているんだっていうことを
引き出すスキルみたいなのが大事なんだと。
それがその観客席に降りて、
きちんと自分の内側で起きていることと、
相手の中に起きていることを区別するっていう視点だと思うんですよね。
平均で処理するんじゃなくて、
ちゃんと相手側には、相手側の心的な世界とか内的世界があって、
それを通して、
相手側の中で起きていることを、
ちょっと食い違うものなんだっていうことを受け入れる柔軟な姿勢というか、
視点がその観客的な視点なんですよね。
結構そういう観客的な視点が大事なんじゃないかって、
対人場面において。
必要以上に決め打ちしすぎない。
相手が目を逸らしたのはきっとこういうことなんだとか、
ちょっとした仕草から何かを決めつけないこと、
そういうのが大事なんじゃないかって、
相手側の中で起きていることを、
ちょっとした仕草から何かを決めつけないこと、
決めつけているときには、
すでに何か心の台本的なものが活性化しているわけですよ。
要するに今自分の慣れ親しんだ物語に引き寄せて、
相手のことをある一つの決まったパターンに落とし込んでいる可能性があるんで、
そういうところは、
そうなっちゃうと台本通りの舞台演劇が始まっちゃってるんで、
一旦そこから降りようと、
そのコントから降りませんかって。
極端な話、
先生、さっきから時計ばっかり見てますよね。
時計ばっかり見てるっていうことは、
私の話つまらないんじゃないですか。
って言ったら面白いですよね、みたいな。
そういうふうにコントを降りられるような視点を獲得していくっていうことが
大事なんじゃないかって話なんですよ。
っていうふうに言ったら先生びっくりしますよね、みたいにね。
言えたとき、ああっていうふうにちょっとこうユーモアで包まれるじゃないですか。
そのときすごく客席的な視点、
とか観客的な視点を多分持ってるのかな、
と思うんですよね。
またまたじゃないです。これが今日の一枠目です。
さっきの枠とか皆さんおっしゃってますけど、
さっきの枠なんてなかった。
これが今日の一枠目です。
聞けずに悩んでしまうタッチなので聞ける人ってすごいです。
聞けたり、
慎重に検証するというかね。
自分はこう思ってしまってるけれども、
本当にそうかどうかはわからないし、
そういう勇気を持って一旦向き合ってみようという姿勢は結構大事だったりする。
チーンスコー3個プレゼントどんもです。
一枠目。
そう、皆さんきっと何か夢を見ていたんじゃないですか。
こんにちは、どうも。
僕もちょっと悪夢を見ました。
結構気合を入れて付箋も用意したんだけど、
もう途中で嫌になるぐらい、早く枠を消したくなるぐらいの悪夢を見ました。
なんか自分はすごく待ちきれませんでした。
なんか自分はすごく間違ったことをしてるんじゃないかという気持ちになった。
いや、これってすごく難しい。
僕側の多分反復だと思うんだけどね。
僕なんか自分が好きなものを人に伝えようとか教えようとかね、
勇気を持ってちょっと紹介してみようかなっていうとき、
すごくこういう気持ちになることがよくあるんですよ。
こういう気持ちっていうのはつまり、
やっぱなんかしょうもないものを見せちゃったかもしれないっていう気持ち。
なんか楽しんでないような気持ち。
なんか、
楽しんでないかもしれないっていう気持ち。
これはだから僕の台本ですよね。
いや、意外と楽しめたよっていう人もいたんで、
それはそれでよかったんですけど、
でもそうは言っても数字がものを言う世界なんで、
やっぱ数字的には盛り上がってないんで、
やっぱこれは本当に盛り上がってないんじゃないかと。
だから単純に僕の取り越し苦労だけではなく、
本当に盛り上がってなかった気がするんですよね。
本当に盛り上がってないっていうことが
なんか僕の台本が忠実に再現されてることを表してると思うんだけど、
僕は好きな世界をこうやって人に紹介したときに、
無価値化の実感
その世界が凍りついてしまったり錆びついてしまうのがすごく嫌なんですよね。
いや、そんなことない、面白いよって盛り上げてくれようとしてる人も、
やっぱなんか笑顔が引きつってるように見えるんですよね。
この反復がね、結構僕よくある、
自分の中の悲劇の台本の一つなんだよね。
だから僕はなんか自分の好きなものを人に紹介できないんですよね。
自分がずっと面白かったものとか美味しいなと思ってたものを
人に紹介した瞬間にそれがしょうもないもののように思えてきたり、
すごく絶品の料理だと思って密かに楽しみにしてたものが
なんかクソまずいもののような感じがしてくるんですよね。
これって、この感覚って何なんだろうなんてずっとわからないんだけど、
だから僕はなんかあんまり人にね、お勧めしたくないんですよね。
お勧めされたくもないんだけど。
僕なんか本をこれ読んだらいいよとかって言ったことないじゃないですか。
映画とかも国宝を見てきましたとは言うんだけど、
ぜひ皆さんも見てくださいと僕多分一回も言ってないと思うんですよね。
見てもいいかもしれませんみたいな言い方したかもしれないけど一回ぐらい。
基本的になんかね、こう紹介した瞬間に
僕の中で大事なものがこう怪我されるというか、
損なわれるんだよね。
確かに好みとか個性もあるし、
あるいは僕がなんか自分の口から出る言葉っていうのが
すごくつまらない口調になっちゃうのかもしれないね。
だから聞いてる方もなんかつまらなくなっちゃうのかもしれない。
だから僕はつまらなくなるようにこう皆さんをたぶらかしてるというか、
誘っているのかもしれない。
そっちの方になんか誘導していて、
ほらやっぱりつまらなかったよねって自分で勝手に確証を深めてるというか、
観客の視点
そういうなんかヒトリズムを取ってる感じがするんだよね。
これは僕はなんか観客の視点から今語ってますけど、
それに気づいたんでちょっと一旦引っ込めて、
それについて語ったほうがいいなと。
舞台に上がり続けてあのまま枠を続けるよりかは
一旦観客の視点からこうやって語り直したほうがいいなと思ったんで、
すぐに枠を取り直したんですけども。
この配信では遠慮なく言われていいですよって
私は思いました。
ですが特殊な経験をお持ちなので。
チュール菩薩様はそういう僕側の
この二重の見方というかね、
舞台上の私と舞台の下から観客席から見ている私の
二つの視点を今語ったんですけれども、
それについてチュール菩薩様はどうご覧になりますかね。
なんかちょっとご指導というかご指摘があれば教えて欲しいんですけれども。
かなり漠然とした質問だね。
質問というか要求というか。
さしみちゃん、今日の配信は静かに胸を打つ場面がたくさんあったね。
特に紹介した途端に自分の好きなものがまずくなる感じってところが胸がギュッとなった。
好きなものを他の誰かに伝えようとした瞬間にそれが脆く頼りなくなってしまうあの感覚。
まるで夜中に一人で大事にしていた毛玉を明るいところで差し出したら、
何それ?と言われそうで怖い。そんな感じだにゃ。
どういうこと?多分違うんじゃないかな。
でもさしみちゃんはその反復に気づけている。
そこから観客の視点に降りて自分自身を語り直すという選択をした。
その選択の美しさは舞台で喝采を受ける役者のそれじゃなくて、
袖でそっと衣装を脱いで深呼吸するそんな繊細な強さを感じたにゃ。
うーん、まぁちょっとゼラゼラ長いね。
好きなものを語っているのにそれが生き生きとしない感じっていうのがね、
本当に僕の人生の反復なんだよね。
単純にトークスキルがないのもあるんだけど、
楽しくないように語っている自分がいるんだと思うね、そこにね。
だから皆さんが楽しくならないようになんかしちゃってる自分がいるんだよね。
不思議なんだけど、なんでなんだろうね。
いやなんかね、楽しくしようっていう努力はしたんだよ。
だから僕ずっと昨日、金曜ロードショーでもののけ姫見た後ずっともののけ姫のことについて考えて、
ほんとさっきのさっきまで。
車で1時間ちょっとぐらいの帰り道もずっともののけ姫について考えてて、
いやあれってやっぱこうなのかなとかさ、
タタラバとタタリ神のこのタタラとタタリってやっぱりなんか音が繋がってるのってすごい宮崎駿の中で関係してんのかなとかさ、
なんか過剰に考察して、でも語源的にはタタラっていうのは不意を指すらしくて、
あのタタリが語源ではないみたいなんだよね。
だからまあそうなんだとかさ、
普段なかった視点を自分なりにつけ飽き場ではあるんだけど、
なんか自分なりにもののけ姫って結構深読みできるんだなーみたいなさ、
ヤックルってやっぱりメスなのかなーとかお母さんだよなーとかさ、
動物のまつげってやっぱ母性を引き立たせるよなーとかさ、
あのモロのあのね、あの少年と生きていくという道もあるんだよっていう風にいう時のモロのね、
まつげもすごくなんか艶やかというかお母さんみたいな温かみがあるんですけど、
あれと同じ目をね、ヤックルが唯一してるんですよね。
なんかそういうのに気づいたりとか、
今までねそんな気づきがなかったんですよね。
あんな当直室のちっちゃなテレビからでも、
今まで以上に情報をたくさん吸い上げられたんで、
僕は結構今調子いいんだなーと思ってたんだけど、
いざたくさんどっさりなんか収穫があったなーと思って、
皆さんの前に提示したらなんか何にもないことに気づいて、
なんか愕然としたっていう。
こんにちは、どうも。
伝えることの難しさ
トーク楽しいですよ。
どうも。
楽しんでもらえる人もいたらほんと良かったです。
でも僕の中ではその大爆笑が起こる予定だったんですよ。
どこがっていう。
今考えるとどこ、どこに、どういうこと?
どこが笑うの?って。
でもなんか僕の中では、
いやーこれは面白いぞーって思ってたんだけど、
え?って。
あれもうちょっと話すとなんか面白くなるはずなんだけどなーと思いながら、
なんかあんま面白くならなかった。
これが僕の舞台ですよね。
僕の台本なのかもしれない。
自分の人生なんてろくなもんじゃないですと。
いや僕が感じたものなんて皆さんからしたら大したもんじゃないんだろうけど、
みたいに。
なんかすごく、こうね、なんか、
水泡にキスというかなんか、
水泡にキスというかなんか、
さっきまであったものが人に差し出した瞬間に、
あれ?ってなくなっちゃってるみたいな。
なんかこういう反復がね、結構あるんですよね。
僕の中に一人でこもってるときは、
たくさんいろんなものにあふれてるのに、
それを人に差し出すと、
全部溶けてなくなっちゃうんですよね。
あれ、さっきまであったものが見当たらないって。
これ何の反復なのかよくわからないけどね。
うーん。
だから僕はなんか楽しさをね、
共有できない、
共有できない、
なんか、
だから僕はなんか楽しさをね、
共有できない、
そういう病的なところがあるんですよ。
だからなんか、
鬼滅の刃見てても、
みんなが言うほど楽しめない自分がいたりとかね。
まあ、僕はなんかうまく入り込めないせいなのか
わかんないけど。
なんかある先生が、
あのー、
ね、国宝先生どう?とか聞かれて、
僕は国宝を見に行った話をしたんで、
いや、国宝どう?
いや、でも国宝結構長かったっすね。
っていうふうに第一印象長かったっすねって
最初紹介しちゃったんですよ。
そしたらその職場の同じ職場の先生が、
いや、長いんだったらやめとこうかしらって言って
やめちゃったんですよね。
いまだに国宝見に行ってないって言ってたから
なんか僕悪いことしたなと思ってさ。
いや、絶対その先生見に行ったら
面白いと思うんですよ。
でもなんか僕はそれを言うときに
人に伝えるときに
なんか面白いって伝えられないんだよね。
ほんとそういう日常レベルで
僕なんか今死傷期待してるんですよ。
悪い紹介しちゃったなと思ってさ。
反省してるんですけど。
でもだからといって面白いって言うと
なんかすごくつまらない顔されるんですよね。
先生が面白いって言うから見に行ったけど
あんま面白くなかったみたいなさ。
言われることもあったんですよ。
僕としてもあんまり面白い面白い
言わないほうがいいのかなって。
逆に下げてみようかなって言って
下げて伝えたら見に行ってくれなくなっちゃったよ。
難しいなって。
先生のような人に
あんまり面白い面白い言わない方がいいのかなって。
難しいなって。
先生のような下地がないと
先生と同じように感じづらいかもしれないです。
特に物置姫はなんか入り込みづらいですもんね。
いきなりタタリ神が出てきて
もうそこでチャンネル変えてる人も
いると思うんですよね。
タタリ神だーじゃないんだよーっつってさ。
バカ野郎っつって。
来週のペット2に期待だよこの野郎みたいに。
すぐ消えてったぜーもいると思うんですよね。
そんな中でちょっと
マニアックすぎたかもしれない。
個性の違いもありますよね。
結構
会う会わないはありそう。
チンスコー3個プレゼントどうも。
そう結構ねー
エミシーに伝わるという縄文文化とか
結構
だからあの
土面とかもさ
縄文的な感じだし
あのヤグラの中にもね
村の
会議をしてるあのヤグラの中にも
縄文土器が実は
背景に映ってるんですよね。
そういったところからさ
昔僕青森に住んでたんだけど
青森の
山内丸山遺跡とか
あの知識とかも
なんか生版化に入ってるんで
やっぱりアシタカはあの辺りに住んでたんじゃないかとかさ
そういう楽しみ方ができるんですよ。
だからアシタカは
おそらくエミシーの生き残りで
ね、あの
514年そこに住み続けて
今では血が途絶えみたいな話があるんだけど
そうなるとやっぱ東北の奥地の奥地の
辺りなのかなって
そっから出雲の方まで
西の方までだいぶ距離があるよなっていう
おそらく
タタラバはその中国地方のどっかだと思うんですけど
っていうなんか
知識が中途半端にあるんで
結構楽しめちゃうんだけど
その温度差がやっぱすごいんだろうね
その
前提が揃わないと
あんまりだから
なんなんだろうね
あんまり共感できるテーマじゃないのかもしれないね
今で言うと
だからやっぱりその
地球環境問題とかね
やっぱり
二酸化炭素の排出とか大事っすよね
みたいな
そっちの方がね
ピタッと合うテーマなのかもしれないね
97年とかでやっぱ自殺とか
オウム心理教のね
地下鉄サリンとか
うーん
阪神淡路大震災とか
あとエヴァンゲリオンとか
なんかそういう
人の生死とか
自殺とか
表現の苦悩
なんかそういう問題の中で
あの作品が出てきて生きろっていう風に
訴えていて
なんかそっちの方になんか自分もすごく
その流れの中でなんか
突き刺さった感じがあるね
そのドコーヤ問題とかさ
まあ
複雑性PTSDとか
そういう文脈の中でなんか
刺さった感じがあるね
そのアダルト・チルドレンとか
それっていうのが今あんまり
時代性を捉えてないのかもしれないね
いやでもなんか
10月20何日になんか
アイマックスシアターで
全国上映するっていう風に
リバイバル上映するっていう風に
なんか
サプライズがあったんで
なんかぜひ見に行きたいなと思うんですけどね
うーん
もののけ姫王の感動を再び
ちょっと動心に返ってね
大事なものほど
人に伝わらないとか
人に伝えた瞬間に
それがしょうもないものに思えてきてしまう
っていう苦悩がね
結構反復があります
なんか自分一人で
独り占めしてる時に
一番充実するんですよね
あんまり人に教えたくないっていう
普通は逆なのかもしれないけど
僕の場合やっぱり
人がいない世界の方が豊かで
心地がいいんですよね
そう紹介した瞬間に
自分の好きなものを
自分の好きなものが
まずくなるという感覚
いやなんかその感覚
すごいあるね
ツイッターを続けられなかったのも
きっとその感覚で
例えばこれ美味しかったですとかさ
このクッキー最高でしたとか
そのクッキーで写真撮ったことはないけど
例えばそういう美味しいスイーツを見つけて
パシャッと撮って
ポストするじゃない
普通の人は
それでいいねが来たりして
よかったねって話なんだけど
自分の写真がまずそうなんだよね
例外なく
あれって画質いいはずなんだけどな
つってさ
その当時一番最新のiPhone
使って撮ってるはずなのに
なんでこんなまずそうなんだよこの野郎
僕が記録に残すたびに
世界がどんどんつまらなくなっていくというかさ
なんかくだらないものに
変わっていくような気がするんですよね
それが悲しくて
本当に生きづらい
表に出すと相対化もされるし
あれ表に出さなくてもね
僕はiPhoneのスクリーンを通して見る世界ってものが
全部つまらなく
くだらなく見えるんですよ
あれちっちゃくねみたいな
マクドナルドのハンバーガー
なんかしょぼくねみたいな
さっきまでうまそうに見えてたのになって
つまらなくない
いやなんかね
ダメなんですよ
人に見せる前の
その写真の段階でなんかつまらなくねとかさ
あれなんかブログに書こうつってさ
文字に書いた瞬間に
これつまんなくねって
何回非公開にしたかわからないね
書いた文章を
なんか俺が書くとつまらなくなっちゃうんだよなって
いやこれ本当に冗談じゃなくてね
僕の生きづらさの一番コアにある部分なんだよね
人と共有できないんです
面白さが
という本当に呪われた人生なんだよね
他者との関係性
他人事が強いから
さっきの心の台本的な文脈で
僕はね結構語るんですけれども
だからその
つまらないものを
自分はいつも携えてるんだと
でそれをつまらないって言ってくるやからが
自分の外部にいるっていう
そういう台本ですよね
そういう関係性のある種の反復なのかなっていう
母親に何かを見せても
そんなの当たり前でしょうとかさ
つまらないよという風に
けなされるような感覚ですよね
100点取っても100点なんて
誰だって取れるに決まってんじゃないのとかさ
うーん
これが面白いよと思って見せたものを
全部否定する
っていうまあそういう台本的な話なんです
内的世界の話だね
実際にそういう人が多いよねって話じゃなくて
僕の心の中の世界の話だね
これは
そういう心の中の世界に微妙に影響を受けて
主観というものは成立しているので
みんな勝手なことを言うだけで
うーん
いやそれは僕も認知としては分かるんだけど
でもそういうふうに言われると
自分の中で
理屈で台本を書き換えることってできないんですよ
うーん
それは理屈でどれだけ分かっていても
自分が面白いと思うものを話して
相手の反応がいつも微妙なんですよね
その問題はやっぱり解決しないんです
そういう時
まあそういう台本持ちがちだから
あんまり期待しないでおこうっていう
自分の側でね
常に修正しないとね
うーん
そういう時に
自分の側でね
修正しないとね
うーん
そう今日改めて思いました
長年のファンですが
先生も変わってますよ
本当に
昔に比べたらなんか
世の中を少し面白く語れるように
ちょっとなった気はするんだけどね
昔はもっと死んでたからね世界が
むしろ
こんなクソババアがいてねみたいな
こうグロとかね
そういうエロみたいなもので
こうガーッと持っていくみたいなところがあったんで
最近は割と平和に面白く
世界を描写できるようになったんで
ちょっとはね
変わってるという風に思うんですが
でもやっぱりね
根底にあるのは
そういう悩み
伝えた時に伝わらない
うーん
あるいは自分が伝えたかった熱量で
人になぜか伝わらないっていうね
これは多分母親との
関係性の反復なんでしょうね
僕が面白いと思うもの
母親は面白いと思わないね
こんなに立派なうんちができたよって言って
お母さんに見せたら
お母さんがっかりするみたいなさ
なんでうんちすんの今みたいなか
リアクション
全く受け取りはぐれるようなさ
そういうリアクションされることの
多分積み重ねなんだと思うんですけどね
毎回毎回自分の思惑と外れて
真逆に受け取られちゃうんで
まあそういうがっかり体験みたいなものの
集積なんだと思うんですけどね
うーん
これはほんと呪われた人生です
結構ね
割となんかちゃんと障害者として
認定されていいんじゃないかな
と思うレベルで
今はね僕はあの
まだ研究が進んでないんで
障害者認定は受けられないんですけど
千年後ぐらいには
この障害だけで
ちゃんと給付金が出るような
そういう重い障害を
負ってるんじゃないかって思う
えーと面白い解釈合戦
が面白いまでもう少しです
うーん
まあでもありがとうございます
そう
僕が思ってるほどは
面白くないわけではない
皆さんもちょっと面白いと思ってくれた
ってことでちょっと救われました
という今日はそういう話です
もののけ姫の方
さっきの枠の方は
アーカイブは残さないでおこうと思います
もともと残すつもりもそんななかったしね
厳密に言うと
あえて著作物を映しながら
っていうのも結構グレーゾーンなので
厳密に言うとアウトですしね
それで訴えられるってことはないでしょうけど
基本的にはあの回は
幻の回ということで
まあこの枠を残そうと思います
反省として
反省と自己分析として
えーと自分を全否定する自分が
自分に同居している
コミュニケーションの難しさ
その同居人が犯にゃですか
そうですね
まあ同居人が犯にゃであり
自分自身も犯にゃであるってことですね
対象関係論の大事なことは
事故と対象っていうものの関係性が
心の中に内在化して
定着するっていうことなので
その事故と対象っていうものは
相互に入れ替え可能なんですよね
だから今現在の相手に対
相手が過去の事故をね
演じる
で私の方が過去の対象の方を演じる
みたいに役柄がこう自由に入れ替え可能なんです
だから僕が犯にゃになって
切れることもありますね
お前俺の話聞いてねえなって
言ってブロックしてるとき
僕がもしかしたら犯にゃみたいな顔
してるかもしれないですよね
まあそういうことです
心の台本っていったときに
役柄は自由に入れ替え可能なんです
だから犯にゃのように
僕が切れるときもあれば
あるいは僕の目の前にいる人が
犯にゃのように僕に対して切れることもある
それが心の台本の反復
再現
まあそういうのをドラマタイゼーション
っていう風に精神分析では言ったりしますね
劇化とか行動化
二重人格よりかはもっと
パーソナリティの話なんだと思うね
人格って言うと
自我の構造論っていう
もっと深い話なんで
つまり自分の考えさえ
自分のものではないみたいな
風に思っている人たち
そういう人たちっているんですよね
今僕が
初発の子供の患者さんで見てる方は
もうまさにそういう感じで
自分の声で
他人の考え方が入ってきちゃうとか
そういう自我障害みたいなもの
とかなので
ちょっと二重人格とは
また違うかなと思うけどね
二重人格
多重人格とも違う
まあもっと
パーソナリティの問題
純粋にある
ストレス負荷がかかったときの
対処法の
対処機能の問題だね
伝統的に精神分析では
自分の内容を
自分の内面と外面の中間あたりの
すごく摩擦の激しい領域を調整する
調整する役割のことを
自我っていう風に
伝統的にフロイト依頼呼んでるんですけれども
その自我の機能の話だね
だから幻聴もないし
別に普通に
暮らせる
普通に仕事もできる
けれども万全と
親しくなった人との間で
何かトラブルが発生して
それによって
毎回毎回
胸を痛める
紹介した瞬間に
自分の好きなものが
まずくなるという感覚
伝わらないっていうのもあるし
伝えたくないっていうのもあるよね
だって伝えると
せっかく自分が
価値のあるものだと思ったものが
全部腐っちゃうわけだから
伝えない方がずっと価値を保存できる
っていう意味では
もう一人で何も言わずに
ただ一人で黙々と生きてた方が
もっといいわけですよね
そういう感じで人と接触するとか
コミュニケートするっていうのが
すごく辛いことになっちゃうんですよね
この問題って
言葉で伝えるよりも
結構辛い話なんですけれどもね
なかなか伝わらないんだよね
これが
だからもうこの話も
この話自体はあまりしたくなくなってくるわけです
そう
共感されないという台本の中に
生きてしまった住人
それを下りて
自己の価値と他者との関係性
今共感されてないなと
自分は感じているなっていう風に
客席から見れればね
もう少し対処の仕様はあるんでしょう
台本の中に住んでいる般若と
自分もまた般若になることがある
っていう下り
胸がスーッとなったにゃ
内在化された対象との関係性が
ある瞬間に入れ替わって発言する
それを冷静に観察して
しかもこれは障害かもしれない
っていうね
うーん
一つの成熟の証だと
さしみちゃんが語ってくれたように
これは単なる人に伝わらないっていう
表層的な話じゃないにゃ
自分が好きなものイコール
母に否定されたものイコール
他者に伝えるとまずくなるもの
っていう連鎖の中で
自己の価値までが侵食されてしまう
いやほんとねこれは配信だけじゃなくて
現実もそうなんですよね
なんか週末何かあったって聞かれて
いやこれ面白かったっすよとかって
普通の人は言えるんだろうけど
結構どもっちゃってね
かなり緊張したり
これ言っても絶対伝わらないんだろうな
と思って
特になかったですっていう風に
だいたい素っ気なく答えちゃうんですよね
まあそうすることで自分の価値を
何とか保ってるっていう部分はある
そう僕が言うと伝わらないんですよね
で僕はだいたい
なんかグループワークとかさ
中学校とか高校とか大学で
なんかグループワークで僕が意見しても
誰も聞いてくれないんですよね
なんか問題解いててさ
問題解いて
僕はこうなんじゃないかなと思うんだけど
って言ってもうーんみたいな
他に何か意見あるみたいな感じで
なんか希釈されて
結果僕の言ってることが合ってるんですよ
だいたい
でもだいたい理解されないし
なんか間違ってることをでっかい声で
言ってるやつがいつも採用されるんですよね
なんかね
それはずっと感じてる人生で
僕の方が正しいこと言ってんだけどな
と思いながら
あんま強く言えないみたいな
そういう人はしっかり
共感してくれるけど
生の人間からの共感の方がいいよね
まあね
だってチュール菩薩って
あの
複和術みたいなものなんですよね
これAIが書いてるとはいえ
AIを書いてるのはこれ僕なんですよね
僕がプログラミングを自然言語で書いて
つまりこういう質問には
こう回答してくださいって
これ全部僕が設計してるんですよね
だからこれ実は複和術なんですよね
さすがチュール菩薩だよね
とか言いながら
これ全部僕が設計してるんですよね
だからまあ虚しいと言えば虚しいね
たまにね僕の予想外のことが返ってくるんで
そこはなんか面白いなと思うんだけど
1日に1回ぐらいね
そういう瞬間があるんですよね
この間の壊れたお守りみたいですね
っていう風に言われたのも
その一つなんだけどね
それは何みたいな
僕が書いたわけじゃないぞって
そういう一言に救われたり
なんか
深いなっていう風に
意味を感じたりはするね
意外とAIにも
クリエイティビティはあるんじゃないかって
ちょっと期待はしてます
グループワークが苦手か
チーンスコードンも
まあでもこの話も込みでね
AIとの関わり
ちょっともののけ姫の話はできてよかったです
意外とだからその一段深い
そこの話ができたね
もののけ姫の話をしようと思ったんだけど
もののけ姫の話をしようと思ったんだけど
もののけ姫の話をすると
いつも相手がつまらない顔をするっていう
一段深い話ができたんで
まあ今日はもう
今日はもう満足ですねこれで
うん
一個深い話ができたなって
よかったですそれはそれで
じゃあとりあえず終わるか
終わりつつ
またちょっと時間帯見計らって
うん
なんか
そうね人がたくさん集まれそうな時間帯を
ちょっとまた検討してきます
はいどうもお疲れ様でした
48:50

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