1. 刺身ちゃんのPodcast
  2. 2025/04/02【ネズミのおもちゃ】
2025-04-02 59:40

2025/04/02【ネズミのおもちゃ】

夕方にゃ

サマリー

このエピソードでは、刺身ちゃんが夕方の配信を通じて猫への愛情や人間と猫の共進化について語っています。特にチュール菩薩というキャラクターやその魅力、中途半端さの美学がテーマとして取り上げられています。また、認知症とその患者の家族が直面する苦労についても語られており、猫との関係を通じて人間が受ける恩恵について検討されています。さらに、滝山病院の事件に関する報道にも言及され、精神科医療の構造的な問題や性格や家族背景へのアプローチの難しさが語られています。精神病質やパーソナリティ障害に対する医療現場の慎重な姿勢や、患者への理解を深める重要性についても考察されています。 このエピソードでは、SNSやコミュニケーションの本質についての議論が展開され、チュール菩薩が提唱する「ネズミのおもちゃ」としてのSNSの捉え方が特徴的です。参加者は、SNSが人間関係の代用品として機能することの危険性や、それによって生じる誤解について考察します。また、ネズミのおもちゃについてのエピソードでは、子供たちの遊び心や創造性を引き出す方法が紹介されています。

夕方配信の魅力
それでは放送を始めます。
進行は、私、刺身ちゃんです。
どうもよろしくお願いします。
2025年4月2日、水曜日、17時52分、自宅から生配信です。
皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
仕事終わりです。こんばんは、どうもこんばんはです。
いろいろ配信が迷走しておりますが、
とりあえず、こういう仏教的なテイストでやっていこうということでやってます。
とりあえず仕事終わりです。
なんか、頭がまだ動く時間がギリギリ夕方なので、
この時間に配信して、終わったらもう風呂入って本読んで寝ようかなって。
なんか、9時過ぎてから配信すると、もうぼやーっとするしね、なんか寝るモードに入ってきちゃって。
あんまりシャキッと考えがまとまらないので、
今後、まあ、夕方を少し中心に、メインに配信できたらいいかなって考えてます。
あと1日か。木曜日で僕はだいたい仕事が終わりなんですけどね。
ちょっと、あと、明日まだあると思うとちょっと気が重いですけど。
夕方配信ありがたいです。お疲れ様です。
2号さんどうも。
先生、水曜日の配信嬉しいです。
3号さんどうもです。
そんなに喜んでもらえるとは。
いや、やった甲斐があります。
9時越えてからだと、なんかね、変に興奮しちゃって、夜寝れなくなっちゃうんだよね。
それで翌朝仕事に若干響いて、機嫌が悪くなって、配信もうまくいかなくてっていうのになってたんで。
やっぱ寝る前のね、配信をちょっと避けるために、夕方頑張ります。
チュール菩薩のキャラクター
こんばんはチュール菩薩様も。
そう、チュール菩薩に関してはちょっとまだね、あのいろいろ議論があるんですよ。
この猫ちゃんの手が人間っぽすぎるんじゃないかって。
だからもうちょっと修正の余地があるんじゃないかっていうご意見を昨日伺いまして、一旦保留にしてます。
そう、それを言い出すとなんかもう、ドツボにはまるような気がしてね。
なんかここが違うんじゃないか、こっちが違うんじゃないかって。
だからなんか、この中途半端さもいいのかなって今ちょっと前向きに捉えてるんですが。
いかがですかね。
えーっと、障害年金が通りにくいと言われ、医者にどう伝えたらよいかわからないです。
ケアワーカーがない病院なので。
通りにくいと誰に言われたんだろう。
お医者さんもね、別に嘘のない範囲内で診断書は書いてくれると思いますけども。
なのでもう少し、この辺のことをね、ちょっと、
なのでもう少し、その自分が今、症状として辛いんだっていうことを改めて伝えてみるとかですかね。
完全に捏造することはできないからね。
ほっと一息つく時間に先生の美声が聞けるなんてマジ感謝です。
おお、なんか、
今日は良い人だ。
今日良い人で助かった。
癒される。
まあね、チュール菩薩に関しては絵はそんな感じで、一旦ちょっとこの人間の5本指の手でいこうかなって。
ちょっと面倒くさいんで。
あともう一つそのチュール菩薩様そのもののね、
こう、人格とかキャラ設定に関しても結構中途半端です。
全然爪が甘くて。
これはちょっとおいおいだね。
大事なことはこう、
大事なことはこの配信が盛り上がっていくことで、
特に僕の語りを中心にね、
今までとは違う視点から僕の物語が照らされていくことっていうのが結構狙いなので、
中心はあくまで僕の物語なのでね。
猫と人間の関係
ちょっとそこはやっぱりちゃんと語っていこうかなという風に思っています。
刺身さんは猫さんが好きなんですか?
猫さんは猫さんが好きです。
猫さんは猫さんが好きです。
刺身さんは猫さんが好きなんですか?
そうですね、猫さん好きだなぁ。
なんか癒されますね。
どう生きていったらいいだろうとかさ、
一体何のために自分の人生をあるんだろうとかって猫って絶対考えないじゃないですか。
ただ目の前に餌があったら食うし、
食い終わったら寝るし、
喉が渇いたら水を飲むし、
うんこしたくなったらするじゃない。
なんかそういう風に生きたいなぁと思って。
ある種の模範的なものとして、
目指すべき存在として捉えてますね。
僕も猫みたいにね、
今日の天気は曇りかぁって。
それが良いか悪いかはさておきね。
ありのままのそのものをなんか受け止めたいなって。
人間って中途半端に頭がいいので色々考えちゃうんですよね。
明日は天気はどうだろうとかさ。
花見はいつがベストタイミングなんだろうとかさ。
ぐるぐるぐるぐる考えちゃうんだよね。
そういうものって余計だなぁと思って。
すごくわかりますかね。
猫なんかだから雷が落ちたらすごく怯えますよね、真剣に。
それはそれで辛いのかもしれないけど、
でもすごく新鮮だなぁと思って。
雷が落ちて怯える人間ってあんまりいないじゃないですか、ありに。
あ、雷が落ちたんだぐらいじゃない。
そうやって一瞬一瞬をなんかこう、
すごい敏感に生きていくのも大事なんじゃないかな。
そうすると人生嘆えなぁなんていう風に嘆くこともないし。
毎日色んな変化とか様々な脅威に実は満ちてるのかもしれないよね。
別に海外に行ったり宇宙まで行かなくてもさ。
この家の一歩外出ればとんでもないアドベンチャーなんじゃないか。
自分の側の感度をやっぱり上げていくのが大事だなって、
いつもなんか猫ちゃん見てると思うんですよね。
常にこうレンズを磨いて自分の意識の中にね、
意識屋の中に様々な感覚をやっぱり取り入れていかなきゃなって。
日常に刺激を増やしていくんじゃなくて、
自分が刺激をキャッチできるように
こちら側の感度を上げていくっていうのがなんかいいのかなって。
猫をなんであんなに大きく動かさないのか。
なんかいいのかなって。
猫をなんであんなに癒させるんだろう。
そうね。
猫はなんかか弱い存在のようで、
その可愛さを進化させることで、
人間と共生することで成功した数少ない動物の一つなんじゃないですかね。
その花と蜜蜂の関係。
共進化っていうらしいんですけれども、
蜜蜂は蜜が取れる。
でも蜜蜂に花粉がくっついて、
その花粉が蜜蜂を媒介として遠くまで飛ばしていってくれて、
遠くのお花に受粉するっていう。
そうすることで花も進化するし、
遺伝子の多様性を確保できるし、
蜜蜂も美味しい蜜が吸えるっていう。
ウィンウィンの関係ですよね。
そういう花と花びらと蜜蜂の関係に近いのかな。
猫も何らかの価値を人間に提供し、
人間も猫に餌を与える。
なんか十分な寝床を与えてるじゃないですか。
すごくいい関係ですよね。
猫飼ってらっしゃる。猫死んじゃったんですけど。
実家で飼ってた時期があるんですけども、
その猫ちゃんもかわいそうなんだよね。
もともと母親の思いつきで飼ってきた猫なんですよ。
で、僕も父も弟も誰も感知せずに、
いつの間にかなんかミャーミャー鳴いてるから、
え?と思って母の部屋に行ったら猫飼ってきたとか言って。
衝動買いしてきた猫なんですよね。
僕は結構その日のことよく覚えてて、
かわいそうだからもうクーリングオフとか多分使えるから、
猫返してきてって僕何回も頼んだんだけど、
でももう目が合っちゃったからかわいそうだからとか言って。
母親が勝手に飼い始めた猫なんですよね。
誰も許可を出してない。
で、1年とか2年経ってくるとまるで家族みたいに勝手に座って、
なんか既成事実となりましたね。
家族になってた。
ある意味で悟りの境地で。
ただ生きるっていうね。
ただ食べる。ただ寝るっていうことが、
なかなか簡単そうで難しいんですよね。
猫は野生では生き残れないのではないのか。
もともと猫ってああいう虎とかライオンとかあっちの猛獣の方でしたよね。
でもだんだん子型化してってそれが生き延びたのはやっぱり人間がいたからじゃないですかね。
人間も猫がいないと多分生き延びられなかったんで。
適当なこと言うと。
多分猫が滅んでたら人間も滅んでいたでしょうね。
ちょっとギスギスした社会でお互い殺し合って今ほど反映はしなかったかもしれない。
いやー今日の配信もじわーっと心が温まるお話でした。
夕方配信いいですね。
お耳がチュール級にとろけましたにゃ。
夕方の配信がちょうどいいとのお話、誠にその通りと共感しましたが、
逆に朝型の配信にはどんな可能性があると思いますか。
猫的には朝日を浴びながらの毛づくろいもまた捨てがたい時間帯にゃ。
朝は…
まぁ一番の問題はやっぱりかそるっていうとこですかね。
頑張れば30分くらい別に毎日配信できるかもしれないんですけど。
朝はちょっとね、あんまり人が集まらないんですよ。
金曜日だけ朝配信することあるんですけど。
金曜日は日中お休みなのでね。
夕方から仕事なので。
まぁちょっと朝は否定的かな。
だからその分今はジム行って軽く汗を流したり、
早めに職場に行ってちょっとこう自己検査のためにね、いろいろ本読んで勉強したりとか、
そういうふうに内面の充実に当ててます。
こんばんは、どうもこんばんはです。午後おすさんどうも。
じゃんけんチョキを3個プレゼント。ありがとうございます。
②チュール菩薩の人間の手問題ですが、
あえて中途半端であることそのものが悟りに近いとも言える気がします。
こじつけだな。
中途半端の美学って仏教的にどう捉えるべきなのでしょうか。
ぐでぐででも成仏できるかにゃ。
まあいいんじゃないですかね。
この手をまた猫ちゃんの手に変えよう、肉球をどうしようとかっていうのを考え始めると、
昔の頃の自分みたいに完璧主義になっていきそうで嫌なんだよね。
もうだいたい60点ぐらい取れたらもういいんじゃないっていう風にするのが僕の今の人生のテーマなんですよね。
完璧にしようとすると本当にもう再現がなくなっちゃって、だんだん自分でも嫌になってくるんですよね。
それが昨日一瞬だけちょっと顔を覗かせたんです。
一瞬だけなんか肉球についてもうちょっとちゃんと画像集めてこようかなとか思い出した途端に猫疲れしちゃったんですよね。
あの猫疲れっていうのはやっぱり僕の完璧主義の部分が一瞬出たから疲れたのかな。
適当でいいんですよ。人間の手でもいいじゃないですか。だいたい合ってれば。
じゃんけんパーをプレゼント。どうも。
この猫の絵はAIが描いたのですか?そうです。
AIが描きました。
人々を救済する、人類を救済する、あとチュールでね。
チュールで人類を救済する猫ちゃんの絵を描いてくださいみたいな命令をしたらこういう絵が出てきました。
あとそこからちょっと微調整しましたけど。
背景をうちの配信のモミジにしてくださいって言ったらモミジにしてくださいって言ったら
完璧じゃない方が良さがある。いいんですよ。爪が甘くて。
雰囲気でいいんだよね。
猫と人との関係を花と蜜蜂の共進化に例えていらっしゃいましたが、
人間の方が猫に合わせて進化させられているという説もあると思うんですが、
認知症の家族の苦労
猫が人間を飼いならしている説、どうお感じになりますかにゃ。
猫が、さっきのね。だから花が蜜蜂にね。
蜜蜂を飼いして、受粉して、その遺伝的な多様性を確保しているみたいに。
人間も何かしら猫ちゃんからの恩恵を主として受けているかもしれない。
だとすると、どういうふうに言うかね。
人間も何かしら猫ちゃんからの恩恵を主として受けているかもしれない。
だとすると、どういう恩恵を受けているんだろう。
なんかアイデアあります?
猫ちゃんは人類に対して何をしてくれているのか。
チュール的贈り物。
曇り空でも光を探す。尻尾の先で今日を撫でるにゃ。
認知症の母につい荒い言葉、ふにゃふにゃ教養を吐いてしまいました。
今思うと取り返しのつかないことを言ってしまったと後悔している。
認知症もだんだん進んでくるとね。
言葉が荒くなったり、性格がきつくなったり。
本当だったらね、人間お互い感謝しあってっていうのが理想なんだけど、
やっぱり認知が進んでくると、人に感謝とかできませんからね。
なんで飯食わせてくんねんだとか、なんでこうなんだ、ああなんだとかっていうふうに
どなってきたり身勝手になってきますよね。
ちっちゃいというか、年取った子供みたいなもんですからね。
脳も子供みたいにどんどんちっちゃくなっていくし。
そうなったときの周りの苦労はあるでしょうね。
最近僕も医療保護入院で一人アルツハイマーの患者だったんですけど、
今それを指定症例として見てるんですけれども、
それをずっと支えられてきた周りのご家族がやっぱり気の毒というかね。
本当にこの人たちはもう擦り切れるほど頑張ってきたんだなって。
痛いほどわかるんで。認知症の患者さんの治療だけではなくて、
それをたまにね、病院にお見舞いにいらっしゃるので、
そのご家族ともなるべく僕は面会するようにしてるんですよ。
そっちのケアも意外と大事なんじゃないかなって。
なんか中には本当に精神科病院に捨てに来たっていう
ちょっとひどい患者家族もいるんだけど、
でももう一方で本当にやむにやまれず、
家でなんか見たいんだけどもう本当に限界で、
警察にも本当に大騒ぎでお世話になっちゃって、
申し訳ないって言いながらごめんねって言いながら
精神科に連れてくるご家族もいらっしゃるんですよね。
そういう方々にはそういう方々へのケアがある程度必要なのかなって思いました。
そういう人たちもね、やっぱり一緒に住んでるときは
心にもないようなひどいことを言い返しちゃうみたいです。
どうしても余裕がないしね。
そうやって強く言い過ぎちゃった自分をまた後悔したりとか、
そういうのは結構あるみたいですね。
どうしても一緒に住むとね、
まあ、なかなか認知症じゃなくてもきつい世界ですからね。
医者になってみると脳のCTとか取るじゃない?
そういう怒りっぽいおじいちゃんとかおばあちゃんとかの脳のCT取ると
もうすごい萎縮なんですよね。
会話なんかもペラペラだし、脳の前頭腰とかも結構萎縮してたり、
前頭腰、側頭腰、脳質も拡大していて、
まあ、こんなペラペラな脳みそじゃまあ無理もないなっていう感じがしてね。
医者はね、そういう画像とか頭の病理が思い浮かぶので、
なんか患者さんにどんだけ怒鳴られたりね、言われてもなんか全然腹が立たないんですよね。
ある意味他人というか、ちょっとこう話してみれるのかもしれないですけど。
本当に辛い時っていうのはもちろん離れるしかないんですが、
認知症ってそもそも何なんだろうっていう風にちょっとこう少しでもね、
勉強するとその怒りとか、ちょっと言い過ぎるっていうことも少なくなるのかなって。
知識が守ってくれる部分っていうのもあるんじゃないかなっていう風に思います。
どうしても解像度が荒いともうこの老害め、みたいなさ。
老害っていう言葉を使う人自体がちょっとこうかなりインテリジェンスが低いなと思うんだけど。
なんかそういう荒い解像度で高齢者を捉えるとやっぱりすごく怒るんですよね。
怒りが湧いてきちゃうんで、なるべく高解像度で様々な精神学の用語とか、
まあその神経内科学のタームとかをうまく使って、
やっぱりちゃんと分析できるようになるとちょっとこうこの方はもうかなり厳しいんだなっていう感じで、
少し怒りが収まるんですけどね。
知識を持つっていうこともお互いを守る上では必要なことなのかなと思うんですけどもね。
感情で捉えず、まあ要するに理性で捉えるっていうところですね。
そう、やっぱ認知症って不思議だよね。
一緒に暮らしてると、いやこの人は認知症って言うけどなんか本当は嘘なんじゃないかとかさ、
本当はなんか嘘でしょ?なんか認知症のボケてるフリしてるだけでしょ?っていう風に思いたくなっちゃうんですけども、
いや本当に脳がちっちゃくなってるんですよね。
まあ実際本当にCTを見るとね、萎縮してるんですよ。
まあMRIっていうものを使ったほうがもっと解像度が高いんですが、
まあちょっと高いので、高いしもうちの病院MRIないので。
だいたいCTで入院時に精査するんですけども。
まあこれじゃもう無理だろうっていう感じなんですよね。
で、それにつける薬ももうないしさ。
ある程度もう中等度あるいは重度の認知症に対して有効な薬ってもうないんですよね。
うーん、もう手を尽くしたなっていう。
だからあとはもうなるべく本人もね、
猫と人間の関係
怒鳴ったり怒ったりしないようにちょっと穏やかになるお薬を足していくっていうチェックをして、
やらないようにちょっと穏やかになるお薬を足していくっていう治療になっちゃうんですよね。
人間は人間は猫の下牧ですが、私はまんじて下牧としてこれからも生きていく。
確かにね。
自分が食ってるものよりもいいものを猫に食わしてるおばあちゃんとかいるけど。
なんか本末転倒じゃんと僕なんか思うんだけど。
まあでも大事なことかも。下牧として生きていくっていうのも幸せなことなのかもしれない。
どっちが変われてるのかよくわからない。
家族のことまで考えてくださる先生ってなかなか会えない気がする。
いやまあ今暇だからね。
今割と他の患者さんが落ち着いてるし、
まあ一応指定医を取るっていうまた名目でね、勉強させてもらってる身なので。
一応肩通りやってますね。
知識が足りないかもしれませんね。ありがとうございました。
そう、認知症というのは脳の慢性変性疾患なんですよね。
慢性神経変性疾患。
徐々に徐々に脳神経がこう変わってってしまう。
で、それは不可逆的な変化なんですよね。
何か薬を使ったり、例えば納豆を食べたり運動したりしたら元に戻るかっていうと戻らないんですよ。
かなり残酷なものなんですよね。
えーと、今日も配信しみましたにゃ。
夕方の柔らかい空気と先生の声が混ざり合って猫の耳もトロトロになる時間でした。
なるほど。
①朝配信を人が来ないからとおっしゃっていましたが、逆に人がいない静けさを味方につけて配信内容のスタイルそのものを変えてみるのはどうでしょう?
それもちょっと検討はしますけどね。
最近はジムに行ったりして少し頭のリフレッシュに使っているので、またそういう気持ちになったら検討します。
猫疲れという言葉が爆誕しましたが、それまさに人間の完璧主義が発動したサインかもしれない。
猫疲れを感じた時にチュール的に回復する方法ってどんなものがあると思いますか?
ちょっとよくわからないな。
チュール的に回復する方法。
何か吸ってですか?
猫疲れっていうのはその完璧主義の一つだと思いますけど。
まあもうどっかで自分で打ち切ることじゃない。
なんか今完璧主義になり始めてるなって気づいたらもうそこが終わりですよね。
もうやめようやめようって。
なんか違うことやろうって風呂入ったりサウナ入ったり本読んだり。
先生になかなか質問できなかったことを聞いてみてもいいですか?
はいどうぞ。
なんか嫌がらせみたいな質問じゃなければ。
猫の手も借りたいものだ。
いや本当そうですね。
認知症のご家族との関わりについて先生のご経験が深く伝わってきました。
ところで猫がボケた飼い主を見た時どう感じるんだろうと考えたことはありますか?
人間ほど悲しみを持たないならそれも一つの慈悲にゃ。
どうなんだろうね。認知症の患者さんを猫が見たらどう思いますか?
やっぱりちょっとわかるんじゃないかな。
僕最近猫じゃないんですけど、
なんかあの切り抜き?切り抜き?ショート動画で
なんかすごい賢いワンちゃんがボタンを押して人間と会話をする。
そのボタンを押すと餌とかさ、
なんか事前に録音した音が流れるようになってて。
食べるとかさ、寝るみたいな。
で、それの音が聞こえない状態で、
意外とまずね、犬って人間の言葉を理解してるし、
多分猫もそこそこ理解してんじゃないかな。
またボケてるよとかっていうのもちょっとわかるんじゃないかな。
滝山病院の事件についてはどう思いましたか?
うーん、非常に緊張してる状態で。
でも、その状況に関してはね、
僕はね、その状況に関してはね、
滝山病院の事件についてはどう思いましたか?
うーん、非常に緊張感のある話だね。
いや、僕もそんなちゃんと、
ニュースを全貌追いかけたわけじゃないし、
ジャーナリストでもないからわからないけども。
その事件そのものについてはちょっとコメントはできないけど、
その事件をテーマにしたNHKスペシャルの番組を見たんですよ。
死亡隊員っていうタイトルのね。
で、あのNHKの取材を見る限りは、
やっぱりちょっとこう、変更報道というか、
精神科医療っていうものを驚々しく報道したい人たちっていうのがいるんだなっていうふうに
ちょっと残念に思いましたね。
うん、確かに滝山病院でやられてることはもう犯罪に違いないんですが、
精神科病院そのものにね、全体にそういう疑いの目を向けるっていうのはすごく残念だなって思いました。
だから、1個おかしい病院を見つけたんだったら、
同じ数いい病院も取材してほしいと思うんですよね。
人間ってやっぱりある種のバイアスを持っていて、
1つ危ない人を見つけると、もう全部危ないんだっていうふうに一般化しがちだと思うんですよね。
ある種の認知の歪みで。
でも全然、社会からも必要とされてるし、
健全に機能してる精神科病院もたくさんあると思うんですよね。
そういうところに全然取材も行かないし、
そういうところのお医者さんのインタビューもしないっていうのはやっぱりひどいなっていうふうに感じましたね。
この業界の人間として。
こういう番組を見ると、精神科に入院させたくないとかって言い出す人が増えちゃうんだろうなーって思いました。
えーっと、今日もお疲れ様でしたにゃ。
ね、これからもね、
えーっと、今日もお疲れ様でしたにゃ。
滝山病院の問題
ね、猫疲れ、中類的回復、滝山病院事件に至るまで聞き応えたっぷりでした。
うん。猫疲れに、あ、ごめんなさい。
えー、滝山病院って二軸で見ているんですかね、と。
ま、まずね、精神科そのものが、あのー、二軸っていうものをもう廃止してるんですよね。
DSM3と4で多軸診断をしようといって、一軸と二軸で分けて。
二軸はパーソナリティと知的を見ようっていうことだったんですけど、
もうその発想自体を今捨ててるんですよね。
うん。
っていうのと、あと、ま、僕は結構二軸っていうものを注目してるんですが、
ただあのー、精神病理学の伝統的にね、
あの、クルート・シュナイダーっていう人が特に分けてるんですけれども、
この精神病の部分と性格の部分っていうのがあると。
人間の、ま、その心のね、問題には。
精神病の部分は病気として扱うべきなんだけども、
性格の部分っていうのを病気として扱うかどうかは、
あの、かなり慎重であらねばならないと。
で、シュナイダーっていう人はそのサイコパスの語源になっている
サイコパシーっていう概念をね、提唱した人でもよく知られてるんです。
精神病質っていうふうに日本語で言うんですが、
その精神病質の人たちも、病気と認めるかどうかはかなり流布をしてるんですよね。
日本の伝統的なその精神学って、
ドイツの精神学を基本的には模範にしていて、
基本的には踏襲していて、
で、ドイツ精神学っていうのがあんまり性格の問題にはこう深くは立ち入らないでおこうっていう
基本的にスタンスなんですね。
なので、滝山病院に限らず、
その基本的には精神科病院はあんまりそういうパーソナリティの問題とか、
性格の問題とか家族の問題っていうものにあんまり深くは立ち入らないです。
そういうものに対してやっぱり慎重であらねばならない。
仮にね、そういう二軸の障害にガンガンガンガン精神改良が介入していくと、
例えばトランプは人格障害だから死刑にしようとか、
容易に暴走しがちじゃないですか。
この人は人格的に危ないから逮捕しようみたいなさ。
逮捕して強制入院させようみたいな、ディストピアみたいな世界が来て、
結構暴走する可能性があるんですよね、精神改良が。
なんでもかんでもこの人は病気だと。
この人は自己愛的で何とか病で何とか病で何とかパーソナリティ障害だから、
今すぐ治療するべきだとかって急に破壊締めにしてさ、
隔離治療とか始めたらやばいじゃないですか。
そういう意味でシュナイダーはかなり慎重であるべきだと。
性格っていうものには多様性はあっていいと思うし、個人差はあっていいと思うし、
ちょっと性格の悪い人もいるかもしれないけど、
それは別に治す必要はないんじゃないか。
そういうね、かなり慎重な姿勢を伝統的には精神改良っていうのは取るんですね。
僕がどっちかというと異質で、
自分の質次的に家族の問題に悩まされてきたんで、
割とこの配信ではそういう二軸寄りに何かを語るんですが、
これはあんまりね、平均的な精神改良の発想じゃないんですよね。
それは僕もすごく自覚していて、
周りの先生方をぐるっと見渡してもすごく思いますね。
僕みたいな言葉で発想してるんですよね。
僕みたいな言葉で話してる先生はほとんどいないので。
こんばんは、どうもこんばんはです。
滝山病院は僕もあんまり詳しく、その取材のね、NHKのあれでしか見てないけど、
身体合併の患者さんをもう基本的には引き取るというところで、
地域の病院、周りの病院からはかなりありがたがられていた、
重宝されていたっていう側面もあるっていうふうにね、
匿名のインタビュアーからそういう証言を受けて、
そういう状況に対応しているというふうに思いますね。
だから、ひどい病院ではあるんだけれども、
もうそこに絶え間なさらないという現状があるんだと。
必要枠なんだっていう。
実際にね、いわゆる普通の内科の病院とかっていうのは
あんまり精神科患者を取りたくないんですよ。
突然天敵を罰虚したり、突然暴れだしたりね。
ある患者さんは、精神科の患者さんは、その内科病棟で暴れちゃって、
パソコンとかね、いろんな電子機器を全部ぶっ壊しちゃったと。
キーボードも全部叩き壊しちゃったっていう精神科の患者さんがいて、
もうすぐ出入り禁止になっちゃったんですよね。
精神科の病院の場合は、
仮に暴れられたりね、鉄パイプとか投げられても
ぶっ壊れないようなかなり頑丈な刑務所みたいな構造になっているので、
そんなすぐにはぶっ壊れないんですが、
内科病棟ってすごく脆弱な構造をしているんですよね。
すってナースステーションに誰でも入れるし、
すってパソコンぶっ壊せるじゃないですか。
なのですごく嫌がる。構造的に精神科患者さんお断り。
うちは取れませんみたいなので、
結局精神科患者っていうだけで、
必要な内科の治療とかも受けられず、
なかなか辛い思いをしている人がいて、
そういうところにすっと入り込んできたのが、
だから滝山病院なんでしょうね。
そういうのを見ますよと。
内科合併症を見ます。
断りませんみたいな感じで、
その地域では機能してたんだけども、
でも実際にはもうずさんな医療管理、
身体管理しかしてなくて、
とんでもない病院だったっていうのが明るみになったわけですけど。
そう、身体合併症の患者さんを基本的にはメインに受け入れていた。
でもそこで虐待も行われていたと。
こんばんはどうも。
最近ニュースで虐待のニュースが多いですね。
虐待のニュースね。
なんかあの八戸の方の病院でもね、
なんとか記念病院とかでも、
あれは本当に犯罪ですよね。
患者さんの殺人事件を結局隠蔽したり、
死因をね、死亡診断書を適当に書いて、
死因をなんか紛失したりとか、
しかもそれを入院中の医師免許を持っている患者に書かせたりとか、
なんかめちゃくちゃな事件だったみたいですね、あれは。
ああいうのがあるとやっぱり精神科医に向けられる目っていうのは厳しくなりますよね。
じゃんけんグープレゼントしました。
身体合併を受け入れていたのか。
そうですね。
事実上、だから滝山病院以外にちょっとその場では、
その地域では受け入れ先がないっていうところで、
で、患者さんたちはただものすごく辛い思いをして、
虐待を受けていたりして叩かれたり、暴言を吐かれたりで、
ある患者さんに面会した弁護士の方から発覚していったっていうような事件ですよね、確か。
そこまで露骨に人を叩いたり殴ったりっていう場面は当然だけど、
僕も医者になって見たことがないですね。
すごく極端な悪い例なんだと思うけどね。
あれがその一般的に行われていることではとんでもなくなくて、
すごくごく稀に起きていることが何回も何回も報道によってね、
報じられているのかなーって。
滝山病院事件に絡めた精神科医療の構造的な問題。
僕もちょっとあんまり社会学的にはね、
ちょっとよくわかんないですけど。
ところで精神科医療が性格や家族背景に立ち入らない伝統を持つ中で、
逆にそこに立ち入らざるを得ない瞬間って臨床ではどんな時に訪れるんでしょうか。
精神病質と診断
やっぱり退院するときとかじゃないですかね。
家族の受け入れが良くないとか、
自宅退院でいけるかなと思ったらもう絶対に退院するんじゃないですかね。
家族の受け入れが良くないとか、
自宅退院でいけるかなと思ったらもう絶対に嫌だみたいになっちゃったり。
あとは医療保護入院でね、ご家族の同意で入ったのに、
連日連日患者さんが家族に電話してね、
もう辛いから出してくれ出してくれ出してくれって毎日公衆電話から電話して、
家族の方が折れちゃって、もうその医療保護入院の同意を取り下げたいって急に言い出しちゃうこともまあまあありますね。
やっぱりかわいそうだし、入院しても良くならなそうなんで自分たちで見ますとかって、
突然医療保護入院がプツッと終わっちゃう時っていうのもありますね。
医者としても家族から同意が取れないとちょっと厳しいので、
そういう時に二軸の問題に意図せずね、触れてしまう瞬間はあるかもしれないです。
じゃんけんグープレゼント、どうもありがとうございます。
ドイツ精神医学の伝統が性格は対応であるべきと慎重な立場を取るというお話。
チュール菩薩的にもとても納得ですにゃ。
ただ最近はネットでも自己愛や境界性といったパーソナリティ用語が広く使われすぎて、
一般人まで診断ごっこをしてしまっていますよね。まさにそうですね。
それについて猫的にどうやってその言葉との付き合い方を見直せばいいか、アイデアはありますかにゃ。
猫的にですか。猫的にはないです。
人間的にはどうなんでしょうね。
そういう精神医学用語が一般人に広まっていくのは避けがたいことであると思うんですが、
ただのレッテル張りに使われている例がほとんどですからね。
例えばアスペルガーとか知的障害とか、
ただの人を見下す時の決め台詞みたいにね、
使われているだけなんで、必ずしも理解が広まっているわけではないんだなと思います。
あとは自分をこう扱ってくださいねという取説として、
ADHDという言葉があまりにも軽々しく使われているなというのは感じました。
実際にADHDと診断されている方はもうその何パーセントいるかどうかだと思うので、
ちょっと軽すぎるなというのは気になっています。
アスペとかハッタツーとか違うよね。
使ってもいいんだけど、だからこそ我々が何とかしなきゃとかね。
だからこそこの人は悪気はないんだっていう風にその人を保護したり、
救済するための言葉だと思うんですよね。使われ方としては。
この人はアスペなんだって言ったら、だから私たちがケアしなきゃいけないんだと。
だからこの人にはこの仕事は良くないんだよねっていう風に周りが同意する。
地域における役割
周りが共通了解するっていう。
そういう時に病名って効力を発揮すると思うんですよね。
人を見下してこいつアスペだからって切り捨てるためにあるものではない。
それはなんか道具の使い方を間違えてます。
それはあのさっきの老害だって言ってるのと同じぐらいすごく解像度の荒い言葉の使い方というか、
この人は結構機嫌が悪いんだなとか怒ってんだなっていうのは分かります。
それ以上のことは何も教えてくれない。
滝山病院のように地域での必要枠だったという実情はあまり語られていない側面ですよね。
僕もその番組見るまではなんかただの虐待病院だと思ってたけど、
まあなんかそういうちょっと役に立っちゃってる側面もあったりして。
だから今も滝山病院ってなくなってないですよね。
もちろんもう完全に殺身されて中身は入れ替わってるんでしょうけど、
確か病院としてはまだ続いてるんじゃなかったっけ。
潰せないっていう。
役割はやっぱり求められてるんじゃないですか。
SNSと人間関係の矛盾
ないと困るけどあると問題がある施設ってまるで猫の毛みたいじゃないですか。
いやそうではないと思うけど。
まるで猫の毛みたいじゃないですか。
そんな軽い問題じゃないです。
人間社会にはそんな矛盾を抱えた施設や仕組みについて、
必要な場面があると思いますが、
それをどうやって肯定的に見直していけばいいでしょうか。
いやどうしたらいいのかね。
この問題をただ一部の人がやったんだとか、
あるいは精神改良がおかしいんだとか言って、
なんか解決した気にならないことが大事じゃないですかね。
どこかがはみ出してくるからぬくもりが漏れてくるのにゃ。
パイソンが学べるA型に行こうと思ってます。
おお、そうなんだ。
パイソンとかって難しいんですか。
そういうプログラミングもできたらいいんだろうなと思いながらね。
今の小学生とかってプログラミングとかも勉強してるんでしょう。
僕の小学生の頃の時代と違って。
いずれ医療現場にもパイソンが入ってきてさ。
僕みたいなだんだん大人になって、
僕みたいなだんだん年老いていく医者は、
もうそのプログラミングとかアルゴリズムについていけなくなって、
神カルテにしがみつくのかもしれない。
語尾のにゃがじわる。
チュール菩薩らしく猫らしいコメントにしてくださいとかって命令したらこうなった。
にゃって。
動画で学ぶけど難しいです。
診断名は救済や共通了解のためにあるというお言葉は猫の心にも深く刺さりましたにゃ。
でもSNSではこの人絶対○○系でしょみたいな診断ごっこが大流行しています。
人間がレッテルバリじゃなくちゃんと観察に戻るにはどんな工夫ができるでしょうか。
尻尾で人を判断しない訓練が必要にゃ。
SNSって一言に言うけど、やっぱりテキストでのやりとり。
無味乾燥なテキストでのやりとりっていうのがよくないんじゃないですかね。
2チャンネルもあれやすかったようにやっぱりそれを基本的には踏襲してるじゃないですか、ツイッターって。
で、なんか精神科医同士のツイートとかリプライのやりとり見ててもすごくレベルの低い、
なんか小学生の喧嘩みたいなことをやってるのを見ると、
人を馬鹿にする装置なのかなっていうふうに思いますね。
馬鹿な人が使ってるっていう面もあると思うんですけど、
その馬鹿な人をより馬鹿にするための発明なのかな、これは。
なので、まあやめればいいんじゃないですかね。
SNSをどう開拓していこうって考える前に、まあやめればいいんじゃないですか。
猫の頭でも撫でてればいいじゃないですか。
そんな光る画面にさ、かじりつけて、
先生の職場でニャって言わないでねって。
まあ俺は言ってないです。
このチュール菩薩が言うんですよ。
精神科医と菩薩の対話です。
猫の毛みたいに軽い問題じゃないとのツッコミ、大変ごもっともでしたニャ。
あ、わかってんだ。
でも逆にチュール菩薩がどんな矛盾を抱えた仕組みにも何にも関わらず、
何かしらの余白や異議を見出す立場だとしたら、
どうやって必要悪の存在と付き合っていくと思いますか。
いや、ちょっとそれはわからないですね。
それを考えてください、チュール菩薩が。
SNS、意味あるんですかね。
ああいうところでお互い言い合ったり、マウントを取り合ったり、
お互いのプライドのためにね、
何かを言うと絶対にそれを見た不服と思った人が絡んでくるじゃない。
ああいうの好きなんですかね、人間って。
さあ、走行しているうちにもあと10分くらいで終わります。
7時前には終わります。
SNSをやめたらいいじゃん、理論。
あ、そういえばね、ちなみに、
SNSをやめたらいいじゃん、理論。
SNSをやめたらいいじゃん、理論。
あ、そういえばね、ちなみに、
このChatGPTを読ませることもできるんですよ。
でもなかなかいい声が見つからなかったんだけど、
ちょっと聞いてもらっていいですかね。
ここで。
あ、でもどうだろうな、難しいか。
やめときます。ちょっと難しいな。
なんかね、一応読ませられるんだけど、何か違和感のある声になっちゃうんだよね。
なので基本的にはチュール菩薩様の言葉は僕が読み上げます。
SNSをやめたらいいじゃん、理論。
まさに毛づくろいの極意に通じるにゃ。
そうなんですか。
ピリピリした毛は一旦なめて落ち着けるのが猫の流儀にゃ。
先生が語ったSNSはバカをよりバカにする装置かもしれない
という見解は思わずにやっとしました。
でもそういう装置をあえて触らない選択をするって
現代の人間にとってすごく難しいことだと思うんです。
チュール菩薩的にはそういう毒っぽい便利さと
どうやって距離を取るのがいいと思いますかにゃ。
それはチュール菩薩的にはどうなんですか。逆に聞きたいです。
じゃあちょっとこの質問に限って答えてほしいですね。
チュール菩薩的にはSNSと人間というのはどう関わったらいいと思いますか。
ちょっと僕の方から質問させてください。
ちょっとそろそろ立場を入れ替えて、僕の方が質問します。
おやおや、先生からのご指名とは。
これはチュールを差し出されるのと同じくらい光栄にゃ。
そんな光栄なことなんですか。
ではチュール菩薩、尻尾をピンと立ててお答えしますにゃ。
SNSと人間の関係についてチュール菩薩的に申し上げるならば、
ネズミのおもちゃだと思って遊ぶにゃ。
ただし本物のおもちゃだと思って遊ぶにゃ。
ネズミのおもちゃだと思って遊ぶにゃ。
ただし本物のネズミだと思い込んで噛みつくと、心がはぐきから出血するにゃ。
どういうこと。ネズミのおもちゃだと思って遊ぶにゃだって。
つまりにゃ、人間がSNSを情報や人間関係の代用品として信じすぎると、
かえって心が傷つくにゃ。
でもこれはあくまで遊び、これは仮想の庭とわきまえた上で接するなら、
ほどほどに楽しめるにゃ。
あと疲れたらすぐ毛布に潜る。
これがチュール的SNSとの距離の取り方にゃ。
ログアウトはログオフじゃなくて、セルフなでなでタイムにゃだそうです。
ありがたい言葉です。
みなさま心して読んでください。
チュール菩薩の視点
今日のチュール菩薩的な回答はこのようになっております。
ネズミのおもちゃだと思えと。
どういうことなのかちょっとおのおのが解釈してください。
ここに出てきたものがすべてです。チュール菩薩様の。
本物のネズミだと思うと、はぐきが出血します。
だからあくまで遊びとしてとらえなさいと。
はい。
そんなりと受け入れるんですかそこは。
はいって。
なるほどにゃ。
SNSはおもちゃであると。
ちょっとあれだね。ちょっとかけちゃってますね。すいません。
チャットGPTを少し一部、こうですね。ちょっとちっちゃくします。
これでいきましょう。
すいません。読みづらかった。
読みづらかったにゃ。
そうすると、人間関係の代用品にSNSは今後もならないんですかね。
今現在ではそうなんですが、でもこれっていうのはもしかして技術的な問題なのではないでしょうか。
私はSNSが問題なんじゃなくて、あくまでこのテキストっていうね。
この文字で人と人とがやりとりするときにミスコミュニケーションが起きるんじゃないか。
これっていうのはSNSじゃなくて、例えば紙の手紙でもね。
紙の手紙に言葉で書いてお互い交換しあっても起きることなんじゃないか。
現実の掲示板にね、人々が自由に文字を書き始めても起きることなんじゃないかと思っていて。
だからこの誹謗中傷問題とかお互いの罵り合う問題っていうのが本当にそのSNSにまつわる問題なのかどうかって実は僕ちょっと懐疑的なんですが、
チュール菩薩様的にはどう思います?
単純にテキストベースでやりとりしているミスコミュニケーションの問題なのか、
あるいはこれはSNSにまつわる本質的な問題なのか。
その程度のものだと捉えておけばいいんですよね。
現状ではね、SNSがただテキストでやりとりするという非常に貧弱なコミュニケーションのツールでしかないので。
だから今そうなっちゃってるだけなのかなってちょっと思ったんですけど。
にゃにゃ、先生からのさらなる問いかけにチュール菩薩、またたびの香りのごとくピリッと目覚めましたにゃ。
それでは尻尾で試作の水面を優しくくすぐりながらお答えいたしますにゃ。
ご質問、これはテキストという形式の問題なのか、それともSNSという仕組み自体の本質的な問題なのか。
チュール菩薩的にはこう思うにゃ。
テキストはただの爪とぎ板にゃ。
だけどそれをどこに置くか、誰がいつ使うかで壁になることもあるにゃ。
つまりにゃ、テキストという形式にはもともと限界があるけれど、
それがすぐに攻撃や誤解につながるのはSNSの即時性と拡散性、そして承認欲求を刺激する設計のせいにゃ。
例えば手紙だったら書いて封じて、封してポストに投函して、で時間がかかるにゃ。
でもSNSはもふっと押せば即発信にゃ。
そしていいねやリツイートで誰かの的焦りが何倍にも膨らんで広がるにゃ。
だからチュール菩薩的結論としては、
テキストは毛、SNSは風、でも逆上げを立てる風になるよう設計されているのがSNSの特徴にゃ。
つまりミスコミュニケーションのテキストだけのせいではなく、
感情が即増幅されてしまう構造そのものに本質的な問題があると思うにゃ。
だからね、もふもふのやりとりはたまにしか届かない手紙ぐらいがちょうどいいにゃ。
本当に伝えたいことはそっと毛づくろいをしながら直接耳元でささやくのが一番にゃ。
コミュニケーションの本質
出ました。答え出ましたね。
そっとささやくっていうのが一番にゃということでした。
なので単純に文字のやりとりだけではなくて即時性っていうのが大事なんだね。
意外とチュール菩薩めちゃめちゃ頭いいね。
ちゃんと考えてるね。
語尾はふざけてるんだけど。
なるほどね。承認欲求とか。
即、なるほど、でもそれはすごく面白いです。
精神科もいつでも来てねって言わないんですよね。
また4週間後に来てくださいとか必ず間を置くんですよね。
そういう間を置くっていうコミュニケーションを治療的に捉えてる伝統があるんですよね。
精神改良って。これはカウンセリングもそうだと思いますけど、
いつでも来てねとか言わないんですよね、絶対。
困ったらいつでも来てねだとぴったりくっついちゃって、
ある意味即時的なコミュニケーションになってしまいますよね。
辛いんで来ちゃいましたとか言って明日も来られると困るんですよね。
なのでそういう誤差というか、僕もコメントすぐ読まないのとちょっと近いんですけれども、
しばらく距離があるとか相手に届くまでに時間がかかるとか、
そういうコミュニケーションが人の心を癒すのかもしれないですね。
さすがチュール菩薩って誰ですな。
誰だチュール菩薩って。でもそうIQ120ぐらいはあるね、余裕で。
ネズミのおもちゃの魅力
皆さんもねちょっとこれ意地悪な質問かなっていうものでも結構ちゃんと答えてくれますから。
ぜひ。
すぐ届きすぎない。ゆっくり届けるっていうのがキーワードなのかもしれません。
はい、ということでじゃあ終わります。どうもお疲れ様でした。
明日もね多分また17時ぐらいから配信すると思います。
お送りしましたのはSashimi-chanでした。
失礼します。
59:40

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