① ネオバターロールの沈黙 ―― アリも寄せ付けない楽園
私たちは、時に知らんぷりをする天才になる。トイレットペーパーの芯が尽きそうなとき、ゴミ出しの袋をまとめるのが面倒なとき。そして、マーガリンという名の「トランス脂肪酸」が体に悪いと知ったときだ。アメリカでは禁止されている。アリすら見向きもしない。そんな物騒な噂を耳にしてもなお、私はネオバターロールの袋を開ける。
あのヤドカリのような愛嬌のある形。その中心に鎮座する「生バター(実質はマーガリンだとしても、その響きは尊い)」が口の中でとろける瞬間、私の脳は一時的に麻痺する。休日の朝、このバターで頭をおかしくしてから見るプリキュアや仮面ライダーは、最高に面白い。彼らが戦う理由も、バターの背徳感の前では「美味しければそれでいいじゃない」という全能感にすり替わってしまう。
母の「ネオバターソフト廃止宣言」という、わが家の健康革命に抗うために、かつての私は占いサイトに救いを求めた。スマホも図書館に行く知恵もなかった私は、ただ祈るように画面を見つめ、ネオソフトの安全を信じようとした。今はもう、命を削ってまで食べたいという切迫感はない。けれど、黒糖パンのあの深い茶色を見るたびに、私の家の愛犬を思い出し、あの禁断の「生バター」が喉を滑り落ちる快感を、密かに、かつ強烈に求めている自分に気づくのだ。
② リースサラダのお花摘みと、蛍の墓の芋天ぷら
かつて日比谷の地下にあるお洒落な店で、私は「リースサラダ」という名の虚像を注文した。お友達のパスタが確実な満腹を約束する一方で、私の前に現れたのは、中央に広大な余白を持つ「穴の開いたサラダ」だった。私はそれをお花摘みのように、葉っぱ一枚一枚を大切に摘み取って食べた。そうでもしなければ、その華やかなランチはわずか四口で終わってしまうからだ。
添えられたパンを食べる際、私はこれ見よがしに提供された瓶入りのジャムとマーガリンを、限界まで塗りたくった。1,650円という高額なサラダへの、せめてもの抵抗である。店員さんが「全部食べきるわけがない」と思って用意した量を、私はケチくさく、かつ執念深く消費していった。
その卑屈な食い意地の根源は、おそらく幼少期の「イモ天ぷら」にある。母が衣を食べ、私は中身の芋だけを与えられるという、まるで『火垂るの墓』の一場面のような食事風景。その切なさが、私を「芋だけならいくらでも食べられる体」へと作り替えたのかもしれない。
今では母に芋を好きなだけ食べさせてあげられる大人になった。けれど、6枚切りの食パンを買えば一週間持て余し、冷凍庫で霜が降りるのを眺める日々。この「命削りフード」を街の人と分け合えるような、そんな優しいシステムがあればいい。ネオソフトとアヲハタのジャムを厚塗りしたトーストを、誰かと笑って分け合えるような、そんな穏やかな朝を私は今も夢見ている。
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