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2025-12-06 10:53

#326 【禅と悟り①】建仁寺で感じた「見る禅」の教え

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【仏教3部作①】
臨済宗の「動中の静」とは?建仁寺で感じた「見る禅」の教え

12月8日は、お釈迦様が悟りを開いた日「成道会(じょうどうえ)」です。
この特別な日に向けて、今日から3日間は「悟りと禅」をテーマにお話しする3部作をお届けします。

第1回目は「臨済宗」について。
先日、夫婦で訪れた京都・建仁寺での体験をもとに、私が所属する曹洞宗との違いや、臨済宗ならではの「外を見る禅」「動きの禅」の魅力について語ります。

🐲 臨済宗は「見せる禅」
静かに坐る曹洞宗に対し、動きの中に静けさを見出す臨済宗の特徴とは?

🖼 建仁寺で感じた「動中の静」
天井画「双龍図」や庭園「潮音庭」を見上げた瞬間に感じた、天と地を貫くような感覚について。

🔭 日常でできる「見る修行」
ふと空を見上げる、木々の揺れる音を聞く。外の世界を感じることが、なぜ自分の内側への気づきになるのか。

明日は、私の所属する「曹洞宗(内を見る禅)」についてお話しします。
どうぞお楽しみに!

#仏教 #禅 #臨済宗 #建仁寺 #京都観光 #マインドフルネス #成道会 #悟り #お寺 #副住職 #動中の静 #コウブン
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サマリー

このエピソードでは、建仁寺を訪れた体験をもとに、臨済宗の「見る禅」の教えについて語られています。特に、感じることが修行になるという考え方や、忙しい日々の中で心の静けさを見出すことの重要性が強調されています。

臨済宗の訪問
どうも、コウブンです。
栃木県の片田舎にある蓮城院というお庭屋で副住職をしております。
今日はシリーズものをお送りしたいと思います。
シリーズものというか、毎日間に分けてお話しするシリーズ。
三部構成でお話をしたいんですけれども、どんなお話をするかというと、
実は明日、明後日が12月8日。
仏教にとってとても特別な日ということで、それに合わせてということなんです。
12月8日って何の日か、皆さん知ってますかね。
おそらくあんまり知らない方の方が多いんじゃないかな。
実は仏教にとってはとても大事な日なんですね。
というのは仏教をお開きになったお釈迦様。
お釈迦様という方が悟りを開いた日というふうに言われてるんです。
これを浄土へというふうに呼ぶんですね。
悟りについてというところをテーマにしていきたいんですが、
それに伴って私たちというのは私の所属している宗派ですね。
相当宗、そして相当宗と非常に近い存在の臨済宗。
その禅についてのお話から、お釈迦様の悟りについてのお話という感じで、
お話をしていきたいということなんです。
ということで、第一日目は臨済宗についてのお話をしたいと思います。
なんでそんな臨済宗のお話をしようかなと思ったかというと、
実はつい先日、私は京都のほうに旅行に行ったんです。
夫婦で旅行に行ったんですけれども、そこでいろんなお寺を巡った中で、
剣仁寺というお寺に行ってきたんです。
剣仁寺、臨済宗の大本山なんですけれども、とても良かったんですよ。
そこで感じたことというのを、ぜひとも皆さんにお伝えしたいなというふうに思ったというわけでございます。
何を感じたかというと、臨済宗の禅、これは外を見る禅。
そんなふうに思ったんですよね、外を見る禅。
禅といえば静かに座って心を無にする、落ち着ける、整える、
そんなイメージを持つ方も多いんじゃないかなと思うんです。
確かにそれは禅の一つの姿というふうに言えるんですけれども、
実は禅の世界にはもう一つ流れがあるんですよね。
静かに座るというのが相当宗だとしたら、臨済宗、動きの中に静けさを見出す禅。
これが臨済宗の禅なんですね。
臨済宗はいわば見せる禅、あるいは動きの禅、道の禅というふうに言われる宗派なんです。
京都の禅寺というと、やっぱりお庭、あとは建築物、書、絵画、茶道、
あとは行動なんかも入っているかな、香りですね。
見る禅の実践
いろんなものが禅の精神を形にしたんですね。
特にこれは臨済宗と関わりが深いということなんです。
臨済宗の根本には維新廉新、あとは不流文字、そういう教えがあるんです。
つまり言葉だけではなく、感じて悟るということなんですよね。
見ることそのものが修行になるというふうに言えるのかなとも言えます。
先日京都の禅寺を訪ねていた際に八島といわれるお堂があるんですね。
そこの天井に描かれていた僧侶図というのを見たんですけれども、
それを見上げた瞬間、天と地を貫くような壮大な静けさみたいなものを感じたんですよね。
絵の中の迫力の中に自分の存在みたいなもの。
表現が非常に難しいんですけれども、その見るということを通じて
自分の心の働きと言ったらいいのかな、そういったものを感じたんですよね。
表現が非常に難しいんですけれども、なぜなら感じるものだから。
これは皆さんにもぜひ見に行って感じていただきたいんですが、
ともかく見ているうちに息をはっと飲むって言ったらいいのかな。
思わず見に行ってしまう、そういう感覚があったということなんですよね。
竜というのは動き、童の象徴なんですけれども、その姿の中に性がある。
まさに童中の性という童の中に静けさを見るという人材の美学。
そういったものを感じられたというふうに思ったんです。
そしてお庭を見ると白い砂と苔というのが織りなす長穏亭といったかな。
そういったものが、そういう庭があったんですね。
石も大きな石も設置されていて、石と砂と苔とそれだけで大自然、
そういったものが表現されている。
海とか川とか雲とか、そういったものが表現されている。
そんなふうに思ったんですよね。
これを枯山水と呼ぶんですけれども、音も匂いもないのに心の中に大自然、川のせせらぎとかが再現されるような感覚なんですよね。
その時に私は思ったんですけれども、やっぱりこれは見る善だな、見ることの修行だなと思ったんですよね。
カッコつけて言えば、庭そのものが師匠であって、石というものが私たちを説法している。
そんなふうに思ったということですよね。
だいぶカッコつけましたけど。
臨済集では動きの中に静けさということを見出す。
これを道中の静というふうに言ったりします。
要するに掃除をしている時も、お茶を入れている時も、誰かと語り合う時も、その動きの中に心の静けさというのを保つ。
ただ静かに座るだけではなくて、生きることそのものを修行としている。
そういうところが臨済集の善ということなんですよね。
臨済集にはもう一つ有名な修行方法があって、それは何かというと、師匠と弟子の問答で使われる講案というものがあるんですよね。
これはまさに外の刺激から悟りを得るためのものというふうに言われているんです。
師匠が弟子に突然勝つみたいな声を上げたり、あとは扇で打ったり。
これは決して暴力をするわけではなくて、思考を止めて心を目覚めさせるための一撃ということなんですよね。
外を通じて内側を照らす、そういった形で臨済集は善の実践を続けてきた、そういう宗派なんですよね。
現代を生きる私たちにとっても、この見せる善、外を見る善というものはたくさんのヒントがあるんじゃないかなと思いました。
例えば、忙しい日々の中にふと立ち止まって空を見上げる。
木々の揺れる音を聞く。その一瞬に心の静けさを感じられる。そんな時もあるということなんですよね。
臨済集の善はまさにその瞬間を大切にする。感じることがそのまま修行になる。それが臨済集の道中の精ということですよね。
外を見て気づくことは、実は自分の内側に気づくこととも言えると思います。
外の世界は心を映す鏡。だからこそ、美しいものを見て心が静まる時、それが既に悟りの入り口ということなんですよね。
ということで、今日のお話はここで終わりたいと思います。
次回、次回というか明日ですね。明日は相当種、私の所属している手話の相当種、内を見る善、そういったことについてお話をしたいと思います。
では、明日もお楽しみに。
というわけで、連常院の副住宿講文でした。ではまたね。
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