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【禅と悟り 第2夜】曹洞宗の「内を見る禅」と只管打坐の心
12月8日の成道会(お釈迦様が悟りを開いた日)に向けた「禅と悟り」シリーズ、第2夜をお届けします。
昨日の「外を見る禅(臨済宗)」に続き、今回は曹洞宗の「内を見る禅」についてのお話です。
曹洞宗の禅を表す言葉「只管打坐(しかんたざ)」。
「ただひたすら座る」というシンプルで奥深い教えには、結果を求めず、今の自分をそのまま受け入れる姿勢があります。
道元禅師が説いた「修証一等(しゅしょういっとう)」の精神や、日常生活すべてを修行と捉える心の持ち方について紐解きます。
【今回のお話し】
只管打坐の真意:何かを得ようとせず、手放すように座る
雑念との向き合い方:無理に消さず、一歩引いて見守る
道元禅師の教え:修行と悟りは本来一つ(修証一等)
日常の禅:食事や掃除、人の話を聞くことも修行
小さな提案: 寝る前の1分間、自分を見つめる時間
【シリーズ】
第1夜:臨済宗「外を見る禅」
第2夜:曹洞宗「内を見る禅」← 今ココ
第3夜:お釈迦様の悟り(明日放送)
#仏教 #禅 #曹洞宗 #坐禅 #マインドフルネス #只管打坐 #道元禅師 #成道会 #悟り #お寺 #精神統一 #メンタルヘルス
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https://stand.fm/channels/5f5a393ff04555115dcb4f8e
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【禅と悟り 第2夜】曹洞宗の「内を見る禅」と只管打坐の心
12月8日の成道会(お釈迦様が悟りを開いた日)に向けた「禅と悟り」シリーズ、第2夜をお届けします。
昨日の「外を見る禅(臨済宗)」に続き、今回は曹洞宗の「内を見る禅」についてのお話です。
曹洞宗の禅を表す言葉「只管打坐(しかんたざ)」。
「ただひたすら座る」というシンプルで奥深い教えには、結果を求めず、今の自分をそのまま受け入れる姿勢があります。
道元禅師が説いた「修証一等(しゅしょういっとう)」の精神や、日常生活すべてを修行と捉える心の持ち方について紐解きます。
【今回のお話し】
只管打坐の真意:何かを得ようとせず、手放すように座る
雑念との向き合い方:無理に消さず、一歩引いて見守る
道元禅師の教え:修行と悟りは本来一つ(修証一等)
日常の禅:食事や掃除、人の話を聞くことも修行
小さな提案: 寝る前の1分間、自分を見つめる時間
【シリーズ】
第1夜:臨済宗「外を見る禅」
第2夜:曹洞宗「内を見る禅」← 今ココ
第3夜:お釈迦様の悟り(明日放送)
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サマリー
このエピソードでは、曹洞宗の「内を見る禅」と只管打坐について語られ、悟りを求めない生き方の重要性が強調されています。特に、修行におけるその瞬間瞬間の大切さと、自分自身をそのまま受け入れる姿勢が解説されています。
禅のシリーズ紹介
どうも、コウブンです。
栃木県の片田川にある蓮城院というお寺で、福住職をしております。
今日は、昨日の続きをお送りしたいと思います。
現在お送りしているのは、【禅と悟り】というシリーズをお送りしております。
全部で3回の構成ということで、今日は第2回目、第2夜ということですね。
なぜそういうことをやっているのかと言いますと、
明日12月8日というのは、仏教にとってとても大切な日なんですね。
それは浄土会という、お釈迦様がお悟りを開いた日ということで、
この悟りについてのお話をしようかなという企画でございます。
その悟りのお話をするにあたって、私の所属している宗派・僧道宗、
そしてそれに近しい宗派・臨済宗、その禅の部分というのと悟りの部分というのを、
流れで紹介していけたらなというところで、全3回でお送りしているというわけでございます。
悟りに至るための座禅
昨日は第1夜、第1回目は、臨済宗の禅ということでございました。
臨済宗の禅というのは、外を見る禅というところですね。
大本山県仁寺というお寺がありますが、そこの中の僧流図、あとは庭園、
その美しさの中に道中の精、動きの中に静けさを見出していく禅の世界。
外側の世界をきっかけに自分の心に気がついていく、そんなお話でした。
今日はその流れを受け継いで、僧道宗の内を見る禅についてのお話をしたいというふうに思っております。
僧道宗の禅というものを一言で表すと、四感多様。これはよく出てくる言葉ですよね。
この字をちょっと解説しますと、ただひたすら座る。そういう言葉なんです。
とってもシンプルな言葉なんですよね。
でもこのただ座るというのは、実はとっても難しい、奥深いんです。
私たちはつい座禅をすれば心がすっきりするとか、悟りに近づけるとか、
どこかでそういう結果、そういったご利益、ご利益かな、そういったものを求めたくなってしまいます。
ところが僧道宗では、悟りのために座るというわけではなくて、
座っていることそのもの、それがすでに悟りである、悟りの現れである、そういうふうに考えるんですよね。
何かを得ようとして座るというんじゃなくて、何かを手放していくように座る。
目的とか、期待、こうなりたい、そういう思いというものを少しずつ横に置いていくような、そんな座り方。
これが僧道宗の禅なんですよね。
座禅をしていると、ついついいろんな思いや感情というものが湧いてくるんですよね。
今日はあれをやらなきゃとか、さっきのあの一言失敗したなとかね、
時にはどうでもいいような昔の記憶まで出てきたりするんです。
ここで大事なのは、それを無理やり消そうとしないということなんです。
雑念をなくさなきゃというふうに力むんではなくて、今自分はこんなことを考えているなというような、
ちょっと一歩引いたところから優しく見守ってあげる、そういう感覚なんですよね。
追いかけない、拒まない、ただああそうかと気づいてまた呼吸に返ってくる。
この繰り返しというものは、僧道宗の内を見る禅というところなんですよね。
内面をコントロールしようとするというのではなくて、内面に起きていることをそのまま認めてあげる。
その中で少しずつ心が静まっていくということなんです。
日常と禅の関係
僧道宗の大本山をお開きになった道元禅師。
少しだけ話が逸れますが、道元禅師というとても偉いお嬢さんがいるんですけれども、
この方を紹介する際によく使われる言葉、僧道宗の階層、そういうふうによく紹介されがちなんですけれども、実はそうではないんです。
私たち僧道宗の僧侶にとって、ここは間違えてはいけないところなんですが、
道元禅師は僧道宗というものを引き継いだとか、僧道宗の禅だなんていうことは一言も言っていないということなんです。
なので、道元禅師を紹介する際は、僧道宗の大本山、永平寺を開いたお嬢さんとして紹介するんですね。
なぜそんな細かいところを気にするのかというと、その微妙なニュアンスが、もしかしたら道元禅師という方が思想の部分、根底の部分を大きく一段する可能性があるからなんですよね。
なので、私も僧道宗の僧侶ですので、道元禅師は僧道宗を開いたんじゃなくて、永平寺を開いたと、ここだけちゃんと位置したいと思います。
ちょっとすみません、打足でした。
ともかく、大本山永平寺を開いた道元禅師という方がおっしゃった言葉の一つに、
首相一等という言葉があるんですね。首相一等。
これは、最初の首は修行の首です。
そして、次の言葉、首相の将は、これは悟りという意味です。
首相一等なんで、一つの等しいと書くので、本来一つである。
そういう意味なんですね。修行と悟りは本来一つである。
私たちはつい、今は修行中で、いつか悟りに到達する。
そういうイメージを持ちがちなんですけれども、でも道元禅師はそうではなくて、
座っている今この瞬間、この姿こそがそのまま仏の働きだ、というんですよね。
完璧になってから仏になるというのではなくて、不完全なままの自分が座っている、
その姿の中に既に仏の命が見つかっている、息づいているということなんですよね。
だからこそ、悟りを目指して頑張る。
悟りを目指して頑張るというよりも、今この一息、この一座をただ大事に生きるという方向が
修行の軸に変わっていくということなんですよね。
いやいや、座禅なんてそんな時間取れませんよ、という方もいらっしゃるかもしれません。
でも、曹洞宗の禅の面白いところは、座禅のときだけが修行ではないという点なんです。
食事をするときに食べることに向き合う。掃除をするときは掃除に集中する。
人の話を聞くときは耳と心をそこに置く。
丸字タスクをやめて今やっているこの一つのことに、ただ丁寧に関わってみる。
それもまた日常の中の至観多多というふうに言えるのかなと思います。
先日、京都の皇床寺というお寺を訪ねてみたんです。
この皇床寺というお寺は、道元禅師ゆかりのお寺ということもあって、
お寺の醸し出す空気、そこに至観多多の心を感じました。
華やかさというのではなくて、ただそこにある静けさ。
語り立てるのではなくて、余計なものを削ぎ落とした静かな空間。
曹洞宗の禅というものは、こういう静けさの中で育ってきたんだなという、
そういったことを一人しみじみ感じたんです。
これまでお話をしてきた至観多多、そして首相一等という言葉は、
一見難しすぎるように感じるかもしれません。
でもその根っこにあるのは、今ここにいる自分をそのまま受けためてみる、
という非常にシンプルな姿勢なんですよね。
できている自分も、できていない自分も、優しい自分も、イライラしている自分も、
それをこんな自分じゃダメだと嘆く前に、一度そのまま見つめてあげる。
そこから静けさというものが始まる。
曹洞宗の禅というものは、そう教えてくれているような、
そんなふうに言われています。
最後にこれを聞いている皆さんには、ちょっと小さな提案をしてみたいと思います。
もしよかったら、今日寝る前にほんの1、2分だけでいいので、
スマホを置いて、静かに椅子とかあるいは座布団、
そういったものに腰掛けて寝てみてください。
雑念を消そうとか、無になろうとか、そんなことは思わなくても大丈夫です。
ただ、今自分はこんなことを考えているなとか、
今日はこんな一日になったなとか、
少し離れた場所から自分を眺めるように、
自分の中で何を考えているのか、
自分の中で何を考えているのか、
自分の中で何を考えているのか、
離れた場所から自分を眺めるように、自分の心を見つめてみる。
それだけでも立派な内を見る善の一歩かなというふうに思うんです。
さて、明日の第3夜、いよいよ浄土へ。
当日というものは、お釈迦様の悟りそのものについてのお話となります。
縁起とか中道といった仏教のキーワードを、
難しい王教のお話とかではなくて、
皆さんの生活、毎日の生活につながるような形で
優しくお届けできればなというふうに思っております。
どうぞ明日もお付き合いいただければと思います。
では、今日はここまででしたいと思います。
ここまでお静聴いただきありがとうございました。
明日もどうぞよろしくお願いいたします。
蓮城院の副住職、幸文でした。
ではでは、またね。
11:51
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