日航機墜落事故の記憶
日航機大阪山墜落事故から、今年で40年を迎える。遺族の方々の集まりである8・12連絡会が編集した冊子、茜雲がこの節目に発刊されたというニュースに触れた。
これまでも何度か同様の冊子や書籍が発行されてきたことは記憶しているが、実際に手に取る機会はなかった。
あれから40年経つが、事故を直接経験していない私にとっても、この出来事は決して遠いものではない。
客室乗務員として空を飛んでいた年月、そして身近な人々との繋がりを通じて、常に心のどこかに残っていた。
これまで遺族の声に触れることはなかったが、40年目の節目に初めて手に取った、茜雲。
ページをめくりながら胸に巨大する思いを綴ってみたい。
私は20代から30代前半まで客室乗務員として飛び続けていた。
現在50代、幸いにも大きなアクシデントに遭遇することなく空から降りることができた。
思い返すと不思議なのだが、現役当時、同僚や先輩とこの日光機事故について語り合った記憶はほとんどない。
年に一度、安全訓練のようなものはあったものの、具体的に日光機墜落事故を題材にした授業やシミュレーションは行われていなかった。
もちろん、陸に墜落した場合、海に着水した場合を想定した訓練は実施されていた。
何よりも大事なのは、安全だと体に叩き込む訓練も受けてきた。
しかし、教会や先輩からもその事故について何か思うところを聞いたことはなかった。
私の日光機墜落事故、そして航空業界との関わりは次の通りだ。
中学、高校、大学と同じ学び屋で過ごした同級生、M子ちゃんのおじさん、お父さんの弟さんだと記憶が123便に登場していてお亡くなりになった。
そのお亡くなりになったおじさんと私のおばが高校の同級生だった。
私の夫の母が、4人の生存者のうちの1人の川上恵子さん、当時の氏名のままが島根県松井市で入院していた病院に当時勤めていた。
私自身、航空業界に約8年身を置いていた。
私のいとこ、前述のおばの息子が現在、航空管制官として勤務している。
私の高校の時の部活の先輩が今もJALの現役パイロットだ。
このような立ち位置である。こうして振り返ると、私は一般の人よりも日航機墜落事故に近い位置にいたのではないかと思う。
それにも関わらず、私はこれまで123便のご遺族の方々の生の声に触れることがなかった。
これまで事故関連の書籍は何冊か読んできた。
それらを通じても、この事故の真相は未だ霧に包まれており、近年も新たな推測がなされている。
改めてこの事故を風化させてはならないとの思いを強くする一方で、私は空を降りた一人の主婦に過ぎない。
得られる情報も限られ、その真偽を分析する力も持ち合わせていない。
幸い、現在はYouTubeなどを通じて40年目の新たな真実を検証する動画に触れる機会も多い。
私なりに思うところもある。大いにある。
当時の政府の闇も感じることもある。それは確実に日本の現状にも繋がっているはずだ。
しかし、あれこれ語る前に、これまで正面から向き合ってこなかったご遺族の気持ちに触れてみようと思い、この書籍を手に取った。
遺族の声とその思い
ご遺族の悲しみや怒りがどのようなものであるのか、すべてを理解することはできないだろう。
けれど一人一人の言葉に耳を傾け、それを受け止めた上で、私なりになぜあの事故が起きてしまったかを考えてみたい。
本当は身近にいたご遺族の関係者。
それはえむこちゃんだ。
この事故でおじさんを亡くしたえむこちゃんに最初に出会ったのは、事故から1年も過ぎていなかった中学1年生の時。
そのえむこちゃんとの出会いから3年後、高校1年生の時に事件は起きた。
入学してすぐの授業で、それぞれの将来の夢について発表する時間があった。
私は将来、スチュワーデスになりたいと話したその直後だった。
普段はいつも穏やかなえむこちゃんが突然私の机に近づいてきた。
スチュワーデスになりたいなんておかしい。私のおじさんはあの事故で死んだんだよ。
その時初めてえむこちゃんのおじさんのことを知った。
思いがけない言葉に私は息を呑んだ。
そしてどう答えていいかわからないままやっとのことで口にした。
そうだったんだ。でも私の夢は変わらないと思う。
そのやりとりがどんな表情でかわされたのか今はもう思い出せない。
けれどそうだったんだ。の先、もっと彼女の気持ちを聞き受け止めてから答えるべきだった。
時間を置いてえむこちゃんに改めて伝えるべきだった。
今となってはそう思う。
そんな私に対してもえむこちゃんは変わらず仲良くしてくれた。
3年間クラスも同じだった。縁あって大学も同じだった。
そして私が夢を叶えた大学4年生の頃。
えむこちゃんに私はどう伝えただろうか。伝えたのだろうか。恥ずかしながらその記憶は残っていない。
共通の友達も多かったからどこからか伝えきいたかもしれない。
えむこちゃんはそんな私をどんな風に感じていただろうか。
事故でおじを亡くしたえむこちゃん。そのお父さん、つまり弟を失った父親の姿を彼女は近くで見ていた。
そんな失意の中にある力を落としたであろうお父さん。
そして父を亡くしたいとこたちも傍らにいたかもしれない。
何年経っても悲しみが消えるものではない。今回この書籍を手にして改めてそう思う。
今年発行された冊子は40年目の冊子だ。
けれど私はまず20年目に刊行された本から読み進めることにした。
事故から20年を経て寄せられた手記。
その家族も今ではいくつになるのだろうと考える。
一つ一つ読み進めると20年の月日の無念さ、残酷さを感じる。
今はそれからさらに20年が経っているのだ。
事故当時40歳の息子を亡くした親御さんなどは事故当時おそらく60代。
今ご存命であれば100歳を超えていることになる。
事故の真相解明を願いながらその思いを抱えたまま行かれた方も多くおられると推測する。
天国で愛する人と再会できたであろうか。そんなことを思わずにはいられない。
20年目の本を読み終えたら40年目の冊子を読みたいと思う。
20年から40年へ、その月日がご遺族にとって慰めになっているのだろうか。
その月日がご遺族にとってどのような意味を持つのか私には計り知れない。
けれど空を飛んだ者の一人として、そして事故と少なからずつながりを持つ者として、
ご遺族の言葉に耳を傾け、その思いを受け止めながらこの事故を心に刻み続けていきたい。