1. 心の砂地#
  2. 第70回『聖なるズー』を読んで
2024-04-17 43:38

第70回『聖なるズー』を読んで

spotify apple_podcasts

濱野 ちひろ『聖なるズー』についての特集回です。

本作は犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」を中心に書かれたノンフィクション作品。

「愛とは?」

それぞれの動物への距離感、家族、パートナーシップ、性愛、恋愛、関係をコントロールすること、ずっといる赤ちゃんとしてのペット、自由意志、セクシュアリティのゆらぎ、性的同意……本作を読んでそれぞれ受け取ったものについて、考えながらお話しています。


・濱野 ちひろ『聖なるズー』(集英社:19、文庫:21)

https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-781683-9


第70回のnoteは⁠⁠⁠こちら!⁠⁠⁠

https://note.com/lnt91/n/n63cade3406f0


《#kokosuna掲示板》 「三十日間の新聞」 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://note.com/lnt91/n/nc592a8854262⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ 『心の砂地#』も参加しました! (2024年4月13日収録)

ーーーーーーーーーーーーーーーー

番組アカウント:⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/kokosuna⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

感想など、投稿していただける場合のハッシュタグは#kokosuna でお願いします! ここすなリンク集→ ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://lit.link/kokosuna⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

番組感想、お便りは kokoronosuna@gmail.com  

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠もしくは以下のフォームまで!⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://forms.gle/9npfECP8TPzag1jF7⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

artwork:⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠セキヤ@sekiyanabemotsu⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

op theme:⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠@k5_y4⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

ーーーーーーーーーーーーーーーー

00:00
今回は、『聖なるズー』という本を特集させていただきます。 こちらの本っていうのは、端的に言うと、動物性愛者の方々を取材してまとめた、というような本になっているんですけれども、
著者の濱野ちひろさんという方は、動物性愛の当事者ではないんですけれども、 セクシュアリティの研究をしている中で、そういう動物性愛っていうものを研究している中で、ドイツの方に行って、
当事者の方々を取材しているんですけど、今回この本を選んだ理由として、 僕自身も動物性愛の当事者ではないんですけれども、普段人間同士の恋愛っていうものをずっとしていて、そういうものを経験してきた中で、
人間以外の生き物と恋愛をしている人たちっていうのを見た時に、実はこう、人間同士の恋愛だと勝手にこういうルールがあるなぁとか、
こういう視点しか見てなかったなぁっていうものばっかりを、やっぱり世の中に溢れているので、ちょっと別の視点から見るっていうのとして、とてもいいんじゃないかなっていうことで。
そうね。この本自体が、はじめの方に濱野さんの自分の話があって、
っていうので、結構人間の恋愛とか性愛とかセクシュアリティとか、いろんなものに関して帰ってくる本でもあると思うし、
大きく、それこそ愛みたいなもんって何なんだろうみたいなことの話みたいなのも浮かび上がってくるところがあるから、
この動物性愛のことを主にフィールドワークとして扱ったノンフィクションと言われると、すごいセンセーショナルなイメージがあるかもしれないんですけど、
濱野さんの文章の力もあって、スッと入ってくる話なんじゃないかなとは思ったかな、僕的には。
そうですね。動物性愛に関する本っていうのが少ないっていうのもあるから、知識を身につけるっていうのも当然重要なんですけど、
恋愛とか愛、性愛そのものについての疑問を持っている人とかも、とてもこういうアドバイス的な本になるんじゃないかなと思うので。
そりゃ本当そうね。
だからそういう人たちにこそできれば読んでほしいなっていう本なんですけど、メインのパートで動物とのね、そういう性愛に関する話をたくさんしていくんですけど、
まあやっぱその動物との距離感というのは結構人によって全然違うと思うんですよね。
そうね。
僕自身は哺乳類を飼った経験っていうのが一切なくてですね。
あんま言わんけどね、哺乳類を飼った経験て。
もうでかいなーってなっちゃうから。いわゆる犬とか猫とかっていうことよね。
そうそうそう。具体的に言うとアレルギーなんでね、犬とか猫とかハムスターとかっていうのをちょっと飼うことができなくて。
でまあ僕が飼ったことあるのは、カメとかカエルとか爬虫類、両生類とか昆虫とか魚類っていうものしか飼ったことがないんですね。
で、いとこが一応ミニチュアフィニッシャーっていう小型犬を飼っていたりしたので、犬を飼っている人っていうのは身近には見たことがあるんですけど、僕自身はちょっと経験がないっていうような感じですね。
03:10
生活の中にそういう犬とか猫とか動物がいたことはないってことね。
そうそう。僕が生き物を飼った中で印象的に残ってることが一個あって、僕兵庫県の方に住んでたんですけど、兵庫県の北の方にいて、アマガエルとツチガエルを捕まえてきて家で飼ってたんですね。
でカエルっていうのは結構目の前でチラチラ動いてるものしか食べてくれないんで、例えばちりめんじゃこみたいなのを放ったところで食べてくれないんですよ。
なので毎朝起きて、アリとかダンゴムシとかちょっとそこら辺で捕まえられる虫だけを取ってきてずっと与えていて、夏の終わりぐらいに戻って逃がしに行ったんですけど、やっぱり栄養のあるものをあげられてなかったんで、僕がアマガエルを逃がしたら、周りにいた野生のアマガエルたちと全然体型が変わっちゃってたんですよ。
僕の飼ってたアマガエルはすごく痩せ細っていて、元気がなくなっちゃってて、人間が飼うことのエゴというか、全ての生き物を、全てのペットがそうではないと思うんですけど、やっぱりこのなんか可愛いから連れて帰ろうみたいなことっていうのは安易にしちゃいけないなっていうのをその時にめちゃくちゃ感じて。
なんかそれ以来、虫とか魚とかも基本的には飼うことがなくなってしまったんですよ。
うん、ちょっとショッキングなところもあっただろうしっていうとこか。
そうですね、やっぱなんかここに責任っていうものを初めて感じて。
まあね、動物飼ったりとかでそういうことを感じるっていう話はいろいろあるかな。
シャークさんは?
僕はね、犬を飼ってましたね。小学校2年ぐらいの時に来てたかな。小型犬がいて、家の中で飼ってて。
大学の時に実家を出るんで、それまでほんとずっといたって感じで。
で、まあ何年か前に亡くなっちゃったんだけど、結構犬が家庭の中で入ってきたことによって家族間のバランスが変わったというか、すごい良くなったっていうのもあったし。
めっちゃ感謝はしてるっていうか、ほんとに。そのことでバランスが保たれてるところもすごいあったなっていうので。
だったし、僕自身もすごい犬にも愛好心というか、なんかそういうの感じてたんで。
犬と生活した日々っていうのが10代の時にあってっていう感じかな。
でも結構この本に出てくることを全く同じことをすごい思ってて、言ったらずっと赤ちゃんがいるっていう状態。
人間の赤ちゃんみたいなものがずっといるっていうことが、多分僕の両親にとってはすごく自分たちが安定する要因になってたっていうことだったと思うのね。
なんかそこは、一人間、一家族の一員としてはそれで良くなった風な生活があったからいいなと思うし、犬にもありがたい感謝をしてる部分もあったけど、
06:07
半分ずっと赤ちゃんみたいなものを可愛がるっていうことへの居心地の悪さみたいなのは、僕がちょっとそこに距離があった分、十分に僕とか世話とかやってないからさ。
散歩行ったりとか、たまにご飯あげたりとかしかしてないから、そこに距離があった分、両親たちに対してずっと赤ちゃんをめでる感覚みたいなのの違和感みたいなのはずっとあったことは確か。
そこはやっぱり人間と決定的に異なる部分ですよね。対等な方向に永遠に近づくことはない感じ。
ペット、愛玩動物っていう言葉がありますけども、本当にそういう感覚だった。
家族のストレスをすごく緩和している存在だったっていうことと、そこは僕の頭の中にはたまに思うことあったけど、この本読みながら、なんかそういう話が出てくるんだけど途中で。
それは本当にすごくよく分かるなみたいなのがあったりしたかな。
なるほどね。
家族との関係性が出来上がるみたいな。
やっぱりそこは、よりこの『聖なるズー』を読む中で、あるんだよなっていうのを感じるところがあるんだろうなっていう想像がつきますね。
そうだね。
なるほど。
本編に移る前になんですけど、動物と人間の性行為に関する話であったりとか、もしかしたら性暴力に関する話をするかもしれないので、そういった話聞きたくないよっていう人は聞くのはここまでにしていただいたらいいかなと思います。
この番組、心の砂地は、様々な文化や日常の築きをヒントに考え続けることで、言葉の記憶装置を目指す教養バラエティ番組です。
私は寺田です。
シャークくんです。よろしくお願いします。
ということで、本日も始まります。心の砂地。
はい、というわけで、まず、著者の方の紹介からしたいんですけれども、
濱野ちひろさんという方で、
09:18
書籍としてはこれが一冊目になりますね。
ライターさんであって、修士論文が元になってるんだよね、この本は。
そうですね。院に入り直して、そっちで書いたものがおもとになっていて、それに肉付けしたものがこちらの本になってるということですね。
動物性愛者という言葉を結構使っているんですけれども、この本の中では、そういった人たちのことをズーという風に呼んでいて、これはその動物性愛者っていう英語でいうとズーファイルっていうのを略してズーという風に言っていて、当事者たちもズーっていう風に自称しているケースが多いみたいなんですけど。
ズーっていうものの定義っていうのが多分具体的には決まってはいないんですけど、
この濱野ちひろさんがインタビューの中で仰っているのをちょっとそのまま引用したいんですけど、
《他になく簡潔にお伝えするのが難しいのですが、動物性愛とは動物を心から愛していて、時には人間よりも信頼感、愛情感を強く持ち、性的にも欲望することです。
動物たちをパートナーとしてセックスしたり、愛情を持って生活をしている人々を総称してズーと呼ばれます。》っていう風に仰っていて、恋愛っていうものを動物と対等に育んでいっている人たちっていうイメージなのかなという。
そうですね。なかなかこれだけ聞くとどうなんかな、ちょっと想像がしにくいのかなっていうふうには、その辺の人間の想像力と実際にそういう人たちがいてどういう考えで、それぞれ違ったりするんだけどね、ズーっていう人たちに。
っていうのを浮かび上がらせながら書いていく本なんで、今これだけ聞くと多分、もしかするとえっっていう感じのリアクションが多いのかなっていうふうには想像してるんですが。
そうですね。どうしても先行するイメージとかっていうのがあるかなと思っていて、この本の中でも著者の濱野ちひろさんがそういったものを研究してるっていう話をしたときに、どうしても僕自身もそうなんですけれども、
獣姦っていう動物との性行為、またはそういう動物を使って自分の性的な欲求を一方的に満たす行為っていうもののイメージがどうしてもちょっと先行してしまうなっていうのがあると思うんですよ。
僕自身、僕ら世代としての話をしたいんですけど、結構僕の中でなんでそういうイメージが先行するんかなっていうのを考えたときに、
やっぱりインターネット上とかでオカルトっぽいものを特集してる記事とか、そういう特殊なものを面白おかしく扱うようなニュースサイトみたいなので、そういう動物との性行為の画像とか動画みたいなものを見たっていう経験がかなり大きいのかなっていうふうに。
12:12
俺あんま見たことなくって、そういうネットミーム的にそういうものが流れてるっていうのは。
多分そんなオープンにはいっぱいはなかったと思うんですけど、僕の見ていたものの質の悪さみたいなものは多分あると思うんですけどね。
イメージ、海外文脈のgif動画であったり、ショート動画みたいなもんでミームとして回ってんのかなみたいな感じ?
そうです。主に海外のそういう変なニュースみたいな中に混じってるっていうイメージが強かったですね、僕の中では。
ニュースでそういうやつはあるね。だからそれこそ2chとかに転載されて、それがまとめサイトで上がって、そのまとめサイトを見てるみたいな感じの中ではあったかな。
これ結構僕だけなのかもしれないですけど、アメリカンジョーク的なものでも多いなっていうイメージが僕の中ではあって。
ヤギとそういうことをしたとか、鶏とか。アメリカンジョークでやたらそういう行為が出てくるなっていうのがイメージがあったんで。
僕がパッと浮かぶので言うと、今Netflixのオリジナルのイヤミスみたいなものをどんどんショート短編でやってる『ブラック・ミラー』っていうドラマシリーズがあるけど、
それのシーズン1第1話がテロみたいなんで、その豚と性行為をしてる動画を全世界に配信しろっていうとこから始まる。
なるほどね、そっか。
っていうのがあったと思うけど、そういうイメージだよね。
たぶんジョークみたいなものを本当にやれって言ってる嫌な感じのミステリーというかっていう感じで使ってるから、そういう感じかな。
日本で言うと漫画の影響も多少あるのかなと思っていて、直近のところで言うとゴールデンカムイはかなりネットミーム化もされてしまっているし。
非常に良くないですね、あれはね。
そうですね。ゴールデンカムイ自体いい作品ではあると思うんですけど、随所にちょっとこれどうなんやろうなっていう描写があるのは事実かなと。
面白くないしな、あの辺も。ギャグとしてセンスがないなと思ってしまうことが多いかな、僕的には。
そうなんですよね。コメディとして扱われている要因が強いんじゃないかなと思ってるんですけど。
あれよりマイノリティに関して思うことなんですけど、社会がそれを正しく理解しているっていう前提がない状態でコメディとして扱うのはちょっとよろしくないかなと。
まあそうね、いじっていいもんだっていう、ちょっと踏み越えたジョークだ、ギャグだって思えてしまう距離感っていうことだからね。
15:04
ゲイとかの人に対するブラックジョークとかそういうものとかと同じ距離感なんだろうなっていうふうに思っている。
そこにそういう当事者がいるとか、そういう想像力が全くないからギャグにしちゃえるっていうことなんだよな。
そうですね。あと僕が思うのは、異性愛者の性行為っていうものを茶化したところで、僕らっていうのはある程度教育、保健体育とかで教育もされたりとか、
日常の中で偏見を持たないだけの経験っていうものを知識を得ている状態じゃないですか。
なんですけど、動物性愛に関しては知識も教育もされてない状態なんで、そういった人たちに一番最初に入る情報がコメディっていうのはまずいんじゃないかなと思っているので。
なので、動物性愛をコメディにすること自体は間違いではないというか、そんな絶対禁止すべきことではないんですけど、
その前に正しい教育が施されてから、例えば動物性愛のコメディみたいなのが出てきたとしても、みんなが勘違いをしないぐらい理解がある世界になったらいいよねって。
まあまあまあ、難しいよな。茶化すっていうこと自体の話でもなってくるから、どこまでどうなんかっていうところは難しいけれども、言ってることはわかりますよ。
さっき言ったように、僕らの中に動物性愛っていうもののイメージが先行して入ってくるのが、正しい知識や教育ではなくて、面白としてしか入ってきてないっていう状態?
その辺は、動物性愛者のビデオとかを面白おかしくいじって、ネットミームとかにして楽しんでるみたいなこともすごくあったわけじゃないですか、この日本ではね。
まあだからその辺のことと一緒って感じかな。そういうものが先に面白いもんだと思って、10代とかに入っちゃうと、おかしいとこから始まっちゃうからさ。
まずはその大きな差別から乗り越えるところから始めないといけないっていうところになるので。
そうね、スタート地点がね、間違っちゃってるからね。そうなんですよね。
動物との性行為に関する話を最初にしたんですけど、当然この聖なる図の中ではそういう性行為以外、動物との恋愛とかに対する部分っていうのもかなり丁寧に取材をされていて。
その中でパーソナリティっていう言葉がかなり何回も出てくるんですよね。ミヒャエルっていう犬をパートナーにしている男性がよく使ってるんですけれども、
このパーソナリティっていう言葉、個性みたいな意味なんかなっていうところがやっぱあると思うんですけど、この本の中では相互関係の中で生まれ、発見され、楽しまれ、味わわれ、理解されるものっていう風なことを言っていて。
また別の場所ではコミュニケーションを取れることとも定義されてるんですけど、これに関しては人間と全然変わらない部分でもあるなっていう風に。
ちょっと今補足しとくと、このパーソナリティってのは動物のパーソナリティっていう話ね。今の流れで言うとちょっと追いつかない人がいたかもしれないけど、動物自体の意思とかそういうところの話の流れで出てくるっていう感じですね。
18:15
これどういう性格やなとか、僕がこうしてるからこうしてるなみたいな、そういう相互関係みたいなのが生まれたら、恋愛的なものに発展しても全然おかしくないなっていうことを思ったんですよね。
シャークさんがおっしゃってたみたいに、さっき犬を飼ってた時っていうのは家族の中での関係性みたいなのができたっていう話をしてたと思うんですけど、そういうもの、自分が相手の関係性の中に組み込まれているっていうことっていうのって、恋愛のかなり第一条件というか。
だからこの本に出てくるのも、やっぱり犬と馬がすごくパートナーとして選ばれることが多いっていうのが、いろんな要因があるんだけど、コミュニケーションとしての動きをしてくれるパーソナリティが見えやすい動物っていうのがそのあたりの種の生き物なのかなっていうところが出てきたりとかしていて、そういう意味ではわかりやすいかなと。
そうですね。なんかこの感覚っていうのは、僕の中ではやっぱりまだペットに対してはなかった部分だったんで、これが出てきた時に、ああなるほどねというか、まあ確かに全然、そっか、恋愛にじゃあなるなーっていうことを僕も思いました。
そうね。やっぱ、まあ多分ここは多くの人がわりと認識が持てるかな。特に動物と触れ合った、一緒に生活をした経験がある。それも複数の数のものと触れ合った人にはすごい実感としてあるかなと思うのは、やっぱり動物にももちろん人間と同じように性格とかがあるよねっていうのは、意外と抜け落ちるとこっていうか。
でも多分飼った人の実感とかとしては全然、それはすごくわかることだと思うんだよね。
そうなんやろうなあ、多分。いやなんか僕の中ではそういうものがわからんかったから、例えば同じ種類の犬5匹を飼った時に、この子はこういう性格で、この子はこういう性格でみたいなのがあるんだなと思ってたんやけど、そういうものと別で、その子として接してても、ああこういう性格なんやなとかこういうふうな見え方してるんやなっていうのが見えてくるっていうのが。
僕はわかってなかったんやな。
そこをいわゆるペットっていう言葉にしろ、犬や猫を飼ってる人と、多くの場合の枠組み、関係性の枠組みみたいなね。ところからすると、そういった自由意志みたいなのは、考える余地が基本的にはないようになってるんだと思うんだよね。
そういうふうに実感がないともちろんそうなるし、飼っていてもそこを認識してどうするかっていうのは、また全然難しいっていうか、ということは全然あるだろうなと思いますね。
この本の中でもちょっとそのあたりは、しつけをどこまでするかみたいな話としても出てくるしね。確かに人間と近いなと思うところではあるんですけど、逆に動物性愛にしかないなと思ったところとして、動物の持ってる習性そのものに魅力を感じてるっていうシーンが何個か出てくるんですけど。
21:19
ちょっと具体的に言うと、ハツカネズミを7匹飼っていて、ネズミをパートナーにしている男性が出てくるんですけど、そのザシャっていう人が、ネズミは大胆で自由で遊び好きで知恵があって、人間を出し抜く、人間を翻弄してしまうところが最高なんだよねっていうふうに言っていて。
この話、さっき言ったパーソナリティっていうよりも、ネズミの持っている習性そのものに対する魅力を語ってるんですよ。やっぱそれって人間の恋愛に関してはほとんどない部分じゃないですか。なぜなら同じ種族なんで。
動物の習性そのものというか、別の種族の習性、生き方そのものにいいよなーって思う感覚って、動物性愛にしかないなーっていうふうに。
自分とは異なるものに対する魅力。こういう言葉でくくっては良くないかもしれないですけど、ロマンチストな感じがするというか。
そこは、ズーの人たちがすごいロマンチックだっていう話はこの本にも結構繰り返し出てきて、結びの部分とかにも繋がってくるのかなっていう感じで、面白い指摘だなと思って読んだんですけど。
そうなんですよね。やっぱりこの性愛っていうものなので軽々しく言うべきじゃないかもしれないですけど、人間同士の恋愛、特に異性愛に関してはロールモデルみたいなのが出来上がっていて、何も考えなければそれっぽい生き方みたいな恋愛性愛の生き方っていうのがあると思うんですけど、
動物との恋愛とかに関してはやっぱりそういうものがないので、そういったところに自分たちの生き方を探し出しているっていうことは、とてもやっぱりロマンチックに感じる部分ではあるなと思うんですけど。ただそういう言葉でくくっていいんかなっていう、良くないかなっていうのはあるんですけど。
この本でも書かれてることなんだけど、結びになる部分でもあるんだけど、その愛を縦にしてるっていう指摘があるんですよね。なんかそこがすごい、このフィールドワークで実際このズーの人たちとライターの濱野さんは一緒にある程度生活をして、その中でいろんな動物とのセックスの話っていうのを聞くっていうやり方でやっていくんですよね。
その中で、ズーの人たちがすごくこの愛っていうのを語ってくれる。その性愛っていうところに関して話の前に、すごくこの関係として結びつきとして愛っていうのがしっかりあるんだっていうことを語ってくれるっていうところが、やっぱりその動物との性行為っていうところの中身の前にそこがあるんだよっていうことを主張しないと、そこが不平等性みたいなのがあるから。
24:07
やっぱりその性の不平等みたいなのがやっぱり種が違うのであるので、なんかそういうところが出てくるっていう話があって、そこのロマンチックさとその愛を縦にするっていうのは、ある種比べるもんじゃないけど、どっちもがあるからこそ成り立つ概念というか。なんかそういう指摘が、なんかこの本のバランス感覚のちょっとドキッとするとこっていうか。
そうですね。あんま一方的に肯定してないというか、いろんな視点で書かれてるなっていうのが本当にいいところだと思うんですけど。
ドイツのゼータっていうところに団体があって、ゼータっていう団体があって、そこの人たちっていうのを取材してるんだけど、そこの人たちが『聖なるズー』って言われてるのは、そういう愛みたいなのをしっかりある中でそういう関係があるよっていうのを主張してるから、そういう『聖なるズー』って言われてるところがあるみたいな話とかもあったりとかしてて。
なんかそこの、言ったらたぶん実際にやっぱり一緒に取材して暮らしてっていう、人間としてその人自体が魅力的なんだ、こういう人なんだよっていうことをちゃんと伝えたいっていう気持ちはめっちゃ来るのよ。読んでてね。
濱野さんがちゃんと伝えたいっていう意思がすごく感じるんだけど、同時に本当にそうなのかっていう。 うーん、そうですね。
うーんっていう部分、そのライターとしての部分。本当にどういうふうなパートナーの関係であるのかっていうところにはすごい迫ってる部分もあって。
そこの葛藤みたいなのが、恋愛であり、愛であり、性行為っていうことであり、セクシャリティっていうことであり、自由意志とかいうことでありの、この複雑性というかね。行動と関係に起きることの複雑性みたいなのをすごく生々しく伝えてるっていうところが。
そこの手を抜かなさみたいなのは感じるところで、そのさっき言ってたゼータっていう団体、このちょっと補足をしたいんですけども、動物と人間の性行為にはアクティブパートとパッシブパートっていうのがあって、アクティブパートっていうのが挿入する側でパッシブパートっていうのが挿入される側なんですけど、
動物性愛者の調査で言うと、アクティブパートの人の方が割合的には多いんですけど、このゼータはパッシブパートの人の方が圧倒的に多いんですよね。
その中にはやっぱりこのパッシブパートの方が動物を虐待していないってやっぱり主張しやすいっていう側面があって、やっぱり入れる、挿入する側の人の方が動物を傷つけやすいっていう可能性があるから、どうしても今回の取材とかでもアクティブパートの人を取材しようとしてもやっぱり断られたっていうケースが多い。
めっちゃ多いし、あんまり深くは本当にパッシブパートの人よりも話してくれないっていう側面があって、なのでやっぱりそのパッシブパートの人らが持ってる潔白さみたいなものも正直あるっていう話があって、そのゼータはパッシブパートの人の方が多いので、ゼータを主には取材してるんですけれども、これがじゃあ動物性愛者の方々のメインであるかっていうと一部でしかないっていうことは。
27:20
ちゃんとしっかりと書かれてるなっていうところが。
そうね。文庫版についてる解説がそこを結構指摘してて、松浦理恵子さんっていう方が解説を書いてるんだけど、結構ズバッと書いてくれてるところがあって、この本で意見が分かれるというところで言うと、犬が誘ってくる、パートナーが誘ってくるっていうことがどこまでどうなんだっていうことを色々指摘して書いてくれてるんだけど、
その辺りがやっぱ、じゃあ自分がどうなのか?セックスって何なんだろう?そういう相手との同意って何なんだろう?みたいなところを考える上での、もやもやしながらも読み進めながら、言葉と自分の考えを整理していくみたいなところの規模なのかなっていうふうには思ってて。
そうね。そこがやっぱりみんな、著者の濱野ちひろさん自身もどういうことなんだろう?っていう疑問を感じてるところではありますよね。動物から誘ってくるっていう。
ただやっぱり動物が言語を介さない以上、そこって永遠に感覚でしかないんだろうなっていう。
人間同士だとじゃあこういう言葉に定めましょうっていうのがあるんだけど、動物はやっぱり言葉がないからそこを、例えば今、性的同意っていうのがすごい話題になってますけども、大事な部分として使われてると思うんですけど、
当然人間同士の性行為であればかなり重要な部分なんですけど、そもそも性的に同意するっていう知能があって、言葉で同意を取りますということっていうのって人間が強いたルールなんで、
それを動物との恋愛にどこまで適合させるのかっていうのは、かなりねじれてるなぁとも思うんですよね。
この言葉があれば性的同意なのかみたいなのっていうのは、実際今そういう性被害なのかどうなのかっていうところで、言葉として同意があったら性的同意ではないだろうっていう話。
言葉だけがあっても状況であるとかで、言わざるを得ない状況でいいですよって言ってしまうことが多いとかいうことっていうのはあるから、言葉だけじゃないよねっていう話も最近の性的同意の話っていうのは結構交わされてて、
じゃあどういうふうに同意していったらいいんだろうねみたいなことは考えながら議論されてるところだと思うんだけど、そもそもっていう話。
それがまさにこの言葉だけでは同意ではないっていう感覚がまさに示しているように、結局同意しているかどうかっていうのは感覚の問題であって、言葉で100の話ではないなっていうところだと思うんですけど。
30:03
動物性愛と小児性愛っていうのが並べて語られることが多い。海外、特にドイツでは多いっていうふうにこの本の中でもあるんですけど、知能っていう部分と言葉っていうので同意が取りにくいっていうところが共通しているからっていうのはあるんですけど、そこはどうしても並べるべきではないんじゃないかなって僕は感じたんですけどね。
ただやっぱそのシャークさんも序盤でおっしゃってましたけど、動物っていうのはやっぱりこの永遠の子供のように感じてしまう。ずっと赤ちゃんみたいな感じで感じてしまう。この本の中でもそういうふうに動物をマイベイビーみたいな感じで形容することが多いっていうのが出てきますけど。
僕がその辺思いながら想像してるのは、実感としてもあるけど、やっぱりその餌をあげたりとか散歩に連れて行ったりとかしつけをしたりみたいなことっていうのは犬に対してだったらあるとして、そういうことをしてあげてるみたいな感覚にやっぱり陥りやすいんだよね。教育をしているんだっていう。
そうしたいからしてるだけのことなんだけども、これは本当に人間の子供とかに対して起きる人も多いけども、育ててやってるし、だから自分のものだみたいな所有欲であったりとか、コントロールしたくなるみたいな欲っていうのが多分人間の中には結構あるんだと思うんだよね。
そういうところと物言わない犬っていうのはすごく相性があまりにも良すぎるんだよね。人間でもそういうすごい抑圧的に育てられてるっていうこともすごく起きるように、全部の行動を親が管理しちゃうみたいなことっていうのがめっちゃあるやんか。
そういうことが特に飼いやすい犬っていうことに関してはすごく起きやすい。だから永遠の赤ちゃんでいてくれるし、私のベイビーみたいな感覚にすごく陥りやすいんだと思うんだよね。実際僕も犬飼ってたけど、両親どちらもそういう感覚がすごくあったなっていうところがあって。
で、僕がありがたいなと思ってたのは、子供にある程度コントロールフリークだったから、僕の両親。まあ親父は教育興味ないからあれだけど、母親とかは。コントロールフリークなところがあって、そこのプレッシャーが犬が来たことによって半減したのよ、子供に対して。
なるほどね。犬の方にそういう欲求が向いた。
そうそう、向いたっていうところが多分あって。僕から見るに、うちが飼ってた犬は幸せそうだったし、お互い幸せに見てたけども、ここの本に書かれてる自由意志でありとかいうところから考えると、そういうふうに縛っちゃうというか、なんかそういうことはあるなっていうのはすごく感じていて。
確かに犬とか猫っていうのは特に人間との生活に密接する形で、ペットショップとかに売られてるからこそ、人間の生活に取り込んだ時にちゃんと幸せになれる形っていうのが確立されてるのかなとは思うんですけどね。そこが確かに。
33:19
(ジングル)
性愛っていう話に戻すと、対等な存在。動物と対等であろうみたいな、パートナーっていう言葉を使うであるっていうことっていうのは、もちろん人間同士でもすごく難しいことであって。特に種が違うとその対等っていうのはめちゃめちゃ保証するのが難しいっていうところはあるし。
なんか僕は結構そういう、そことコントロールというか所有欲というか、パートナーに対して私の誰々、私の何々ちゃん、私の何々君みたいな感じの関係が恋愛だとか性愛だっていうふうに、すごく勘違いしやすい生き物なんだなと思うんだよね、人間というものが。
そこがやっぱその不平等性っていうものを生みやすい根源的な欲求の何かっていうところなんだろうなっていうことすごい思ったんよね。
だからそこは本当にパッシブパートの人が愛っていうものを主張して、実際にそういうパートナー関係を結んでいるだろうなっていうところに関しては、そこをすごく向き合った中で生まれてくる何かだから、そこにある種の自分の潔白さ、自分の関係の自信というか、そういうものがあるから話してくれるし、それが可視化されるとこなんだろうなっていうところなんだろうなっていうふうに思っていて。
そうですね。やっぱり動物がアクティブパートである方が、動物が能動的に勃起をして挿入しているっていう意志が見えやすい形だと思うんですよ。だからこそ、相手の意思を尊重して対等であるっていうのが目に見えてわかりやすいところではあるんかなって思いますね。
やっぱり言葉がないってなったときに、そういう整理的な部分とかで意思を確認するしかないんかなっていう。やっぱり理解を得るためには、そういう明らかに人間にも理解できる明らかな意思を発している場っていうものを全面的に見てもらえる立場の人の方が主張しやすいかなっていうふうに思うね。
でもやっぱりこの、そもそもアクティブパート、パッシブパートっていうものが発生する性行為においては、さあ、能動的な行為に差があるから、対等なんか?対等性をやっぱりめちゃめちゃ重んじてるけど、そもそもの性行為が対等なもんなんか?
そもそもそうだな。
36:02
そこは人間も変わらんし、同じことで人間も今悩んでるから。
浮かび上がってくるところな。そこはめっちゃわかるわ。そもそもね。
もちろん抱えてる問題は違うところはたくさんあるんやけど、行き着くところは、なんとなく今人間も課題にしてる部分なんやな。
そうね。結構この本読んで、『聖なるズー』っていうタイトルであり、動物性愛者のフィールドワークのっていう本だったんだけど、思ったより人間同士で、実際ドイツのエクスプロア・ベルリン、いろんなセックスの形とかをやっていくフェスみたいなのに行ったりとかっていうところとか、結構性愛そのものに向かっていくパートっていうのが間にも挟まるし、
濱野さん自身の話も挟まるしみたいなところで、人間も動物であるしさ、そういうところに向かっていくっていうところがすごい広がりがあって、すごくそういうことを考えたね。
そうですね。そこら辺も結構やっぱり人間同士の話とつながってる部分がしっかり書かれてるし。
ちょっと話逸れるかもしれないですけど、エクスプロ・アベルリンに関しては、人間同士のセックスの話、運動の話なんですけど、性行為、セックスはもっと自由でカジュアルであっていいっていうのは、僕もそれ自体については反対ではないというか、そうであってもいいんじゃないかなと思うんですけど、やっぱり人間同士だとどうしても妊娠するリスクっていうのが伴ってくるんで、
そこをちょっとどう処理してるのかなっていうのが、あんまりちょっとこの本の中では細かくは書かれてなかったところもあって、フェスに集まった人たちで見られ合うようにたくさんの人たちで性行為をするっていうような場があるっていうことが書かれてるんですけど、
やっぱり今、妊娠、避妊を100%する方法ってないので、その辺りがね、ちょっと。
ルールはあるんだろうけど、ゼロではないからな、もちろん。なんかある程度そこら辺は整備ルールとしてされてるんだろうなという想像はできるんだけど、っていうところだな。
そうね、ちょっとその辺りは個人的には気になったんですけど。
これまで話してきたこともあって、やっぱり人間とつながる部分っていうのもあるし、やっぱり動物性愛の方々の考え方との違いみたいなものとか、かなり自分の中にある恋愛とか性愛に関するものが1点しか見てなかったものがより広がって見えた感覚が僕の中では。
この打ち出し方が結構センセーショナル。ちょっと繰り返し言っちゃうんだけど、犬や馬をパートナーとする動物性愛者ズーっていう人たちのお話ですよっていう打ち出しだし、実際そうなんだけどっていうところがあるんで。
なんかセックス、人間同士のセックスとかそういったことを自分のセクシャリティであるとか、恋愛についてだとか考える人はすごい多いと思うけど、そういう人がすぐここの方にたどり着くかっていうと意外とそうじゃないんかなっていう、もっと社会学とかコミュニケーションであるとかいう人が手に取ってるっていう印象ではあるんだけど、恋愛の棚にあっていいと俺は思っていて。
39:23
そうですね、本当にそう思いますね。やっぱり動物性愛者の方への知識を身につけるってことは大前提として、今の恋愛とか性愛に関して疑問とかもやっとしたものを抱えている人が読む方がなんかこうより広がりを得られるんじゃないかなって。
思うし、そういう性の話を聞いてるから具体的な描写とか、実際に言ったらズーっていうゼータに所属してるような人たちの話じゃない、いわゆる重感って言われてるようなことをもうちょっと暴力的にやってる人とかの話も出てきたりとか、そういうところもあるんで。
うっとなるところはあるかもしれないんだけど、なんていうかな、紳士的に描いてくれてる。それこそ多分愛着があるんだろうけど、引き離したような描写をされてるところもあったりとかするバランスがあるので、その辺はすごく僕としては読みやすいんじゃないかなというふうには思っているんで。
やっぱり恋愛の話ってすごくSNS時代、ショート動画時代とかになって、すごく型にはめて、型でどうするかっていう議論がすごく増えちゃってる感覚がすごくするのね。
だからよりこうあるべきみたいな感じになってきちゃってる。
そういう性格診断、MBTIとかブームとかもあって、〇〇の人はこういう行動だからこうじゃない、みたいなさ。やっぱりソリューションされたい、すぐ行動をどうしたらいいか答えられたいみたいな欲望に結構負けてる部分があって、土台について考えたら解決するんじゃない、そんなのっていう。
葉っぱは葉っぱで大事なんやけどさっていうところも思ったりするんで、そういう大きな恋愛愛とは、人間とは、性愛とは、セックスとはみたいなところを考える本として、ぜひ。なんか俺は若いうちに読んでほしいなみたいな感じはするんだけどな。
そうですね。実際やっぱり性的な目覚めっていうのは思春期に多いものだと思うので、そういったタイミング、あとそれいったタイミングよりちょっと遅いぐらいの段階とかで読むのがいいんじゃないかなって感覚はしますけどね。
ちょっと一個あれだ、ズーになることを選んだっていう人が出てくるんですよ。なんかそういうことっていうか、この辺はね、セクシュアリティの揺らぎっていう話って、いろいろこれだけ話がされてるけど、本当に理解が全然追いついてないなみたいな。みんな生まれたらその人はゲイで、生まれたらずっとヘテロでみたいな、思ってる人がすごい多いから。
その辺の揺らぎに関する考えみたいな、そういうのに関してもすごくいいパートがあるんで、その辺とかも読んでちょっとその辺の感覚みたいなのを食らうっていうのもめっちゃいいかなとか思ったりしましたね。
42:02
そうですね、確かに。ここの感覚とによってはこれを若気の至りとして切り捨ててしまうんじゃないかみたいな、っていうところもちゃんと誠実に取材している部分があるので。でもそこを、揺らぎの部分は確かに。
実際、めっちゃあるからさ。周りでもよく聞くし。 あることやし、しかもそれをああ言ってたのにこうやったやんみたいな断罪っていうところも多いよね。ちょっとそこら辺は確かに重要な部分ですね。
はい、ぜひ『聖なるズー』手にとって読んでみてください。
ということで、今回も聞いていただきましてありがとうございました。何度も紹介しますけども濱野ちひろさんの『聖なるズー』。文庫化しておりまして、集英社文庫で買えますんで。僕も新刊で買えたんで、集英社文庫の棚に行けば買えるんじゃないかなと思います。
660円プラス税ということでね。文庫化するとすごい手に取りやすい値段なので、ぜひともと思ってます。それでは皆様ごきげんよう。
43:38

コメント

スクロール