学びの必要性と意思決定
リスナーのみなさん、おはよう、こんにちは、こんばんは、どの時間に聞いてくれても本当に嬉しいです。
あなたの心と頭を1℃温めるラジオのお時間です。
あなたがどんな一日を過ごしていても、ここで少しでもぬくもりを感じてもらえたら嬉しいです。
今回は学習というですね、学びと実践の行動指針についてお話したいなというふうに思っています。
どうですかね、学ぶのが好きな方とか、学びだけだと実践とか成果の方が大事だよっていう方と、
世の中は結構大きく分かれるかなというふうに思っていて、
特に社会人になるとやっぱりその成果を出さないといけないとか、もっと強く言うとその成果を出さないと意味がないとかね、
そういうことを言われることも多いので、
なかなかその気づきとか学びとかそういったものが、場合によってはね、ないがしろというか軽視されちゃってるんじゃないかなって感じるところがあります。
私自身はどう思っているかというと、以前もお話ししたことがあるかもしれませんが、
私は高校1年生から2年生にかけてですね、1年から2年になるときに、
初めてね、自分の大きな意思決定として大学に行かないっていう意思決定をしたんですね。
この意思決定が良かったのか悪かったかっていうのは賛否両論あるかもしれないんですが、
結果的に自分としてはすごい良かったなというふうに思っていて、それは何で良かったのかっていうと、
ある意味学ばないっていうことを意思決定したわけじゃないですか。
社会に出てみて、やっぱり学びが必要だなっていうことを誰から言われるのでもなく心の奥底から思ったんですね。
それはものすごくシンプルな理由なんですけど、
仕事で良い成果をあげたいっていうのは良いアウトプットを出したいっていうことであって、
じゃあその良いアウトプットっていうのは、もちろん良いインプットをより多くした方が良いアウトプットは生まれやすいっていう非常にシンプルな構造に対して、
自分で過去にですね、1回学ぶのはやめてみようと、
とにかく実践なんだと、行動なんだと、学びよりも行動なんだということに1回振り切ってやってみた結果、
やっぱり良いインプットをより多くしていないと、良いアウトプットをより多く出すことが非常に難しいということに自分の中で思い至ったわけなんですね。
で、その時に出会ったというか、知ったことで、学ぶっていうことと学習するっていうことを多くの人は同じことだというふうに捉えていると思うんですけど、
その学習っていう言葉の成り立ちっていうのをしっかり知った時に、そういう意味があったんだっていう大きな気づきがありました。
そこから自分の中で、学習の行動指針というのを明確に持つようになりました。
そのことについて少しシェアできればなというふうに思っています。
まず、学習っていうのは、学ぶっていう字とですね、習うっていう字で、2文字で構成されています。
で、この学ぶっていうものの語源、成り立ちっていうのが、真似るっていうところから来ているっていうのは、わりと知っている人が多いんじゃないかなというふうに思っています。
で、この学ぶっていうのは、真似るだとした時に、例えば人の話を聞いて、あ、そういうふうにやってうまくいったんだなっていうことだったりとか、
なんか本を読んでね、あ、そういうふうにやればいいんだなっていうふうに思う箇所ってあると思うんですよ。
真似ることの重要性
で、その思う箇所を実際に真似してみる、やってみる。
で、この学ぶが真似るっていう定義で見ることの良さっていうのは、じゃあ例えば本で学んだことっていうのが3箇所ありましたと、
じゃあ明日からこの3つを真似してみようっていった時に、数が数えられるようになるんですよね。
3つの新しい学びを実践してみる。じゃあその3つの学びを1週間全てやることができた。
じゃあ平日5日間だったら3×5で15回その真似をね、実践。
で、この数えることができるようになるっていうのはすごくパワフルで、
で、じゃあ例えば、学びましたっていうだけの人と3つのことを学んだんで、これから毎日この3つのことを実践していきますと言って、
1週間、2週間、1年間継続してね、何百回これを真似してやってみたっていう状態って全然違うと思うんですよね。
なので、その学ぶっていうのは真似るっていうふうに、行動指針として、数えられる行動指針として、
また自分が見ても、他人が見ても、この人実践してるな、真似を実践してるかどうかっていうのは、
あたから見ると、こういう行動を真似しますっていうことを宣言してやった場合には、
あたかにこの真似をしてるねっていうことが、自分も多分定義としてわかりやすいのかなというふうに思っています。
なので、学ぶっていうことに関しては真似をするという行動指針を採用しているということですね。
で、次に、習うっていう字なんですけど、この習うっていう字の語源とか成り立ちを知っている人って結構少ないと思うんですけど、
私も知ったときに、あ、そうなんだってすごく思ったんですが、習うっていう字は羽に白って書きますよね。
で、この白っていうのは鳥のひなのことを指すらしいんですね。
で、その上に乗っかっている羽っていうのは、この鳥のひなが羽ばたいて飛べるようになるまで反復継続して羽をパタパタさせる。
これを習うという字なんだそうです。
なので習うっていうのは、つまりトレーニングであって、お稽古ごとであって、反復継続であるということなんですね。
なので、昔、学生時代に小学校とか中学校、中学校はないのかな、小学校の時とかに漢字ドリルとかね、計算ドリルとかやったと思うんですけど、
それに見立てて、習うっていうのは、つまりドリルすることだというふうに自分の中では行動指針として置いています。
で、基本的にさっきの学ぶっていうのは真似ることなんだっていうことで、カウントしてね、数えていって、自分の中に習慣化していけば身につくことにもちろんなるんですけど、
あえてこの習うっていうところをドリルという行動指針にしたのは、社会人になってですね、振り返ってみたら、確かにその学生時代にやっていた計算ドリルとか漢字ドリルとか、
あるいは部活動の練習のトレーニング、筋トレだったりとか、ストレッチだったりとか、走り込みだったりとか、あるいはサッカーとか野球をやっていた人であれば、ボールを曲げるカーブの仕方だったりとか、
そういうふうに置き換えたときに、学生時代に比べて圧倒的にトレーニングをしたりとか、反復継続をしたりとか、そうやって習得していくっていう習慣が自分の中に全然なくなってしまってたなっていうことにすごく大きな危機感を感じたんですよね。
例えば、野球をやっている人が本を読んでね、カーブの投げ方っていうものを学んで、何球か投げてみて、そのやり方を知って投げてみましたと。でも全然曲がらなかったと、ボールがね。
でなったときに、先輩とかにね、先輩と本に書いてある通りに投げてみたんですけど、3球投げてみたんですけど、全然曲がらないんですよと言ったら、おそらく誰しも想像できると思うんですけど、もっと投げ込めよと。もちろんやり方は本で学んだのかもしれないけど、曲がるようになるまでちゃんと何回も何回も投げてみなよと。おそらくアドバイスすると思うんですよ。
じゃあ、それが社会人になった私たちになったときに、本で読んだことだったりとか、気がついたことだったりとか、そういうことを実践したっていうことはもちろんあると思うんですけど、なんか1回か2回か3回実践して、なんかできないなって諦めちゃってることはありませんかね。
私はそういうことが結構あって、じゃあなんでって言ったときに、いや単純にドリルしてないだけだな。そんなに反復しなかったな。なんか恥ずかしさとかがあって、何回かはやってみたけどうまくいかなかった以上。で、自分にはこれはできないんだ。そんな風に通り過ぎてしまってたなっていうのがすごく反省としてあったので、
この学ぶは真似る、習うはドリルっていうことをとにかく実践の学習の行動指針としてちゃんとやっていきたいなというふうに思いました。
ドリルの価値
そういう真似るっていうことだったりとか、ドリルするっていうことを行動指針にしてから、やっぱりその反復継続して何を身につけていくのかっていうことに対してより意識が向くようになったなというふうに思っています。
ぜひ皆さんもインプットとアウトプットの行動指針として参考にしていただいて、皆さんが出したいアウトプット、皆さんが定義しているこんな成果を上げたいなっていうアウトプットをより高い質でより多くアウトプットしていただくためにも、
この真似るっていうこととドリルっていうことを参考にしていただけるといいんじゃないかなというふうに思っています。
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質問やリクエストも大歓迎です。
どんな一言も私にとって温かい勇気づけの贈り物です。
今日もお聞きいただき本当にありがとうございました。
今ここを感じながら配信をしました。
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またお会いしましょう。