これを確実、確実じゃないな。
これが言いにくいな。
ちょっと風刺的なものになると言いにくいですね。
考えまとめて言おうとしてるんですけど、
なかなかまとまらなかったり、言葉を選んで言ってるんでね、
ちょっとつっかかったり、どうしようかなと思ったりすることもあるんですけど、
無理ゲーっていうところの一つになるんですけど、
今まで自分の世代まではどちらかというとですね、
コンピューターゲーム、ファミコンゲーム、
自分の世代はそうなんです。
ファミコン、スーパーファミコン、プレイステーション、セガサタンとかね、
まだいっぱいあるんですけどね。
出したきりないんですけど、それぐらいにしときましょうか。
どんどんプレイステーションが進化していくことによって、
ネットで通信をしたりして対戦ができるようになっていってるんですよね。
それはWAVE3っていうのが入ってきてるから、
すごい良い面もあるし悪い面もあるんですけど、
それまでの家庭用ゲーム機っていうのは、
要は一人で遊ぶゲーム機でもありますし、
友達の家に行って対戦しながら遊ぶゲーム機でもあったんですよね。
それがある時から枠を越えてですね、
世界と対戦ができるようになったり、
世界の人たちと相手できるようになったり、
インターネットを通じていろんなところにアクセスしてゲームできるようになったりとかね、
そういうことがありました。
相当カイトマンで話していくんですけどね。
さらにスーパーマリオのシリーズのゲームっていうのもいっぱい出てるんですよね。
その中に一昔前は、
ゲームを攻略するために攻略本っていうのが売られてて、
その攻略本を元にゲームをずっと解いていって、
ゲームをクリアしていって、
死んでもセーブができるようになってたりして、
やり切ってエンディングを迎えるっていう話になったんですけど、
ちょっと前から、いつの頃か、何年か前かな?
でももう10年以上前?10年20年?20年じゃないな。
10年?14,15年ぐらい?
極端な話、結構マリオメーカーみたいなのができてきたところからなんですよね。
それまでゲームを作るっていうのは、
素人にはできなくてクロートにしかできなかったんですけども、
それがゲームを作れるソフトみたいなものができてきたんですよね。
ちょっと有名なところでいくと、
知ってる人は知ってると思うんですけど、
RPG作るとかね、RPG作りエイトとかね、
RPGを作ろうと思えば個人でも作れるようになっちゃってたんですよね。
それがスーパーマリオの中に入り込んでいって、
スーパーマリオも個人の人たちがワールドというか、
面を作ることができて、
それを作ったものを自分でプレイをする、
他の人にも公開して他の人もできるようになりました、
ということになってて、
それをやってる人たちのゲーム実況というのがね、
結構始まってきてたんですよね。
今でもやっぱり始まってます。
中にはすごい作ってるなって思う人もいれば、
考えて作ってる人もいれば、
本当に簡単に作ってサッとクリアできるような人もいれば、
作り手によって、何て言ったらいいですかね、
初めて作る人にはね、
初めて作る人だから、
なかなかすごいものができるわけではないからあれですけど、
作り込んでいってうまくなっていくものなんでしょうけど、
無理芸に近いぐらいのことをやって、
何回も何回も死んでも、
クリア率が0.00何%だから、
お前やってみろよみたいなね、
ワールドを用意する人たちもいっぱいいるわけですよね。
それをクリアしてゲーム実況をしながら叫びまくってて、
それで再生回数が伸びてるっていう人たちもいますからね。
そういうのもね、いろいろあっていいんですけど、
自分の場合はどちらかというとね、
そういう作るのもありだと思うんですよ。
それはそれで非常に楽しいと思います。
自分もゲーム機持ってたらのめり込んじゃうタイプなんで、
たぶんその面を解くのと、
ワールドをクリアするのと、
そのワールドを作っていくっていうのもね、
一緒にやっちゃうと思うんですよね。
ゲームがいけすぎた部分やから、
ゲームと現実の世界がごっちゃになってるっていうのも一つ、
この事件に関わってるんじゃないかなっていうのはちょっと思います。
自分なんかは、
クロートの人たちが、
ゲーム会社とかクロートの人たちが考えた、
ワールドを解くことによって達成感を味わえていったのが、
無理な状況を個人が設定するので、
また難しいのは難しいんですけど、
難しいの意味合いがちょっと違うんじゃないかなと思うんですよね。
やったら面白いなと思うんですけど、
実はやっぱりやったらやったで、
なんか違和感を感じるのかなとかね、
そんな風に思っちゃいますね。
だから無理ゲームを何回も何回も死んでも、
何回死んでもクリアするまでできるんですけど、
死ぬことへの重み、
これを現実の世界で死ぬことへの重みに持っていっちゃ悪いですけど、
ただ、ゲームのプレイでも一定のそういうのがあっていいのかなと思うんですよね。
永遠とやり続けられるようになっちゃったっていうのが、
昔のゲームとちょっと違うかなっていうのがあってですね。
無理ゲーが流行りに出したことも一つの要因。
間違ってもリセットできるみたいな思いを多分持ってるんじゃないかなと思うんですよ。
実際その未成年の子たちがどういう動機でやったのかは分からないですよ。
だけどそういうところに手を染めれるっていうのはまず一つ。
そういうものばっかりしか見てないのかなっていうのを感じたりします。
良くも悪くも各家族になったのも問題だし、
周りにそれを注意してくれる大人がいなくなっちゃったっていうのも色々あるんですけどね。
いなくなった要因もなんとなく分からんでもないです。
で、おじいちゃんおばあちゃんが圧倒的に消えていってますよね。
消えていってると死んでるわけじゃないんですけどね。
要は町の中から村の中から都市の中からじゃないですけど、
おじいちゃんおばあちゃんが住みにくい町にはなってきてるんじゃないかなっていうのは感じます。
だいたい介護施設とか病院とか色んな施設に振り分けられてるんでしょうけどね。
元気な人もいっぱいいますし、ただ他人が他人を注意できないような世の中になってきてるのも一理あるのかなっていうのもあります。
それも時期に関係してるんでしょうね。
で、自分の場合はですね、なんだかんだ言いながら、よくも悪くもうちはおばあちゃんの健在でございましたからね。
やっぱりおばあちゃんの言うこと絶対ですとは言わないけど、おばあちゃんの言うことはそこを通ってましたからね。
っていう意味で、やっぱりそういう風な、よくも悪くもいい意味でしつけをされたというのが一番大きいんじゃないかな。
これは親に感謝してることなんですけど、自分はあんまりマックとかモスにファーストフード食べに行かないんですよ。
今はちょっと外食が多くなっちゃってますけどね、一人で生活してるとどうしても自分家で全部ご飯を賄うことってなかなか一人でやるの難しいんですけどね。
それでもあんまりファーストフードに興味を持ってないんですよね。
たまに食べると美味しいですよ。でもあれをずっと食べつけてたわけではないから、あれを食べ続けるってなかなかの下の持ち主だなと思うんですけど。
これはね、うちのおばあちゃんが健在であったときにはね、おばあちゃんはスポーツさんなんでね、お金結構出してくれたからいろんなとこ外食できたんですけどね。
母親はね、それを見かねてんなのかなんなのか、そんなにお金いっぱい持ってる家庭ではなかったですけどね。
でも大変だったのはなんとなくわからんでもないですけど、でも外食をしてもあんまりマックとかモスバーガーとかには連れて行ってくれなかったんですよ。
そこだけはね、すんごい親に感謝してますね。そのおかげあってですね、そこに依存性がどこにもないんですよね。
たまにマクドナルドのポテト食べると美味しいです。チキンナゲット食べても美味しいし、ハンバーガーもたまにね、この時はこの月見バーガーじゃないけどね、期間限定のが出てたりするとたまに食べると美味しいです。
だけどあれを毎日食べれるかって言われると、依存してないと無理だろうなと。
シェイクも美味しいんですけどね。っていうようなことがあったりしてますから、マックのコーヒーも美味しいっちゃ美味しいけどね。
マックのコーヒーだけで勉強するために石取ったこともいっぱいありましたけど、そういう風にね、依存してないんですよ。
やっぱりそこはね、親が頭が良かったというか、起点を受けさせてくれたというか、そんなこともあって、マクドナルドの話に話が逸れちゃいましたけど、
要は注意してくれる人たちがいなくなった、しっかり物事の道理を教えてくれる人がいなくなってるっていうのが、すごいちょっと目立ってるんですよね。
だからああいう風に、人の命を軽く当たっていいんだ、当たってって言ったら変ですけどね。
そういう風なことをやっていいんだと思っちゃったんですかね。
自分なんか医療福祉系にいるから、この業界ほぼ長いですから、人の死とか小児科とか婦人科に行ってないので、赤ちゃんが生まれるとかいうところは学習ぐらいしかしてないんですよ。
いまだに一人身なんて結婚してないですからね。
何て言うんですかね、誕生のところは見てるわけじゃないんでね、何とも言えないんですけど、人の生き死にのところはすごい見てるんですよね。
なのでそういう意味では、他の人よりは命の重さは結構重いものなんだよっていうのは分からんでもないです。
でも、何て言うんですかね、自分がいくら貧しくても、人を出し抜いてやろうとか、万引きとかね、食っていくためにしょうがなければとかね、そこは絶対やっちゃいけないよって俺言えないですもんね。
俺サーベン館じゃないですからね、そこをどうのこうのは言えないんですけど、でもそういうのをやっていいよっていうことを一つも教わってないですからね。
教わってとか言う、教わる前に気づけよって話でもあるんですけどね。
でも追い詰められてしまうと、何て言うんですかね、考え方が硬直してしまうんで、誰かが外部から介入しないといけないとかね、助けてくれない限りはね、すごいどんどんどんどんどんドツボにはまっていってですね、落ちるところまで落ちちゃうんですよね。
そうしたらもう手の施しようがなくなっちゃうっていうのもわからなくもないんですよね。やっぱり自分もちょっと前まで本当に仕事やめようかやめないかとかむちゃくちゃ悩んでたりもね、やっぱりいろんなことがあって悩みます。
で、あれって思った時に、こういうことだったのかって気づけたらいいんですけど、気づくことができない人もいますし、それを悪だと教わってないからなんでしょうね。だからそこに到達しちゃうのかなっていうのもなくはないんですよね。
なので、事件のぜひどうのこうのは自分にはちょっと判断できないです。ただ、そういう題目の通り、無理なゲームのやり方とバズるためには何をしてもいいんだみたいな動画が横行してしまっているのが、その事件に少なからず影響を与えているのかなっていうのはちょっと思います。
なので、より深く内容を調べていったり、自分でもっと突き詰めていけば別にまた違う答えが見つかるのかなと思いますけど、今のところそんなことを考えたりもします。
でも、なんだろうね、生きている限り人には誰かしら迷惑をかけるんじゃないかとかね、不幸にしてるんじゃないか、大きな意味でですよ。
でも、普通に生存して生きていく上には、何か悪いことをしているわけじゃないんでね、いいと思うんですけどね。キルシト教のイエス・キルシトが十字架に跳ねつけられる時、みんなの業を背負ってじゃないけど、なんか生きている時点で業を背負うとか、哲学になってくるんであれですけどね。
なので、そんな犯罪をしていないなら問題ないんじゃないかと思うんですけど、生きていく上で何か他人を蹴落としてまでとか、仕事とまた話は別になってくるけどね、他人を蹴落とす何かを奪って自分を豊かにするっていうのは本来やるべきじゃないですよね。
非常の手段としても、そのモラルが崩壊しない限りか、自分の理性が崩壊しない限りはやることじゃないですよねって自分は思うので、犯罪には手を染めないんじゃないかなと思うんですよね。
これが俗に言う若年性の認知症でも発症して、いろんなことがわからなくなったらする可能性はあるかもしれないですけどね。
あとは車に乗ってて運転間違ったら事件起こして人殺し者殺人罪になっちゃうかもしれませんけど、恋にやってるわけじゃないですからね。だからといって許されること、やってしまったら許されることじゃないですけどね。
っていうのもあるので、そこの答えはずっと出ないですけどね。本当に医療福祉の現場なんでね。なおかつそこら辺の事件とか、生き人のことになっていくと存続殺人とかも出てくるんですよ。
本当に労働介護、人員介護じゃないですけどね。そういうのやってて、もうどうにもならなくなって、最後は自分でって、やっぱり少なからずあるんですよ。
で、その境遇に置かれた時に、じゃあ自分もそこの境遇に行ってしまうのか。行きたくはないですけどね、そういうところに。でも追い詰められるとそうなっちゃうのかなっていうところがあるんで。
これがね、何て言うんですかね、司法とか裁判所とかそっちの関係にいて、絶対そうじゃないですって言い切れるんだったらね、明確な回答あるんでしょうけどね。自分の場合はそういうところにいないのでね、非常に悩みますけど。
回答は出てこない。いい答えは出ませんけども。人の振り身で我が振り直せじゃないけど、そんな風に思って犯罪や事件には関わりたくないかな。でも犯罪まで犯して生きれるかって言われたら難しいですけどね。
でも犯罪を犯す時にはもう何て言うんですかね、もうその考える余地すらないんですかね。そこまで追い詰められる何かがあったのかなと思わんでもないですけどね。
まあでも、人を不幸にしてまで豊かになれるかと言われると、それもまたしかりのところなんですけどね。なので自分としてはすごい考えさせられるような事件でもあったりするんですよね。
ただ一つ言えるのは、やり方次第で何度でもなるっちゃなるんですよね。意外と自分の能力を使ってないというか、何かに依存しすぎているというか。
やるだけやってみてがむしゃらにやって、熱中したら意外とそこから道開けるものなんですよね。たまたまそういうところにぶち当たってなかったのかなとぐらいしか言いようがないです。
じゃないとその人の気持ちになったことがないので、その人と同じ気持ちになってないので、自分はそこまで語る資格はないですからね。
いろんな悩みの中、あれやこれや失敗した経験談はいっぱい持ってますけども。
他人にむちゃくちゃ合わせることは自分はできないので明確な回答はありませんが、今回はそういう考察をしていたので、ちょっともやもやするよりは、ずっとこのまま溜めとくよりはね、ちょっと吐き出しておいてもいいかなと思って、ちょっと長めの回になっちゃいましたね。
本当はもうちょっとタイトにまとめとけばよかったんでしょうけどね。
でもここら辺のことってね、話し出すとね、長くなっちゃうんですよね。
でもそれは長くなっていいから、何て言うんですかね、こう、まだ決して長い時間生きて経験値もそんなにいっぱいあるわけではないので、明確な答えは出てこないです。
ただ、年齢とともにその経験値が増され始めるとこうだよねっていう考えには到達するんでしょうけど、まだ自分はその域に達してないんで、そこら辺を明確にしてあげることはできないですね。
で、老害と言われるような押し付け方のことをすることもできないです。そういうのをしたいとも思わないんですけどね。
だからいろんな考えがあっていいなとは思います。
ただ、やっちゃいけないこともいっぱいあるんで、そこは何て言うんですかね、そこに関してはね、うちの親とばあちゃんと、親戚じゃないけど、育ててくれた人たち、あとは学校の先生じゃないですかね、そういうことをいろんなことを教えてくれた人たちに対しては非常に感謝してますね。
自分が若かりし頃からいろんな教えを教えてもらったことが後々になって生きていることもいっぱいありますからね。ある時厳しかったけどなんで厳しかったかなーって考えていくと結構ひも付いていることが多いんですよ。
自分の時は大罰、そこそこ大罰ありましたね。でもむやみな大罰はしてなかったですね。先生たちも分かってやってた分と仕方なくやった部分というのはあるんじゃないかなと思います。
だからといって自分も大罰しようかという気には全然ならないんですけどね。大罰の一環であると、医療福祉業界で先輩後輩のあれがあってね、自分たちにやられたことは後輩にやり返して何が悪いみたいなことを言っている上司とか上のジジイババどもはちょっとアホだなと思いますしね。
そんなバカどもはベッド開いてるんだからすぐに第二の人生、そこのベッドに入ってノーノーと生きとけやと、はい死ねやと思いますけどね。そういうところはちょっと思っちゃいますけど。
でも自分はどちらかというと暴力を使うかと言われるとそこはないですけどね。だからそういう意味では父親母親、家族兄弟、じいちゃんばあちゃん、あとは恩師といえる学校の先生たち。
まあそうじゃない、あと友人もそうですけどね。まあいろんな人見て、まあ人のふり見て我が振り直せじゃないけど、そんなふうなことはいろいろ教わってきてるんで、それだけは本当に感謝してもしたりないですね。
そういうことを教えてもらって、恩気でがましくしてくれたわけでもなんでもなくて、自然とそういうことを教えてもらってたんで、それはやっぱり教訓だと思ってやっちゃいますよね。だからそういうことに関してはすごいありがたいことなんですけどね。