大宰府展示館の見学と「梅花の宴」
古代の福岡を歩く遥かな昔。 海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました。
その足跡を尋ねる古代の福岡を歩く。 この番組はJA福岡屋目
道の駅村方 餃子の山鉢の提供でお送りいたします。
JA福岡屋目の直売所ヨランノの江頭です。 今、でこやめがおすすめです。
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でこやめ、食べてみてください。
こんばんは、坂田周代です。 岩井の乱都は間接的にですが関係がある大宰府を歩いています。
今回は大宰府の役所神賀を歩いています。 月山東神賀跡に入る前に手前にあります大宰府展示館の館内を詳細に見学しています。
ご案内はこと大宰府保存協会の学芸員田中健一さんです。 大宰府成長成田跡の土層断面図の隣から見ていきます。
そして次にあるのが城防のジオラマですね。
そうですね。こちら館の中央の方にございますけれども、やはり大宰府成長だけでは大宰府の町は機能しませんので、全体的にどのような町が広がっていたのかということで、
広島県にお住まいの森野春寛さんという方がボランティアで全て手作業で作っていただきまして、4,5年かけて作っていただきました。
まさに750年頃の大宰府の町並みがどうであったのかということで、中心部分を抜粋して作っていただいているところでございます。
奥の方には今津川さんと歩いております大宰府成長や大宰府展示館がございまして、
その周辺に今回ご紹介していきます大宰府の広範地区であったり、あるいは倉塚山であったり、大宰府町、全面広場、日吉、月山東ということで、
発掘調査の報告書などを参考にさせていただきまして、大宰府成長の周辺もどのような建物が広がっていたのかというのを再現していただいております。
これを見ると6畳はこの辺だ、8畳はこの辺であるという情報がよくわかりますね。
情報は上が22畳でしたっけね。
下から南にかけて22畳、22畳ございまして、右角、左角でそれぞれ8と12畳縦の棒ですね。
棒が左角と右角と分かれています。
それぞれ左右非対称ですけれども縦にございまして、
またその一区画が90メートルということで、それが今最近の研究ではなっていますので、それを町並みを再現したものになっております。
そして隣に来ました博多人形による媒花の再現ジオラマということで、
これはもう令和になってから非常に有名になった人形ですね。
みなさまに大変ご覧になっていただきましたけれども、博多人形の山浦信明さんに、
これもう当館が開館して10年ぐらいということで今から言うと30年以上前の作品なんですけれども、
土財布を代表する有名な花を見る宴会ということで博多人形で非常に表情豊かに作っていただきまして。
これ全部で13人いましたっけ。
今ですね、本当は参加者自体は32人いらっしゃるんですけれども、
ただ30年前ですのでちょっと展示のスペースと皆さんの関係がございまして。
そういうことですか。
ですので32人の中から代表的な方を抜粋して13人ほど今いらっしゃるというところでございますね。
これで私がちょっと注目したいのは大友の旅とは中心ですけれども、
旅との隣の隣、手前の方に女性の姿が見えるんですが、これは珍しいですね。
そうですね。
どういう方なんですか。
ひときは目立つように女性の方が一人いらっしゃるので、こちらの方が小島と言われる女性でございまして。
優女。
うかれめとも表現でておりますけれども、まさにそういう踊りとか文学に引いでた方なんですけれども、
馬以下の縁そのものに参加した記録はないんですけれども、
そうなんですか。
その年730年に大友の旅とが奈良の都へ帰る際に水城まで役人たちが見送りまで行くんですけれども、
歌がありましたよね。
その水城に行った水城で小島と大友の旅とが別れの歌を2首ずつですね、2つずつ別れの歌を交わしているということでして、
太宰府に赴任されて大友の旅とは奥様が亡くなられておりますので、
そういった点でも大友の旅とを支えるような存在だったのではないかなというふうにも考えられていますけれども。
それで小島の人形もここに添えられたというような感じがいたそうなんですね。
そうですね。実際にはですね、当時歌は残っていないんですが、そういう場であったら一緒にいてですね、
万葉の歌を歌って読んでいたのではないかということで、作者の方がぜひ小島もこの先にですね、一緒に臨席させていただくということで、
今展示館の方では小島も一緒に加わってこの宴会を楽しんでいるところでございます。
これが梅花の辺のジオラマです。再現ジオラマになっています。
今回は周辺の館外記をご紹介してまいりますけれども、
そういったところも実は今、九州歴史養監さんから出土遺物をお借りしてまして、
そういった周辺の役所域でどういったものが出たのかというのも、
端木とか水域ですね、器とか製地とか浴湯陶器とか、
実は特に太宰政庁の西側の広丸地区とか大久津地区、来期地区、
そういったところで様々に出土遺物が出ていますので、
そういったところも九州歴史養監さんからご好意でお借りさせていただいて展示させていただいていますので、
ぜひ併せてご覧になっていただきたいと思います。
いろんな土器が出ていますね。
そして一番奥に入ってきました、
ここに玉石敷の溝というふうに書いてまして、
溝が大きく広がっているという感じですね、ここで。
そうですね。いわゆる展示館に入っていただいて、
右手に入っていただきますとこの大きな遺構が広がっていまして、
これが先ほどの長地帯の溝と玉石敷の溝、
こちらを遺構を見ていただくために建てられた大屋ということでして、
まさに展示館の重要な遺構なんですけれども。
こちらが昭和の49年度に発掘調査したときに見つかりまして、
まさに太宰政町の東側、すぐの場所にあるんですけれども、
太宰府史跡の中で唯一ここだけで見つかっている、
まさに石を敷き詰めたきれいな溝というのが特徴的なところでございます。
実際に当時の地面の高さが下の方に一周列でわかりますので、
だいたい深さもそれほど奈良時代の溝と変わらずおよそ4、50センチほどの深さなんですけれども、
溝の幅が少しございまして、その間をきれいに石で敷き詰めているというところでして。
幅は2メーターか3メーターぐらいですかね。
2メーター弱ぐらいですかね。
そこに石が敷き詰められていると。
3,240センチぐらいの石ですね。
そうですね。そのくらいのがきれいに敷き詰められておりますけれども、
やはりこの構造を見ますと、普通の水を流すためでしたらこのようにわざわざ溝石敷きをする必要がございませんので、
やはり特別な意味を持たせてこの場所に設けられたんだろうというふうに考えられているところでございます。
これは方角的には月山の方向に向かっているという感じがするんですけれども。
そうですね。位置的には太宰平星庁の北側から塩山の方から南に向かって水がずっと流れていますので、
こちらも月山の展示館の中でいうと北側の方からどうも南の方に流れていく溝だったろうというふうに考えられております。
ここで、旅人の屋敷はどこだということで、旅人の屋敷の庭につながっているのではないかという説もありましたね。
そうですね。令和になりまして一役注目されたのが、万葉紙に残っている序文には大友の旅人、
そっちの家で売家の家が開かれたと書かれていますけれども、
そのそっちの館自体はどこなのかというのがやっぱり皆さん注目されて皆さん関心が高かったんですけれども、
その一つが坂本八幡宮が鎮座する太宰平星庁の北西辺りじゃないかなというのが一つございまして、
またもう一つは菅原三羽子が卓球をしていました江ノ岐社のほう、いわゆる太宰府の南端、太宰府の街中のどこかだったのではないかというのが二つ目でして、
そして三つ目が実はお越しいただいています太宰府展示館の東側にあります月山東地区館が、
これが太宰府上方は90メートル×90メートルが一区画でしたけれども、
月山東は110×70の区画があったと考えられており、かなり大規模な区画が見つかっているんですね。
その中にいくつか建物がございまして、その月山東に隣接するようにこの多枚石敷の溝があるというのがポイントなんですね。
実際にこの多枚石敷の溝がどういう使われ方をしていたのかというのが、
実は先ほどご紹介した博多人形の梅花の絵のところに実は一角にその様子がわかるようにあるわけなんですね。
どうですか?
いわゆる太宰府で言いますと極水の絵で行われていますが、そういった形で実はジオラモの一部にこういう風に溝も再現されている。
溝が作ってあったんですか、気がつかなかった。
柳の木のそばを流れる。
実はこの月山東地区が役所がなくて大友田部との屋敷であって、この多枚石敷の溝が庭園のこういう流れる溝であった。
そうしたらこの再現ジオラモのような雰囲気でされていたのではないかというところがありますので、
ぜひ博多人形のジオラモと多枚石敷の溝をイメージしていただいて、
もしかするとまだ確証は3カ所どこでもはっきりとここだとは決まっていないのですが、
皆さんぜひイメージの一つとしてご覧になっていただければと思います。
今実際の溝はこの大井屋の下の方にあるのですが、
それがジオラマとして再現してあって、そこへつながっていくという感じがするのですね。
そうですね。まさに実物の溝がどういうふうに使われているか。
その一つの考え方として、このように梅花の絵の庭を美しく整理をやりながら、
そのそばでこのように梅花の白い梅を楽しみながら皆さん歌を読んでいたのではないかということが、
ジオラマで再現されているところでございます。
皆さんここへお見えになって、一番先に目につくのが梅花の絵のジオラマですが、
そのジオラマの正面が青友の旅と、一番手前の方に溝がつくってある。
これは曲水の絵のときに使われた溝ではないかというふうなことですが、
それがこの太宰府館の下を流れていたのではないかということで、
よく考えて作ってありますね。
そういうことを考えてみながら、このジオラマを見ると面白いですね。
そうですね。いろいろ皆さんの表情とともに、
ぜひその情景もいろいろなところを細かく見ていただくと、
より太宰府に関心をお持ちいただけるんじゃないかなと思っております。
こういったところが太宰府展示館です。
月山東官衙跡と大伴旅人の屋敷候補地
そしてその隣にある月山東館画跡へ向かいました。
太宰府展示館の東側に広がっていますのが、月山東館画跡と呼ばれる場所になっております。
こちらは展示館の売下の絵のところでもお話を、
ちょっと大友旅とてのお話もしましたけれども、
太宰府展示館に隣接して、東西が大体110メートル、南北が大体70メートルという、
大変広い区画が確認されておりまして、
発掘調査でも数多くの建物が確認されている場所になっております。
大体建物が9つぐらいあるんですけれども、
太宰府はちょうど真ん中を道で分断されて、東側と西側に分かれていますが、
本来はこれ一帯が全部月山東館画跡でございます。
広いですよね。
この建物の敷地を区画するのが、
つい地米、柵があったと考えられておりまして、
それが現在展示館のそばに来ていただくと、
コンクリートで大変背の高い柱が、
ちょっと盛り上がった土の上に立っていますが、
これが柵の跡、木の跡ですね。
柵の跡ですか。
ですので、1300年前はこの間隔で、
今背の高いコンクリートの柱と同じ間隔で木の柱が建てられまして、
木の柵か、あるいはつい地米のようにしっかりと壁を作ったものだったか、
というところで、まさにこの110×70の敷地を区画するように、
立派な柵がずっと伸びていたというところですね。
そして、太宰府展示館のところで、
奈良時代のすぼりの溝、そのままの溝、
小さいものを見たと思うんですけども、
実はその溝が、この長い背の高い木の壁に沿って繋がるんですね。
繋がりますね。
ですので、太宰府展示館で見ていただくと、
奥の方に続いているなという意向なんですが、
それが実は外に出ていただくと、
この引山東の背の高いコンクリート柱の柵に沿って、
ずっと伸びていただろうというふうに言われてますね。
まさにそういった面でも、実は外側の意向とも繋がるというですね。
そういうところで、ぜひ展示館の意向を見ていただいて、
さらにこの東地区の外の現地も見ていただくと、
さらにわかりやすくお分かりいただけるんじゃないかなと思います。
この水地米があったというところに柱、柱の列が約4、50メートルありまして、
そこの突き当たりに太宰府展示館があるんですが、
その下に溝があって、その溝がそうなんですよと、
ずっとここを続いているんですよという話でした。
よくわかりましたね。
はい、実はそういうふうになっていますので、
ぜひ合わせてご覧になっていただきたいと。
こちらのお座りさん、現地のほうに中のほうに入ってご案内してください。
はい。水地米が建ててある広い広場のほうへ向かっていっています。
ここに、ここが入り口付近ですか?
そうなんですね。背の高いコンクリート柱があって、
もう一個背の低いコンクリートの柱も見えるわけなんですね。
そうか、両方ありますね。
この背の高いほうは柵だったんですけども、
この背の低いほう、もうちょっと座っていただけるぐらいの低さのものなんですが、
これは建物の柱の跡ということなんですね。
柱の跡はだいたい水地米の跡から10メートルぐらい奥のほうになりますね。
そうですね。水地米が囲まれた内側にありまして、
ちょうど太宰府展示館のそばでは2つ分建物が再現されていまして、
特に東側の建物なんかは日差しもついているような構造だったようなので、
ちょっと格式があるような建物だったようなんですね。
この建物を囲うように実はちょっと細めの背の高いのもありますけども、
これはどうも柵の内側ですね。
要は入り口から何もなければそのまま中が見えてしまいますので、
目隠し用のそういう壁が1つ設置してあって、
だから外から見れないように。
一回そこを通って中に入っていただくような、
そんな構造だったんじゃないかなというふうにも言われているところですね。
ですので柵の間に入り口があって、
そこが入っていただくとまだ目の前に壁がありますので、
それを左右に迂回してから中の建物に入っていただくような、
そんな建物の構造だったんじゃないかと。
東側にも同じようなものがありますので、
どうも非常にただ単の役所というよりも大変ちょっと構造がしてあるところですね。
そこで出てくるのが旅人の屋敷はここじゃなかったかという説もありますけどもね。
そうですね。その話につながってくるんですね。
まさにこの110×70の区画というのは、
太宰府の城防の90×90の1区画に比べてもやっぱり大規模な区画でして、
ましてや太宰府県庁のすぐ東ですので、
位の高い、そっちが住むには一番中心部に近いところが都でも選ばれたりしますので、
そういう意味で考えるとそっちの館だったとしても立地的には非常にいい場所になるわけなんですね。
そうですか。
そういう点も考えて、
大友の旅と梅花の縁が行われたのがここじゃないかという一つの説明になりますので、
今回は坂本八幡郡のもご紹介しましたので、
これはまだどこかというのは言えませんので、
皆様がぜひ現地を訪れていただいて決めていただければと思うところでございます。
ここで自分でいろいろ想像を巡らしてですね、
いろいろ考えてみるのも面白いかなというふうに思います。
といったところですかね。
最後にご紹介しますのが、
この月山東区間が目の前にある丘陵、
太宰府県政庁の東側ですね。
西側は倉塚さだったんですけども、
東側の丘陵が実はこの目の前に広がる月山という丘陵になっております。
さっき牢獄があったと。
そうなんですね。
地元では天智天皇が導入しました水時計、牢獄がここに設置されて時を告げていた場所。
その時を告げていた場所、時山というのがだんだん変化して月山になったんだ。
そういうふうに言われているところでございます。
実際に太宰府に牢獄、水時計が置かれていたというのは記録にちゃんと出てきまして、
774年に東北のありました田賀城がですね、都に申請した際に、
都や太宰府にある牢獄を田賀城にもぜひ設置してほしいという探願を出していますので、
その774年の時点では間違いなく都とこの太宰府には時間を告げる牢獄が設置されていたということがありまして、
ただ研究者の先生の中ではやっぱりですね、水時計ですよね。
水を大量に使いますので、給料部分に使いますとやっぱりそれだけの汲み上げて流す労力が必要ですので、
丘の上は大変じゃないのかと。
あるとしたら例えばこの麓の部分に牢獄を設置して、
時間を太鼓だったりドラだったりで多分知らせていただいたと思うので、
そういう鳴らす矢倉みたいな、見晴らし台みたいなのが月山に置かれていたんじゃないか。
そうしますと辺りに響き渡りますので、そういうことも言われておりまして、
ただ残念ながら倉塚沢はだいぶ長年の博物調査が終わったんですが、
月山の方はまだまだ全然博物調査が行われていませんので、
なので今後ですね、まだまだ予定というのがないんですけれども、
今後調査すると明らかに建物跡であったり、
組織だったりそういったのが確認されてくると、
この月山、水時計、牢獄との関係というのが今後より明らかになってくるかもしれないところです。
ご案内は、古都太宰府保存協会の学芸員、田中健一さんでした。
坂本八幡宮と地域活性化イベント
ここで古代の福岡を歩くリポーターの中島理恵さんです。
こんばんは。
今日は、令和ゆかりの神社坂本八幡宮を改めて、
私のレベルの低い楽しみ方をお分けしようと思うんですが、
知ってました?ここ、お守りいろいろあるんですけど、宴守りっていうのがあるんです。
宴守り、何ですかそれは。
書いてありました。遠跡安全、書芸上達。
おお、いいですね。
なんかこれからね、宴会持ってる人。
書芸上達っていうのも、非常にピンポイントで、それ求めてね。
いいでしょ。ピンクと紫の外側で梅の花と酒どっくりと杯が織り込まれた袋になってました。
あとですね、おみくじもやっぱりさすが万葉みくじなるものがありまして、
引くと中に万葉集の歌が書いてあって、これも一緒に楽しめるといい感じなんですよ。
この坂本八幡宮なんですが、実はそばの広場があるんです。
ここで春と秋は不定期ですけど、坂本丸瀬というものが展開されてます。
ちょうどね、1週間前に私行ってきたんですけど、先週、キッチンカーがずらっと並んでるだけじゃなくて、
例えば似顔絵コーナーがあったりとか、ヒーリングマッサージを受けられる場所があったりとか、
あとね、焼き物の小さな手のひらに乗っかるような猫の人形が並んでたり、すごくかわいいんですけれどもね、
この坂本丸瀬を運営しているのがこの猫のお人形の作家でもある、
そして銀猫カフェというのをですね、近くで営んでらっしゃる前田二郎さんなんです。
前田さんにこの坂本丸瀬を展開している理由を聞いてみました。
坂本八幡宮とかいうのをやっぱり、とか後田沢氏を盛り上げる体というのであって、
坂本八幡宮は令和になった時に毎日に5000人、6000人来てたのに、なかなか人が減ってきたということで、
じゃあ自分たちも一緒にやりましょうということで、3年前から始めた。
毎回募集して出てくる人が集まってくるので、何があるのか本当に近くなってお楽しみになるわけです。
それからちょっと後ろで音が聞こえたんですが、音を出していい設定になっているので、
なかなか今屋外で大きな音を出せるところもないし、なおさら太宰府の市籍すぐ横なので、
いろいろ難しいらしいんですが、音が出せるというのでアーティストの皆さんですとか、
それから学校とか団体の演奏なんかもあることもあるんですね。
このマルシェの目玉の一つが、無料で太宰府青鳥アートエリアを回れる、
ツクツクに乗れるということなんですよ。
ツクツク。
三輪自動車ですね、名前がついてました。
坂本三堂旅人号、略して坂さん旅人号。
黒いボディの三輪自動車6人定員で乗っかれます。
結構風が冷たい。
結構風を受けながら走ってまわるんですけれども、
すれ違いできないくらいの幅の細い道なんです。
みんなが歩きながら歴史散策をしている場所なんですが、
ここをゆっくりと進んでいきますが、途中でドライバーさんのプチ解説もあったりして、
今回山の上のオクラの子どもたちを思う歌の歌姫の前で、こんな話も聞かせてくれました。
市民にめちゃくちゃの歌が多いんで、私たちの小学校の教科書にはこの歌が出てました。
この人と旅人の息子のヤカモチ、この人と歌がいっぱい残っているんですけど、
ヤカモチの歌はですね、物心ついた時彼女が14、15人落とす。
それで歌が全部声組みやからですね、小学の教材にはなり得ないということで、
この人のほうが教材になっているということで。
楽しいですね。
地元の人の思いが乗っかる解説、とっても面白くて、
この後も総合のすせきを見たりとか、
ホーマン山、昔は三笠山って言ってたんだよとか言って、
ここに雲がかかるくぼみみたいな形をしているのでとか、そういう話を聞きながら、
まさにプチドライブなんですね。
この太宰府成長跡のエリア全体を把握するにもすごく乗っててわかりやすかった。
ちょっとね、位置が高いので見下ろす感じで見れるのもまた良かったんですよ。
しかもこのトゥクトゥク、朝1回目はパワースポットを回るということが時々行われるそうで、
先週私が乗った時は五条駅の近くにある石穴神社までは足を伸ばして、
ちょっと特別な散歩というか遠足感があるんですね。
このトゥクトゥクが稼働する次のマルシェの予定は、
4月19日日曜日の開運やっぱり猫マルシェ、最初に話してくれた前田さんがやってます
保護猫の活動の理解も深めてほしいというマルシェの会に行われます。
マルシェの日程は坂本マルシェで検索してインスタグラムで確認できますので、
ぜひ見て坂本八幡宮と坂本マルシェ一緒に楽しんでください。
中島梨央さんでした。
番組情報と今後の予定
道の駅村方の童咲です。
4月15日まで村方市ではイチゴ祭りを開催します。
道の駅村方では素敵な景品が当たるイチゴシールラリーや塗り絵大会など、
さまざまなイベントを実施します。
皆様のお越しをお待ちしています。
去年10月からお送りしてきたシーズン11にあたる古代の福岡を歩くは今週で終わりますが、
来年はいよいよ祝いの乱から1500年の節目を迎えます。
10月からも祝いの乱にスポットを当てて古代の福岡を歩くをお送りする予定でいます。
どうぞお楽しみに。
番組からのお知らせです。
ホームページのご案内です。
これまでの放送内容と番組を1回目からじっくり楽しむことができます。
RKBラジオのホームページの
古代の福岡を歩くのバナーをクリックしてください。
またラジコ、アップル、スポティファイ、アマゾン、ユーチューブなど各ポッドキャストでもお楽しみいただけます。
この番組はJA福岡やめ、道の駅村方、餃子の山鉢の提供でお送りいたしました。
ご案内は坂田秀大でした。