1. 古代の福岡を歩く
  2. S9 9回目はみやま市の女山神..
2023-11-26 30:07

S9 9回目はみやま市の女山神籠石を訪ねます。

みやま市の神籠石は、みやま市瀬高町にある古代山城とみられるものです。
神籠石のあるのは標高190メートルの古塚山の西側山頂付近です。
神籠石は山腹に馬蹄状に張り巡らされ、その延長は3キロメートルに及びます。
ただし、北半分の列石については、未だ確認されていないそうです。
古塚山頂上からの展望はすばらしく、遙かに有明海の島々を見ることができます。
西側には源吾谷、長谷、産女谷、横尾谷の水門が、設けられています。
このうち、原型を留めているのは横尾谷水門で、現在は水は流れていませんが列石をいくつも組み合わせた水門は見事なものです。
古代の福岡を歩くリポート 
♪小鳥はとっても歌が好きー♪の作詞をした與田準一は、みやま市の出身なんです。
みやま市立図書館の建物に記念館が併設されています。
與田準一記念館館長の吉開忠文さんにいろんな話を聞きました。
準一の息子は「ブルーライトヨコハマ」や「亜麻色の髪の乙女」の作詞家・橋本淳で、その息子はMISIAを発掘した音楽プロデューサーで、びっくり!
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古代の福岡を歩くシーズン9 遥かな昔、海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました。
その足跡を訪ねる 古代の福岡を歩くシーズン9
この番組は 宮山市の企画協賛
餃子の山端 道の駅村方の提供でお送りいたします。
こんばんは、坂田周代です。 今週は紅葉が美しい宮山市の女山神籠石を見て歩きます。
女山神籠石への道は、麓の道路の修復も終わり 頂上付近まで車で登れるようになりました。
そこで今週は頂上付近から歩いて 紅葉石を丹念に見て歩きます。
見学した日は大変天気の良い日でした。 ご案内を宮山市瀬高町の郷土司会会長
熊川たけしさんにお願いしました。 頂上のすぐ下にやってきました。ここから頂上へ登ります。
座山の山頂近くに来ました。古塚山というのが正確な名前だそうですが、標高がおよそ190mとそんなに高くない山です。
その入り口、頂上までおよそ30mぐらいのところに来ました。 ここに石碑があります。
座山、紅葉石と書いた1mぐらいの石碑があります。 そしてその横に看板がありますね、解説があります。
1m四方ぐらいの看板がありまして、 紅葉石とは自然石や方形に加工した石を斜面に並べて土類を築き、
谷に水抜きのための水紋を作ったもの。 用途については2つの説で争われてきましたが、
お坪山紅葉石などの発掘調査により、 7世紀頃に築造された古代山城としての性格があることがわかりました、というふうな説明版が書いています。
ということで、これからまず紅葉石を見る前に頂上まで登っていきます。 およそ30mぐらいかな、ここからもう見えますね。
砂利道がずっと続いています。 その道を登っていきます。
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そして木で組んだ矢倉を登ると、目の前の展望がさっと開けました。 ここはですね、
右から左まで全部見える。 だいたい360度ぐらいは見えるという。
後ろ側が少し高い山がありますので、 その部分だけ見えませんが、前方に筑後平野が広がってますね。
そうですね。筑後平野が一帯に広がっていて、 その向こう側に有明海があるんですけども、
その有明海の向こうの方に見えるのがですね、 佐賀県の太良山です。
それから今度は左側を見ると有明海の向こうの方に、 雲田、富原岳がですね、見ることができるんですよね。
そうですか。なんか今日は天気が良すぎてですね、霞んでおりますね。
遥か彼方、海が見えるんでしょう。 海のあたりまで霞んでちょっと見えにくいですけども、
本当に筑後平野の田んぼがよく見えますね。
そして北西の方はですね、 これはずっと向こうの方に吉野狩遺跡が、
大体30キロぐらいのところに吉野狩遺跡がございまして、 その向こうには背振り山が横たわっているという地形です。
左側の方ですが有明海は左の方になるんですかね。
そうですね。左側の薄く霞んで青く見えるのが有明海で、 とても夕日なんかが射すと綺麗な光景が見えます。
小さい島が浮かんでいるのが少し見えますね、左側に。
本当に良い景色です。
大体目の下には小さな林があるんですが、 林の前方に畑がずっと広がっておりまして、
その先の方に、これは新幹線ですかね。
新幹線が通っておりますね。
新幹線が左右に通っているのが見えます。
そのずっと先の方に住宅街が小さく見えますが、 本当に良い展望です。
この土山地震が、もともとは城山と言われたんですよね。
ところが天皇権に羽ばかって城山を土山としたという、 そういう伝承がありまして、
昔からいろんな内容が伝わってきているところでございます。
日本初期なんかも、最初に出てくるのは神宮皇后がこの地域を討伐に来た時に、
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タブラツ姫がこの山と綾方に攻めてきたと。
そういう時に激戦があったとか、激戦の跡なんかも市内のあちこちに残存するといいますか。
そういうところがこの山と群、昔は山と群と言ったんですが、
今の宮山市の昔の姿であると思われます。
秘密公さんがいたんじゃないかという説もあったですね。
村山賢治先輩たちは、この地域がかつての山大国ではないかというふうに主張してやってきましたし、
これも根拠があるといいますか、江戸時代の学者の新井博之が晩年に山大国の所在地を山と群というふうに認定したのが一番の始まりですよね。
山的には190メートルくらいと、そんなに高くない山ですけれども、
ここに神域があったという説と、ただ山城があっただけじゃないかという二つの説がありましたね。
それで神域があった方の説として、ここが見つかっていますね。
土屋部の神戸石内にこの穂穂が見つかった。
これも朝鮮時期、始祖の立場というのはだいたい白石への戦いの後に、
くだらぬ皇冠たちがやってきて、また再び唐とか始祖が攻めてくるかもしれないという、
そういうことがあってこの地域に山城を築いたのではないかという、そういう説もございますけれども、
すでに土屋部の神戸石の内部に、実は三世紀頃の道歩行も出ていることを見ると、
穴がちですね。山城石で主張するのは難しいかなというふうに感じます。
道歩行が二つ出てきて、そのうちの一つを先日拝見させていただきましたけれども、
それを考えると神戸石も捨てたもんじゃないということも考えられますね。
もう一つはですね、文献帳の資料としてですね、実は竹内のスクネがですね、
この地域において千名ぐらいの人夫を使って甲羅山のですね、
文献も残っているんですよね。
この甲羅山の神戸石とこの地域の座山の神戸石が全く同じということにおいて、
明治30年頃ですね、小枝さんという方がこれをPRすることによって全国的にですね、
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非常に有名になったというものがありますもんですから、文献帳、竹内スクネが活躍した時代というのは、
300年代の後半ですよね。
神宮皇后とか応神天皇、忍徳天皇の時代ですから、
ちょうど近畿の方にはですね、巨大な伝報公園ができた忍徳天皇陵とかね、
あの時代と同じ時代にですね、実はこの地域においてこの神戸石の事業が始まったのではないかという、
そういうのも文献帳ではですね、椅子は残されていますから。
ああ、そうですか。
祖山をめぐってはいろんな話がありますね。
ということで、この展望台からですね、今度は下へ降りまして神戸石を見ていきたいと思います。
ということで、頂上の50メートルほど下の神戸石のところへやってきました。
はい、ここに祖山神戸石ということで看板が出ています。
この右側ですね、右側にこれは劣跡ですよね。
そうですね。
だいたい一辺が70センチぐらい、大きいのは1メートル以上ですけども、そういう劣跡がですね、ずっと並んでおりまして、
これが残っているのがこの箇所ですよね。
はい。
一辺が70センチ、横はちょっとありますね。
だいたいそうですね。
横が1メートルぐらいありますよね。
そうですね。
そのぐらいの劣跡がここにありまして、その上に土塁があるということで、2メートルぐらいの高さの土塁が上に乗っかっていると。
そしてその土塁の上にまた木の柵を作って入るのも不遂だということも言われていますから、
結構当時の状況を見ていると、交互石があって、土塁があって、その上に木の柵がずっと続いていたというふうな形ですよね。
そしてこの交互石自身がですね、甲羅山の交互石なんかを見てみると、やはり決壊という言葉がございまして、
やはり神々の住む地域と組むのは、それを容易に中に入ることができないというふうな欠石という形でも言われておりまして、
神の領域というか、そういう感じで交互石が工房さんの場合には作られたという既読が残っております。
今交互石の横をずっと歩いていますが、だいたい平行してこの劣跡が下に見えます。
70センチぐらいの劣跡がずっと連なっているのが見えます。
その上に土をかぶせてある土塁です。
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土塁が上に2メーターぐらいあるという感じの道路です。
そこがずっと下まで連なっている感じですね。
この劣跡というのは途中でなくなったりしているんですね。
そうですね。
長い年月で、例えば八幡藩のもっと前の田中義政候補の時代ですけれども、
城壁を作るために石を切り出して持っていたとか、
あるいは観宅が行われまして、そういうために劣跡も持っていたとか、
それから上の方にお寺があるんですが、
そのお寺を作るために持っていたとか、
そんなですね、長い歴史の中においてだんだん数が少なくなってしまったと。
ということで、ちょっとちょっと止まってください。
しばらく歩いてきましたら、ここに、
これは石に書いてある案内版ですね。
ここに水門が出てきました。
水門を描いた絵がありますね。
下から言うと、横丹水門。
横丹水門。
これは今残っている一番立派な水門ですよね。
菊神社がありますね。
菊神社があって、入り口といいますか、なっております。
その次が長谷水門。
そして今度は玄武丹水門。
それから宇部丹水門と。
4箇所の水門がですね、当時残っていたという感じで。
今しっかりと残っているのは横丹水門と長谷水門の2つですよね。
長谷の菊神社というところをぐるっと回って、
今度は緩かさして。
昔の時代には3キロに渡って黄金石があったと言われておりますけれども、
北の方はですね、少し痕跡が薄くなってしまって、
はっきりと断定はできないという感じでございます。
しかし観光で見ると、
200メートルぐらいの海抜のところにですね、
この巨大な石群をね、ぐーっと並べるということは、
恐らくね、現代でも大変な事業ですよね。
そうですね。
そこそこね、先人かわからないけども、
たくさんの人々が働いて、
おそらく何年、もしくは10年単位でね、できあがったかもしれないですね。
そうですよね。
そういうことを思うとね、本当に不思議な気がします。
いいですね。
だいたい一つが70センチぐらいの大きさでしょう。
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それがいくつあるのか知りませんけども、
ここへどうやって運んで、どうやって切っていったのかと。
しかもですね、この石材の原石というのはね、
ここから10キロぐらい離れたところの山から切り出したということになるとですね、
運ぶし、ずっと何十メーターも上に持ち上げるということは、
とてもじゃないけどね、
現代をしても非常に大変な事業ではなかったかなと。
そうですよね。
推測できます。
ここから10キロ離れているといっても、
どうやってここまで運んだかというのは非常に謎ですね。
水路が。
一つは水路がずっと通っていたというね。
通っていた。
水路にね、イカタに乗って抜けて運んだとしましても、
今度はそこを下ろして、
下ろしてからですね、200メーターぐらいを持ち上げていくということは大変ですよね。
大変だね。独自業ですよね。
ここは標高だいたい200メーターぐらいのところにありますので、
こんな山の上まで運ぶのが大変ですよね。
ただ同じところで、
例えば民族圏の頃と考えると、
近畿地方でも巨大な古墳が置いてあった時期なんですよね。
なるほど。
それこそ400メーターぐらいの大きな古墳群がどんどんできたものですから、
ちょうど時代的には、
そういう時代の南の地方でもね、
そういう船を使った事業が展開された可能性も否定できませんよね。
船を使ったり、いろんな工具を使った石を運んだということがあり得る。
そうですね。
コウモイ石と古墳を見学し、麓へ降りてきました。
今度は4つある水門の中で保存状態がいいという、
横尾谷水門を訪ねました。
うっそとした林の中にありました。
この水門のずっと上流の方に、
ゴンゲン山彦神社という古い神社もあるということです。
だいたいそうですね、
水の流れが3メーターぐらいあるかなというところに水門がありまして、
今は水が枯れて流れておりません。
この水門の長さ、こちらから向尾岸までおよそ10メーターぐらいのところに水門があります。
この水門の高さがですね、やっぱり10メーターぐらいあるかな。
そしてここに石を切った霧石、これがたくさん並べてあります。
そうですね、霧石自体が大変大きくて、
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縦7、80センチ、横1メーターちょっとぐらいかな、
そういう石が3段あるいは4段ぐらいに並べておいてあります。
ここに水が通ってたんですね。
そうですね、長い歴史を通して旅重なる水害にもですね、
びくともしないで原型のままに残っているということは相当頑丈な水門ですね。
もう大正時代からですね、いろんな調査があって、
この出口、水の出口をですね、どの程度深いのかなと思ってですね、
長い竿を2本重ねてずっと奥までやったけども、
なおその出口のところまで届かないと、水門の奥はですね。
それが深い水門のようですよね。
ですから昔のそういう作られた水門としては本当に立派な水門ということができますね。
そしてこの彦神社さん、彦神社がこの山の奥の方にあるということで、
およそ1.5キロぐらい歩いていくとあるということですが、
ここではいろんな行事もあるそうですね。
そうですね。年に1回ですね、3月の15日には御田植祭が行われまして、
だいたい小学生たちが主人公を演じているわけですね。
だいたい小学校6年の男子が尊長の役をやって、
それから今度は小学3年以下の女の子たちが女子の田植えをする役に任じられまして、
そこで10分程度ですね、お田植え祭の一つのあれをやるんですよね。
結局一つは五穀豊穣を願って、
そういう祭りが毎年3月、ずっと昔から続けられてきたところがございます。
そうですか。
彦神社で昔の古代の先輩たちはですね、京都司会の先輩たちですけれども、
火の御子の神社と、彦という名前がね、火の御子という形から来たのではないかと、
いうように推察する先輩たちも多くいましたね。
ですから坂上徹と山田彦の女王卑弥呼のね、これをね、実は暗示しているというか、
そういう内容の神社ではないかというような形で語り継がれているところもございますね。
そうですか。
なんか岩なんかも残っているんですか、大きな岩が。
武善坊というですね、彦神社の前の方にですね、5メートルぐらいの大きな岩があるんですよ。
ですから伝承によるとね、古代の卑弥呼たちはその前にいろんな神託を受けたのではないかという話もあって、
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最初の頃はそこが神社だったらしいんですけれども、
後世にね、それが今度は奥の方の神社を作り直して、彦神社として祀られているというふうに伝え聞いておりますよね。
そうですか。いろんな話が残っているんですね。
そうですね。
その横小谷水門の前に立ってお話を伺いました。
今日は三山市の蔵山神戸石を見て歩きました。
ご案内を三山市世高町郷土司会会長熊川たけしさんにお願いしました。
ここで古代の福岡を歩くリポーターの中島理恵さんです。
こんばんは。
今日は三山市にゆかりがあるこの童謡からお聞きください。
すごい懐かしい気がしますね。
かわいらしいですね。
作詞した人が三山市出身の与田純一なんです。
北原博士に憧れて童謡詩人になり、童謡とかあと児童文学の世界で活躍した人なんですね。
この与田純一の記念館が三山市図書館の中にあるんですよ。
お話を与田純一記念館館長の吉谷忠文さんに聞いてきました。
色々見せてもらったんですけど、私個人的に大きく目を引いたのが、今聞いてもらった小鳥の歌の原稿。
原稿用紙に書いてあるんですけど、赤い鉛筆で開けるとか行を変えるとか矢印がいっぱい入ってるんですね。
この赤い鉛筆で詩字が書かれていた原稿用紙、こんな風な意味があると館長おっしゃいます。
赤鉛筆で色々印付けたのは与田本人ですね。
だから表記をどうするか、一時開けるとか一段下げるとかですね。
だから言葉そのものに音楽性を持たせる、リズムを持たせるために色々、ここは開ける、ここは一段下げるとか、そういったことで工夫をしてますね。
音に、音そのものが言葉には音楽性があるということで。
なるほど。
ポンと手を打ちたくなるでしょ。
そうですね。
だからその赤い部分こそがこの歌の聞きどころとも重なるんだと、さらに館長おっしゃいます。
小鳥の歌も一番の聞きどころは最後のオノマトペといいますか、ピピピピピ、チチチチチチの歯切れの良さなんですね。
あそこが子どもが気に入って歌うんですね。
なるほど。
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懐かしいだけじゃなくて、なるほどがいっぱいなんですよね。
子どもたちの話でいくと、三山の小学生は5年生の時にこの与田純一のお話を学校で勉強するんです。
教室で勉強してこの記念館に来てさらに見識を深めるんですけれども、子どもたちにはどんなところが響いてそうか、吉谷館長に聞きました。
なんとなく歌ってて調子がいい、景色が見えるようだというようなところが響くところがあるんじゃないかと思いますね。
よく言われますけれども、与田純一の詩には音があり色があるというふうに評価されていますので、理屈抜きにそういうところが気に入っているんじゃないでしょうかね。
色がある。
いいでしょう。
わかる気がしますよ。
だからまだ見たことのない童話も読んでみたくなるし、知らない歌詞がまだあるかもって探したくなる気持ちになるんですよね。
この与田純一本人も筑後市にある下妻小学校の先生をしていたそうで、赤い鳥って子ども向けのかわいいシワを集めた雑誌があったんですが、
あそこに投稿する自分だけじゃなくて小学校の子どもたちにも投稿させていたので、その当時下妻小学校の国語教育というのは全国的に知られていたそうなんですよ。
そうなんですね。
この与田純一、なかなか面白いのは、いろんな交流を持っていたんですけど、例えば憧れていた北原博集、
実は後日息子が生まれた時のお誕生祝いにもらった直筆のからたちの花の歌詞が1番から6番まで書いてある掛塾とかがですね、
今記念館に残されていて、短歌はよくあるけど歌詞って珍しいんだよねって。
北原博集記念館が本当はうちに欲しいんだけどって言ってるぐらいのものがあったりとかですね。
あと日本同様集って言って、その北原博集だとか野口優生とか西条康の作品を集めた本を編纂してるんですが、
実はこの中に一遍だけあの金子美鈴の詩が入ってて、これをきっかけにその後金子美鈴の発掘がされたというきっかけでもあるんですよね。
さらに地元で一緒に過ごした作家団和音のコーディもあったりしていろいろ広がるわけなんですが、
まあ珍しいというかあっという通りで言うと、さっきちょっと言ってました。
生まれた長男さん、実はこの人も作詞家で橋本純さんって言います。
代表作、ブルーライト横浜、甘色の髪の乙女、カナダからのお手紙、真夏の出来事、まだめっちゃいっぱいあるんですよ。
ヒット曲たくさんですね。
そうなんです。さらにその息子、つまり純一さんからすると、お孫さんが音楽プロデューサーの春男さんで、この人はあのミーシャを発掘した人なんです。
そうですか。
いろいろ面白いんですが、館長もその辺にこんなことをこの館に来て感じてもらえればとおっしゃってました。
実はその奥でいろんな仕事をやっていると。
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道用、童話、評論の仕事もやってますし、編集の仕事もやってますので、いろんな文人作家とのつながりがある、奥深い人だなということを知ってほしいです。
いろんなことが発見できる三山市の与田純一記念館、ぜひ訪ねてみてください。
中嶋理恵さんでした。
番組からのお知らせです。ホームページのご案内です。
これまでの放送内容と番組を1回目からじっくり楽しむことができます。
RKBラジオのホームページの、古代の福岡を歩くシーズン9のバナーをクリックしてください。
また、ラジオクラウドという無料アプリをダウンロードすれば、スマートフォンやタブレットでもお聞きいただけます。
この番組は三山市の企画協賛、餃子の山鉢、道の駅室方の提供でお送りいたしました。
ご案内は酒田秀大でした。
楽しみいただけます。
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