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2023-08-21 47:35

【トーク】#12 夏休みの大人の自由研究!がっつり語ろう「文化人類学の思考法」

前回に引き続き、夏休みの宿題で一番の強敵は自由研究!大人だからできる自由研究にチャレンジした第12回/今日紹介した本「文化人類学の思考法」(松村 圭一郎・中川 理・石井 美保編)

00:01
スピーカー 1
カランコローン、いらっしゃいませ。喫茶クロスロードへようこそ。
この音声配信は、本好きな友達と出会いたい人たちが、
フラッと集まる喫茶店をコンセプトに、
本がなかったら友達にならなかったであろう、
ナッシー・ユーコリン・ゾラヤンがゆるーく話してまいります。
お仕事の帰り道、家事をしながら、寝かしつけの後など、
ふと一息つきたいときに聞いてくださいね。
8月21日、第12回の配信です。
前回から、夏休みの宿題の話で盛り上がっている喫茶クロスロードですが、
やっぱり一番の強敵といえば、自由研究ですよね。
今回は、大人の自由研究ということで、
既作のメンバーで、文化人類学について、
学んで、考えて、話してみようという回になります。
ちなみに、文化人類学ってなんだ?と思われた方も多いと思うので、
前段としてご説明しますと、
分類としては、人類学の一部門という位置づけになります。
人間とは何かという問いがあったとして、
それを思考を組み立てて考えていくというのが哲学だとしたら、
実在する目の前の人間への観察とかフィールドワークみたいなものをベースにして、
その問いについて考えていくのが文化人類学です。
研究手法やアプローチが哲学とは、
言ってしまえば、頭の中と目の前と反対のところ、
みたいなところなのかなと思っているんですけれど、
考えたい問いとか目指すところが哲学と共通しているのが、
面白いなとナッシーは思っています。
さて、唐突に出てきたこの文化人類学を、
なぜ取り上げるのかというと、
先ほど言ったように、哲学とは違うアプローチで考えているところを、
面白いと思ったナッシーが、
このキサクロラジオの2人と話したいと思ったからです。
いや、ちょっと話してみたくてさっていうのが、
まず一番のこの回のポイントです。
で、もともとは松村圭一郎さんの、
後ろめたさの人類学っていう本が面白くて、
この本について話そうかなとかも思ってたんですけれど、
この本もね、結構重いというか長い本なので、
なんかちゃんと話そうと思ったら2時間ぐらいかかるしなとか思っていたっていうのと、
あと、ゆうこりんが前に紹介していた、
世界は雑魚でできているという本につながってくる話なので、
いや、もうちょっとこの話は後でしたいなっていうところも少々ありまして、
文化人類学の思考法という本の中の1つの章について、
今回は語る回にしようと思います。
03:01
スピーカー 2
これはあれだよね、ナッシーの文化人類学シリーズ第1弾ってことだよね。
スピーカー 1
そう、これからナッシーは文化人類学シリーズを作るかもしれないけど、
もしかしたら、なんか日記がなかったら、
ちょっと今回で終わっちゃうかもしれないから、
スピーカー 2
いや、日記とか書いてないから。
スピーカー 1
ぜひみんなお便りで、お便りナッシー応援してください。
ちょっと子難しかったとか言われたらちょっとへこむかもしれないけど、
っていう感じです。
では、今回自由研究するのは、10章。
子供と大人の章になります。
読んでみて、2人がどんな印象だったか、ゆうこりんからお願いします。
第1印象は、けっこう難しいなだったんだけど、
で、なんかこういう本読むと、
私こう思ってる、こう解釈してるけど、あってるのかな?みたいな不安にもなるんだけど、
自分の解釈で、こういう本ワイワイ語れるのは、めっちゃ楽しいなと思ったし、
この2人と語ってみたいなって思って、きょうはワクワクしてきました。
で、本はなんか、社会ってこんな構造になってない?っていうのを提示してくれるから、
ふむふむそうだなとか思って、すごい分析してんだなとか思ったり、
さすが研究者とか思ったりして、うなずいて楽しんで読んだよ。
で、ちょっと印象に残ったというか、こういう本読んだときに、いつも私が思うのが、
なんか、政王とか非政王、東洋とも言ったりするけど、
そういう対比で語られたときに、なんか日本でって思うんだけど、
日本ってめっちゃ面白い位置づけだなって思ってて、
地理的には、アジアというか、非政王地域なんだけど、
日本は近代化の波を受けて、政王列強に追いつき追い越せと、
現代に至っているっていう歴史認識が私にはあるんだけど、
で、そもそも東アジアとはいえ、島組だから、
歴史的には独自の文化が脈々と続いた上で、
その上にグローバル化がやってきて、
現代のような文化が築かれたのかなと思ったときに、
なんか日本ってそんな風に位置づけた上で、ちょっと面白いところなんだよって思いながら、
政王とかアジアっていうキーワードが出たときに、
私は社会について考えるなと思った。
なんかすごく地理的と歴史的に、日本の得意性について、ゆうこりんは考えてくれたんだね。
06:00
スピーカー 1
よし、じゃあ次はそらやん、お願いします。
スピーカー 2
私もこの本を、この本で話そうってなって、
この本を多分ね、2,3回読み返してはいるんだけど、
まあまあ難しくて、なんか本当に難しくて、
面白いんだけど、なんだろう、
そう、だから今日はすごい緊張していて、
この本の面白さとか魅力とか、文化人類学って面白いじゃんみたいなところをきちんと伝えたいけど、
自分の理解がちょっとちゃんと行き届いてるかとか、
言い回しとか伝え方とかちゃんとできるかなみたいな不安がありつつの今日を迎えた。
それぐらい、文化人類学という学問は簡単に説明できないというか、
簡単に説明してはいけない学問なのかなってこの本を読んで思ったんですよね。
私は素人なのでわからないんですけど、
なんか普段私は主語を大きくする話し方をしないようにしたいって思ってて、
ゆとり世代はとか、ああまあまあみたいな感じのことは言わないようにって思っていて、
でもまあそういう姿勢でみんないると経済も学問も政治も全然進まなくなっちゃうから、
そういう記号付けとかが必要だってことはもちろんわかっていて、
文化人類学はそういう日本国民だとこうなんじゃないかとか、
西洋的価値観、非西洋的価値観みたいなところを、
実際にそこに行ってフィールドワークを通じて本当にそうなのかなとか、
こうした行動がキーポイントで、別に他の国でも同様のことって成り立つんじゃないとか、
そういうことを研究されている学問なんだなっていうのを、
この本を特にその今日話し上がる10章を読んで改めて実感したところがあって、
だから、ある程度クラスター的な話をしなくちゃいけないってことはわかってるんだけど、
そこにどんどん切り込んでいく学問なんだ、文化人類学はっていうことを上手く伝えたい、
上手く伝えたいと思って、今日は頑張ろうって思ってます。
スピーカー 1
はい、ありがとうございます。
スピーカー 2
すごいね、このソラヤンの緊張が伝わってくるな。
スピーカー 1
画面越しに伝わってくるなって思うぐらいの、あれなんですけどってなんだよって感じだね。
今回の回をしようと思ったときに、何回も読み返したときに、
これを過不足なく人に伝えることができるのかって言われると、それはどうかなって思う本なんだけど、
この本の著者たちはきっともっとこういう本を話したりとか、
こういうことなんじゃない、ああいうことなんじゃないって思ったことを言っていくことで、
何か深めていってほしい側面もあるのかなって思ったりしたのと、
09:01
スピーカー 1
ナッシーはだから一人で咀嚼しきれなかったから、
二人にも手伝ってもらおうという自由研究にしたかったっていうのがあるので、
なので今日は、もしかしたらこの本の面白さを読んだ人にはまた別にあるのかもしれないけれど、
私たちが噛み砕いたらこんな感じになりましたっていうところで伝えたいっていう、
ちょっとね、若干逃げ道作った感じだけどね。
まあちょっとそういう話にしたいなと思っています。
こう分かったって思っちゃわない謙虚さは必要だよね。
そうそうそうそう。
これで全てを語れるとは私も思ってませんっていうね。
ちょっと多分3人ともそのスタンスは一緒だから、
大丈夫だよ、そらん。そんな緊張しないで。
というわけで、まずこの章を読んで、3人とも印象に残ったのはどこかなっていうところをざっくり話したときに、
この章の中で事故の成り立ちっていう小説があって、
ここでロサンゼルスと東アジアを対比させた話が出てくるんですよね。
この話をちょっとあげたいと思っております。
スピーカー 2
10章はさ、そもそも私の、
これ全くこの本を1ページたりとも開けたことのない人に向けて説明しておいた方がいいかなって思ってしゃべるんだけど、
10章は子供と大人っていうテーマで、子供と大人っていう章で、
子供とは、大人とはみたいなことについて、
文化人類学的目線で語り続けてるっていう章だよね。
スピーカー 1
そうだね、そうだね、確かにそこはいるかもね。
子供と大人について文化人類学的に見たらどうかという章ですね。
その中でロサンゼルスと東アジアを対比させた話が出てまいります。
このロサンゼルスの社会では、相互独立的自己感、
つまりこれは、周りとは切り離された独立した自己っていうところに重きが置かれているようなところが、
社会的にそこが重視されているっていう、そういう自己感がある一方で、
東アジアでは相互依存的自己感、つまり他者との協調を重んじることに重きを置かれています。
この社会という切り口で、この2つの地域は相反するものみたいなことで出てきていて、
ロサンゼルスの親が理想的には子供は独立してほしい、独立性を願っているみたいなことを言ってるんですけれど、
この相互独立的自己感がある社会であるロサンゼルスでは、子供たちは厳しい競争にさらされることになるので、
12:00
スピーカー 1
結局親は子供の宿題を手伝ったり、安全のために送迎を、学校の送迎を行ったり、みたいなことをしている状況です。
こういう状況なので、子供の依存性は助長されている。
一方で、相互依存的自己感の例として挙げられているのは、東アジアじゃなくてこの例ではペルーのマシゲンカや南太平洋のサモアなんですけれど、
この地域ではコミュニティはお互いに助け合うということを重視しています。
でも、子供の身の回りの実践という時とか、自律的に振る舞うことが求められていて、相互独立的自己感と相互依存的自己感っていうふうに対比させられて出てきているけれど、
結局これは両立できるものであるっていうふうに書かれているんですよね。
で、ちょっとここまできてみんなついてこれたかなって不安なんだけど。
スピーカー 2
自分の成したいことは自分でやりましょうみたいな相互独立性と、成したいことをやるには周りの協力が必要ですよみたいな依存性、相互依存性みたいな。
あなたにもやりたいことがあるし、私にもやりたいことがあるよね。別に一緒じゃないよねみたいなのが独立性、自己感。
あなたも私も似たようなところを目指してるよねみたいなのが相互依存性、自己感と、私は勝手にかなーとかって思って読んでたよ。
スピーカー 1
私もそらやんと結構似てて、理解は、相互独立性は、自分ができることは自分でやるし、何か成果を自分が出せたら自分の成果だし、みたいな。
相互依存性だと、みんなで目標を達成しようぜ、みたいな。何か達成できたのも、このチームでやれたからだ、みたいなイメージを持ってる。
なんかさ、その話でいくとさ、結構さ、私の解釈とちょっと違うなって思ったのは、その相互独立性のところは多分2人と似てる解釈なんだけど、相互依存性のところは、何だろう、他の人に頼るとか、
何か他の人との関係ありきで、すべてを、何だろう、物事を進めていくっていう考え方なのかなって思ってて、でも同じこと言ってるか?何だろうな。
スピーカー 2
あれじゃない?こっからどんどん話していったら、何か同じことを言っているようで、ちょっと違うんだな、みたいなのが見えてくるかもね。
スピーカー 1
そうそうそう、なんかそう、私も話してみたかったのは、結局、ちょっとなしに話を戻してもらうと、結局その相互独立的自己感と相互依存的自己感みたいな話が出てきたときに、
15:05
スピーカー 1
普段の生活ではどっちの方が求められる場面が多いのかなとか思っていたんだよね。この本を読んでいるときにそういうことを考えていて、で、私は会社のチームで働くのが結構その相互依存的だなって思ってて、
その理由としては、分業してこのチームでやっていくみたいな考え方をしたときに、他の人がこの仕事をするっていうことありきで全てが進んでて、
自分で完結してなくて、他の人の助けがあることが前提にして動いてるって人とさ、全部自分で完結させて動かしていかなきゃいけないんですよっていう人とさ、
よくよく考えると部署によって違うっていうのもあるんだけれど、私が今いる部署とかそういう他の人に渡すこと前提でこの仕事をして、
ここの部分は他の部署の人が作り上げてくれるからみたいな仕事の仕方をしてるな、すごく相互依存的だなって思ってたんだよね。
って思ってたから、多分その他の人の存在があること前提で、だからすごく東アジアの地域でそれが根付いてるとかっていう話も、
なんかそうだよなって会社とか結構そういうふうに回ってるし、地域のコミュニティとかもそうやって回ってるのかなとかって思って、
そういう理解で湧いたんだけどっていうところなんだけど、どうですかそらやん。
スピーカー 2
確かにだってさ、急にさ、毎日スーパーは開いてくれているっていうことに依存してるわけじゃんね。
スピーカー 1
ま、そうね。
スピーカー 2
我々はね。
10章の子供と大人っていうところで、何をもってして子供、何をもってして大人みたいな話がずっとあるんだけど、その中で相互的、相互独立性と相互依存性のところの理解をしていくっていうところが、
子供から大人になるステップの中で必要なことではないなことを書いてたのかなって思ってて。
私自身も、私も普通の会社員なんで、相互依存性がやっぱ表面的に、表面的っていうか、相互依存性が求められることが多いというか、
それは当たり前だけど、必ず同僚が仕事をしてくれると信じている。依存している。依存しているわけだよね。
ありがたいよね。
子供の頃も、相互依存性が求められる環境がすごく多かったのかなと感じていて、大人もやっぱそうなのかなっていうふうに思っているけど、
でもなんか最近は相互依存性が求められているが、相互独立性がないと、その相互依存性は成り立たないのではないかってさっきの、
18:06
スピーカー 2
大家族にいて、コミュニティで子育てとか生活を成り立たせるってところで、自分が今、私、洗濯物しなきゃコミュニティ壊れるとか、
みんな考えて行動しなきゃいけないっていうところとか、相互独立感みたいなのは求められるなっていうのをすごい感じるようになってきていて、
私は新卒からいわゆる働きやすい会社に勤めていて、いろんな制度も整ってるし、子供に何かあった時、自分に何かあった時、周りに何かあった時には必ず助け合うみたいな風土もしっかりできているんだけど、
その中で感じるのは、じゃあ自分はどういう働き方したいのかとか、私はこういうキャリア感だけど、目の前の同僚は自分とは全く異なるキャリア感を持ってるなみたいな。
その組織として成していくことは一緒なんだけど、それぞれの確立した事故みたいなのもあって、そこはやっぱ違うんだよなみたいなのがないと、自分はこうしたいみたいなことがうまく言えずに、
うまくやっていけないみたいなことがあったりとか、もやもやしちゃったりとか、しんどいのかなーって思ったりしたっていうのと、
人はチームで働くってなるとやっぱ人と自分では得意分野が違うってことをどうしても嫌でも意識させられるし、
そういう時に、この人にはできないけど、私にはこれができるっていう、このスキルを高めていきたいみたいな、組織の役に、組織の目標に貢献していきたいみたいなことがないと、やっぱうまくいかない。
それもやっぱ相互独立性なんだよなーみたいな。
スピーカー 1
ゆくりは?なんかしゃべりたそうにしてたよ。
なんかね、さっきまで話してきた中で、ちょっと考えが思いついたというか、思ったのが、でも私自身は、なんか相互独立性が強くなりつつあるのかなっていう気がしてて、
ただなんか相互依存性みたいな、なんか相互依存性っていうのは、今まで話してきた文脈でいくと、結構こう人に感謝をして、この方がいたから自分もこういうことができたみたいな、
なんか関係性とかも大事にして進んでいこうみたいなところだから、相互依存性に憧れみたいなものがあるんだけど、
なんか例えば、近所で関係性づくりうまいなっていう子がいて、その子はいきなりごま油貸してとかってLINEが来たりするんだけど、
なんか自分はそうやって頼られたら嬉しいし、関係性も良くなるなって思うけど、逆に私が別に欲しいなら自分で買いに行くしみたいな、
21:06
スピーカー 1
自分でできることは自分で解決しちゃうから、なんか相互依存性が高まらないんだけど、
なんで、ミクロな部分では相互独立性を高めつつも、相互依存性に憧れながら関係性にちょっとドギマギしてるみたいな感じなんだけど、
会社だともう仕組みというか目標が何かによって、相互依存性と相互独立性をどっちを使うかを使い分けてる気がして、
なんか有名なアフリカのことわざで、早く行きたければ一人で行け、遠くへ行きたければみんなで行けってやつがあるじゃないですか。
だからなんかちょっともうこれ緊急なんでみたいな感じで、案件があるともうできる人にこれやってみたいになるし、
ちょっとこのプロジェクトはみんなで乗り越えて若手の成長も見据えてみたいなものだと、相互依存的なチームで遠くへ行けるように進めてるのかなと感じたりしてる。
なんかすごく今聞いてて思ったのは、個人の認識としては相互独立性をすごく求められてる、求められることも特に多くなってきてるのかなと思ったんだよね。
あんまりこう自分でなんとかしないよみたいなさ、自分でなんとかしなさいみたいなところ、そういう意味では相互独立性を高めることを求められてるのかなとか。
でもなんかこう、でも相互依存的な感じの方がゆうこりの話とかだとさ、頼りやすいというかさ、他の人ともっと関係性を良くしていたらいいみたいな感じになるのかなとかって思って。
スピーカー 2
よしよしっていうよりはその相互独立性っていうものと相互依存性っていうものが社会にはあるんだよっていうことを、
今から私は一時の親目線で突然喋るんだけど、子供から大人になっていくっていう中で、相互依存性っていうものと相互独立性っていうものがこの社会には存在しているっていうことを、
それがどっちが良いか悪いかって言ってなくて、それがそこにはあるんだっていうことを大人になる過程で学んでいくんだけど、
人といる集団とかいる環境によって、どっちが先にスクワッチが高まっていくかっていうのがバラツキがあるよねみたいな。
スピーカー 1
あーなるほどね。それはすごくわかりやすいな。
スピーカー 2
そういう感じなのかなーって。
スピーカー 1
確かに。どっちが良いとかじゃないもんね。
スピーカー 2
そうそうそうそう。だからなんか、私が今娘に与えている環境は相互独立性のスクワッチが伸びるのか、相互依存性のスクワッチが伸びるのかみたいなことを意識していく感じ?わかんない。
スピーカー 1
でもそれで考えると確かに、結局両方とも共存してるから、相互独立性も相互依存性も両立できるものであって、両方ともあるから、あれ今どっち強めなのかな?ぐらいに考える方があれなのかもね。
この地域は相互依存性が高いとか言っててもさ、そうじゃない場面もありますよってさっきの例があったようにさ、それだけの社会とかがあるわけじゃないからっていう話だよね。
24:08
スピーカー 1
ちょっとなんかこれだけでもすごくいっぱいしゃべれそうなので、ちょっと次行きまーす。
実はこの話はその後、働くということにつながっていきます。働くっていうことも、会社の中での話とかを持ってきたのは前段として持ってきたかったという意味で、
子供っていうのもいつか、この章は大人と子供の章なのね。子供っていうのはいつか社会で、その社会での貢献を期待されるようになるっていうことがまず書かれていて、
本当の私ってなんだろうっていう問いを子供が持つようになってくるっていうことが、この文化人類学のこの本の中では、子供と大人を分ける、分水嶺っていう言い方をするとあれだけど、分けるポイントになるのがこの問いなんですよ。
で、それはどうしてかというと、どうやってこの社会と関わろうかっていうふうに子供が考えるようになるからだと言っているわけです。
で、この章の中で、その承認の話にこの話は続いていって、私たちが他者を通して自分を認識していく、認識する関係を承認と定義したときに、
子供が社会化していく中で相互承認のパートナーを広げていく、この本当の私見つからないって悩む原因も相互行為の中のパートナー、例えば就職することを望んでいる会社や社会全体から思うように認められないっていうことがあるっていうことが書かれてるんだよね。
で、結局本当の私って何だろうっていう問いは、きっと誰もが経験したことのある問いで、そこが大人と子供の別れ目になっているっていうところが私はすごく面白いなと思っていて、
この段階で承認してほしい領域の階段が一段上がってるから、そのことですごく悩むんだろうなと思うとしっくりきたし、
高校に行ったときに、自分と話が合う友達ができたから、学校に行くの楽しくなったなとか、自分が欲しい承認がそのまま得られるようになったからなのかなとか、
で、就活のときにすごく自分が何がやりたいのかって考えたのも、結局今一番欲しい承認の形っていうのを明確にする作業なのかなって考えると、いろいろ納得がいくなって思って、
この話が承認に結びついていくのがすごく面白いと思ったんだよね。
ちょっとこの話で、自分探しっていうキーワードが出たんだけど、私は自分探しをめちゃくちゃこじらせた経験の持ち主なんで。
今思えば、めっちゃひとりよがりな価値観で突っ走ってたら、みんなが冷めた目で見ていて、
で、私はその役割をできなくなり、ちょっとうよ曲折あり、ニートになり、実家で引きこもるみたいなことになった。
で、引きこもっている中で、たぶんその時は、この私なりの自分みたいなものがめっちゃ強く出てたんだと思うんだけど、
で、実家に引きこもると、その意識が薄れてきて、もう流れに身を任せていきようかなってしたところ、会社員になりましたとさ、という物語なんだけど。
27:13
スピーカー 1
そう会社員に終わるんだね。
そうそう。結果的に良かったんだけど、その時の私にとっては、社会に承認っていうものを得られると認識した位置づけが、会社に就職することだったんだなって思った。
なるほどね。そらやん、どうぞ。
スピーカー 2
子どもが大人になっていく過程で、社会から働くっていうことを、今の社会は働くことを期待、社会からの貢献を期待されていて、
で、その中でみんな同じ仕事、みんな同じタスクってならないのが、この人間の面白さっていう。
やっぱり本当の私じゃないけど、私にしかできないこととか、私なら役に立てることとか、私らしい何かみたいなのを、なんやかんや人間は求めているだなっていうのが人類の面白いところなのかっていう風に思い、
働くっていうステップの中に、働いて社会に承認されるっていうステップと、人間としての発展がつながっているのが面白いなっていう風に思っていて、
私は多分、これまで十何回話してた中で、マジで多分信じられないと思うんですけど、私は相互依存性がものすごく強調されていた子ども時代を過ごしてからいたので、
人間関係は人に合わせるっていう価値基準で結構行動していて、中高は。だからなんだろう、すごい、こういう関係はすべて相手の意向に合わせるものっていう考え方だから、
一緒にいる友達で遊びに行く場所もメイクも服も買えるし、見るテレビも買えるし、みたいな。
そうすると、周りからすると何考えてるかわからない。だって、Aちゃんと話してる時はこういう感じなのに、Bちゃんと話す時は全然違うんだよな、みたいな。
私としては、人間関係はそういうものだって思ってやってたけど、周りからするとすごい。
じゃあ、あなたの独立性って何なの?みたいな、多分。そんな難しいことは考えないけどね、中高生は考えないけど。
っていうのがあって、進路とかの話がすると、さすがにね、そこからは何か決めなきゃいけないから、そこで自分の進路がなんとなく決まって、
それに向かって勉強するようになってからは、やっぱり周りとちょっと行動が変わってくるし、私は理系だったから、理系の女の子は当時はとても少なくて、
クラスに2人いたかな?ぐらいの感じだったから、もうそこだけで結構独立性、独立してくるし。
それで多分、私ってこういう子なんだなっていうのが周りから分かるようになって、
じゃあ、だったらこういう話をしてみたらいいのかなとか、そういうふうに周りが思ったのか分からないけど、
本当の私みたいなものが形成されていって、友達とすんなり交流できるようになっていったなぁみたいな実感があって、
30:08
スピーカー 2
前の段階の相互依存性、相互独立性みたいなものが、どっちもそのスコア値としてある程度備わっていて、
で、承認関係みたいなところで、本当の私みたいなのがあって、それが揃うと大人への階段を上がれるっていう、
大人への階段を上がれるって不思議だけど、そういう感じなのかなって振り返ってみると、思ったりする。
スピーカー 1
あ〜。
なんか、ごめん、そらやんのやっと前段のこのスコア値の話が繋がってきた気がする。なるほどね。
スピーカー 2
この章はさ、子供から大人になる、つまり子供って何があって、大人ってどういう状態で、みたいなことをさ、多分ずっと綴っているのかなって思ってて、
で、結構この話を読んだ時に、その相互独立性、相互依存性が次のステップにどういう影響を与えているのか。
スピーカー 1
で、そのまた承認の先に、みたいな、そういうことなのかな、みたいな。
いやね、でもそう、それはでも確かにあるかもね。なんか自分の中で、みんな仲良くやりましょう、みたいなところとかさ、
まさに相互依存性をさ、教育されている場所だなって思ってて、
でも一方でさ、自分の本当にやりたいことって何でしょう、みたいなこともさ、特に最近は言われるようになってて、
なんかすごくさ、今までその、多分日本の、わかんない、ちょっと日本って言うと主語が大きいけど、
多分この私たちのいる社会での文化は、きっとその相互依存性をまず高めてから、
まあちょっと頑張って、相互独立性、そのうち考えてね、で、大人にしましょうね。
大人にしましょうねというか、大人になりましょうね、みたいな、多分ステップになっていて、
だから多分その相互依存性が強く、今でもかかってるなーって思う一方で、
でも結局その両方が溜まっていかないと、うまく自分を作れなくて、
そうそうそうそう。
っていう話だよね。
そうそうそうそう。
スピーカー 2
なんかそうなのかなって、振り返ってみるとね、
スピーカー 1
そうね。
スピーカー 2
何考えてるかわかんないって、めっちゃよく言われたなって思って、
でも私はあなたのことを考えてるんだけどなーって感じだったんだよね。
でもそれはあなたのこと、だからなんかやっぱこう、
言葉のキャッチボールじゃないけど、なんかその独立性のキャッチボールじゃないけど、
返ってくるものが鏡だとおかしくなってくるってことだよね。
鏡に映った自分になってると。
私は多分そういう状態になってたんだろうなーって。
スピーカー 1
うーん、なんか意外なソラヤンの過去も知れちゃった、今回の自由研究ですが。
スピーカー 2
自由研究だね、自由研究っぽくなってきた。
スピーカー 1
自由研究っぽくなってきたでしょ。
スピーカー 2
うん、すごい今考えてるもん。
台本一生懸命作ってきたけど、いまだにずっとぐるぐるぐるぐる考えながら喋ってる。
そして2人を困らせてる気がする。
そこ、台本にないわよみたいな。
スピーカー 1
いやでも、なんかね、台本に起こさないことこそなんか面白いのかなと、
33:01
スピーカー 1
私は思ったりもしてね。
もちろん本の引用のところはちゃんとやらなきゃいけないから、
めっちゃしっかり台本は書いたし、
ちゃんとこの話をなんとかまとめなければいけないという使命感もあるので、
なんとかゴールまで行こうとは思っていますが、
意外ともう時間も長いので、
じゃあそのまま最後のところに行きますけれど、
そういうね、その証人の話もあった中で、
この中ではさったらき方みたいなところが最後出てくる中で、
最後ではないんですけど、その話が出てくる中で、
狩猟採集民の社会が働き方が違う良い例として紹介されて、
この本の中で紹介されているんですね。
例として挙げられているのは、
カラハリ砂漠の狩猟採集民3です。
3の人たちは、男の人が狩り、
女の人たちが採集行動を行っていて、
それ以外の分業はしていません。
食料の分配も顔見知りという小さなグループで平等に分けられるので、
少ない労働時間で、その組織の中で必要な栄養を取ることができるそうです。
こうすると何が起こるかというと、
結局その3の子供たちは、いわゆる家事とか、
この狩猟採集行動とかに追われていかないんですね。
代わりに遊びの中で、
このため狩猟採集行動のための知識や技術を身につけていくということになります。
これは何でその良い例になるかというと、
結局その子供が大人になるタイミングみたいなのも、
その社会がどんな社会かということにつながっていて、
その問いについて考えるタイミングも、
その社会の構造に起因しているんだよということを、
この例を挙げて説明したかったという話ですね。
結局これを社会の働き方が違うのも社会の例だよということを言うと、
ちょっと話が大きすぎてイメージできないかなと思って、
でもそれをちょっと教育とかに話を変えてみたらさ、
それが国ごとに違ってかつある程度、
人の手に手で決められて変えられるものだから分かりやすいと思ったので、
今回は例えばゆとり教育とかの話を最後にしようかなと思っていたんだけれど、
結局私とかソラヤンはちょうどその教育を受けた世代にあたりますし、
申し子だよ、申し子。
スピーカー 2
そう、申し子、申し子。
スピーカー 1
その後廃止されるという経緯をたどった教育なのでね、
あの前後でどんな変化があったのかなということを最後に話して終わろうと思います。
スピーカー 2
私さ、この本の話を先週末に旦那さんともしててさ、
その相互独立性とか相互依存性とか、
じゃあ本当の本当の私を成り立たせるまでのステップみたいなところを、
どういうふうに踏むかみたいなところで、
ゆとり教育は分かんない。
これは私の受けた結果として解釈しているんだけど、
ゆとり教育っていうのは本当の私を見つけるにあたって、
めちゃくちゃギャップがでかい。
36:02
スピーカー 2
今まで決められたもので100点を目指しましょうみたいなのが、
突然あなたの専門的な部分を作り上げていきましょうみたいなのが、
小中学校、高等教育みたいなところのめちゃめちゃ大きなギャップになっていて、
そこを埋めるべく本当の私を培う時間を設けなければみたいに思って、
取り組まれたのかなっていうふうに思っているんですけど、
違うかもしれないけど。
でも私と旦那さんで結局それってどうなんだみたいな、
本当の私、いわゆる自分の中の主体性みたいなものを教育するっていうのは、
その言葉の中に矛盾をはらんでいるから無理ではみたいな感じになって。
スピーカー 1
ここすごいよなと思った。確かに矛盾だなと思った。
スピーカー 2
教育っていう決められた枠の中での活動である限り、
真に主体的になることはできなくないみたいに言われて、
でもその真に主体的にいけるってことは、よくよく考えた社会の中では無理なんだけど、
でも自分の専門性強みがないと大人として社会に関わっていくっていうところでは、
人類にはどうしても必要な要素だから、
そのギャップを何とか埋めようみたいな感じで、
ゆとり教育が始まっていたのかなって。
とにかく先生たちの苦戦っぷりが、私はすごく印象に残っていたんだよね。
本当に何をすれば培われるんだろうみたいなことを、
ものすごい真剣に考えてくれてたと思うんですよね。
結局でも苦戦した結果、ほとんどが自習時間みたいな感じになっちゃってたなっていうのはあるし、
しかも総合教育っていう名前だったかな?
総合の時間みたいな。
そういう自分、本当の私とか、主体性とかっていうことを育むはずなのに、
評価基準があるんですよ。
通知表ってものが、内心点があるからさ、しょうがない。
助言だからしょうがない。
でも総合の時間に5、4、3、2、1があるっていう。
そこはさ、クラス全員で一律に評価しなきゃいけないわけじゃん。
主体性を。
バラバラなはずのものを。
いやー、それさ、苦戦するよねって思って。
主体的に生きるって、私はゆとり教育が私の人生をどうしたかっていうのは、
あんまり深く考えたことはないんだけど、
主体的に生きることを培う。
主体的に生きる人間へと人を導いていくっていうことが、
本当に難しいんだなっていうのを。
でも私、今そう慣れてるかっていうと、めちゃくちゃクエスチョンマークだし。
でも、すごい上手くやってる自分より年下の人とかもいると思うんだけど、
主体的に生きる、主体的に生きることを培うっていうことは、
39:02
スピーカー 2
突然私親になるんですけど、また寝そう。
スピーカー 1
ここからね、親の空矢になるね。
スピーカー 2
親子としても難しいし、ただただ試行錯誤するしかない。
ただその、自分が主体的に生きられてないのは何々のせいだとかって言っちゃったら、
もう主体的に生きるための土俵から降りちゃってるから、
それはダメなんだなっていう。
どうにもならないんだなっていう。
主体的に、君たちはどう生きるかをただひたすら問い続けるっていうのが、
試行錯誤なんかかなって思ったり。
スピーカー 1
ゆこりんどうぞ。
そこまでの話聞いて、私がさっき言ったけどニートになって、
自分の意思というか主体性をなくして、
社会はこんなこと求めてるんだろうなっていうのに従って生きてたら、
そらやんの中高生時代みたいに、
あなたがやりたいことが、私のやりたいことなんですみたいな感じで生きてたら、
それなりに楽だったし、
それまでの教育って、先生の言うことに従ってて、
先生が求める答えを出してたら、優等生になれたっていう時代だから、
めちゃめちゃそのことに慣れてたなと思って。
でも、たぶん会社自体は、そういう人ばっかりだと何の発展もないじゃん。
そんな時に、考える人を作らんとみたいな時に、
ちょっとゆとりがいるんじゃないのかと思い、ゆとり教育を編み出したのかなってちょっと思った。
背景を想像するにね。
わかんないけどね。
私たちが話してるだけですけどね。
なんかその、私の主体性のない時代は、
その仕事とかも、あんまり考えずに前例当主だよね。
先生が求めるのはこれだろうみたいな、答えはこれだろうみたいな感じで生きてたら、
何の発展もないから、自分はどう考えるかとか、
そういうことを考えた上で、仕事に取り組むみたいな、
そういう能力を求めた結果の教育なのかなって思ったんだけど、
私はそういう自分っていうものをなくして、
生きてきて、仕事してて、
楽なんだけど、なんかもう人生つまらんなって本気で思ってて、
それだとね、楽だけどつまんないんだね。
楽だけど、なんかもうずっとぬるま湯だわみたいに思ってて、
そんな時に子どももできて、
社会課題に目を向けるようなコミュニティにも出会って、
子どもにどんな背中を見せて生きるかなみたいなことを考えた時に、
人生が面白くなってきたなって思う。
ちょっと面白いなって思ったのは、
さっきのソラヤンの相互依存と相互独立のスコア値を、
バランスよく発展させていくと、
うまく社会に進んでいけるのかなって。
ソラヤンはうまく発展させていったのか、
42:02
スピーカー 1
ちょっとソラヤンに言わせれば、
いろいろあったのかもしれないけど、
私みたいなニートになっちゃうみたいなのは、
学生時代、相互依存的な、
あなたのやりたいことが、私のやりたいことですみたいに生きてきたのに、
私、社会に出るぞってなった時に、
自分の考えはこれだみたいに突っ走った結果、
独立性を超主張した結果、
バランスが何もなく、
なるほどね。スコア値がね、振り切っちゃったんだ。
バランス全然ダメじゃん、なった結果、
折れたんだけど、ちょっとバランス取れたというか、
私の場合だと、会社員になるってことで、
承認されたような自己認識を得られて、
社会に次に進んでいけられたのかなって思った。
なるほどね。
スピーカー 2
入った社会が、スコア値をどのくらいのバランスで求められているかで、
噛み合うか噛み合わないかっていう、
もちろんだから、どっちのスコア値もさ、レベルマックスが、
きっとね、いろんな、マックスなければ下げることもできるから、
例えば、相互依存性を相互独立性に、
みたいなところだったら、
55スコア値持ってたらスって入れるし、みたいな感じに。
だから、求められる社会によって、
スコア値、求められるスコア値もまた違うっていう、
それだけのことなのかなとかって。
スピーカー 1
そうだね、私がその入ったところも、
めっちゃベンチャーですみたいなところだったら、もしかしたら。
そうだね、自分を出してるときもそうだよね。
ただ、なんか思ったのが、
教育っていう場所のパラメーターだけグインって変えても、
やっぱ、なんかおかしなことになっちゃうんだよね。
私はそれが言いたかったかな、どっちかっていうと、
うまく考えさせることができる場所みたいなのを、
行きかけを作るとかはできたと、私は思ってるのね。
ソラヤンの学校は、ちょっとどうだったのかわからないんだけど、
私の小学校は、テーマ設定がうまい先生がいて、
それなりに形になる年もあったみたいな。
すごい良い総合学習をしてるなって、私自身も思ったし、
学習するっていうことの楽しさみたいなのも、わかったところもあって、
でも、それは学校はきっかけで、それから自分でも調べるとかさ、
親も、ちょっとそれって面白そうだからやってみようよとかさ、
それをつなげてくれて、かつ、私は高校に結局聞きに行ったりしたのかな。
高校の先生に、遺伝子組み替え技術を習いに行ったりとか、
多分そういうこともした。
でも、あれはちょっと総合学習ではなかったかもしれないけど、
そういうことをつないでくれる先生とかもいて、
その興味をうまく育ててくれる人もいたし、
そういうので主体的にできる余地はあったと思うんだけど、
45:02
スピーカー 1
だから結局何が言いたいのかっていうと、
すごく難しいというか、今までと違う尺度の話をいきなり持ってきたから、
すごくそれで現場は混乱したし、
それをうまくできる学校とできない学校とかっていうレベルがすごく分かれちゃったとかもあるだろうし、
その主体性と相互依存性を、
でもさっきの話がすごくまとまってたと思うんだけど、
その社会の中でそれがどっちがどれぐらい必要なのかみたいなところの求められる具合で、
うまく進めるかないかみたいなところが決まっちゃうっていうところが、
結局やっぱりその文化人類学的にも、今の社会だとそういう方がハマっちゃってるというか、
こういう社会だからそういう風になっちゃってるけど、
そうじゃない社会もあるよっていうのが例示されるよねみたいな。
だから世界に目を向けてみたら、日本の例もほんの一例だよねっていうことが往々にしてあるっていうのが多分、
この文化人類学の話で出てくる面白いところなのかなって思っていますっていう形で、
ごめんちょっとまとまりきったかわからないけどまとめに入ろうと思います。
違う文化や社会を知ること、今回すごく話も広がったんですけれど、
そういうことで一つの文化とか一つの社会の中では、
だけでは考えられなかった思考で今の自分の状況を見つめ直せるっていうのが、
この本を読んで私の一番の学びになった部分だなと思います。
今回の回が、この夏の違う社会の文化を知るとか、
文化人類学ちょっと学んでみようかなと思うきっかけになったらすごく嬉しいです。
スピーカー 2
文化人類学シリーズはまだいけそうな気がしました。
スピーカー 1
やったー、ありがとう。
はい、ではここで木桜からお知らせです。
木桜ではお便りの募集が始まっております。
あなたが最近気になっている本、メンバーへの質問、悩み、心の叫び、何でもお待ちしています。
ポッドキャストの紹介文やノートにお便り投稿フォームのリンクを用意しておりますので、
そちらからぜひご投函いただけると嬉しいです。
さて名残惜しいですが閉店のお時間です。
今後も木桜クロスロードは、本好きなあなたがゆっくりした時間を過ごせるよう、
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それでは本日はお越しいただきありがとうございました。
またお待ちしております。
バイバイ。
お疲れ様です。
47:35

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