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2026-10-14 50:06

episode.87 もみのき食堂 又野寛さん 前編

今週のゲストはもみのき食堂の又野寛さんです。


どうぞお聴きください💁‍♂️


talk topics

バレーボール/司法書士事務所へ/ビーチバレーにハマる/家族のための料理/もみのき食堂とブログ


番組のオープニングとエンディングの楽曲はお寿司のともみさん @osushinotomomi のアワーヤングです。


楽曲が気になった方はお寿司のともみさんの通販サイト、Spotifyをチェックしてみてください。

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サマリー

又野寛さんは千南市で育ち、小学校から大学までバレーボールを続けました。大学では法律に興味を持って司法書士を目指し、試験には合格できなかったものの、司法書士事務所で14年働き、契約内容を説明して人に納得してもらう仕事や各地を訪ねる業務を経験しました。20代後半からはビーチバレーに夢中になり、和歌山代表としてビーチバレージャパンにも出場しました。 結婚と子育てをきっかけに、器や家具、部屋づくりへのこだわりと自分の店を持ちたい思いが強くなりました。娘の体調や妻のつわりをきっかけに玄米菜食などを調べて料理を始め、弁当を作って「もみの木食堂」というブログに記録しました。自然食品店や田舎の暮らしに関心を深め、家族とともに和歌山県君野町へ移住し、食と農に関わる仕事を始めるという漠然とした計画に挑戦した経緯を語っています。現在の食堂を13年続け、朝や夕暮れ、星空も伝えられる宿づくりにも取り組んでいます。

もみのき食堂と宿づくり
岩手市のヘアサロン、アーカイブスのqです。有田市でみかんなどやっていますARCの上田です。 この番組は、和歌山で活躍するゲストの方にインタビューしていく番組です。
kisenradio第87回です。本日は、黄身の町にある、蔵と栗で収録しています。 本日のゲストは、もみのき食堂の又野寛さんです。
又野さんの生まれから現在に至るまでのルーツや、現在のこと、これから計画していることについてお聞きしていきます。
よろしくお願いします。 よろしくお願いします。 では、早速、又野さんから自己紹介をお願いしてもいいですか?
はい。えっと、又野ひろしです。 えっと、
千南市生まれ、1971年の生まれの千南市で生まれました。
はい。 今は、
和歌山県の黄身の町の蔵と栗っていう場所で、もみのき食堂という食堂を運営しています。 ありがとうございます。
今、そのもみのき食堂で撮らせてもらっているわけなんですけど、すごい良い場所ですね。 ありがとうございます。ここで13年目になります。
13年。すごい。で、なんかこの、これから計画していることについてのあれなんですけど、
収録前に、これからやるお宿の方をちょっと、きゅうさんと2人で見に行かしてもらいまして、ちょっとヤバすぎますね。
ありがとうございます。もう押し付けで見せちゃったけど。 いや、めっちゃかっこよかったです。
全然まだまだ未熟なんですけど、この辺、ほんと引っ越してきていい場所やなと思って、引っ越して15年になるんですけど、とにかくいいとこやなと思って。
で、ランチの店やってるんで、お昼時しかこの辺の良さを知っていただくことができないなと思ってたんですけど、
朝もやっぱり素晴らしいし、夕暮れ時も夜の星もとにかく気持ちいいんで、そういうの伝える場所を作りたいなと思ってたんで、ちょっと素敵なチャンスに巡り合って、なんとかやっていきたいなと思ってます。
千南市での少年時代とバレーボール
そしたら、揉みのき食堂とか、これから始まるお宿とかをやってるマタノさんが、どんな感じで今まで行っていかれたのかっていうのを、これから聞かせてもらいたいんですけども、その前に改めてキセンラジオの説明をさせていただきます。
キセンラジオは、和歌山でお店をしてたり、何か活動してる人が今までどんなことをしてきて、今の仕事をどんな思いでやってるのかっていうのをインタビューする番組です。
今回もマタノさんのルーツから時系列で教えていただきたいんですけども、まずマタノさん、生まれは千南市っていうことで、千南のどんなエリアっていうか。
樽井っていうところなんですけど、千南市役所がある真ん中の方なんですけど。そこで生まれました。南大阪なんで、ちょっとヤンチャーな感じなんですけど、お祭りも活発。
千南市って和歌山からすごい近いんですけど、あんまり行く機会がなくて。
みんな千南イオンに来てくれますけど。
確かに千南イオンと凜空のアウトレットのイメージが。
そうですね、それが有名というか、みんなそれで来てくれるなと思ってます。
マタノさんの生まれ育った場所はどういうエリアっていうか。
普通に、父は千南生まれなんで、うちの人が住んでるエリアでした。
そしたら結構昔ながらの住宅街みたいな。
そうですね、昔の長屋みたいなところ。尺屋に家族5人住んでましたんで。
一番下、お兄ちゃん2人寄って。一番下です。
じゃあ、お父さんお母さんとお兄ちゃん2人とマタノさんみたいな環境で。
マタノさんのお父さんお母さんとかどんな感じの仕事とか。
お父さん結構ヤンチャーだったんで。
そうなんですか。
食はてんてんとしまくってまして、ただ食べること好きだったので。
うどん屋さん、お食堂もしてたことあるし、お寿司屋さんもしてたことあって。
僕は記憶のないところなんです。記憶は一切ないんですけど。
いろんな職種経験した人なので、やることはお父さんとかぶってます。
影響をすごい受けてたり、料理最終僕が取り組むことになったし、
カメラがすごい好きだったり、カラオケがすごい好きだったり、そういうキャラはだいぶかぶってます。
趣味の人みたいな感じだったんですかね。
ギャンブル好きだったんです。そこは見なかったんですけど。
よかった。
もうほんまそういうトラブルはずっと耐えず。
そうなんですか。
やんちゃさんだったんで。
どういうトラブルですか。
お金にルーズです。
あといろいろ、ギャンブル好きなんで、そういうトラブルかなっていう。
でも最終的にはパチンコ屋さんでお仕事してたんで、
お仕事にしてしまうほどパチンコも好きでした。
なるほど。
またのさん子供の時はどういう子供やったんですか。
いやもう普通、難しいですけど、
両親働いてたんで、割と放置系で育っているので、
なんか自分で作って食べたり、
今思えばたくましく生きてたなって感じですね。
あとバレーボールがずっと好きだったんで、
小学校からずっと取り組み続けたかなっていう感じですね。
小学校からバレーやってて。
もちろん競合とか、競合校とかではなくて、
ほんまぬるい部活の勉強、
そう言ったらちょっと仲間に悪いんで、
一生懸命やってました。
部活動として懸命にやってた感じです。
小学校の時とか、クラスの中でどういうキャラクターやったとか。
ちょっとそこまで行くとね、だいぶヤバい。
別に活発ではないし、運動神経も全然良くはなかったので、
リレーとかで目立つタイプでもなかったですし。
どの辺がヤバかったんですか?
バレーボールって当時、女子のスポーツ的なところが、
当時はね、アタックナンバーワンとかそういう時代だったんで、
女の子とつるんでる方が多かったかもしれないですね。
スポーツ少年団も女子の中で男子一人みたいな状況で、
どうしてもバレーボールがしたくて入ったんで。
最初6年生になった時に男子6人揃えることができて、
試合には出れたんですけど。
なんかそんな感じ。
結構女性社会というか、の中で。
野球とかそういうのにのめり込むと、
もうちょっとそうだったかもしれないですけど。
もちろん近所の男友達もいますけど、
その時バレーの友達とかでなると、
女子の方が多かったかなっていう感じですね。
そのまま中学校も地元で進学してっていうような。
はい。そのままバレーボール中心にはやってました。
中学校は結構強豪な。
いや全くです。
小学校のスポーツ少年団の先生に、
ずっと慕って教えてもらってたりしたので、
その絡みで中大学生の子に教えてもらったりとか、
小物先生もすごい熱心だったので、
僕の小学校の恩師にしっかりアドバイスもらいに
行ってくれるような先生だったので、
楽しくは過ごしましたけど、
ビシビシ厳しいところっていうわけでもなかったですし、
勝ち抜きまくって、
二位開幕の上の方まで行くとかいうこともなかったです。
バレーボール以外中学校の時好きやったこととか、
そんなの覚えてない?
特にない。
以外普通にアイドルが好きだったり、
そういうのは、おにゃんこグラブが好きでした。
大学時代と司法書士への道
高校はどんなところ行くんですか?
そのまま徒歩5分、10分程度の高校へ行って、
やっぱりそのままバレーボールをしてました。
その時は、入った時はバレーボール部なかったんですけど、
得意の女子の中に一旦飛び込んで、
なんとなく部員が集まって、
春ぐらいからは試合できるようになりました。
高校の先生がすごい技術的にしっかり指導してくれる。
ちょっと厳しかったんで、厳しい割に勝てなかったんですけど、
技術的にはすごい伸びたなって自分では思ってて、
ラッキーやったなって思ってます。
高校の時結構たかんな時期というか、
その時はどんな感じの高校生活というか。
部活基本中心で、ちょっとアルバイトもしたりとか、
アルバイトはレストランで厨房のアルバイト、高校の時にやった。
飲食経験ってそれぐらいしかないんですけど、
その時もそのアルバイトも楽しかったですね。
どんなお店で働いてたんですか。
一応タイトルはシーフードレストランってついてて、
ファミレス、ちょっと当時で言うちょっと高級なファミレスみたいな感じで、
すごい楽しかったです。
じゃあバイトとバレエで高校生活を過ごしてって感じで。
その時将来何になろうとか。
全然何もなかったですね。
ただ、大学っていうところには行ってみたいなぐらいな感じで言えば、
ポケットは考えてたんですけど。
それは何かお兄ちゃんの影響とか。
お兄ちゃん二人は大学に行ってないので、
行ってみたいなぐらいには思ってました。
仙南から出てみたいと思ってました。
それで大学受験して、大学生になりました。
ギリギリになりました。
大学はどこ行くんですか。
奈良産業大学っていう大学が唯一受かったので、そこにしました。
じゃあ奈良に。
はい、通いました。
通ったんですね。
はい、通いました。
なるほど。大学生活はどうでした。
やっぱりね、またバレエボールしてしまうんですね。
めっちゃバレエですね。
そうです。
もう遠いし、もうええかと思ってたんですけど、
ただ、僕らの年からその大学がバレエボールが強化クラブしてみたいなね。
練習見た時にみんなめちゃくちゃ上手かったんですよ。
で、セレクションで遥子を行ったとか、そういう実績ある子を集めて強くしていこうっていうクラブに指定されとったんです。
で、ちょっとチャレンジしてみたいなと思ってもらったんですね。
どこまでやれるんやろうみたいな。
で、入りました。
最初はリーグ戦の相手チームのビデオ撮りとか、そういうところから始まる感じで。
試合やけど予算の会社行って、次の相手チームのビデオ撮ってくるみたいな感じをしてました。
今日チームの?
いやいや、もうね、ぼちぼちなんですけど、すごい楽しいなと思って。
でも小学校からずっとやってて、高校でしっかり指導されて、技術もついてたら結構大学の時、いい感じ選手に。
無名の公立高校がポカンと入った割には、しっかり使ってもらって、試合の出場機会もあったりして充実はしてたなと思ってますね。
大学生活も結構バレー付けな感じ?
そうですね。バレーとバイトみたいな感じでした。
その時のバイトは飲食とかですか?
いろいろやりました。スポーツクラブのバイト行ったらちょっとトレーニングもできるかなとか思って行ったりとか。
飲食も少しやりました。友達に誘ってもらって、喫茶店のウェイターとかやりました。
なるほど。バレー以外なんか結構どんな人物やったかっていうのが見えてこない感じがしますけど。
バレーはそうですね。どんな人物やったんでしょうか。自分も当時のことってあんまり覚えてないんですけど。
ただ、バレーで行くと、ポジションは今で言うアウトサイドヒッターとかそのレフトなんですけど、守備固め的アタッカーというか、
あと、たぶん雰囲気作りが評価されてよく使ってもらったというか、声も出すし、ムード明るくできるというか、空気作りというか、
そういう技術的なものも、まあ背も低いですし、みんなチームメイトは180、190ってあったんで、僕だけズバ抜けて行くかったんで、
あの、決して技術的なものよりも明るくする、そういう守備の固さとムード作りで使ってもらったんで、
まあ、ご陽気な、割と置いといたら場が和むじゃないですけど、そんなんで友達関係とか人間関係築いてきた感じはしますね。
じゃあ、バレーだけじゃなくて日常生活も結構陽気な感じで。
まあまあ、そんな陽気な感じでノリで生きてきた感じ。
ノリ。
はい、勢いとノリと。はい。
え、他なんか、大学生活とか、学生時代エピソードとかありますか?
弱いっすね。
いやいやいやいやいや。
大したことやってない。
それこそなんか、その地域柄の祭りのとかはなかったんですか?
僕ね、結局、たぶん、そういうお酒飲んで、わーとか、ちょっと喧嘩もバーンってやったりとか、ものすごい苦手やったんですよ。
だから、あの、あんまり、なんていうんすかね、青年団とか結構みんな活発に寄り合いとかも行ってやったし、
お兄ちゃんはそういう雰囲気も全然物ともせずに行ったじゃないですか。
もう僕思いっきりおじけず行って、あんまり近寄ってなかったんで、あんまり馴染めてなかったかもしれないですね。
戦難に。
そうですね、焼酎とか特に馴染めてなかったかな。
一応、祭りの鉢巻とか巻いて引っ張ってはいたんですけど、ちょっと消極的やったからね、という感じはしました。
なるほど。
けど、大学4年間バレエで過ごして、就職っていう感じですか?
そうですね、その時に大学の3年生ぐらいから、法律の勉強面白いなって感じるようになってて、
で、そのまま就職も興味ももちろんあったんですけど、
私業っていうんですかね、会計士さんとか税理士さんとか弁護士さん、
そういう定年なくて、プロスペッショナルな専門分野で働く人にちょっと憧れを持って、
それで司法書士っていう資格を見つけて、
これちょっと頑張って、そういう司法書士の資格を取って独立するなり、
法律の専門分野で働いてみたいなっていう気持ちがすごい強くなって、
で、4年生ぐらいから受験予備校みたいな、司法書士に通い始めて、
またその予備校の先生も話がすごい面白い、上手やなと思って、
話聞いてるだけでは賢くならないですけど、聞いてるだけで賢くなった気してきたりして、
すごい面白いなと思って法律の勉強には取り組んでたんです。
法律面白いって何かきっかけとかあったんですか?
多分、学校の先生の授業が多分面白い、お話上手やったんじゃないですかね。
もうちょっと思い出せないんですけど。
法律って日常にちゃんと根付いてるんやなっていうのを感じたりして、
ちょっと勉強を深めていきたいなって思いました。
じゃあ司法書士の試験目指してずっと、そこから勉強して。
そうですね。結局就活ともかぶってしまったので、就活は一切せずに、
卒業後すぐ7月に試験があるんですけど、
それ目指して、それで受かって、そこから事務所に就職してっていう絵を描いてたんですけど。
絵を描いてたんですか?
見事に綺麗な絵を描いてたんですけど、全然受かなくて。
全然、多分、時間の努力は間違いなくしてたんですけど、
必要な方向性と、適切な方向性と質の努力には見当てなかったと。
思い返せば思うんですけど、全然あかんかったんですよ。
気が付けば受験浪人みたいな、大学卒業してまでバイトしてるみたいな人になってしまって、
それでチューブラリンで2年ぐらい受験、とにかく資格取らなきゃみたいな感じで、
せっかく大学まで行ったんですけど、そんなことしてました。
じゃあ2年間司法書士の浪人をして、
1回目受かんなくて、もう1年だけ寝晴らしてみたいな感じで、
バイト、お小遣いというか交通費とか受講料とかは稼ぎながら、
ちゃんとした就職はせずにっていう感じで、もう1年寝晴らしてもらって、
やっぱりあかんかったので、司法書士事務所に就職しました。
司法書士事務所に就職しながら、勉強していこうか。
実務でやりながらっていう感じで。
なるほど。司法書士事務所はしっかり正社員というか。
そうですね。
ガッツリ働きながら勉強して。
ガッツリ働きながら勉強しました。
最終的にやっぱり受からないんですけど。
狭きもんなんですね。
ただただね、そういう自分に努力してなかったわけでもないんですけど、
適切な量とやっぱり方向性は足りてなかったなって今思えば。
そもそもでもかなり低そうですよね。
合格率とかいう話でいくと決して優しい方ではないんですけど、
でもやっぱり働きながらでもちゃんと結果出してる人は身近にたくさんいてるんで、
ちゃんとやれば結果は出せる世界だなと思ってました。
司法書士事務所での14年
その司法書士事務所自体はどんな仕事してたんですか?
結局最初入った事務所と入り直した事務所があって、
2個経験してるんですけど、後の方が14年いたので、
経験はそこの経験、大阪四季卓の事務所だったんですけど、
その先生は本当に何でも業務、司法書士業務何でもさせてくれる先生だったので、
一応補助者、事務員という立場でできる範囲で契約の説明とか、
書類の今は全部オンラインで何でもできるようになりましたけど、
ちょっとした、それこそ、
登記簿、登本確認とかになると各地方に直接行かないといけなかったので、
いろんな町を歩かしてもらいました。
だからこの辺というか、和歌山市内もよく、
仙南住まいだったので、南大阪担当みたいにだんだんなってくるので、
和歌山の法務局とか、海南も岩様ごぼうも、
くまなく歩かせてもらったなっていう印象があって、
その業務内容とか、司法書士の業務っていうのはものすごい楽しかったですね。
何でもさせてもらえたので、
なかなか、例えば住宅ローンで、
そういう普段耳慣れない契約書にサインさせられるとか、
有刺を受けるにあたって担保設定しなくちゃいけない状況で、
ちょっと難しい処理にサインせなあかんっていう局面で、
僕たちお邪魔することが多かったので、
その内容説明、リスクと説明して、
納得してもらったらサインもらうみたいなところ、
お膳立てみたいな感じだったので、
ちょっと分かんないことを噛み砕いて説明して、
分かったよって言ってもらうプロセスは楽しかったのかなと思いますし、
単純に外出が多い仕事っていうのも、
すごい自分に合ってたなと思って、
いろんな地方、北海道から沖縄まで行かせてもらったなっていう印象です。
へー、なるほど。
その司法書士、事務所は仕事としてやっている、
日常というか、
プライベートの方はどんな感じで進んでいくんですか?
はい。
大体、20代は勉強も程々に意識してたんですけど、
30くらいから勉強だんだんどうでもよくなってきて、
司法書士の事務所の事務員っていう仕事を全うしてる毎日だったりします。
ビーチバレーに夢中になった日々
で、バレーボールはやっぱり続くんですけど、
大学卒業してからも、
高校の友達とか、いろんなご縁で、
なんていうんですか、草バレーチームじゃないですか、
一般のチームとしてチーム作って、
ずっと試合には出続けてたんですね。
20、30くらいで、だんだんみんな結婚して、
6人集まらなくなってくるんですね。
で、その時にビーチバレーにハマった友達がいて、
で、行けへんか言って連れて行かれたら、
もう死ぬほど面白くて、
29、35歳くらいまでは、
毎週末、欠かさず海にいたと思います。
ビーチバレーで。
冬も春も秋も夏も関係なくずっと海にいたと思います。
そんなハマってるバレーって何が面白かったんですか?
特にビーチバレーにハマった時は、
見上げると空があるんですね。
ずっと体育館の中で過ごしてきて、
日光さえ遮りたい、眩しいからみたいな、
中で生きてきたのが、
空見てトス上げるとか、
風呼んでパス出すとか、
そういうのがめちゃめちゃ面白かったですね。
また、バレーの本質的な基本技術みたいなのが、
究極に必要みたいな、
今までインドアでやってたパスで入れへんなみたいな、
悔しさみたいなのが結構、
ドMのスポーツかもしれないんですけど、
過酷な中でも自分のプレー出し切るプロセス、
それが叶うタイミングとか、
めちゃくちゃ面白かったですね。
じゃあ結構その当時の的野さんは、
仕事より、仕事ほどほどに一つ。
仕事、でも一応ね、言い訳じゃないですけど、
めちゃくちゃ仕事ハードやったんですよ。
終電間に合うように仕事するみたいな、
なんとしても電車で帰るぞ、みたいな勢いで働いてたんで、
だんだん忙しさにも波があって、
それが落ち着いてきたら、9時くらいには上がれるようになったりすると、
ギリギリまで空いてるジムに飛び込んで、
トレーニングしてから週末の練習に備えて、
ちょっと筋力アップじゃないけど、
それぐらいビーチバレーとかにのめり込んでましたね。
すごいストイックにやってたんですね。
プロにもなれないし、
ゴルフにハマってるおじさんと同じ感じじゃないですかね。
いつも何を目指してやってたとか。
一応みんな湘南である全国大会みたいな、
ビーチバレージャパンとかいう素敵な素晴らしい大会があって、
それに行きたいなって思いながら、
そういうのは目標にはしてましたね。
結構いいところまで行けたんですか?
いやいや、もう全然です。
それが、なんか和歌山には5円があって、
ビーチバレージャパンにも都道府県予選があって、
大阪予選は負け続けてたんですけど、
和歌山でバレーされてる方に誘っていただいて、
和歌山で一緒に和歌山予選出れへんって言ってもらって、
で、出ます出ますって言って、
でもそれで予選1位を突破できて、
その人と一緒に和歌山代表で、
ビーチバレージャパン、
2004年か5年か、
もう20年以上前なんですけど、
それには行かせてもらって、
ただ、1個か、
予選グループ戦敗退でしたけどね。
めっちゃ悔しかったですけど、
1個勝って次負けて、で負けて、
多分グループ戦敗退で、
もう寂しい、すごい悔しい思い出は終わってますけど、
すごい良い思い出ですね。
え、けどなんか、今まで聞いてる限りだと、
モミノキ食堂にまだ全然繋がってきないですけど。
まだちょっとオクストラって感じ。
24分喋ってるんですけど、
全然飲食の命もいかない、すみません。
どっからですか?
でもポイントは、
結婚と料理、店づくりへの関心
まず結婚だと思います。
今の奥さんに、
ビーチバレーハマるタイミングで出会って、
奥さんにはずっと毎週身に付き合ってもらってたり、
したんですけど、
33で結婚して、
34で子供が生まれて、
全然ビーチバレーにはハマったままだったんですけど、
まず結婚して、自分たちの家ってなった時に、
机、お茶碗、湯飲み、何一つ選ぶのに
すごい時間がかかるタイプだっていうのが、
すごい認識したんですね。
で、生活を作り出すものに
すごい執着があるんやと思った。
ビーチバレーにもハマりながらも、
時間見つけてインテリアショップに行ったり、
器屋さんに行ったりとか、
場所作りみたいな、部屋作りみたいなものに
すごいこだわりっていうか執着強いんやなって
自分で初めて知ったんですね。
33で結婚して、
ビーチバレーもしながら、
場所作りみたいなことにもすごい興味を持って、
そうなるとインテリアショップとか、
器屋さんとか、
そういうあつらいの素敵な店とか、
選んで出かけるようになるんですけど、
個人商店とか、
個人事業主さんと関わる機会が
すごい増えたんですね。
で、何とかして自分で何かやりたいって、
それぐらいから思うようになりました。
自分で小さなお店して貼る人に、
すごい強い憧れ持ってました。
だから雑誌とか見つけては、
仕事でもランチ行くんやったら、
ここのエリア行ったらここへ行こうかとか、
考えながら動いてたりしましたし。
それ以前ってそういうものは好きやったんですか?
全然です。
食べることは好きで、
人並みにおいしいものがあると聞いたら、
雑誌見て行こうかとか、
そういうのはありました。
ありましたけど、
そこを中心ではなかったです。
中心ではないけど、
そのインテリアとか器とか、
うっすら興味はあった?
あんまり実家暮らしだったんで、
実家にあるものに何の疑いもなく、
使ってました。
なるほど。
結婚期にいろいろ興味が出てきて。
そうです。
それまで全くなかったです。
その時、どういうお店行ってたとか、
覚えてます?
憧れてたのはトラックさん、
まだ玉作りにある頃だったんですけど、
衝撃受けましたね。
なんかすごいなと思って。
あと何かな?
なんか、はい。
あとなんか今、
もう今、
どういう状態で運営されてたのか分かれへんけど、
堀江とか、
当時はやっぱりなんかまだそういう雑貨とか家具とか中心だったんで、
なんかよく行ってましたね。
はい。
当時堀江とかどういうお店があったんですかね?
え、今も変わらんのかな?
最近行ってないで、
分からんの、
あ、分からんのですけど、
はい。
2000何年ぐらいですか?
2003年?
2004年?
2005年。
僕らも全然覚えてないですけど。
23年前。
18、19とか。
ぐらいですね。
あ、でも結構堀江とか行ってた時ではあると思うんですけどね。
あんまりそのインテリアショップとか認識してなかったような、僕は。
ユーズドのインテリアショップとかがちらほらあったり。
ちっちゃいお店なんで、
お店の名前とかちょっとはっきり覚えてないこともあるか。
大手さんとかしか浮かべへん。
すねー。
当時のその流行ってた感じっていうか、
はい。
トラックやったら何て言うんですかね。
あれは何て言ったらいいんですかね。
インダストリアルって言ったらいいんですか。
になるんですかね。
ああいう手作り、
そういうのにすごい憧れましたね。
家具作ってある、
玉作りのお店、
家具作りの現場も見える場所だったんですよ。
めちゃくちゃかっこいいなと思って。
何か分かれへんけど、
こういう自分で何かやるっていうことに、
家具にはちょっと走れなかったんですけど、
何かそういう個人事業主でやりたいっていうのはすごいありました。
そこからどう進んでいくんですか。
そこから、
で、結局普通にその波に飲まれて、
結婚して子供が産まれて家を買うんです。
どうなんですか。
普通に家買って、
で、マンション買って。
当時どの辺に住んでたんですか。
結婚してから堺に住んでて、
で、戦国ニュータウンに住みたいと思うようになって、
で、緑に囲まれたどこで住みたいなと思ってて、
で、ちょうどモミの木がベランダから見えるお部屋が気に入って、
マンション買ったんです。
で、そこへ引っ越したら、
当時2歳の娘がむちゃ調子悪くなっちゃったんですね。
それはメンタル的に。
で、泣いて泣いてどうしても亡くなっちゃって、
で、奥さんも月切りで料理とか全然作れない状況になっちゃって、
それで料理始める。
それがやっとそこにモミの木のっぽい雰囲気するとこに20年前ですけど、
たどり着くんですけど、
それで、なんとか奥さんも子供も元気になってほしいなと思って、
自分にできることないかなと思ってたどり着いたのが料理やったんですね。
で、妊娠中につわりひどくて、
で、なんかやったげようと思って、
なんか本読み漁ってたのが玄米菜食の本にたまたま当たって、
うっすら記憶が残ってたんですね。
マクロビオティックとか、玄米菜食とか、
なんかそういう穏やかな食事食べたら穏やかな日常が返ってくるんじゃないかみたいなイメージで、
で、なんかそういう本を読み漁って、
で、よしじゃあなんか作ったろうと思って張り切って作り始めたのが、
2007年、子供、この2歳半ぐらいの時だったんで、
はい、で、料理始めたらそれがまたもう超面白くて、
なんて面白い世界なんやと思って、だんだん海にも行かなくなってきて、
子供も赤ちゃんの頃は出かけやすいんですけど、
動き出すと一緒に遊んであげたくなるじゃないですか。
2歳も歩けるし、
だんだん海にも行かなくなってきて、
料理とか、
その休みの日にはそういう行きたい店に行ったり、
自然食品店をすごい行って買い物したり、
オーガニックの八百屋さんとか、
そういうとこ好んで行動するようになりました。
当時そういうものがなんていうんですかね、
流行ってたって言ったらあれなんですけど、
で、いっぱい出てきたような時期やったんですかね。
ただビーガンとかいう言葉はまだまだ浸透してないし、
今みたいに、
例えばスーパーで普通に天才糖が売ってるとか、
お砂糖の種類なんですけど、
みりんもすごいいいみりんが売ってるとか、
今はあるんですよ。
特別などこに行かなくても買える、
ナチュラルな調味料とかが。
そこまでじゃなかったので、
なんかぼちぼち意識高めていこうみたいな、
まだまだその菜食流行ってるとか、
そういう印象ではなかったかなーっと。
やっと出始めてきた頃みたいな。
長く取り組まれてる人はもちろん長く取り組まれて、
歴史はずいぶん積んであるけど、
今ほど、今ってね、ベジタリアン対応とか、
結構よく耳にしますし、
スーパー行ってもこれはビーガン対応ですとか、
グルテンフリー対応ですとか、
すごいそういう意識はどんどん高まっていってると思うんですけど、
当時はそれほどでもなかった。
欲しいもん買いに行きたかったら、
ちょっと離れた自然食品店に行かへんかったら、
手に入れへんもんが多かったように思います。
お醤油一つ取っても、
なんていうんですか、
普通にスーパーだったら、
だし大豆から入った、
割と工夫して、
昔ながらの作り方ではなくて、
今風の作り方というか、
そういう醤油しかなかったなーと思って、
醤油一つ買うのも自然食品店に行ってたなーって思う。
今はいい醤油スーパーにたくさんあるなーと思ってます。
じゃあその料理し始めて、
結構お子さんとかも調子良くなってきた?
料理したから元気になったとは全く思ってません。
もちろん、自力で。
奥さんも必死に頑張ったし、
みんなで乗り越えたなっていう印象で、
僕は料理っていう素敵な趣味というか、
世界を知ることができて、
ラッキーやったなっていう程度で、
春に調子悪いなーって感じてて、
年末ぐらいには何とか穏やかなってきて、
良かったなーって、
何やったんやろなー何が良かったんやろなーって、
奥さんという感じでした。
なるほど。
じゃあ料理でサポートして、
ちょっと奥さんも余裕が少し出て、
結果良かったんかなみたいな。
栄養に言ってもらったらそんな感じではないですけど。
だいたい旦那さんが料理すると事故にしかなれるんですよね。
そうなんですか。
後片付け誰すんねんっていう話に、
だいたい教えていがちだと思うんですけど、
僕も例外なくそういうタイプだったんで、
でも奥さんは料理が得意ではなかったんで、
作ってくれたら後片付けぐらいやってあげるよっていうスタンスでいてくれたし、
奥さんのサポートも受けながら料理するっていう、
よく分かれへん状況にはなってましたけど。
弁当ブログ「もみの木食堂」
じゃあそこからもずっと料理にハマってみたいな。
そうですね。
もうそれこそ娘、幼稚園に行かせて、
お弁当持っていける幼稚園だったんですよ。
ずっとお弁当作ってました。
それをお弁当こさえて写真に撮って、
ブログに上げるっていう作業をずっとしてたんです。
そのブログのタイトルがもみの木食堂っていう。
単純に住んでた部屋からもみの木に行って、
お父さん食堂やでとか言って、ごっこじゃないんですけど、
それでもみの木食堂ってつけて過ごしてたんですけど。
当時はSNSとかもなかったんで、ブログ全盛期というか。
そんなたくさんの人に見てもらってるブログでもなんでもない。
ただ自己満足で励みにつけてるだけだったんで。
ただいい記録としては残ったなっていう印象で。
育児記録じゃないですけど。
その時に娘と会話した会話とかもちょこちょこって書いたりして、
ただただ、それがでも続くと怖いなと思って、
お弁当の記事が300、400とかなっていくので、
面白がって続けるってやっぱり何ぞいい効果あるんかなって思いますけど。
ブログから反響あったりとか。
特に小さなコメント、素敵ですねとかありがちな素敵な言葉を励みに僕は頑張ってましたね。
なるほど、じゃあ料理にハマるのと並行して場所作りも憧れてみたいな感じだったんですか。
そうですね、部屋作って料理道具集めたり器集めたり机集めたり椅子もなんかやたら買ってましたね。
椅子買ったり。
和歌山への移住
で、そうなって続いていくといつか自分も何か店持ちたいなみたいな野望じゃないですけど、
そういうのはやっぱり意識し始めてきましたね。
自分でモミノ食堂っていう野望でいつかやってみたいなみたいなのはその時に持ってました。
それが何歳ぐらいの時ですか。
35で料理始めて、で結局40歳で和歌山来てるので、
その5年6年7年、35から40まではそのことで頭がいっぱいでした。
なるほど、で40で和歌山へ。
はい、で結局お店したいとなっても、
家賃と、お店の家賃と両方払う人ってどんな人なんやろみたいなところから始まったりして、
で、マンションも結局売っ払ってしまって、
で、もっと郊外に住みたいっていう気持ちが強くなって、
で、初めは戦国ニュータウンだったんで、
大阪狭山市とか川内長野市とか、どんどん自然豊かな方に引っ越したいなと思ってたんですけど、
それと並行して家族旅行では田舎を選んで行くようになってて、
僕、ハンノーハンXっていう本を読んだことがあって、
ちょっと農業をしながらなんか自分のなり合い見つけるじゃないですけど、
そういうのとかも興味あって、ちょっと郊外から田舎もありじゃないかみたいな感じで、
和歌山だったら龍神村とか熊野とかちょっと旅に出かけるようになって、
で、その旅中触れる人の中にも、この田舎に越してきたらいいねって言ってくれるお母さんとかいたりして、
で、家賃も安いしいいよみたいなお店してる人とお話した時とか、
そういう風に言ってもらったりして、あ、田舎もチャンスあるんかもしれへんなと思ったのがきっかけかなっていう。
なるほど。
龍神村行った時に、お豆腐のルワンさんとか、
あとモンペトクワさんっていうパン屋さんとか、
そういう方たちとちょっとお話しした時にやっぱりそういう暮らしに憧れて、
で、龍神村もいいなぁなんて思ったんですけど、
龍神村はちょっと距離が遠すぎると言って、奥さんに即客化されたんです。
奥さんはどこの人やったんですか。
堺市生まれ、市街地生まれで、はい。
千南に実家連れて行った時も、すごい山いっぱいって言ってました。
町の人です。
なるほど。じゃあ、田舎を探してるけど、田舎過ぎずというか奥過ぎず。
そうですね。郊外から田舎にエスカレートして、
で、ここから君野城に行きかけみたいになっていくんですけど、
そうやって自然食品店に行ったり、オーガニックの絵屋さんに行ったり、
そういうナチュラルなイベントにも好んで行くようになってたんですね。
で、その時に出店してる素敵な家族がおったんですよ。
で、石鹸を作ってフリーマーケットでパッと売ってあったんですけど、
たたずまいがすごい素敵で、話しかけてちょっと友達になりたいなと思って。
もう小さい子も同世代な感じやしと思ったら、
和歌山でごみん家で住んでんねんって言われたんで、
え、なになにすごい素敵やな、ちょっと一回遊びに行かしてみたいな感じで、
ちょっと絡んで、遊びに行かしてもらって。
で、勝田議長やったんですけど、ほんまにその暮らしぶりも素敵やなと思って。
で、僕らもこんな暮らししたいねんって正直に話して、いいとこないかなって相談したりして。
で、ちょうどその子が、僕らの友達がちょうど君野町のけばらっていうとこに引っ越して、
すごいいいとこやって言うてるよっていう話、アドバイスもらって、
すぐ行ってみるわって言って、行ったらもう君野町の虜というか、
その紹介してくださった人たちの人柄にもとにかく惹かれてしまって、
その時で小学校の校長先生と中学校の校長先生とその地域の町会議員さんと一緒になって、
家探しとか地域の案内とかしてくださって。
すごいっすね。
もうついて行きますみたいな感じで。
お願いします、どこの家見つかったらすぐ来ますって言って、決めました。
また野さんもすごいっすね、なんか積極性というか。
取り憑かれてたんです。
なんかこうね、ズバッと一直線みたいな。
もうハマったら行ってしまうんですよ。
奥さんってその。
この話一番すぐの奥さんですから。
この状況で僕40で2歳と7歳の子供いて、奥さんに説得するのが田舎で、
君の町で食と農にかかる何かを自分で始めたいっていう。
ウルトラ漠然とした。
就職先ここやねんとか次はこんな仕事するねんとかじゃなくて、
一応アルバイトでも来いよみたいな感じで言ってくださった人がいたので、
その人を宛にはして行ったんですけど、
そういう思いっきり漠然としたビジョンを持って行くっていうのに対して、
行こうかって言ってくれた。
この話で誰もが奥さんがすごいなって言うので、やっぱり僕は奥さん。
奥さんも田舎行きたいって。
全然ないです。
2歳の子はさすがに何もわかんないんで、
7歳の子が嫌がらなかったんで、
お父さんが行くんだったら連れて行くみたいな感じで言ったっていうのも、
奥さんの中でウエイトが高かったんですけど、
奥さんは全然積極的ではなかったです。
で、僕もやってみたいことあるんやったらチャレンジしてみーなっていう感じで
ついてきてくれましたね。
そして、君の蝶に。
君の蝶に、はい。2012年です。
やっとここまで来ました。
30分過ぎたこと、ごめんなさい。
いやいや、ありがとうございます。
走っていきましょう。
こっからが本番というか。
やっとですよ。この辺ちょっといっぱい気付いてくださいね。
君の蝶に来て、何も決めずに来た。
50:06

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