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和歌山市のランニングとハイキングのお店、kisenlandトレイルの白石です。
有田市のコーヒーショップARCの上田です。
この番組は、毎回和歌山で活躍するゲストの方にインタビューしていく番組です。
kisenradio第35回、本日は和歌山県田辺市にある創作レストラン、Moboで収録しています。
本日のゲストは、八村公務店八村さんの気になる人、
創作レストラン、Moboシェフの南義博さん、
菊酒市の千原翔司さんです。
南さんの生まれから現在に至るまでのルーツや、Mobo開店までのこと、現在のMoboのこと、
これから計画していることについてお聞きしていきます。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
では、まず白石くんから南さんのご紹介をよろしくお願いします。
はい。
南さんは和歌山の洋食店の息子として生まれ育ち、
神戸のホテルや老舗洋食店で修行した後、地元和歌山で強度の食材の豊かさを伝えるをモットーに独立。
田辺市で南風亭をオープンしました。
その後、大正後期から昭和初期に建てられた一軒家に移転し、
王風料理、Moboとして再オープン。
現在は菊酒市の千原翔司さんと共に創作レストランMoboを運営されています。
はい。ということで間違いないでしょうか。
間違いないです。
ありがとうございます。今回南さんと千原さんは前回出ていただいた八村さんからのご紹介ということでご出演いただいているんですけれども、
八村さんとこのMoboのお二人のご関係というか、出会いとかどういう感じだったんですかね。
はい。初めは八村さん菅井さんペアがお客さんとして来てくださっていて、
それはだけどMoboになってからで、まだパン屋の頃ですね。
パン屋の頃ちょっとディナーも営業してた。
初めの頃はパンだけだったんですけど、そこからちょっとずつ料理もし始めて、
やってた時に食べに来てくれてからお話しするようになったっていう感じですね。
なるほど。それからは今はお友達みたいな感じで。
その時にちょっといろいろあって、自分たちの中でまず、
やっぱりあの二人がやっている情報発信というものの上手さ、
インスタグラムやフェイスブックやそういうものを使った、
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あの頃の僕らっていうのは本当に下手くそで、人に伝えるということが皆無だったんですよね。
良いものを作ればそれでいいやろっていうダメな昭和期質がバンバン出てた頃で、
そこをちょっと反省しなくちゃなっていう。
特に、あの時まだアーケードさんがかつらであった時にそれをすごく感じて。
そこから助けてって言ったのが、そこからですよねお互いの。
あそこの月一のカフェの時に僕たちがいろいろパンからハムから用意して、
その分僕らの情報を発信してもらうっていう。
お互いが助け合う関係になって本当にもうズブズブに。
なるほど、そういう感じだったんですね。
ただ助けてっていうお願いしたところです。
なるほど。
この番組はゲストの方のルーツから現在の活動までめっちゃいろいろ教えていただくような感じになってるんですけども、
まずみなみさんの生まれはどちらですか?
生まれが一応はよくある田辺の避難病院で、うちの両親は両方とも白浜の人間で。
ちょっと僕も小学校までは神戸にいたんですけど、
やっぱりそのよくある母親が里に帰って出産するということで、生まれは田辺というか和歌山。
ちょっとだけ小学校まで兵庫県神戸市で育って、そこから和歌山、白浜で高校卒業まで暮らしていました。
先ほどの紹介で和歌山の養殖店の息子として生まれ育ちということなんですけど。
若干そうなってるけど、小学校からだからそれでいやるなと思うんですけど。
一応親父がずっと神戸で働いていて、その帰省をもとにお店を白浜の三段でエルミオっていう、
今はリゾートマンションがあるんですよ、三段で。ノンビレッジファミリーっていう。
そこでずっと親父が母親と養殖屋さんをしていまして。
そこでルーツというか流れは。
神戸のときもお父さんは料理の仕事ですか?
本当に親父が働いていたところは、昭和の一番いいときの金持ちたちが作る銀行クラブっていうのがあったんですね。
銀行クラブ?
本当に銀行の偉いさんたちがそうやって使うような。
言ったら本当に優秀正しい。ホテルのそういう人たちが勉強しに来る場でずっと親父は働いていたんですけど。
だから本当に古き良き一番いい時代の神戸の養殖っていうのはやってたんじゃないのかなと思います。
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それを親父なりにやっていたそういう養殖屋さんでした。
それを身につけたスキルを白浜に持ってきて。
そうですね。親父が白浜の人間だったので、母親もそうですし。それで帰ってきて、今自分のお店を開いたという感じです。
そのとき南さんってどんな子供だったんですか?覚えてる?古い記憶とか。
ただただずっと外にいて遊んでいるという感じですかね。運動というかそういうのが好きで走り回って海に行ってサッカーボールを蹴ってというような。
ただ実家がやっぱり店で。やっぱりその小さい頃って年上のお兄ちゃんらと遊ぶのってやっぱり楽しいじゃないですか。
自分らが知らないものをいっぱい知っているちょっと上の大人の人がいろんなことを教えてくれる。
バイトの兄ちゃんらがいるのでイリビタルじゃないですか。遊んでくれるし。
ということでやっぱり店にいる時間が多かったかな。休みの日とかは。
結構そのときから将来は料理とか店をやりたいとかあったんですか?
そこのときにはそんなにないんですけどやってたらやっぱり面白そうやし。
うちの父親は何でもやらせてくれたし、自分が今父親だったとしてその頃のことを僕が子供がやっていたら絶対やらせんよなっていうこともやらせてくれてたんで。
どんなことですか?
やっぱりコンソメってちゃんと作ったら本当に手間がかかるんですよ。日にちもかかるしあれだけど。
それ使って普通の市販のカレーのルーでカレーを作っておいしいって僕は言ってたんです。
当たり前やろうって思うんですけど。今ならコンソメそのまま飲めよって思うんですけど。
あの頃どうしてもうちの親父のカレーっていうのがどうしても具が入っていないもう肉だけの辛い本当のクラシックな欧風カレーなんですね。
そんなもん小学生が食べたくないじゃないですか。僕はずっと星野王子様が食べたかったんですけど。
じゃがいもゴロゴロした甘いカレーが食べたいんですけど親も忙しいから上のトッピングが変わるだけなんですよ。
肉かつステーキなんとかとか違うねんっていう。
大人からしたらすごいいいですけど。
違うねんっていうのがあってそこからですよね料理をし始めたのって。
まず普通のじゃがいもが入ったカレーが食べたいっていうところからスタートしたのが多分料理だったと思います。
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じゃあそのまま地元白浜で中学校進むんですか。
白浜で中学でもうベタに田辺に高校通うっていう生活がでした。
中高時代なんかどんなこと好きやったとか覚えてますか。
どうすかね。だけどもう普通に中高好きなことなんやろ。洋服にはすごく特に高校時代っていうのはハマったなと思います。
じゃあ南さんの世代やったらもうちょうど裏原とか。
だからやっぱり自分らの中では僕はコーネリアスから入ってっていう。
もう本当に裏原といえば裏原ですよね。
コーネリアスから入ってっていう感じで洋服を好きになってサッカー部の先輩がギャルソンとか幼児を好きな人だって。
そっからまたそっちに入りっていうような感じで。
え、けど当時白浜のキッズたちはどこに買い物に行ってたんですか。
いや、だけどその頃。こっちもそうなんですけど。
うちの相棒は相棒でこっちはまたもっと海外とかなんかのもっと違うようなドメスティックっていうか。
いやインポだ。
だから二人ともちゃんと街で浮いてまして。
お互いキャラは違うんですけどちゃんと街で浮くっていう。
その時からもう南さんと千原さんはお友達だったんですか。
同級生なんですけど友達の感じは違ったんですよ。
同じ場にいるけど関わってる人は違うっていう。
そうですね。高校も一緒なんですけど。
いわゆる商業だったんで普通科と商業科だったんでまた。
クラスも違うんで。
違うんであれなんですけど。
でも別に会ったりしたら挨拶とか喋ったりするしって感じ。
別に遊んだりはそんなにしないっていう感じで。
その時お互いどんな感じで見てたんですか。
クラスも違って遊ばなかったら意識もしてないぐらいですか。
意識も別にただ会う他の人と会してとかは全然会ったりもするし。
もう別にただ面白いことしてるなっていう。
自分の感性とは違うんですけど。
どうしてもやっぱり田舎は田舎になるじゃないですか。
で特にあの頃ってちょうど古着屋さん今も現れるオーバーフローさんが
また違う全身のお店ができ始めた時だったんでやっぱり空前の古着ブームにはなってましたよね。
その時僕も古着好きだったんで通ってましたし。
だいぶそこで街がおしゃれになってきたなっていう感じは。
12:01
それも高2、高3ぐらいだったのかも。
年増の方を手出したのがそれぐらいですね。
だから一気にあそこからはそういうおしゃれっていう感じが出来上がり
新しい文化が出来始めたのかなと。
それまでは本当に何年遅れの流行りをやっているっていうような
どうしてもそういう感じの街だったんで。
田辺はオーバーフロー以外その時ってコチレとかまだないですよね。
いやまだないですね。
他何かセレクトとかもあったんですか?
いやメンズは…
女性の服やったらビーズさんがあったんじゃん。
女性の方は…
ビーダッシュスタジオ?
スタジオさん…
田辺でそうですね、その辺りは…
あそこやね、だからどちらかというとジーパンとかの…
あそこ何て名前やったかな。
あーけど思い出せません。
ジーパン、有名なジーパン屋さんとかが
サーフ系のショップがいくつかあったりとかあったんで
そこが多分おしゃれな人は行かれてたのかなっていう感じですね。
2人ともお互いに浮いてるというか変わった人がいるなっていう感じで
認識してたっていうことなんですかね。
いやまあサッカー部だったんで
結構目立つメンバーがみなさんおったんで
目立つ人たちだなっていう感じで。
似合えるグループみたいな。
実は一般的にはそうなったんじゃないですか。
こっちは知ってるからね、あれかもしれないですけど。
何ていうか、そういうのがしんどくて
よく離れてはいましたが。
サッカー部のノリがあっていうことですか。
本本的な引きこもり体質が僕らだと思うんで
あまり、そいつらに何かをやらせると
すごく優柔に動いてくれるんで
やらせて何かを遊ぶという遊びはしてましたけど
何か自分がどう表だってっていうのは
あまり苦手だった記憶が。
千原さんはどんなキャラやったんですか。
自分でも普通にバイトして大阪で遊びに行くっていうのが
あまりこっちで活動をほとんどしていなくて
何して遊んでたんですか。
自分は大阪のクラブとか行ってました。
ガツガツココンときは。
高校生が行っていいとこですよ。
好きな服とかも全部大阪だったんで
あまりこっちで学校で遊ぶけど
普段遊ぶのはまた別の世界に行ってました。
高校の後進学はどうするんですか。
進学するっていう、勉強っていうのはやっぱり
根本的に無理な人間だったんで
これ以上は勉強なんてしたくないなっていうのと
家庭のお金の事情と考えたら
15:05
元より料理人になる術がなかった。
ただ料理人になったら
親父の師匠はその時ちょうど生きて
中学校の時には飲食をやるのは決めてたんですよ。
何かきっかけとか。
ただ単に親父の師匠が偉いさんで
本当に兵庫県のトップだったり
その弟子が日本のトップになったりしてたんで
銀庫クラブっていうのがそういうとこだったんで
親が頭の悪い僕に
純公務員になれるぞ料理人になったら
わしが紹介してやるっていう
甘い言葉をささやいてきて
勉強せんで公務員かと思って
おじちゃん、俺料理人になるよって
なったんですけど
だから高校も電光移管でいいな
商業でも遊んで3年間暮らせると思って
決めて合格で震災があって
僕らが中3の時に
その数ヶ月後に
一応商業は受かって
おじちゃんに連絡するから
電話番号教えてくれって言ったら
ちょっとショック受けると思ったから
言わなかったけど
おじちゃん2日前に亡くなってんって言われて
震災ではなかった
そこからだと思うんですけどね
年が年だったんで
入院してたんやけど亡くなった
2つの意味で膝から崩れ落ちました
まずおいやんが亡くなったことの悲しさと
おじちゃん、俺遊ぶの3年間決めて
これから先もうないんやでっていう
僕らが入ったのは田辺商業高校の普通科だったんです
一番この世で意味のない学科
商業高校行って普通科行くってまず頭おかしいじゃないですか
俺は商業科に行きたかったんですけど
母親的にはもうちょっと違うことを考えて
進学をするとかも考えたかもしれないですけど
2年になったら選択するんですよ
進学する方と就職する方で
もちろん就職する方を選びますよね
そんな進学する気なのがないですから
ってなると商業高校の普通科の就職するところなんですよ
まさにあと2年何も意味がない時間が決まったわけじゃないですか
そこからはもうただ遊ぶということに振り切るしかなかったんですけど
そういう意味では充実した2年間にはなったかなと思います
どんな遊びしてたんですか
だけどくだらん遊びばっかりですよ
金もないサッカー部の頭悪いやつらが集まってるんで
18:03
とてもじゃないけど言えないような
だけど悪くはないんですよね
喧嘩もできへん不良でもない
ただただお金を持ってない僕たちが
ただただ悪ふざけをしているというわけで
何の生産性も何もない
周りから見てたら一番ひどいあれですよね
ほんまに学級崩壊の
一時期学級崩壊ってあったじゃないですか
あれを見てたときに
本当に申し訳ないなっていう気持ちでいっぱいでした
なるほど
そこから就職ですか
そこから結局就職決めてたんで
働くしかなかった
だけど親父も働いてたし
ツテはいっぱいあったんで
高校のときにまず親父のツテのところに挨拶行って
お挨拶させてもらって
後に働くお店西洋圏なんですけど
そこのお店に行ったときに
今はうち人おるから紹介するよってことで
ホテルを紹介してもらうことになるって感じですか
ただちょっとその前に
料理人になったら多分できないことを先にしておきたいなと
長期の休みって料理人にまずないなっていうのは分かってたんで
1年時間くれないかっていう感じでは親には言ってまして
ちょっとバックパッカー的な感じで
日本をブラブラするっていう時期があって
卒業してから
そうです
旅して十分楽しんだんで
西洋圏に行って紹介してくださいっていうことで
2ヶ月後ぐらいに
ロッコオリエンタルホテルもうなくなったんですけど
そこを紹介していただいて
そこから飲食というか料理人が始まる
そうなんですね
バックパッカー機はどんな旅してたんですか
そんな大層のアレじゃないですよ
ただただ
もっとちゃんと
お金を貯めとけばよかったんですけど
初め母親から言われたのは
海外行くぐらいのことするんなら時間やるわって言われたんですけど
もちろん服買ってるじゃないですか
金なんかないじゃないですか
ちゃんと土下座して国内で許してください
国内のバックパッカーって珍しいですね
まずだけど金がない
何をするかとりあえず旅をすると言ったら
北を目指そうってことで
北を目指し
函館に降り
あるすべてのそういう旧人史のあれで
21:01
住み込みで短期で働けるところを探して
リッシリ通って
レブン
日本の最北端ですね
の島で
住み込みのアルバイトがあったんでお願いします
いつから来れるって言われて
ちょっと今僕函館なんです
多分2日ぐらい
北海道か
まあまあってなって
じゃあおいでって言ってくれたんで
そこからレブンに向いていく
何やってたんですかレブンで
民宿です
ちょうど夏だったんで
そういう旅行の人たちも来られて
結局金もないし
そんなに泊まる道具も何も用意してないんで
安宿やユースホステルにも泊まったりしながら
そんなに続かないじゃないですか
だから本当に
日本一周は先頭
九州までは行けなかったですね
九州まで行けなかった
本州
本州と四国はあったんですけど
あとは九州さんはまた
おいおいでかな
日本7割ぐらい回った
7割は回りました
なるほど
一方その頃千原さんは何してたんですか
普通に働いてました
美容師やってたんですその時は
そうなんですね
じゃあ美容学校に
行かずにですね
高校の途中からちょっと知り合い
友達のところで働かせてもらいながら
高校行きながら通信行ってたんですよ
美容の
そのままその方の紹介で東京の
美容室で少し働いてて
ただ手荒れとかが原因で
一回やめてその後メイク勉強して
という形ですね
そうなってたんですね
全然違うことしてました
じゃあ南さんは
旅から戻って六湖オリエンタルホテルで
六湖オリエンタルホテルに入って
なんていうんですかね
多分ちょうど僕らの時代が
最後の世代だったと思うんですけど
まだ
今じゃ禁じられたことが
許された時代と言いますか
そんな時代ありましたっけ
今の時代だったら許されないことが
許された
オリエンタル系列のホテルの
分家だったらということで
やっぱり悪い風習がまだ残ってたんですよね
派閥っていうのがあるんですよ
母体になるホテルで
一緒に働いてたけど
そこからオリエンタルって
付随していろんなオリエンタルホテルが
できた時に
やっぱりその何々派っていう
24:00
その派閥が
最終的に小さくなったそこでも
やっぱり悪いとか
邪魔くさかったですね
同じ職場内でも
そうなんです派閥が
派閥があるとどうなるんですか
結局その人と
片方と仲良かったら
そりゃ片方は安くね
やっぱり
いろいろ
でかい時の規模なら分かるんですけど
その時のオリエンタル
僕が置いたロックオリエンタル
ただのリゾート
ホテルっていうか
そういうホテルだったんで
本当に授業費も少ない
そういうホテルの中で
そんなのもあるし
できない自分が悪いのですが
やっぱり
ちゃんと
素晴らしい教育もあったんで
なるほど
やっぱりそういうのも
普通の世代の
最後だったと思うんですけど
なるほど
その時どんな仕事してたんですか
本当に
だけどやっぱり人いないんで
本当に前菜させてもらって
っていう感じですよね
雑用と前菜
っていう感じでさせてもらって
サラダやなんかとか
させてもらって
そこからだけど
1年ちょっとで
すぐ出航っていうか
そこのホテルは
半身刑
ほぼ全部が
代営刑列だったんですけど
そこだけ半身刑が買い取ってたんですよ
だから
また兵庫県の山奥の
東条湖ランドとかあるところに
半身タイガースのゴルフクラブがあるんですね
よく
年末やなんかに
巨人半身戦みたいなゴルフで
テレビでやってるとか
そういう時の
ゴルフ場があるんですけど
タイガース
タイガースゴルフクラブやったかな
そこに出航している形で
行っている形で
ゴルフ場のご飯を作ってみたいな
そうそう
その修行期
どうでした
ホテルの時は
ただただしんどいだけ
でしたね
もうやっぱり
何より
怖かったっていうのが
一番にあって
他の人たちより
僕は全然志が低かったんで
料理人になったのは
それしか
その頃はですけど
それしか選択肢がなかったから
やっぱり
ちゃんと志を持って
飲食に入った人と
僕は本当に
恥ずかしいような状態だったんですよ
ただこなすだけの
だからやっぱり
27:00
ホテルの頃っていうのは
ただただ
怒られないようにする
っていうことを考え
特にホテル期は
ただのサラリーコック
っていう形でした
その時から
ちょっと技術身につけたら
白浜に帰って
お父さんの店を
それが真逆で
僕は絶対サラリーコックで
一生終えたるって思ってたんです
やっぱりおやじは
いい場所で働いてたんですけど
本当にバブルのいい時期のところなんで
おやじは経営や何かっていうのを
知らないままやってたんで
お客さんは喜ぶし
お客さんも来てくれるけど
いくらお金が
いっぱい上から降ってきても
網目のでかいザルナが
全部落ちていくじゃないですか
結局頑張って
すんごく
長時間も働いて
いいもの作ってても
何も残らない
っていうあれだったんで
それを見てたら
俺は絶対サラリーコックで終わるっていうのは
決めては入りました
あの頃は
ずっとやってて
だけど
特にそこくらい
僕らの時代はやっぱり
転換器っていうんですか
はい
いろんなものが変わり始めた
セントラルキッチンっていうものができ始めたりとか
特にホテルとかやったら
ゴミのあれも
決められるらしいんですよ
ってなった時に
ホテルでできる仕事が
真空パックを開けるだけとか
だから今の
そういう人たちは
魚を捌けない
漁人が今
ホテルや何かには多い
とやっぱ言われてるのは
魚がグラム数で
カットされて運ばれる
そのロスを出すとか廃棄を出さないために
でやっぱり昔ならば
V4から始まって
デミグラスソースコンドボ
いろんなものって長時間
加熱しながら
骨がすごく
焼いてとか
やっぱりゴミが多いんですよね
ってやった時には
ホテルとかでと
今それがあまり許されない状況になってきてるみたい
ってなってくると
今できる
そういうホテルで
昔の場合はホテルで修行したらって
すごくあったと思うんですけど
それができない状況になり始めた
時代
あれだったのかな
と
真空パック開けるだけか
ってなった時に
さすがにだけど
こなすだけでは考えてない
これではちょっと本当に
先死ぬなっていうのが
あったのと
一番のあれは
僕はやっぱり師匠と思っている
30:03
人がいて
それは西洋系の
井上浩二っていう僕の師匠なんですけど
やっぱりあそこで働きたいっていうのが
ずっとあって
秋を待ってたっていうのも正直あったんですけど
その中で
だからちょこちょこ顔を出して
ずっと
タイミングを測ってたというか
声がかかるのをずっと待ち続けた
っていう5年
ではあったんですけど
西洋系っていうのはどんな店なんですか
今でも
多分40何年してるんかな
多分40何年
されてるお店だと思います
母体っていうか
もともとスタートは
あそこ何だっけ
学校名を忘れてしまった
専門学校ですか
高校なんですよ
あ神戸高校か
神戸高校です
神戸高校って言ったら新学校というか
神戸でも
だからすごく有名なソニーの
会長も
村上春樹だったりとか
マッカーさんに
喧嘩を打った
お酒にもなってる
日本で初めてジーパン履いた人
二郎さんも出身の
言ったら有名な
歴史ある学校なんですけど
そこの初め
住職
学校の生徒に
出すっていうそころが
入ったのが
スタートなんです西洋系
そこから
その下にある土地を
売るって
神戸高校が
トルコ風呂か西洋圏と
あともう一個何か
選択肢がすごい
トルコ風呂って
高校の前に
それはあかんやろ
西洋圏の母体
が中に入ってたんで
ということで
西洋圏が
させてもらうそこから40年
もっと50年近くになってくるんですかね
洋食店みたいな
洋食なんですけど
フランス料理と洋食の
いいとこどりのような
感じですかね
僕はフランス料理と洋食
イメージとして
何となく違うのは分かるんですけど
はっきり分かれ
どういう風に分かれているのか
ちょっと今気になったんですけど
基本的には結局
フランス料理を
日本人仕様にして
出来上がったのが
洋食だと思うんです
もうハンバーグからカツから
だからそれの
家庭料理っていうのの
ちょうど
真ん中くらいにいるという
33:00
想像していただけたら
だから本当に
ソースも
ハンバーグのソースでも
やっぱりデミグラスソースであったりとか
やっぱりそこの部分であったり
うちの師匠が
上野西洋圏の例なんで
日本最高の洋食屋
と呼ばれている
東京の人の浅草の
本当にリアル寮つかん吉と
僕は思ってるんですけど
本当に
もう本当に浅草の職人の家で育てて
パンチの効いた師匠だったんで
料理とか
全てもそうなんですけど
やっぱりその人の下で
いてみたいっていう
本当に人を引きつける
すごい人だったんです
どこの
なんかそういう
料理人の寄り合いにいても
やっぱり中心にいる人で
本当にどこのトップシェフが
やっても
うちの師匠が真ん中にいて
あの
下ネタやらなんやらでワイワイみんなが
してるホテルや
なんかに行ったらやっぱり
支配人や何かが来て
そうしてるのに
その
学校の住職でも
鍋振ったりしてたんですよ
高校生相手に
もう
それでおっちゃんおっちゃん言われながら
もうほんごい楽しそうに
でっかいフライパンでチャーハン
作ってる姿見たときに
なんかやっぱり
なんかいろんなことよりも
なんかすごくそれが大事やな
と
60、70になって
あんな楽しそうにでっかいフライパン
煽れるんかなと思って
すごい一位にもいて
気取らず
何だっけ
厚生労働大臣賞ですかね
そんな賞もらった数ヶ月後に
神戸高校の
学生に
いじられまくってましたけど
けどそれを楽しそうに
してっていう
なんかそういう
やらされてるんでなくて
なんか
年をとって
なんかなっても
いつまでもああやって
料理っていうものを楽しめれるんなら
なんかそこからは
だいぶ自分も変わり始めたかな
っていうのはあります
本当に下で働かせてもらって
働き始めたのは何歳ぐらいのときから
24号だったと思います
5年ホテルで
2つのホテルで5年働かせてもらって
あと西洋圏で
5年働かせてもらって
っていう感じ
住み込みで
住み込みで
だからもう
風呂がないんで
銭湯が良いで
ただ
僕が住んでたところが
山口さんの
36:01
総本部の
500メーターぐらいのところとか
神戸の
そういう人たちの
組長さんたちが
よく住んでる
高級住宅が呼ばれるところだったんで
だいたい銭湯に行くと
銭湯もめっちゃ多いんですよ
行くとだいたい
カラフルな方々が
普通の人よりも多い
という
特殊な場所だったんですよ
っていうのをすごく皆さん
礼儀正しくすごいちゃんとされてるんですけど
ドキドキする
入浴でしたね
入浴は
卒業時代は
どうでした?
技術ももちろん身について
師匠の姿で
そうですね
やっぱり本当に
いろんなものを一から作る
場所でしたし
すごく
学びはあったかな
どうしても
ちょっと僕が入れた理由や
何かもいろいろあったんですけど
僕
代替わりの時に
それを
うちの兄弟子が
その師匠から代をもらう
というか
そういう時に
それを支える上で入ったんですけど
初めのうちは
いろんなことをさせてもらえたんですけど
今ならちゃんと分かって
もっと違う動き方ができるんですけど
25歳ぐらいじゃないですか
一番何もかも学びたい
何もかもやりたい時期だったんで
やっぱりどうしても
今ならすごくちゃんと
理解できるし
もっと違う動きができるんですけど
あの頃はやっぱり
兄弟子が
師匠が元気なうちに
全部の技術を学ぼうとするから
そっちに全部が流れるわけじゃないですか
やっぱり面白い仕事を横目で
ずっとやっているのを見て
自分ができないというところで
だいぶフラストレーションが
たまってきたんですよね
そこで
師匠に相談した時に
けどお前も
お前できると
だから
そういうのなら
紹介するから
ここでそういう形で
悩むぐらいなら
違うところで
今やってきたことを
試す方の方に
切り替えた方が
もう30になる年だったので
いいんじゃないか
という話をしてもらって
そうかそれも
ありやなって思った時に
逆に今までって
言うと株式会社というか
会社だけしか働いたことがなかった
ちゃんとしたところでしか
待ち場というのを経験したことが
なかったんですよね
遠古でずっと
初めのホテルも師匠で
次のホテルはその前の
39:00
オリエンタルの先輩が
誘ってくれて
次はその師匠のところから
おいでって言われて
自分でちゃんと探したり頭下げて
入ったことがなかったんですよね
一回それ経験せなあかんな
ということと
待ち場の厳しさは
嫉妬感かったなと思いまして
そこからはちょっと初めて
いろいろ
待ち場を3年間で
だいたい1年単位で
3年焼き鳥屋
カフェ
でイタリアン
3店舗学んで
という感じで
待ち場のやっぱりだいぶ厳しさを
教えてもらって
だけどそれは本当に
自分が独立するときには一番
意味があったなと
やっぱり
キレイ事じゃないやなっていう
待ち場の厳しさを
やっぱりホテルとかやったら
何かがあったら誰か
タスポジションの人に言ったら
物が直ったりなんかして
やっぱり待ち場は
何かが問題起きても結局
自分たちで全部改善していかないと
何でもかんでもお願いしたら
お金がかかるし
そういう部分からやっぱり
一人で
だいたいお店を回さなあかん
ってなったときの難しさであったり
すごく
3年やっぱりカウンター商売もしたこと
なかったんで
お客さんをいなしながら料理を
作るっていうことであったり
お客さんにどう喋るのか
とかやっぱりそういうのが
全然できてなかったときは本当に
初めはもう
何もできなかったです
ホテルとかだとしっかりしたレストランだと
別ですもんね
作って渡すだけですから
あれですし
それもただ作るだけなんですよね
本当に注文したら勝手に野菜も
来るし
すべてにおいて
ほとんど
何もしなくていいってなったときに
30で僕
何もできない人間なんだな
っていうか
一つのお店を作るってなったとき
そっから100均のすごく重要性も
感じ始めて
100均って本当にすごいとこなんだな
っていう
街場に出て
個人店で学んでっていうのは
やっぱり独立したいという気持ちに
出る時点では
なってたって感じなんですか
それはそのぐらいのときには
ちょっと
準備はしておこうっていうのは
あったかもしれないです
けど正直言うと変える気なんか
なかったし
最後入ったイタリアンが
ちょうどグループが大きくなろうと
してるとこだったんですけど
ある程度
そこを結果出せたんで
社長もよくしてくれて
残ってほしいとは言ってもらえたし
あれだったんですけど
42:00
簡単に言うと家庭の事情で帰ってこざるを得なかったんで
よくある親父が
病気になって
逃げて逃げて逃げ回ってたんですけど
さすがに帰らなかったら
ちょっとあかんなということで
けど
その頃まで
福部はずっと買い続けていまして
あの頃にもっとちゃんと勉強しとけばよかったんですけど
料理の本も買ってない
食べ歩きも全くしてない
っていう状況だったんですけど
帰らざるを得なくなって
そこからですね
だけどほんまに料理を好きになって
何かをし始めて
勉強し始めたのはそこからですね
帰ってから
帰る前から店をどうする
っていうようなことをして
初めていっぱい本を買い出して
いろんなそういう料理系の
バックナンバーを買い漁って
っていうところからしたとき
から初めてやっと料理
で
自分で店を始めて
直にリアクションがあるわけじゃないですか
やっぱそれを
もっと喜んでもらいたい
もっと勉強しよう
やったら喜んでくれる
がずっと続いている
20代の
一番楽しいとき
遊ぶときに神戸にずっと
いてって感じなんですけど
服以外に
全然何にもないんですよ
本当に引きこもりなんで
知り合いの
そういう服屋と
行って遊んで
酒もその頃全く
飲んでないんで糖分ばっか
摂取して
菓子パンと
ほぼほぼ生活してた
本当に
そんなに
ないんかったんですよね
遊びたいっていう欲求も
人と
なんかしてるっていうのもなかったんで
一人の時間が
一番好きやし
ってなってくると
ずっと
何もしないと
無駄な時間って
こういうことやなっていうのは
だけど
多分あの頃ちゃんとしてた
僕らと同年代の人って
今多分料理しんどいんやろうなって思うんですよね
見てても
間に挟まれたりとか
いろんな部分で
40代の料理人さんって
しんどいんかなって感じるんですけど
いまだに
ずっと楽しいですからね
それはそう考えたら
僕は今
すごく良かったのかな
とは思ってはいるんですけど
そしたら修行を終えて
田辺に帰ってきて
南風店はすぐオープンっていう
そうですね
とりあえず
働くってなっても
働く場所がないんで
45:01
性格がこれなんで
今更誰かの下で働いても
喧嘩するだけやろうなと思ったんで
自分でやらざるを得ない
金はないさあどうする
っていうところから始まったんですけど
だけど
家はあっちにある間に
一回とりあえず
向こうでの働き
期限が終わって
すぐ帰ってきて一回
やっぱり白浜の人間なんで
白浜でまず
いぬき物件を探そうと
イメージ的には寿司屋さんや
ショーケースあるようなところで
カウンターで
ちょっと
それっぽくいじって
なんかちょっと
バル的な感じのノリに
持っていけたらお金かけずにいけんな
って思ってそこを探し
始めたんです
だけど
なかなかなくて
白浜に
ちょうどそのときに
その何年か前に
白浜帰ったときに
家屋さんのところが
お兄さんがやってた
お店があってそこを手伝ってたんですよ
それは何のお店だったんですか
居酒屋みたいな感じで
やってたんです
そこに
あそこの前通ったとき閉めてて
あれ閉めてると思って
けど空いてるな
空き物件だって
そのとき電話したんですよ
えー
あそこどんな感じって聞いたら
やめとけって言われて
ただそこはやめた方がいいけど
ちょうどそのときも
運が良かったでしょうね
店休みの日あって
今日休みだから夜時間あるって言われて
全然空いてる空いてる
紹介したい人がおるから
ちょっとじゃあっていう感じになって
つくもさんに
行ったんですよ
へーなるほど
で
ばーって二人で話ししてて
で
それ聞いた古久保さんに
田辺行ったらって
言われたんですよ
手作りでやっぱりいろんな
その大量調理が
できるわけでもない
ってなったりやっぱりちょっとでも人口が
多いところで
ちょうどその日の新聞に
お寿司屋さんが
閉店したっていうあれがある
閉店するよっていうあれがある
ここ狙ったらここやったら
言ってるようなショーケースもあって
小さくて
面白い感じに
できるんじゃないかなって言ってくれて
次の日来て
ただそこは物件は
なかったんですけど
たまたま手当たり次第連絡してた
その不動産屋さんがすんげえ
いい人で
そこはあれや
うちの物件じゃないけど
息子友達やし親父に聞いてあるわ
って言ってくれて
ただちょっとそこやめとけと
高いと
俺の行ってる寿司屋の前が
48:01
ちょうどそんな感じや
行くぞってなってそこも
自分の物件じゃないんですよ
分かりました
お願いしますってなって
そこ見て
面白いなと思いながら他のところも
見たいなと思ってた時に
まだ神戸の家は
あるんやけど
そこを見てみようとしてる人が
抑えられたらちょっともう無理や
っていうことでどうするって言われた時に
金もないしまだ家向こうなんですけど
じゃあ借りますって言って
借りて
自分のそこらへんに住む家もなかったんですけど
とりあえずそっち借りて
その勢いで
不動産なんで
俺住む家貸してくださいって
そこでまた借りて
で
帰ってくる
だけど金ないからその間に
古着まで
服いっぱい売ったり
古着屋で買った古着を
また古着屋に買ってもらう
ってことをしながら
そこで小遣い
稼ぎながら保険解約したり
とかして
なんとか食いつなぎながら
一応帰ってきて
そこ古着屋に行ったら
なんで金貸してもないのにこの金で
店借りてんねんって怒られて
何考えてるんですかって
すんげえ怒られて
そうですよねって思いながら
ただちょっとここが無かったら
勝負できる気無かったんだよっていう
ちょっといろんなことを
それまでに調べてる間に
やっぱり飲食店で修行する人間って
簡単に言うと
あれが汚れてるんですよね
履歴書が
いろんなもの
いろんなものを修行するみたい
ってなった時に
なんでこんなに転職してるんですかって
1年で変わってるんですか
みたいな
っていうあれをトップシェフが
開業のあれをやってた時に
赤線引いて
その時に絶対言われることが分かってたんで
まず全部国境のところに行った時に
全部資料として見せて
こうやって
分かりましたと
ちょっとそこで
ただそれだけではちょっとあれだったんで
ありがたいことに
うちの親父の兄貴が
保障になってくれたんで
スタートできる
っていう流れにはなったんですけど
それで
スカイツリーと同じ年
スカイツリーですね
はじめはその前の日の
リシシザ流星群を目指したんですけど
グッズメスだったんで
アイアンの
スカイツリーか
朝一スマップが歌歌ってました
夜からずっと朝まで仕込みしてたんで
して帰って
テレビつけたら
スマップが歌歌ってました
南風邸が晴れて
オープンなわけなんですけど
最初はどうでした
けど正直
51:01
はじめ僕がしようとしてたお店は
もうちょっと
ちゃんとしたっていう
ちゃんとしたって言ったらまた怒られるな
やっぱり料理を本気で
ある程度料理に肘を置いたお店を
しようと思ってたんですけど
隅に置いたりなんかして
本当に狭いスペースだったんで
そうなったらパスタとかはできんし
と思ってたんですけど
つくもの古久保さんや
千原うちの相棒に
相談してた時に
まずは隅捨てろ
パスタやれっていう
まずそこから
あれが始まって
じゃあそうするんだったらということで
明確に
正直お金がない
っていうところもあるんで
失敗できないっていうところから
あと店は借りたんですけど
オープンまで4ヶ月ぐらい
かかったんですよ金も借りられてない
3ヶ月か
あと古久保さんから
昆布店さんを紹介してもらったんですけど
その時つくもそもされてて
それが終わるのちょっと待ってくれたら
できるよって言ってくださったんで
じゃあもう待ちます
ということで
それをお願いしてたら
ちょっとやっぱり時間がかかった時に
やっぱりちょっと待ちっていうものを
すごく勉強して
なった時にちょっと
あっそうかっていう部分の
学びがあったんで
本当にその地元の人たちが
行きたいかったけど
今田辺に
なかったような
その
今都会と呼ばれているような
ところでやってることよりも
ちょっと前に
流行ってたような
そういう
名前は知ってるけど
食べたことないみたいな
やりすぎないところ
っていうのを勉強して
スタートはさせました
言ってもだけど
わけわからん場所だったんですよ
南風天って
場所が
あじこうじって呼ばれるところの
その中でもちょっと
薄暗くて
ファンキーな場所の
奥に入るとこなんで
だいぶいいように言ってますけど
親福祉通りとか
呼ばれてるような場所の
昔はやっぱりもっと
フェンスじゃないけどブロックの
あれだったんで
やっぱり悪いことをする
変な男とかもおったり
やっぱり女性が襲われたりとか
そういう場所だったんで
やっぱり女性が来る場所じゃ
なかったんですよね
だけどはじめ看板も出さずに
わけわからん
ノレンとも呼べないノレンを
何も書いてない
ふざけた布を
貼ったりなんかしてたんです
何やもわからんような
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だけどあの頃って
地元に選択肢が
なかったんで何かできれば勝手に
広がるなっていうのはあったんで
まあもういいわということで
看板とか出さずに
はじめスタートしたんですけど
まあやっぱり
思った以上に
早く
皆さん来てくれるようになって
えーそうなんですね
それは口コミですね
あとはやっぱり
感謝してるのは
つくもさんと千原
から
うちの相棒の
お店で皆さんに
紹介してくださってたんですよね
こういうこうがこうするから
言ってあげる
やっぱりその初めのお客様たちが
どんどん広げてくれたなっていう
それはすごく
あの頃はそういう
ソーシャルメディアっていうものがなく
やっぱりその人の口コミが
前世一番強かった時代に
そうしてもらえたのは
はい
だから
女性が通らんっていう通りを
ほぼほぼ女性で
通ってもらえる
あの
口コミのおじちゃんたちからは
奇跡って呼ばれました
その時どんなもの
出してたんですか
だけどもう
途中心が折れて
作るのやめましたけど
パテドカンパーニュであったりとか
やっぱりトリッパだったりとか
そういうちゃんと
古典的っていうか
よくあるベーシックなものを
ちゃんと作ったものもしますけど
やっぱり一番やっぱりキャッチーで
上手い皆さんがハマったのは
バーニャカウダー
あとピザ
パスタ
アヒージョやっぱそこらですよね
ご飯の店って感じですか
飲む感じのお店
多分他のお店よりは
だいぶお酒は出るお店
お酒
そうですねだからワインは
多分飲むなら
南プテに行こうっていう感じには
なってたのかな
工事でやるんだったら
お酒は持ち込むみたいな
そのおかげで
ありがたいことに
スムーズにいって
っていう
ただやっぱり
ありがたかったんですけど
5年か
あそこで5年やったんですけど
だんだんだんだん
騙してるっていう部分が
自分の中に出てきたんですよね
はい
どういう
喜んでくれてるけど