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和歌山市のアウトダーショップ、キセンランドトレイルの白石です。
有田市のコーヒーショップ、ARCの上田です。
この番組は、和歌山で活躍するゲストの方にインタビューしていく番組です。
kisenradio第71回です。
本日のゲストは、おいしい和歌山編集長の牧五百音さんです。
牧さんの生まれから現在に至るまでのルーツや、おいしい和歌山のこと、
これから計画していることについてお聞きしていきます。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
それではまずは牧さんから自己紹介してもらってもいいですか?
はい、私は岩手市根頃出身の牧五百音と申します。
1985年生まれで、現在は東京でフリーランスのライター兼シナリオライターとして活動しています。
はい、普段は東京に住んでいる感じなんですか?
そうなんです。今だけちょっと二拠点になっているんですけども、
2年前にこの本の制作が入るまではずっと東京です。
牧さんのことはもちろん知ってたというか、
おいしい和歌山の本をずっと知ってて。
ありがとうございます。
ずっと知ってたんですかね。
本町文化堂の島田さんのラジオ、本町文化堂からこんにちはで、
おいしい和歌山の存在を知って、そのすぐ後ぐらいに牧さんもご出演されてて、
そこでおいしい和歌山の制作秘話であったりとか、いろいろ話しされてたんで、
まずこの今回のキセンラジオを聞く前に、そちらの本町文化堂のラジオの方も聞いてもらえたらよりいい感じかなと思います。
よろしくお願いします。
で、今回出演してもらう経緯は、先日あったパークっていう本町公演でのイベントでお会いしてというか。
私から上田さんに声を掛けさせてもらったという感じです。
はい。
結構たまにキセンラジオ出たいって言ってくれる人はいるんですけども、
なんかあんま言われちゃったら。
ただまあ、牧さんのことすごい気になってて。
おいしい和歌山の詳しい話も聞きたいと思ってたんで。
嬉しい。
今回ちょっと出演していただいてます。
おいしい和歌山のご紹介なんですけども、
去年の12月1日に出版された和歌山のおいしいものガイドブックみたいな。
そうです。
もうちょっとなんかいい感じに説明していただくとどういうことですかね。
和歌山県下全域の食に特化したグルメガイドブックがおいしい和歌山です。
飲食店からお土産物屋さんから農業のことまで。
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そうですね。
生産物、和歌山の特産品のことを生産者さんに聞くっていうページも設けましたね。
というめっちゃ面白い本になってますんで、皆さんぜひっていう感じで。
ありがとうございます。
普通に書店とか行ったら売ってるんですかね。
売ってます。
和歌山県内の書店さんはほぼほぼ置いてもらっております。
そうなんですね。
雨がすごいですね。
めっちゃ降ってきました。
豪雨が。
これだいぶ近づけてしゃべってもらってるんですけどもしかしたらこれでも入ってるかもなっていう。
すみません。
今回多少聞きづらいかもしれないんですけども。
よろしくお願いします。
そんなおいしい和歌山を作ったマキさんの現在に至るまでのルーツと
おいしい和歌山製作のこととかいろいろ聞かせてもらいたいんですけども。
まずはルーツの部分から。
マキさん生まれは岩手市寝頃っていうことで。
そうです。この家、今ちょっと収録してもらってるところからすぐ近いところにお寺の釈迦があってそこで生まれました。
お寺の釈迦ですか。
はい。今収録してくれてるところも寝頃寺というお寺の境内になるので。
はい。そこで私は生まれ育ちました。
お寺の子っていうわけでもないんですよね。
これが結構皆さんに説明するときにちょっと難しいのが住職の子供でもないんですけれども
父が仏画、仏さんの絵を描いてるお坊さんなので
そういう関係もあって寝頃寺の中でずっと住まわせてもらってるっていう感じです。
仏画描く人は何ですか。スタンダードなスタイルなんですかね。
何なんですかね。私もちょっとなんて説明したらいいんやろうと思うんですけど。
今日は収録来させてもらうときも、え、ここで会ってるかなみたいな。
なんかお寺の中に入っていったので、え、ここ行っていいんかなぐらいの感じだったんですよ。
場所ですよね。
でも私が6歳のときにこの家ができてそれからはずっとここが本拠地、実家っていう感じで住まわせてもらってます。
えー。じゃあマキさんの子供のときってどんな感じだったんですか。
いやもう本当に寝頃寺で生まれ育って、でまぁその父親もお坊さんをやってて、
で母親はずっと寝頃寺の調理場で働いてたのもあるので、
なのでもうずっと遊ぶのが寝頃寺っていうなんか贅沢なんかなんなんかよくわからん環境で生まれ育ちました。
めっちゃいい環境ですね。
って思っていただけるんですけど、子供としては正直あんまり最悪というか、
最悪というか、やっぱりお寺の中なので、なんというか大人ばっかりやし、
私は一人っ子なので、遊ぶ相手が大人ばっかりなので、ちょっとそういうところでやっぱ寂しかったなっていう気持ちはあります。
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あとまぁ作法もある程度やっぱりしつけられるので、そういうところは正座をして読教してみたいなところはあったので、息苦しくは感じてましたね。
子供の時に興味あったこととか覚えてますか?
なんか本当に場所も独特な場所なんですけども、なんか教育方針もはちゃめちゃやったんで、
お正月以外カップラーメン食べたらあかんとか、
お正月はいいんですね。
そうなんか謎ですよね。で、あとNHKと教育以外は見たらあかんとか、
なんか独自のルールがありすぎて、めちゃくちゃ抑圧された幼少期。
ルールは誰が作ってるんですか?
父ですね。
お父さんが。
ランドセルとかも普通のランドセルを買ってもらえなくて、なんかちょっと変わったランドセルを買い与えられたりしたりとか、
その頃は子供ながらになんで他の子と違うことをさせられてるんやみたいな気持ちが大きかったですね。
さっきお父さんご紹介いただいたんですけど、そういうお父さんいたんですね。
当たり前ですけど彼も父親になるの初めてで、子育て初体験やったので、
なかなか自分の若い時のしゃかりきなルールをこちらにも当てがわれてた。
今となってはやっぱりちょっといろいろ後悔してるとは言ってましたね。
子供の時から本読んだりとか文章書いたりとか、そんなの好きやったんですか?
やっぱり本、そのNHKとか以外見たらあかんってなると、結局読めるの、本とかしか読めやんかったりとかするので、
漫画とか本の方がやっぱり多かった、触れてる時間多かったかもしれないです。
なるほど。そして小学校とかも地元で?
はい、ねごろ小学校に通っておりました。
ねごろ小学校ってのがあるんですね。
そうなんです。本当に今も健在の小学校がありまして、
でも子供の足だったら歩いて1時間かかるところなので、
ちょっと送り迎えは家の誰かがしてくれたりして通ってました。
学校ではどんな感じでした?
本当に大人に囲まれてて、さらにうちの家が宴会が多い家で、
もう本当に父母が若い頃は週3、4で飲み会が開かれたりとかして、
大人しかいない環境で育ってたんで、あんまり学校の甲羅と馴染めやんかったという。
それは結構あったかなって思います。
ちょっと話合わないなー的な。
なんかすごい、今となっては改めてこっちの方が生意気すぎて、
こんな友達いらんやろうなってぐらいに舐めた態度をとってた子供時代だったと思います。
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中学校とかも地元ですか?
中学校はそういう感じで馴染めなかったのもあって、親愛に行って、
ただ2年生の時に特診クラスに行ったんですけど、どんどん勉強が嫌いになって、
なんかちょっと暴れだしたりもしてて、
ちょっとこのままじゃ通えやんぞってなって、自習大学っていう珍しいパターンの。
どういう暴れ方してたんですか?
行きたくなさすぎて、なんかもう行ってもずっと泣いてるとか、なんかちょっと余計なことをしてて、
自習大学をさせてもらって、岩手第二中学校に転校しました。
珍しいですね。
なかなかないパターンですよね。
あとはその中3の1年間を二中で過ごしたっていう感じです。
公立の学校戻ってからは落ち着いてって感じで。
めちゃくちゃ楽しくて、変な話も勉強しやんでよくなったので、
しかもそのあたりからテレビも解禁になったりとかしてたりしたので、
解禁遅いっすね。
そこから爆発したというか、もう勉強もせんと、
なんか二中の友達はすごくいい子たちが多かったので、
毎日遊んで、遊んで滝のように成績が落ちていって、
でも楽しくやっと青春が始まったみたいな感じになりました。
何して遊んでたんですか?
めっちゃ普通です。もうみんなで。
この家でよく集まることが多かったんで、
しかも言い方、これいいかな?いいよな。
お寺なので、親御さんはお寺に遊びに来るって言ったら、
結構夜遅くまで安心して、
マキさん家やったらいいよって言ってくれる人がおったので、
うち来てみんな悪いことしてるっていううちでしたね。
悪いこと?
そこはオブラートに悪いことという言葉だけで説明させていただければ。
いいですね。
うちの方針的にも、
よそで悪いことをするなと。
絶対に家の中でしかするなという方針があったので、
この家の中だけでみんなよくいろいろ遊んでました。
岩手って悪いっすもんね。
それよく言われるんですよね。
めちゃくちゃヤバい時期ではなかったんですけど、
私らはヤバい悪い時期の週末期やったんで、
卒業式とかすごかったんです。
みんなバイクで、そこの校長先生もうちと同じで、
悪いことするのは学校の校内だけでっていうので、
バイクで走るなり、
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そういう悪いことは全部させてくれた卒業式をさせてもらって卒業っていう。
なるほど。で、高校ですか?
で、高校ですね。
高校はどちらに?
高校は大阪の福島っていうところにある、
近藍会高校っていう女子高に行きました。
大阪行ったんですね。
大阪行きました。往復4時間。
なんでまた?
中3で2中に行って、
ほんまに色々回帰になって、
その時に池袋ウエストゲートパークという、
多分お二人も同年代だったら、
ドラマがあって、
あれ見てから都会に行きたい、
東京に行きたいみたいな気持ちがすごくあって、
同時期にちょっと大阪のハイスクールプレイフェスティバルっていう演劇祭の
審査員してる人がうちに遊びに来て、
ちょっと興味あるって言ったら、
その演劇祭を全部見させてもらえることになって、
その中で近藍会っていう高校は、
関西でも1位を争う演劇部の競合校だったんですけども、
そこの演劇に一目惚れして、
その演劇部に入りたいと思って、
そこに行きました。
そうなんですね。
そうなんです。
高校生活はどうですか?
部活が朝だいたい6時、7時からあって、
夜も8時ぐらい、遅かったら9時までとかあるので、
家出るのがだいたい4時、5時、
5時の始発とかで出て行って、
帰ってくるのもだいたい10時、11時、
そこからまた寝てっていう、
そのスタイルを1年、2年とやって、
そこまではもう本当に部活づけ、
遊ぶこともなかなかできない感じだったんですけど、
これまた2年の最後にまた大暴れしました。
なんなんやろ。
私も今回質問をいただいて、
自分でそれを何喋るか書いたときに、
なんで毎回ここの2年の終わりのタイミングで、
ずれるんやろうと思ってたんですけど、
なんか嫌になって。
ちょっと顧問の先生とも折り合いが悪くって、
もうやってられるかってなって退部して、
で、降参はまたさっきと本当に同じ話で遊びちぎるみたいな。
それは同じ高校で遊んでてみたいな。
遊びました。もう今度部活がなくなったので、
禁乱会っていうのは大阪でバイキン君っていう、
ちょっとあんまり頭が良くない女子校、
三大女子校って言われてて、
なので結構皆さんハッチャキな子が多かったので、
その友達らとその降参の1年間はもう大阪で遊び尽くすみたいな感じ。
楽しそう。
めちゃくちゃ楽しかったです。
当時の高校生はどういう遊びをするんですか?
でもほんまにみんなでエクステつけに行って、
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カラオケ行って、
どっか入って食べて、
を繰り返すのみみたいな感じです。
もうそれこそ飴村行って、
他校の子らとも仲良くなって、
みんなで遊んでとか、そんなの繰り返しです。
そうなんですね。
そうなんです。
で、遊びつつも進学か就職かみたいな。
そうですね。でももう演劇部に入った時から、
進学はもう絶対に日本大学の芸術学部、
日芸っていうところなんですけども、
そこに行くことはもうずっとなんやろ、
洗脳みたいな感じで、
父親がその芸大に行ってたので、
そこに行ったら面白いよって、
もう昔から言われてたんで、
もうなんかもう当たり前のように、
日芸行くぞっていう気持ちで行きました。
日芸って多分気持ちだけは、
行けない感じだと思うんですけど。
そう、なので浪人しました。
落ちました。やっぱ遊んでたので、
受験にも引っかかることもなく、
普通に落ちて、
1年間は大阪の中崎町ってところで住んで、
またそこで遊び倒して、
運良く日芸にその次の年に入れたって感じです。
すごい。
倍率が低いところを狙ったっていうのも肝でしたね。
それやから入れたって感じです。
それは演劇みたいなところですか?
これが写真学科に私は入学して、
映画批評コースと写真学科を受けてたんですけど、
どっちもその2つが受かって、
でも入試の時に、
写真学科のコラの方が面白そうやった。
みんな着てる受験のコラが。
っていうのがあったので、
全然やったこともなかったけど、
写真学科に入ったって感じです。
なるほど。
高校ぐらいの時って、
どういうものを見てたっていうか、
その好きなカルチャーというか。
結構あの時代は、
エミネムとかが流行ってた時代で、
でもクラブ前世紀だったので、
結構学校のコラとかはそっち系。
ヒップホップ系とかそっちやったんですけど、
私なんかもすごい、
とにかく東京への憧れが強かったからか、
クルリの東京あたりからは、
ずっと1人だけバンドを追っかけたりとかして、
あとはドラマを、
ほとんどのドラマをVHSに全部録画するみたいな。
まだ残ってるんですよ。
400本くらいのVHSがあって、
映像化とかもされてないものとかも、
全部毎日、
昔って録画って自動じゃなかったので、
デッキにちゃんとその前に座って押す、
みたいなことをやってました。
ドラマは池袋ウエストゲートパークから
ハマってみたいな感じですか?
そこからハマりました。
そこからまたキング?
18:02
熊塚陽輔さん。
熊塚陽輔さんのキングが、
もう私の中で衝撃やって、
そこから、
この人かわいい、この人かっこいいとかで、
どんどんドラマも見始めたり、
映画も見始めたり、
学校が大阪にあったので、
ナナゲっていう映画館とかがあったりして、
そういう映画館にひたすら入り浸ったり、
とかっていうことをやってました。
どんなドラマ好きだったんですか?
昔はやっぱり、
野島真嗣前世紀の時とか、
あとそれこそ工藤寛黒が出てきた時期とかやったんで、
全部3つけてないわ、どうしよう。
だからもう、
あとはやっぱりキャストさんが好きなので、
その久保塚陽輔さんが出てた、
梅塚蔵の漂流教室っていうドラマとか、
結構そういう、
ほんまにドラマ全部見てましたね。
見すぎて覚えてないぐらい見てましたね。
ドラマ全然見てなかったので。
何ハマってました?
ウィッケムクロウエストゲートパークは見てたんですけど、
その後、オレンジデーズ。
DVDブック買いました。
買ってブックで売りました。
つばむきさとしさん、しばさきこうさん。
それぐらいしか見てないような。
じゃあ全然映像系は全く。
毎週見るっていうのはできなくて。
確かにな。
他じゃあ映画?音楽?
映画も全然見てなくて、
音楽は好きやったんですけど。
何好きやったんですか?
音楽なんですかね、大学の時とか、
バンド系な。
どんなやろ?
ハイスタとか、ピザ・オブ・デスのその辺とか、
クルリももちろん。
結構全般的に。
バンド系やったんです。DJ系じゃなかったんですけど。
ヒップホップも普通に、
当時は流行ってたんで。
流行ってましたよね。
なるほど、その辺を見てたんですね。
そうです。オタクです、オタク。
大学で晴れて、念願の東京へ。
念願の東京。
めちゃくちゃ楽しかったですね。
楽しいと今もなんですけども。
日芸ってどこにあるんですか?
日芸は、これこそなんかちょっと変な話なんですけど、
1,2年は東京じゃなくて、埼玉県なんですよ。
東京来たぞって言ってる割には、
主戦場が埼玉って感じだったんですけど、
3,4年は練馬区の方にあって、
住んでたのも中野っていうとこやったので、
そのあたりで、とにかくその時も遊び倒してます。
学校はどうでした?
本当に今思えばめちゃくちゃいい環境やって、
全国からいろんな子らが集まってて、
21:00
どうしても小中高はどうやっても居心地が馴染めてるようで、
馴染めやんかったみたいなところがあったんですけど、
大学はそういう子たちの集まりやったんで、
やっと許されるじゃないですけど、
もう別に私ぐらいのひどい子なんて、
もう全然下の方っていうか、もっとやばい子がいっぱいおるんで、
めちゃくちゃいい意味で安心したみたいな感じやし、
どの子らも本当にいい子らが多かったので、
自由に楽しくやりすぎて、
単位を4年間で128取らなくちゃいけないところが、
最終的に20単位しか取らず、
学校は誰よりも早く行って、
誰よりも遅くまで残ってたんですけど、
授業は出ず、
ずっとベンチで寝て、
友達が来たら喋って、
飲みに行って、
また次の日誰よりも早く学校行って、
寝てるみたいな感じの4年間を過ごしました。
写真にはあんまり取り組まず。
写真はでもめちゃくちゃやりました。
楽しかったので、
それこそ授業は出やんかったけども、
写真を現像する暗室っていうところにはずっといて、
ひたすら写真はやっぱり撮って焼いて、撮って焼いてっていうこともやってたり、
日芸は本当にいろんな芸術のコースがあるので、
友達と映画作ったり、ジン作ったり、
大体ありとあらゆることはそこでやったかなって感じ。
大学はそれこそ教育方針で、
4年間の間に何に進みたいかを決めるための最後の猶予期間やから、
別に授業に出ろとか、どこどこに就職しろというよりかは、
自分が進む道を選ぶために4年間行ってくださいねみたいな感じやったので、
その言葉通り、そんな感じで過ごしました。
それは家庭の中のルールというか。
母親は激怒してて、一旦やったら卒業しろって、
いくら払ってると思ってんねんっていう母親と、
父親の方はもう、別にとにかく見つけてほしいかなみたいな感じで、
行ったって感じです。
その時は何になりたいとか決まってたんですか?
ほんまに決まらんくって、4年になるとみんな就職していくので、
ようやく焦り出して、そこで本当にいろんなことをやって、
どれも向いてなかったっていうのがあって、
演劇も表に出ることが全然向いてないってことが分かって、
写真は自分よりもめちゃくちゃ実力がある子がいっぱいおるから、
そこで戦うのは厳しいかなとか、
そうやって消去法でいろいろ削っていった時に残ったのが、
24:00
映画、脚本、やっぱりドラマも好きやったし、
小説家になるか、そういうドラマのシナリオとか画家に進みたいなってなって、
でもまだ決まりきってなくて、
だからもう3年間ずるしいって言うよ欲しくって、
映画の専門学校に行きました。
そうなんですね。
めちゃくちゃ金のかかる子供やった。
映画行けるっていうのは何かちょっと書いたりもしてたんですか?
高校の時の演劇部が本当に競合校やって、シナリオとかも書かせてくれるんですよ。
その時にも書いて、それがちょっとだけ賞をもらったりとか、
そういう経験もあったり、
やっぱり一人で何か、一人っ子で本当に自分で遊ぶしかできなかったのが向いてたというか、
なんか一人でコツコツ書くことの方がまだいけるかなっていう気持ちで行ったって感じです。
なるほど。
専門学校はもう東京で。
はい。専門学校は日本映画学校、そのままの名前の専門学校で3年間はもう地獄みたいな。
どういうことですか?
日系の時が伸び伸び、本当にみんな伸び伸びしてたんですけど、
何というかその時代的にももう結構前なので、まだそのハラスメントの山みたいな学校をやって、
映画の世界って昔はやっぱり結構上下関係とかが厳しかったり、指定関係があったりするので、結構激しい世界。
体育会系の結構激しい世界だったんで、専門学校はその辺りが色濃く残ってたので、
なかなか激しい先生たちがいらっしゃって、絶望に絶望を味わったっていう感じ。
例えばどういう風に?
どこまで喋るのかもしあれだったら聞いてくださいね。
飲み会とかで標的を見つけた先生がその子をずっと殴るとか、
殴る?
そのほんま最後の世代だったんですけど、嫌われた生徒はとことんいじめられるとか、
仲間外れに近い状態にもなるとか、とにかく人格否定をひたすらされるとか、
なんで?
シナリオって結構自分のうちにあるものを出さなくちゃいけないんですけど、
自分のうちにあるものをパーソナルなものを出すと、そこからお前のこういうところがダメやからこういうことになるとか、
そういう結構人格否定みたいになる時が多かったので、
標的にされると結構そこをずっと突っ込まれて、どんどん病んでいくみたいな。
だから仲良かった子たちはどんどん退学していったりしました。
マキさんは結構それにも耐えててみたいな。
耐えられなかったです。
もう2年の途中ぐらいで、もうほんまに限界やと思って、
27:03
そのあたりから本気で病むという時期が始まって、
その学校行ったことがきっかけでちょっと病んだっていうところがありました。
えー、そうなんですね。
それでも続けてというか、行ったのは何かあったんですか?
その時に臨時講師みたいな人が結構専門学校に来るんですけど、
唯一まともというか本当に立派な先生がいらっしゃって、
今でも私のシナリオの先生みたいな人なんですけど、
その人が拾ってくれたというか、
もうせっかくやから目指すんやったら、
頑張ってシナリオライターになれるようにいろいろ世話をしてくれて、
何か書く仕事をっていって、いろんなゴーストライターみたいなお仕事とか、
そういうのくれたりとか、あと勉強会とかをやってくれたりして、
それで何かここまで来たって感じです。
それは在学中にお仕事も始まってみたいな?
いやでもさすがにそれだけでは食べられなかったので、
しばらくは某テレビ局の報道アーカイブ?報道の資料を取り扱うテレビ局のお仕事を3年間やってて、
それで食べてて、その傍ら副業的な感じでライター業を始めて、
3年目ぐらいの時にライター業で何とか食べていけるかなってなって、
すごいっすね。
いやもうでも大変。
3年でそのものになったというか、何年やってもやっぱり一本でいけない人はいると思うんですけど。
もう9時5時生活にほんと耐えられなかったというか、それもやっぱり結局消去法をやったんですけど、
なんかもう会社に毎日同じとこに通ってっていうことがあまりにも嫌やったんで、
そうじゃない方法を取るためにはどうしたらいいかなっていうので、
何とかライター業をくださいっていう感じでやってたらまあ何とか。
初期はどんな仕事してたんですか?
初期は今もやってるんですけど、東京のお出かけ情報サイトとか、
東京のメトロのフリーペーパーとかのそういうお出かけ情報の記事を書いたりとか、
あとは本当にコンビニで売ってるいわゆる昔でビニボンとかのライターをやったりとか、
もうほんと雑食ライター、もう何でもやるみたいな感じでいろいろやってました。
そういう仕事ってどっから来るっていうか。
どうやって仕事をとっていくんですか?
初めはやっぱりその学校卒業した人らでもやっぱりその道に進まない人も結構いて、
またその時代は紙媒体も前世紀のまあ最後の方ではあったんですけど、
いくらでも出版物があったので、編集出版とかの会社を立ち上げた人とかが結構いて、
30:05
やっぱりシナリオでは食べていけないけれども、何かそういう別のベクトリアやけども書く仕事とか、
そういうところに行った人たちをいろいろじゅじゅつなぎで紹介してもらって、
そこからお仕事もらって、向いてない媒体はすぐ切られるし、
向いてるとこやったらそのまままたちょっと増えていったりもするし、みたいな感じの、なんかアバウトな。
どういうなんか媒体が向いてたなとかってあります?
もうそれが圧倒的に飲食店の取材やったっていうのが一番大きかった。
本当にもうなんでもやるんですよ。
これ会えへんかったなみたいなところが。
エロ。
そこも行く、本当になんでも。
そう、エロ系雑誌の記事とかはもう自分でも目も当てられないぐらい出来が悪くて、
すごい早いスピードで切られました。
飲食はなんで向いてたんですか?
なんででしょうね。
なんやろ、なんかそのお出かけ、もともと学生の時に47都道府県旅行するっていうのを勝手に一人でやってて、
旅行行く時にはいろいろ調べたり、食べ物屋さんとかも行ってたりしてたので、
多分もともと好きやったっていうのもあるから、
いい取材ができたりとか、楽しく仕事ができたから、
なんとか続けてこれたんかなみたいな感じです。
そうなんですね。
じゃあ3年目からもうずっとフリーのライターって。
です。
すご。
ねえ、なんでここまでやってこれたんやろうと思って。
じゃあそういう記事を書きつつで、脚本とかシナリオの方もやってみたいな。
これがまたシナリオの方がやっぱり門が狭いので、
ですよね。
みんなにどうやってなってんのって聞かれることも多いんですけど、
大体がやっぱりコンクールに出して、何か賞をもらったら、そこからまたいろいろ知り合いとかつながりができて、
デビューしていってっていうのが基本コースはそれなんですけど、
そのためにも賞は毎年出しなさいよって上の人からも言われてて、
毎年結構5,6本とか出してたんですけど、
賞を取れない人間やったんですよ。
本当に1回も受賞ができやんくって、
シンプル才能がほんまになかったっていうところがあるんですけど、
なんか最後の方、最終選考とかに残ることが多くなってきて、
でも賞を取れやんくって、
で、他の勉強会の仲間とかがどんどん賞を取ってるのに、
自分だけ取れなかったんですけど、
なんかその時に先生から、
棚ぼたは棚をゆっすり続けやなお家やんから、何があってもゆっすり続けなさいって言われて、
33:01
で、懲りずに賞をめっちゃ出してったら、
そのシナリオを読んでくれたプロデューサーさんから電話がかかってきて、
今度こういう企画あるけどやりませんかって言われて、
ワウワウのドラマでデビューさせてもらったって感じです。
それが何歳ぐらいの時ですか?
28の時。
その前に実は1個映画もやってるんですけど、
それはあまり私の中ではうまくいかなくて、
もう変な話、このままライター業楽しいしやっていきたいな、
やけどやっぱりまだもうちょっと頑張ろうかなって、
その映画先にその方から声をかけてもらったのが、
もう一番の人生の転機なんかなって感じです。
なるほど。シナリオライターって結構イメージがつかない仕事なんですけど、
そうですよね。
どういう仕事内容なんですか?
ほんまに有名な人やったら、さっきも名前挙げさせてもらった工藤寛久郎さんとか、
大河ドラマ描いてる人とか色々いるんですけど、
基本今の若手はオリジナルはやらせてもらえないんですよ。
やっぱり漫画原作とか、そういうのを自分たちで見つけてくるパターンもあって、
それ売り込む曲にとか。
それかプロデューサーさんって言われる人たちが、
こういう企画あるけどやってみませんかって言われて、
まずはあらすじを作る、ドラマ用に。
で、そのあらすじでスポンサーとかに通ったら、よく言う台本を書くっていう仕事です。
大変そう。
大変ですね、ほんまに。
けど面白いみたいな感じですかね。
どうしても好きなんかな、好きやったんかな。
あんまり私は好きやからやってるって言葉を使うのが苦手なんですけど、
でもやっぱり面白かったし苦しいんですよ。
てか99%しんどいみたいな感じなんですけど、
やっぱりいっぱい楽しくなる瞬間みたいな、そのゾーンに入るみたいな時があって、
それを何回か経験してしまうと、それを味わいたくてやってしまうみたいな感じで、
ずっとやってきた感じです。
どんな話を作るんですか、まきさんは。
私は1回目は原作付きやったんですけども、それ以降、連ドラは私は2回やってるんですけど、
2回目は本当に、今も配信されてる、0.5の男っていうわおわおのオリジナルドラマとかは、
プロデューサーさんに8050問題を面白おかしく取り上げたらどんなドラマになると思う?
っていう話から、いずれやってくる介護を結構年老いた人がやらなあかんみたいな問題を、
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ドラマにしたらどんなになる?っていうところから話をして、
じゃあこういう主人公がいいんじゃないかとか、いろんなみんなからアイディアをもらって、
5話分の話にするみたいな作業を繰り返す感じです。
そんな感じなんですね。
そんな感じなんです。
シナリオライターさんって、例えば尺もあるじゃないですか。
尺も結構バチッと考えて、尺通りにいくように作る。
やります。
どういう計算というか。
これほんまにすごいんですけど、みんな肌感覚でわかるんですよ。
この文字数やったら、これぐらいなんて。
監督さんによっては、間をすごい持つ人とかがいるとめちゃくちゃ伸びたり、
逆にテンポ良くする人やったら、全然足りやんとかになったりするんですけど、
でも大体私は書きすぎる嫌いがあるので、45分の番組やったら、
60分分ぐらい書いて、あとは現場で削ってもらうみたいな感じです。
じゃあシナリオライターとして仕事しながら東京で暮らしてみたいな。
すんげえなんか都会っすね。
若いものは全然出てけへんやんか。
夢があるというかね。
でもなんとかここまで生きてこれましたって感じで。
生活の方は楽しかったですか?
もちろんそんなに裕福な収入とかは、本当に今は改善されてますけど、
昔のシナリオ業界って死ぬほどブラックで、企画が成立するまではお金一銭も入らないんですよ。
だから例えばじゃあ1ヶ月ひたすらあらすじを書いてましたってなっても、企画が通らんかったらお給料はゼロなんですよ。
でその分じゃあどうするのってなった時にライター業がちゃんとした給料をいただけるので、そこで助けられて生きてきたって感じです。
東京ではどんなことして遊んだりとかしてたんですか?大人になってから。
私はもう高円寺っていうところに15年住んでて、本当に1回も引っ越しをせずに、もう同じ家に住み続けてるので、飲みに行ったり、飲みに行ったり、飲みに行ったりですね。
すげー。都会ですね。
高円寺って結構そういう飲み屋とか飲食店が多い町なんですかね?
高円寺はダメな人間に優しい町って言われてて、本当に売れないミュージシャンとかお笑い芸人さんとかがすごいいるので、本当にヤバい人もいるんですけど、町の人たちがめちゃくちゃ温かく見守ってくれる町なんですよ。
だからそこも日芸じゃないですけど、自由というか、なんかのびのび暮らせる町なので、いい町です。ぜひ来てください。
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どういうコミュニティで遊んでるんですか?東京では。
ねー。確かに。
芸能人とかと飲んじゃったりみたいな。
あるはあるんですけど、これはどうなの?やっぱり役者さんたちと仲良くやってお仕事されてる方もいるんですけど、
シナリオライターとして。
でも、これはもう個人的に、あんまり私はそういうところであんまり仲良くなると、良くない感じがしてて、どうしても非力しちゃったりとか、じゃあこの人出さないみたいな感じになりそうなので、
私がよく遊ぶのはだいたい監督さんとか、あとはやっぱ大学時代専門学校の時の友人とかがメインです。
なるほど。僕そのドラマとかに全然明るくないんで、わからないんですけど、
マキさんってなんか、どういうランクの人っていうか。
めちゃくちゃド新人です。ペーペーのペーペー。本当にペーペーです。もう全然中堅にもまだ行ってない。上が詰まりすぎて、詰まりっていうか、いい人たちがいっぱいいすぎるので、
もちろん私より若くてデビューしてる人もいるんですけど、ランクで言ったらまだ新人。でももう新人とはさすがに言えないので、初期。
初期。
初期ひな壇くらいな感じです。
ちょこちょこ出現するシナリオライターみたいな。
本当に世に出てる作品自体は私はまだいろいろ合わせても5つぐらいなんですけど、企画でポシャってるものっていうのは多分100を超えるぐらいあるので、
そういう意味では、やっぱり運良く実力もあって、どんどんコンスタントにやる人もいれば、私はどちらかというと父として歩みなので、
その器用な方とか構成がうまい方はどんどんできるんですけど、その辺のユーズが聞くタイプではないので、本当に素敵な人らと相性があって、ゆっくりゆっくり何か作っていくっていうタイプなので、ペーペーのところです。
10年間シナリオライターとして着実にやってきた牧さんが、このおいしい和歌山出版っていうのが急にどうしたっていう。
ほんまに。
この制作の詳しい話は本、街文化堂のポッドキャストでもって感じで、なんですけど、重なる部分もあると思うんですけども、制作のきっかけから教えてもらいたいんですけども。
本当にシナリオライター。