1. Kimi's Travel Interview
  2. 【TALK.1】30代で美術を学び、..
2022-08-24 49:35

【TALK.1】30代で美術を学び、50代で独立。アートに対する消えない情熱 | ミヤギタケオさん(ペタルアーティスト)

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今回のゲストは鹿児島を拠点に
花びらを使用してつくられる「ペタルアート」を
制作されているミヤギタケオさんとのインタビューを
お届けします。

「デザインがしたい──」

悶々とした想いを抱えながら、会社員として働く中で、
30代に入ってから、デザインの道を進むために
鹿児島に妻子を残して、東京の美術学校に行くことを
決断したミヤギさん。

ペタルアーティストとして独立したのは50代に入ってから。

また、センスを成就させる秘訣も教えて頂きました。

ぜひ本編をお楽しみください!


【Guest】
ミヤギタケオさん(ペタルアーティスト)

【Interviewer】
Kimihiro Nakae

00:06
皆さんこんにちは、映像音声クリエイターのKimiです。
このPodcastでは、僕が旅先で出会ったクリエイターやアーティストの方の声をお届けしています。
作品からは見えてこない作り手たちのリアルな声を聞くことで、あなたの創造性をより豊かにするヒントをお届けします。
今回のゲストは、鹿児島を拠点に花びらを使用して作られるメタルアートを制作されている宮城武夫さんとのインタビューをお届けします。
デザインがしたい。悶々とした思いを抱えながら会社員として働く中で、
30代に入ってからデザインの道を進むために鹿児島に妻子を残して東京の美術学校に行くことを決意した宮城さん。
ペダルアーティストとして独立したのは50代に入ってから。また、センスを成就させる秘訣も教えていただきました。
ぜひ本編をお楽しみください。
ご無沙汰しております。
お世話になっております。いつもありがとうございます。
今日は宮城武夫さんに色々お話を伺いさせていただきます。
今日はこういう機会をいただきありがとうございます。
こちらこそありがとうございます。ようこそ。
宮城さん、ペダルアートを作られていて、これ何年くらい?
作品を発表して24年ですね。
制作していたのはもう2、3年前でしょうか。
改めてですけど、宮城さんが今77歳ですよね。
作品を作り始められたのは40代に入ってから?
そうですね。遅くに学生をやっていましたので、遅くに学生をやっていて、
学校を卒業してすぐ就職して、宣伝関係の仕事をずっとやっていて、
ペダルアートっていうのは元々ペダルっていうのが英語で花びら。
花びらで絵として表現をしようというのをオリジナルでスタートさせたものなんですね。
学校を卒業して卒典に近い感じのやつで、その花びらを使って作品を持っていって、
それが先生方の間でも生徒間でも評判が良くて、
いつか花びらっていうのはアートになるかもしれないっていう思いがあって、
学校を卒業してすぐに就職するんですけど、
その間に手に入ったものだったりとかっていう花びらは全部漫画本とか、
休日誌とか電話帳だとかにストックが始まるわけですね。
だからそのストックの期間というのが結構長くあって、
十数年してからですかね、勤め上げて十数年してから、
その最初の頃にストックしたものを取り出して、
宣伝関係というのは結構お付き合いが多くて、
なかなか作品を作ろうという気分にならないかったんですけど、
十数年経って少し部下も育ってきて、
03:03
今日は酒も入らない、明日も休みだっていう時が来たら、
おもむろに材料を取り出して作品作りが始まっていったんですね。
それをずっと10年近く作りためてたのが130点ぐらいになって、
会社を辞めて、ペトロアートというのでデビューをさせてもらうわけですね。
鹿児島三越の画廊でデビューさせてもらって、
それからずっとこちらですね。
さっき卒業してすぐに働き始めてという話だったんですけど、
普通だったら一つの会社で働くか、
もしくはここは違うなと思って転職するかどうかがよくあると思うんですけど、
30歳でしかも奥さん奥さんがいて、
学生になるっていうのはなかなか普通の人はやらない選択だなって思う。
そこですごく僕は惹かれてるんですよ。
夢を諦める人っていっぱいいると思うんですよ。
三越さんはそこで家族がいても子供がいても自分がアート、
その世界に行くために東京の学校に行ったっていうところが、
その辺りをちょっと深く聞いてみたいなと思って、
どういう思いだったのかなとか。
そうですね、高校卒業して就職したところでは総務的な仕事をやってたんですね。
総務っていうのはその名の通り全てに頭突っ込んで日々忙しいわけですよ。
いろんなことに対して。
そんな中で7,8年とか10年近くやってたりすると、
一歩その会社を出て、お前何ができるんだっていうのを問われたときに、
何なんだろうって、お忍べって一応全部はなんだかんだできるけど、
何なんだろうっていうのを思い始めたんですね。
それを思い始めたのが7,8年経ってからなんですよ。
デザイン的な仕事っていうのはすごく好きで、ディスプレイするのも好きで、
なんか自分の中にはもうモンとした日がそういうのがあって、
ディスプレイがしたい、デザインがしたいとなったら、
自分の子の年齢でそういうところに転職しても、
何なんだっていう形になるのかなっていうのは自分の中にあったんですよ。
この年齢で新しい職に就こうというのはいいんだけど、
そこで通用できるまでに、5,6年かかるのか、7,8年かかるのか、
それまで転職した先には迷惑かけるわけじゃないですか。
だったら2年でもいいから、
鹿児島のデザイン学校ではなくて、福岡でもなくて、
家族を犠牲にするんだったらやっぱり東京だと。
ギリギリでそれをモンモンとして日が続きながら、
もうこの年齢を過ぎてからはもう無理だろうというのが限界だったのが、
06:01
32歳だったんですよ。
ギリギリまでモンモンとしてて、
もうここで行くんだったらこの年齢で行かなきゃっていうのがあって、
その前までに各学校の願書みたいなのを取ってたんですね。
3校か4校か取ってたんですよ。
その中に選んだのが日本デザイナー学院というところなんですけど、
渋谷の学校なんですね。
入学は簡単だけれども卒業は難しいですっていうのが一行書いてあったんですよ。
自分にはここしかない。これなんだと。
要するにデザイナーとして資格が取れるっていうのはこのことなんだと。
言ったよだけでは済まない。
ある程度認められて卒業証書がもらえて、
というのをはっきり書いてあるここがいいなと。
選んだのがそこなんですね。
もちろんアルバイトもしないと、
妻子歩みで行かなきゃいけない。
そこには学費も出てくる。
それから住居費も出てくる。
鹿児島に住んでいる者もいるんで、
それなりに用意はしていったとしても、
日々の自分の学費ぐらいは自分で稼がなきゃいけないってのもあったんで、
少し早めに行ったんですけど、
とにかく家族を残して行くというのがどんだけ楽しいか、
家族を残して行くというのがどんだけ大変なことかっていうのを、
やっぱり東京で暮らし始めて分かるわけですよ。
府中もちょっと離れたところだったんだけど、
家族も呼んでそこで暮らせれば一番いいかなというのもあったんですけど、
いざ学校がスタートしてみると、
学校も7時には家を出なきゃいけない、府中なので。
家族と住めるというところで府中にしたんですけど、
そこで初めて7時には出なきゃいけない。
で、学校が終わったらアルバイトに行かなきゃいけない。
アルバイトから帰ってきたら風呂もしなきゃいけない。
もちろんアパートには風呂ついてないんですよ。
近くの銭湯10時までしか開いていませんから、
それに間に合わすか、もうあんまり合わなかったら魚水より、
もう体を拭くより仕方ないんですよ。
台所で頭洗ってとかっていう。
その後に来るのが課題なんですよ。
そうすると寝る時間というのは、
ほとんど3、4時間、5、6時間しかないんです。
こんな中で家族を呼んだとしても、
家族も落ち着かないし、自分も落ち着かないし、
たぶん友だおれになるだろうという感覚があって、
これが続くんだったらもう一人がいいなと。
で、もちろん家内の方はお母さんにお願いして、
お母さんと一緒に住んでて、
で、小さなお店屋さんを母がやってたんですよ。
それを家内も手伝うような感じで、子供もいるから。
道路を渡った向かい側が幼稚園なんですよ。
で、そこへ道路を渡りさえすればもう幼稚園なので、
そこへ送り迎えしてくれて、
だからばあちゃんと一緒だったんで、すごくありがたくて。
09:01
で、その辺も安心材料の一つで、
まあ、一週間で7、8キロ体重落としましたね。
移動してからすぐ。
はい、移動してから、
アルバイト先の木黒だったり、
すごく人には恵まれてて、アルバイト先にも恵まれて、
4、50年前ですから、
その当時、アルバイトで時給ってのはたぶん4、500円だったころなんですよ。
切手を扱う会社だったんですけど、時給800円くれましたから。
当時はその中で高いんですよね。
その仕事っていうのも、各地方からお金が送ってきて、
この切手が欲しいとか、この切手シートが欲しいとかっていうのを、
会社の人がそれをチェックをして、封筒を書いて、文章を入れて、
私はその切手を中に同封をして、発送するという業務だったんですよ。
何時まででもいいですよ、終電までやってもいいし、
この書類を全部が全部片付けなきゃいけないことでもないから、
やれるところまでやって、それで帰っていいですよ、スタンプで。
もう翌日には昨日の分みたいな感じで。
自分がいるときに社長がいたりすると、一緒にご飯食べようか、
ご飯までごちそうになって、それまでの時間給ももらって、
そのまま帰るとか、アルバイト先にも恵まれてましたんで。
学校始まると課題がとにかく大変でしたね。
自分の思いは、最初行ってしばらくは寂しい思いもしたし、
なんでこんな大それたことを結婚してしまったんだろう、
というのも思ったりもしましたよね。
でも、それで終わるもんじゃないという、
犠牲にしているものがあるんだから、
これを物にしないと帰れないというのがあったんで、
それだけが気持ちの支えみたいなものになって、頑張れましたよね。
お子さんとかも、さっき幼稚園という話だったから、3歳、4歳とか。
2、3歳なんですよ。
かわいい盛り合いで、
今みたいにスマホとかで簡単に見たりもできないし、
どうされたんですか?
我慢だけです。
電話とかも?
電話もないし、
そうか、まず支度がない。
大屋さんのところから読んでもらってというのがあるんですけど、
その時だったから、それが許されていた時期なんですよ。
なるほど。
今と全然違いますね。
公衆電話ですよ、何かある時。
公衆電話だとそんな頻繁にはなかなか。
できない。
要は、物にしないと帰れない。
そういう仕事に就きたいと思って、
自分が1、2、3、4、5、6、7、8年、10年かかるんだったら、
12:03
その先にも迷惑をかけないんだったら、
学校を卒業して、
ある程度の技術、ある程度の表現方法というのを確立していかないと、
学校に東京まで来た甲斐がないというのは、
いつも思っていましたので、
それが頑張れるもとになりましたよね。
断るために、
学校の文化祭の奨励賞だったりとか、
いくつももらいましたよ。
卒典でももちろんもらいましたよ。
卒典でももちろんもらいましたし。
その時はまだペタルアートは完成していなくて、
別な作品。
そうです。ポスター柄で表現する平面の絵ですよね。
自分で描く。
どこか探せばありますよ。
じゃあ、やるか。
絵心ない。絶対絵とか描けない。
そもそものところで東京に行って勉強したいというのがあって、
家族もいて、
奥さんに絶対伝えないといけないじゃないですか。
伝えるタイミング。
タイミングとかどういう感じで伝えられたんですか?
タイミングは1年くらい前ですかね。
学校の資料を取り寄せる時ぐらいかな。
こういう風に考えている。
もちろん家族も、家内の兄弟も、私の方の兄弟も反対ですよ。
なんで今さら。
なんで今さらっていうのは、しっかり自分でも分かるんですよ。
言われることっていうのは。
同僚もそうですから、会社の。
なんで誰も先を見越して賛同してくれるのは、
誰も先を見越して賛同してくれるのはほぼいない。
あ、もうそっか、周り全員みたいな。
周りも、もう四面楚歌。
結婚ってかかなりきつくないですか?自分の思いがあっても。
思いがあってもきつかったけど、
気持ちの中で結婚はもう決めてましたから、何があっても結婚するっていう。
その結婚するっていうのが決まったのは、いつのタイミングで決まったんですか?
話し始めた2、3ヶ月。
その辺りで。
何があっても行こうと。誰が何と言っても行こうと。
上田さんの方の兄弟にも集まってもらって話もしたんですけど、
納得はしてもらえなかったですね、家族も。
でも上田さんのお母さんだけは、娘と住める、孫と住めるっていうのもあって、
意外とすんなりと引き受けてもらったっていうか、
それも渋々なんだろうけど、顔には出されなかった。
その時も奥さんのお父さん、義理のお父さんは。
義理の父親は亡くなってましたんで、もうとっくに。
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彼女が小さい頃に亡くなってて、兄弟がいるんですけど、お兄さんとかお姉さんが。
でも皆さん普通じゃないから、普通の人はやることじゃないじゃないですか、家族があって。
なんで?っていう。それを、うん、いけっていう人はまずいないんですよ。
なんかちょっとついつい今の感覚になっちゃうんですけど、それこそ宮城さんが30代の時、40年くらい前の時って、
鹿児島の人が、県外に出ること自体がまず一個ハードルがあるのかなって、
進学にしても就職にしても、国をするぐらいの勢いでみんな出るのかなと思うんです。
どんな感じだったんですか?特に鹿児島って田舎じゃないですか。田舎から都会に行くっていうのは。
でもあの頃からパルクの広告だったりとかっていうのはすっごい好きで、
東京のパルクの三宅一世の洋服だったり、三宅一世の作った服を着た黒人のモデルがやったりとか、
あとなんとか石岡栄子かというグラフィックのデザイナーがいるんですけど、
彼女が手がける新聞広告だったりとかポスターだったりとかは、人がいなかったら盗んで帰りたいっていうぐらい好きだったんですよ。
だから東京を遠いところっていう感覚にはつかんでなかったですね。身近な存在。
だから見るものの刺激だったりとかはすごく参考になるっていうのを頭から感じてましたから。
だから鹿児島でじわじわ、福岡でじわじわじゃなくて、行くんだったら東京で見るものから刺激も受けて、
学校でも刺激を受けてっていう。一気に取り込もうっていうのはやっぱり東京だっていう感覚がありましたよね。
だから迷いなく結婚したっていう。隣近所が何言おうと、兄弟が何言おうと結婚してしまったっていうのはありますよ。
その学校を2年間やって無事に卒業して、やっぱりそこでまた選択肢が出てくると思うんですけど、東京で仕事を探すのか、鹿児島に家族でどうして戻るのか。
そこはどう判断したのか。
本の表紙絵を作ってこいという宿題もあったりしたんですよ。
松本誠一郎のなんとかっていうのを本王子が選んできて、それの表紙絵を作っていったのが、またすごい評判が良くて、
本の想定会社に紹介してもいいぞっていう話ももらったんですよ。
もらったんだけど、そこで仕事を始めて家族を呼ぶか。
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でも府中に住んでて、まず家族がそこで馴染むかどうか。
ましてやデザインの仕事っていうのはもう本当に規則なんで、また世の中に帰ってきたりとかっていうので、誰も知ってる人がいないじゃないですか。
それよりはもう学校卒業する前に、当時マリアっていう百貨店があったんですよ。
そこで帰ってくるたんびにアルバイトをさせてもらってて、そこの専務からデザイン学校に行ったら、帰ってきたら宣伝部に入らんかって話をもらってたんですよ。
宣伝的な仕事ができるんだったら本王だっていうのがあって、東京で上さんなんかが苦労させるよりも、
すぐ一人帰ってきて、ここで基盤を築いた方が手っ取り早いのではないかっていう。
でもドア上げしてもらって、卒業式の時に見ないで、とっちゃんドア上げよって言われてドア上げしてもらって、その足で新幹線で帰ってきましたから。
そうなんですよ。卒業しました、戻ってくるっていう。余韻残さず。
全く余韻残さず。その学校に帰っている時にイメージ表現の時間っていうすごいハードな時間があって、
例えば音楽聴きながら、それのメロディーに沿った絵と一本のキャッチコピーとか、あるいはいろんな町へ出て渋谷の町の風景を自分なりの表現でして、一本のキャッチコピーとか。
多摩動物園とか行ったら動物園のカタログを作ってみろとか、絵本を作ってみろとか、いろいろそれがイメージ表現の時間であるわけですよ。
ある時に来生花を作ってくるっていう一種があって、府中の庭に紫陽花とマーガレットと鶴薔薇が石垣に咲いてたんですよ。
それを夜中に出見してきて、それをどうしようとする時に鶴薔薇の赤紫の色が、なんか鳩?
これで飛んでる鳩が表現できないかなと思って、その時は一週間後にはもう提出だったんで、アイロンかけて速乾させて、飛んでる鳩を抽象的に作って持って行って、それがすごい評判が良くて、
その時にその花びらっていつか後になるかもしれないというので、それのベースができて、学校卒業して仕事をしながら手に入った花びらは全部ストックがその時からも始まって、作品を作るのはもっと後なんですけど、
ストックだけはもう毎年毎年毎日毎日手に入ったらどんどんストックしていったっていう作業が始まるんですね。
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そこからペタルアートというのが、そのペタル花びらのアートという端的にペタルアートと名付けて、自分のオリジナルで材料の作り方から表現の方法まで全くオリジナルでスタートしようというので始まっていくんです。
その作品のインスピレーションとかも、さっき鳩野っていう、それも浮き上がってきたんですか?
そうですね。結構イメージ表現の時間というのはハードで、別に本があるわけじゃないんですよ。
先生は手ぶらで来て喋ったり見せたり、あるいは一緒に歩いたり、音楽聴かせたりという中で、イメージをどうやって膨らますかというのを2年間の間にすごい叩き込まれる、
すっごいハードで嫌な時間なんだけど、それがクリアできないと一つの表現者にはなれないというのはもう頭でわかってましたんで、とにかく食らいつきましたよ。イメージ表現の時間だけは。
だからできないということは言わなかったですね。
今回クリエイターっていう道を選んだんですけど、自分のセンスとかインスピレーションとか、やっぱりそこがまだ欠けているなというのは感じているところがあって、
でもそのセンスって、ちょっとハウツーみたいな感じになっちゃうと、どうやって身につけるのかなと思って、今ちょっとでもいい映像作品とか映画見たりとか、一流の人が作って見たりするようにしているんですけど、
やっぱりなかなか、人に見せるとセンスないとか言われたりとかして、やっぱり繰り返しの最中なんですけど、宮井さんの中でセンスってもともとあると思ってましたか?
センスはやっぱり、全然自分の中ではあるとは思っていません。ただ好きというか、向かう先が好きな分野、興味がある分野というので、それで犠牲にするものも、自分がそっちへ目指すことによって犠牲にするものがあったりする。
ものがあったりすると後戻りできないという、自分のラインができます。それがやっぱり底力になって、それが基本で、そこから自分が目指す先のことは、自分が目にするもの、触れるもの、あるいは耳にするものから少しずつ培っていくものなんだろうなというのは、
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自分が学校に行って、そのイメージ表現の時間をおろさかにできなくて、もうがむしゃらにこの時間だけはクリアできないと表現者にはなれないというのはもう分かってましたんで、
だから自分が磨くべき方向というのは何なのかというのをしっかり捕まえたら、見るもの聞くもので、それをしっかり勉強できる、捕まえ切るというやる気がありさえすれば、センスとかは必ず成就できると思っています。
じゃあもう僕なんてセンスなくてとかじゃなくて、それができると思いながら、僕が食らいつきながら、作品だったらそれでも作品を作るとか、作家さんなら文章を書くし、写真家なら写真を撮るし、
だから中江さんも今まで勤めたところを辞めて、新しい分野に行くというお話ですよね。後戻りできない状況というのを、自分のそこにラインを置いて、そこから後戻りしたらいけない。
とにかく前に進むより仕方ない立場、それはもうご両親に対してもそうでしょうし、家族に対してもそうでしょうし、そこが自分の一番の強みだと思う。一番の弱い部分じゃなくて、そこを自分の一番強いラインだと思って、そこからもう上がれより自分にはない。
そこってちょっと油断すると、家族を多い目に感じたりしがちだけど、そうじゃなくて、やることに対しても、もう後戻りできないとここで突き進むしかない。
そうです。そこがもうライン。そこからもう気にすることない。もうここだけ目指すの。そこからやっぱり自分の力だったりセンスだったりとかは持ち変わっていけるというのは信じた方がいいです。
ありがとうございます。すごい励みになりました。
その先の話で宮井さんが作品のための花びらとかをストックされていって、後に作品作り始めてって話が流れがあるじゃないですか。
53歳で会社辞めたんですよ。それもやっぱり辞めるっていう判断をその時されてるわけですね。
前もちょっと聞いてるかもしれないですけど、改めてその時もどういう判断、決断だったのかなと思って。
自分のプライベートの部分では、ペタロワアートがもう130点ぐらいある。60歳で役職定年がある。55歳で役職定年。当時は55歳が役職定年で、60歳までは働けるっていうのがあった。
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今はもう70まではっていうのがあるんですけど。
そうすると55歳で定年を迎えてペタロワアート発表するというのは、対相手の受け取りが定年後の趣味の延長としか受け取れないのではないかと。
ペタロワアートって私は本気なんだっていう。本気なんだっていう思いがあって、
もうペタロワアートの限界、自分が定年退職をして趣味の延長と思われるよりは本気で出したっていうのがもう52歳だろうなっていう。
くるくる回ってて52歳だったんですよ。いろんな思いが重なって50歳過ぎてから、もう50歳の後半ぐらいからは退職願いが引き出しに入れてました。
辞めたのが2月かな。4月の下旬、辞めた2ヶ月後にはコテンやりましたから。
それがすごいですよね。なんか普通の人はレビューしますって言っても何も渡さなければ。
鹿児島でペタロワアートが開催されて、それが人生初のコテン。
135点ぐらい持っていって、持って帰ったのが7、8点だったんじゃないかな。
そんなに、9割以上。僕が宮城さんにお会いして、と当然ですけど、ペタロワアートっていうものを初めて知って、
僕が初めてお会いした段階で、宮城さんたりこり20年以上その道を歩んでこられてる状態じゃないですか。
だからコテンにもいっぱいお客さん来るっていうのはすごい分かるんですけど、
1回目のコテンでそんなにたくさんお客さん来て、しかも作品も一気に売れてしまうっていうのが何がそうさせたのかなと思って。
今まで仕事でお付き合いのあった人たちだとかも50%以上は来てくれて買ってくれるんですよ。
あの宮城がコテンやるんだったら買ってやろうとか。
あとはやっぱりテレビは来てPRしてくれたし、とりあえず全局多分5局来たんだと思いました、あの時、NHKまで。
ラジオは来るし、初めてじゃないですか、ペタロワアートというのも初めてだし、その分野で発表するというのも。
ペタロワアートというのが何なのかもよくみんな分からないわけですよ。
言葉で話はしてるんですけど、KKBでしたっけ、30分番組のスタジオでのこういう。
30:07
じゃあ宮城さんがスタジオまで行って。
作品をちょこっと持って行って飾って、あとは今みたいな話を昔の話からこの話までを30分ぐらいでする番組を作ってもらったり、
KTSにいたっていうのは東京まで同行して学校の取材だったりとか先生と会って話したりとか、
もうそれこそ20年ぐらい経ってるんで、学校も我々が通ってた学校から渋谷の新しいところへ移って学校も新しくなったんですよ。
先生たちもほとんど当時の先生たちはほとんどいなくて、でも知ってる先生が2人か3人ぐらいいて、
その先生たちとも会ってそれを絵にしてもらったり、それから一番好意にしてた渡辺潤という漫画を描いて、
単行本も出してるんですけど、彼とも会うシーンも取材してくれたりとかして。
それもまた30分ぐらい。だからなんだかんだですごいやっぱり恵まれたスタートでしたよね。
最初の方に鹿児島に戻るかどうかっていうところで、姉さん鹿児島に戻って地盤を整えてみたいなお話をちょろっとされていたと思うんですけど、
まさに30歳ぐらいで戻ってきて卒業して戻ってきて、50代まで20年弱ぐらいあるじゃないですか。
その20年弱の地盤があってくるんだなっていう気がする。
そうですね。
それなかったら。
そうですそうです。
宣伝関係やってたんで、いろんな曲もよく知ってたし、人脈もやっぱり持ってたんで、
その人たちがやっぱり声かけてくれて、報道さんに話してくれて、こういう面白いことやるよみたいな取材してみて、
へーみたいな感じで取材をしてもらったりとかして、へーそうなんだみたいな。
つい先日まで宣伝マンだった人が、2ヶ月後にはペダルアーティストという形でアートの分野で、
もちろん宮城武夫という漢字で今まで仕事をしていて、
2ヶ月後には宮城武夫というアーティストネームでカタカナでデビューするわけですから。
それもちょっと聞いてみたかったです。
宮城武夫さんってカタカナでアーティストネームって今言ってたんですけど、それはどういう感じ?
これはサラリーマンじゃないよっていう。サラリーマンは漢字で当たり前でいくけど、
アートをこれから手掛けていく宮城武夫っていうのは、アーティストネームはカタカナでいきたい。
だからペタルアートに関しての記事だったりとか表記は全てカタカナです。漢字はないです。
33:06
それでペタルアートデビューされて、花話スタート切られて、今こうやって、
ちょっと現実な人もいるかもしれないですけど、77歳で、
ってことは25年ですよね。もうすぐ25年。
そうです。
四半世紀近くやって来られて。
久しぶりに先月宮城さんに個展でお会いさせていただいた時に、全然若いなって思って、
その時に77歳ってことを僕初めて知ったんですけど、70代前半くらいかなって思ってたので、
なんかその若々しい感じ、やっぱりアーティストやってる方とか、
だって昔の僕のイメージ、昔の70、80出前の人って、
もうすごいおじいちゃんをバーンってやってて、っていうイメージだったけど、
宮城さんにはそんなの感じないから、何かこうエネルギーが湧いてくるのか。
なんなんですかね。見た目そんなに若く見えますか?
やっぱり自分の親とかと比べると、あとなんか生き生きしてる感じがします。
ペトロアートっていうのは、一つの作品を表現していくときに、
一枚の作品の中に時間を全く感じないんですよね。
最初に作り始めてからそれが上がるまで、
3日かかろうが、1週間かかろうが、3週間かかろうが、
自分の中にとっては一瞬なんですよ。
とりあえずその時間をほとんど意識しないで、
その作品と話しながら夢中で一つの作品に向き合う。
だから自分の中にはその3週間がないのかもしれない。
感覚として。
だからその分が少々なんか。
ちょっと表現があれかもしれないですけど、
三谷さんの中の時間は止まっていて、周りの時間は動いているから。
そこにギャップが、
としとるというのの中のギャップみたいなものがあるんですかね。
でも自分の鏡を映す自分の顔には、やっぱり77歳の顔ですよね。
自分にはもっととしとる。
そうです。
やっぱり超高齢化社会とかにいわれていて、
僕も今35歳で、
自分の親世代、
あと親の兄弟とか、
おじさんおばさんとかも、
昔はみんな働いててバリバリやっていたけど、
もう引退して、
若い人でも60後半、
もう上のおばさんおばとさんたちとかは70入って、
80出前、
それから三谷さんと同じくらいの方もいるんですけど、
僕ちょっと思うのは、
もしサラリーもやっていれば60か、
36:01
今だったら70くらい働けるから、
でも70で辞めたとしても、
あと30年やるなって思ったら、
結構長いよなって思う。
その時何するのかなっていうのは、
だいぶ大きいなと思っていて、
三谷さんの時間の過ごし方って、
今どういうふうに過ごされているんですか。
本当に今?
朝起きるのは5時か6時くらいで、
早いですよね。
早いですよ。
今日上さん鹿児島に出てて、
4時過ぎに帰ってくるんですけど、
彼女も同じくらいに起きて、
私は庭掃除を始めて、
丹念に庭掃除します。
丹念に?
そう、丹念に庭掃除して、
庭にやっぱり草木がありますから、
それの手入れしたりとか、
剪定が必要だったらそれで剪定したりとかして、
あと朝がお茶とかコーヒーとかパンぐらいなんですよ。
昼飯も2時ぐらいなんですよ。
夜が7時、8時の世界でご飯食べて、
朝ご飯が終わったらペタロアート。
そっからですか?
そっから。
日中は?
朝もやりますし、日中もやりますし、
夜もやりますし、
だからまず起きて庭掃除は。
週間?
週間で、その前にペタロアートが始まることはないですね。
まず周りをきれいにしてっていう、
そこから、いつ誰が来るかわからない状況ですから、
ただ去年のコロナの時から、
この見ていただける部屋自体が狭いんで、
もう休みにしてるんですよ。
ただ休みっていうのは歌ってないんで、
通りすがりに寄ってきていただいたり、
電話がかかってきたりすると空調を入れて、
開け離せるところは全部開け離して、
対応するっていうのをしてるんですけど、
一応基本的には、
いらっしゃった方には、
ああ休みなんだってわかるように表示はして、
この2年間やってますね。
コロナの影響ってどうでした?
固定できなかったとかは?
昨年は固定が全くできなかったりしたんですけど、
こむる機会っていうのは結構あって、
いつどなたが訪ねてらっしゃるかもわからないんで、
一応マスクだけはしておくんですよ。
それで作品作ったりとかしてたんですけど、
昨年は固定ができなくて、
次回ができるのがいつなんだろうっていうのは、
思いはありながら、
コロナで自分の感覚的なもの、
外へ出るのもままならない。
人とおしゃべりすることもままならない。
飲むこともままならない。
そのままならない状況が、
この2年間も続いてくると、
自分の中でどうすれば楽しいのか、
39:01
どうすれば作品の中に、
それが盛り込められるのかっていうのを、
自分の生活ではなくて、
それを作品に求めるようになった時期。
自分が表現したいものをやるという、
一定のラインはあるんですけど、
それプラス、
この作品を見てくださる方が、
このコロナ期を過ぎて、
より楽しんでいただく、
明るくなっていただく、
そういう作品を作りたいな、
そういう作品に仕上げたいなっていうのは、
すっごい生まれてきました。
それまでも、なくはなかったんですけど。
なくはなかったんですけど、
だから、例えば、
素材そのものは、
セピア系の色っていうのが、
材料があるじゃないですか。
それを引き立てるために、
バックの色で遊んだりとか、
明るくしようっていうのがあったんですけど、
より明るくなりましたね。
例えばフレームも、
今まで苦労が多かったんですけど、
それに飾りのついているものだったりとか、
ゴールド系だったりとか、
白のやつとかが、
今まで表現していなかった、
表現方法も見つけたりとかして、
なんかそれってちょっと、
目から動こうというか、
ペタルアートって楽の中に入っている、
花びらで作られた造形というか、
そうです。
フレームも入れて、
ひとつの作品みたいな。
そうです。
そっちの方に楽しみが増えていきましたね。
面白いですね。
20年以上やってこられて、
もっとずっとやってこられて、
ここに3年でそれで。
そこに至って、
さらにこのコロナで、
今までにプラスアルファするもの、
このコロナ期に、
ちょっと気づかされた部分ってありますよね。
年取ることも、
自分に取って、
人にとっても不幸なことが見えてきても、
それで終わらないのがやっぱり、
人かなって。
そこをベースにして、
プラスアルファを見つけていくのが、
やっぱり生きている人なのかな、
というのはありますよね。
沈まない。
年取ったからグーッとかして。
自分にとっては、
年取ったらそこがもうライン。
そこからは下にはいかない。
最後の最後聞いていいですか。
やっぱりアーティストって、
すごいなって思うんですよ。
自分がスリマセンスだったり、
思っていることだったり、
それを一斉に形にされる。
すごい工程だな、
すごい仕事だなって思っていて、
宮城さんがアートを作る上で、
一番大切にしていることって何ですか。
ちょっとベタレスポンかもしれないですけど。
楽しみですね。
喜び。
42:00
作品はまずフレームを用意するんですよ。
フレームありきでスタートするんですけど、
そのフレームの色、形で、
中にどの程度の窓を作って、
そのバックをどういう色合いで持っていって、
そこにどういう表現をするかという。
フレームを用意した段階から、
それが目眩苦しく、
感覚的に動いていくわけですよ。
それが楽しみ。
そのスタート時点からが、
もう楽しみが始まる。
アーティストというのは、
テーマをもらったその時からが、
楽しみのスタートなんじゃないですか。
苦痛ではないと思いますよ。
苦痛を味わうのは途中であって、
最初はやっぱり楽しみからスタートしますよ。
楽しみで終わります。
嬉しさで終わります。
どれだけ途中で、
ああ、ああ、とかっていう、
つまづきがあったりもするんですけど、
でもそれをちょっと寝かして、
そこから目を外して、
少し感覚を置いて改めて見ると、
そこにまた先が見えてきますんで、
必ず見えてきますよ。
それでこの24年間やってきてますから、
フレームで楽しみを見つけて、
制作にそこに何を入れるか、
そこにスタートして、
そこでちょっと葛藤がある部分もあるし、
一気に楽しみがそのまんまで、
最後まで仕上がる時もありますし、
だからアーティストにとって、
やっぱり楽しみがスタートであり、
楽しみで終わる。
真ん中に葛藤を持ってくると理想的。
嘘ですよ。
と思います。
なるほど。
かけ出しの時は、
これ面白そうとかって言って、
そういう気持ちでは、
始まりの楽しい気持ちは分かるんですよ。
その途中の葛藤も分かるんですよ。
ここで葛藤苦しみで、
やっぱりダメだなって思って、
終わっちゃう。完成させない。
って結構自分の中で囲ったりして、
そうじゃないんですね。
それを乗り越えていく。
葛藤を乗り越えて楽しみで終わることだと思います。
じゃあもうそこで楽しみで始まって、
葛藤を抱えながらも仕上げて楽しみで終わって、
その上で、やっぱり作品だから評価があるじゃないですか。
そこってのは気にされます?
気にします。
それがやっぱり数字に現れますから。
そうですね。
でもそれを気にして作るというのは、
例えば90点作ったら、
その中の10点ぐらいは桜島にしようかなという、
そういう分類の計算はありますよ。
45:02
でも自分が作りたいものというのは、
やっぱり一気に作り上げたものほど、
お客様もそれを感じてくれます。
面白いというふうに自分がスタートして、
面白いで終わった作品というのは、
一気に売れますよ。
それは違います。
お客様は何か感じるんですね。
だから自分の思いとほぼ一緒というのは、
数字にやっぱり、
作品の出来に現れていきますよね。
面白いですね。
宮井さんもこれまでいくつも作品作られてきているから、
決して1個1個のクオリティが、
宮井さんの基準が作品のクオリティが利いて、
基準を足していないものは、
出されていないと思うんですが、
だから全て基準を超えている中でも、
すぐ売れるやつとそうじゃないやつが、
そうです。ありますね。
でも何年かしてから、
それを捌けていきますから、やっぱり。
古いやつが。
でも手直しすることなく、
何回でも出します。
この間、古典で、
あの作品でついで持っていたんですよ。
この2点を、
画廊に映えるところの、
コンコースの部分の壁面に飾っていたんですね。
私は画廊の中に入っていて、
そこで接客していたら、
外がやたらとやかましかったんですよ。
うるさいなと思って、
パッと見たら、
男の人が2人、
この作品の片一方を指さして、
面白いね。
こういう表現方法もあるのかよ、みたいな。
え、イチャホンつけてるのかな、
っていう感覚だったんですけど、
もうこっちの部屋の作品を見ることもなく、
あれください。
一目惚れなんですね。
東京から来てて、
イベントで絵を描いてる人だ。
え、そうなんですか。
じゃあ少しお安くした方がいいんですか、
って言ったら、
いや、私ももう絵を描いてる身ですから、
しっかりそのままでいただきます。
消費税も込めていただきます、
って言っていただいて、
その場で現金を出して、すぐパッカーして、
そしたらタイトルを作品の後ろに貼るんですよ。
で、パッカーするんですけど、
でもあまりにもやかましくて、
慌ただしくて、
すごい感激して、
放送した後に、
タイトルが残って、
下の値段の部分がなくなってたんですよ。
入れ間違えた。
ほんで、お客さん、
放送はしたんですけど、
ひょっとしたら、
中に見学を挟んでたかもしれませんと、
タイトルが残ってるんで、
これを外側に貼っておきますから、
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ご自宅用ですよね、
事務所に貼りますからだったんで、
申し訳ないんですけど、
作品に貼ってあるやつを捨てていただいて、
これと貼り替えていただきます。
わかりました?
本当に、最初から最後まで、
知ってばっとうのお客様で、
でもそうやって感覚で、
あれも3、4年以上経ってる作品なんですけど、
感覚で買ってくださる方もいるんですよね。
やっぱりそこはあれなんですかね、
出会いっていうか、
出会いですよ。
合う合わないとか。
波長が合う合わないなんですよね、これはね。
話聞いてたらすごく夢中になってしまいました。
いろいろいい話が来ました。
すみません、つたない話で。
前聞くことができなかったお話とかも聞いたりしたので、
とてもよかったです。
これで一旦終了します。
ありがとうございました。
最後までお聞きいただきありがとうございました。
ゲストの方の情報は概要欄に記載しているので、
ぜひフォローして実際の作品に触れてみてください。
それでは次回のインタビューでお会いしましょう。
ゲストはフェタルアーティストの宮城武夫さん。
インタビュアーは君でした。
あなたの想像性が豊かになりますように。
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