今回は、秋山呉服店・秋山準治さんにお話を伺いました。
呉服商の三代目として、着物を扱う商売をされている秋山さん。
まずはそのお仕事についてから、伺いました。
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https://stand.fm/channels/6513739a0bc9d6e1d690bae1
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サマリー
秋山呉服店の秋山準治さんは、自身の三代目としての仕事や着物商の現状について語ります。特に、甲冑の手作り教室を通じて商店街の活性化に貢献している点に焦点を当てています。秋山準治さんは、立山の商店街についても語ります。彼は、地域の変化や観光客の増加についての印象を述べ、商店街の衰退と家業の継承についての経緯を話します。また、彼は着物の販売と配達の歴史や、紅白歌合戦を聞きながらの特別な配達体験についても語ります。特に、入学式や卒業式の需要の変化や着物の売れ行きが話題にされています。
秋山家の呉服商としての歴史
ゆいなわさんの聞く人ラジオ 皆さんこんにちは、ゆいなわさんの聞く人ラジオのお時間です。今回は秋山呉服店、秋山準治さんにお話を伺いました。
呉服商の三代目として着物を扱う商売をされている秋山さん。まずはそのお仕事についてから伺いました。
まず、秋山さんはお仕事なんですかって言ったら、何をされてますか。
呉服商。
呉服商、はい。呉服のお店を営んでいるっていうことで、それはいつからやられてるんですか。
いつからって…。
呉服のお店。
私は三代目。
三代目なんですね。じゃあ、おじいさんの時代から、こちらの場所で。
他のところでやってたんだけど、ここは戦後。
あ、そういうことですね。戦前はどこか。
戦前は…あの…あそこの何だったっけ。メガネ屋さん。
メガネ屋さん。はいはいはい。お近くはお近くですね。
あの辺で、まあ、商売やってたんだね。
で、下町の方でもよくやってたって話してたんだけど。
はいはいはい。
で、ここは戦後。
戦後にこちらのお店を作られて、で、こちらでやられてて。
じゃあ、お生まれはこちらの…お生まれというか。
そう、お生まれは向こうに自宅があった。
ああ、そういうことですね。
で、そこで社会人というか、お次になって、で、ここでずっとやられてて。
呉服屋さんのお仕事って、ちょっと僕はあまりわかんないんですけど、具体的に何するんですか。
着物。
着物を…。
販売。
販売。じゃあ、どこかから仕入れて。
そりゃそう、当然ですね。
仕入れっていうのはどこか。どこなの?
東京日本橋。
鳥沢町というか、鳥屋街があるんです。
鳥屋街があるんですね。じゃあ、そこまで行かれて、買い付けをして、で、ここまで持ってきて、で、それで売るみたいな感じ。
手作り甲冑を通じた商店街の活性化
それをずっとやられてる。
呉服のお仕事っていうと、やっぱりいろんなお客さんがいらっしゃって、
そういった方がどういうのが欲しいとか、なんかそんな感じなんですかね。
最近は着物バラでがね、多いから、洋品扱うとかさ、昔は洋品なんか扱ってなかったんだけど。
ああ、そういうことですね。
時代としてね、着物バラでもあるからさ。
じゃあ、今は洋品も扱いながら、でもお着物もしっかりあって。
着物もある。
呉服っていうと、もう、なんていうんだろう、短物からやる。
仕立て上がるんですよね。
仕立てからもやる。
仕立てもやるし、仕立て上がったりするのもあるですね。
じゃあ、それはお客さんによって、ご要望によって、本当に短物で選んでっていう方もいらっしゃって。
短物から着物にするっていうのは、どんな工程を経てくるんですか。
どんな工程っていうのも、要するに、下著作に出すんです。
仕立てのやるところ。
それは別にあって。
そうです。
じゃあ、そちらにお願いして。この立山にあるんですか。
昔はかなりあったんだけど、今、なかなか地元ではやる人がいなくなっちゃったんで。
ああ、そうなんですね。
昔やってた人たちみんな高齢化しちゃって。
その後、昔はお城さんって、弟子をとって教える人がいたわけよ。
で、そういうお弟子さんが立山市内にいたんだけど。
教わった人たちも、お城さんで教わった人たちも高齢化で、みんなもう縫うのやめちゃったりとか。
そっかそっか。今はどうされてるんですか。
東京へ出すとかね。
需要自体も少なくなってきたけどね。
さっき言ったように、着物バランスもあるしさ。
着物はされながら、今お店の中に甲冑がいくつもある。
その話聞きたいんですけど、甲冑はお作りになっているというか。
あれは私が作った。
あ、そういうことですね。
これはどういう経緯で作ることになったんですか。
立山市っていうのは、戦国じゃないよね。
里見市っていう足利家の結構勇者の家があるんです。
里見市が初代から、9代だっけ10代だっけ。続いて収めた。
滝沢均の南総里見八天寺の舞台にもなってたんですね。
そういうこともあって、商店街の活性化になるんじゃないかっていうこともあって、
手作り甲冑っていうのを出かけた。
それは秋山さんがやろうっていう。発案した感じ。
他の人がやったんだけれども。
うちの子供は今39歳なんだけど、その子は小学校入ったときに、
小学校で手作り甲冑を学んできた、元は関川だったの。
初めた人が。その人がそのとこへ立山市で持って習いに行ったわけ。
そういって今、里見市とか南総里見八天寺の市でもあるからってことで持って習いに行ったわけ。
それをどうして市民に広めようかっていうときに、
工場小学校で親子で作る手作り甲冑っていうのを教わった人たちが、
もっと広めようとしたわけ。
そのときにうちの息子がちょうど小学校に入っていたわけですよ。
今、うちの子供で参加しますってことで参加したんだけど、
親子ですって、子供じゃないけど、小学生の子供に作れるようなもんだよね。
そうですよね。結局親が作った。
それは一応終わった。
だけどその次の展開をどうしたらいいか。
じゃあ商店街で、私そのとき商店街の販卓委員長ってのをやったんだけど、
商店街の販売促進もつながるからって。
前の建物もシャッターが。
これは市の建物なんだけど商店街で管理してるわけ。
なんもなければシャッター全部閉めちゃうわけですよ。
そうか。
そうやってイベントっていうか、調子があればシャッター開けて、
それは街のにぎわいにもなるしねってことで、
じゃあ商店街でやりましょうってことで。
で、また始めていった。
で、この手作りカッチュー教室を商店街主催でやり始めた。
そういうことですね。
それでずっと今は何十年。
結構そうですよね。何十年と。
実際これ作るのって結構なものですけど、どれくらいかかるんですか?
だいたい教室としては半年間。
半年間!?
うん。毎週土曜日。
だいたい教室としては3時間やるんだけど、
教室だけの3時間じゃとてもできるものではないから、
1週間かけて宿題っていうか、
来週の土曜日までここまでやってきてくださいって感じでやって半年間。
結構やる工程というか、やることがいっぱいあるじゃないですか。
でも最初秋山さん知らなかったけど、勉強していって。
それで私は自分でも作ったんだけども、
実際に教えるようになったのはうちの家内が。
ああ、そうなんですね。
俺も彼女にそういうあれがあったのかなってびっくりしたんだけど。
奥様もそこからスタートしてやるようになっていったら、どんどんこう自分で。
じゃあそこから始まって、ずっと作り続けてるというか。
ただ作り続けてきたんだけども、
商店街も今年この年度をもって、
着物産業の現状と課題
だから今年の3月ね、年明けた3月で年度になる。
この年度をもって商店街も解散ということになってるわけ。
そうなんですか。この銀座。
そうなんですね。
それに伴って家中も一応教室は終わりにしましょうと。
そっかそっか。
だけど今までやってた方で、やっぱりそれでは寂しいっていうこともあるんですよ。
だから新規の人は入れないで、
まあ同好会の人たちだったり、今までやった人たちだけでやりましょうかっていう話はある。
ああ、そういうことですね。
じゃあそれで一応続けてはいくのかなっていう感じ。
そうなんですね。
ここの商店街が解散みたいな感じか。
かつては銀座通りの商店街、亀井って200点あったわけ。
そうですね。昔の写真とかも見たことあるんですけど、すごく賑やかで。
今は中には商店街に亀井してないお店もあるけど、
今亀井してるお店がだいたい50件ぐらいになっちゃって、
やっぱりそういう状況なんで、商店街は解散しましょうという方向で今。
そういうことですね。
やっぱり商店街はすごく賑わってる時っていうのをご存知というか、
その時をまさに、いくつぐらいの頃から印象というか、
もうちっちゃい頃とかですか、秋山さん自身が。
秋山さん自身が賑やかだったみたいなのは、いつぐらいですか。
そりゃそう。
昔は七夕年祭だったし、人が溢れたっていう。
七夕見に行く方でね。
周囲、近隣というかいろんなところから来て、
そこをまさに秋山さんそこにいて、人が賑わってた状況というのは見ていて、
それはたくさんの人が来て。
そういうことですね。
ここで実際その時はもうお店はあって。
ここにいながらこの辺りを。
そうか。
僕も竪山出身で、この辺りは知ってるというか、今50なんですけど、
40年前くらいからは小学生くらいだったので、その頃のことはわかるんですけど。
そっかそっか。
だからうちも子どもたちはもう違う道へ進んじゃってる。
はいはいはい。
そうか。
着物とかのお仕事っていうと、最近思うのは外国人の方が着るみたいな話はよく聞いたりするんですけど、
そういうのはそんなに。
あれも需要はないよね。
本当ですか。
あいつらは基本的にはレンタルですよね。
まあまあそうです。
打ち当たりの業種はレンタルはやってないという。
そういうことですね。
なんか長く続けてきて、着物の産業自体が縮小傾向とか、
他に思うこととかってあったりします?
お仕事のところで。
要するに商店街自体もやっぱりバイパス通りのお客さんが流れるんですよ。
そういうものもあるよね。
立山の商店街と観光
うちだけの着物ってばっかりじゃなくて、商店街自体が。
そうか。
人の流れ的に、例えば言ったら駅の利用とかもあるでしょうし。
僕も今日東京から帰ってきたんですけど、バスに乗って帰ってくる。
車はやっぱりあんまり使わなくなったりとかそういうこともあるので、
そこで人の流れが変わってしまったりとか、
立山のお店の感じ、車社会になっている状態でっていうのはありますよね。
そっかそっか、なるほど。
この立山っていう街自体はどんな印象ですか?立山というここの場所?
印象?
生まれ育ったところで言ったらあれですけど、僕もそうなんですけど。
印象って昔は青軍の中心だったんだけどさ。
だから私なんか若い時は巨難届物行ったり鴨川届物行ったり。
青軍市がある立山の商店街っていうのは、やっぱり青軍市からお客さん来たけどね。
鴨川は鴨川でイオンもできちゃってるしさ。
巨難の人たちはすぐ、キミ突き刺らず。
人間の心理って下がるよりも上がるのがあるのかな。
立山がやっぱりちょっとずつは変化してる。
立山だけの問題じゃなくて、いろいろな周りとの要素というか。
僕は結構立山好きで、今東京に住んでるんですけど、時々帰ってきてはみたいな感じなんですけど、
以前に比べて、例えば観光の人がちょっと増えてる印象があるとか、そういう感じはあります?
うちのお客さんっていうのはあれはもうないけど、なんとなく外を見てると、他県ナンバーというか、かなり多いよね。
だからそれは来てるのかなとは思う。
以前はもっと少ないって言ったりですけど、そんなに観光地としても、
例えば伊豆とか熱海とかあっちの方に行ってた印象があるんですけど、今は結構立山って、
例えばテレビとかにも出るし、そういう感じがしていて。
そう、テレビでもよく取り上げられるよね。
そうですよね。
ただね、いいんだか悪いんだかアクアラインができたわけで便利になっているとなるけど、
逆に首都圏から思うと日帰りコースになっちゃいますよね。
そうなんですよね。それは結構立山の多くの方がいて、日帰りできちゃうから止まらないというか。
止まらない。
あとキャンプ場がいっぱいできたじゃないですか。キャンプしちゃうみたいなところもあったりとかで、そこは確かに。
だから昔もうちなんかの取引先の富山も、県南回るときは一泊コースだったからね。
ああ、そっか。一泊しないと回れない。
そう、回れない。
ああ、そっか。
だから、そういう商人宿、そういうのもなくなっちゃったからね。
昔はもっといっぱいあった?
うん、商人宿あったよ。
へえ、なるほど。
立山ばっかりじゃなくて浪原のあたりにやってたりしてね。
そういうことですね。
やっぱりそういった意味で、時代とともに、例えば漁業とかもそうですけど、
白浜とかあちの天の文化みたいなのが昔はあったところが、そこはちょっと時代とともに変わっていってるなみたいな感じで、
なんか昔のことですごく印象に残ってたりとか、そういうことあったりとかってあります?
まあいろいろあるんだけど。
特に何?って言われても。
パッと浮かんだやつとかっていうと?
パッと浮かぶのはにぎやかだったよ。
ああ、にぎやかさ。やっぱり人がたくさんいて、
人口自体は当然ちょっと下がっているんですけど、でもすごく下がってるわけじゃないですか。
一定の人数はいながらも、でも昔のほうがにぎやかだったっていう感じ。
だから要するに中心商店街としてかなり力があったからね。
そうですよね。
さっきもお店の数も多かったし、後輩って言わなかったし。
みんながここに来て、買い物するならこの辺でするっていう感じだったんですよね。
今もやっぱりだから、買い物どこでします?
秋山さん自身は買い物って普段どこでします?
買い物は、俺あんまり買い物しないけど、うちの方が買い物。
ああ、そういうことですね。車を乗ってどっか行ったりとかそういう感じですかね。
その辺の感じ?
そうですね。やっぱり郊外に行っちまうよね、どうしてもね。
さて、商店街力がなくなってきたっていうのを具体的に言うと、やっぱり先生が扱うお店も。
昔は丸太さんっていうお魚屋さん、かなり力があったお店もあったけどね。
みんなっていうか、そういうところももうなくなっちゃったしね。
もう電気屋さんもないでしょ、商店街。
たとえば銀座商店街の中で生活っていうか、昔はできたんだけど、今はもうほら。
そっかそっか。
お店がない業種ができてきたからね。
何かいるって言ったときに、昔だったらこの中で。
全部まかないだけどね。
ああ、そういうことですね。今ちょっとそこは不足してるところがないところがある。
電気屋さんはないしさ、魚屋さんだって、今カーナさんっていう、向こうの通りにあの、なんだっけ。
昭和通りにやっぱあるけども、うちの近くであったら丸太さんがもうなくなっちゃったし。
で、そこにおぞやがあったんだよね。
ああ、ありましたね。
じゃあそこで買い物をしてみて。
で、おぞやさんだってとうとう。
車で行くところになっちゃいますよね。
おぞやさんここは創業の地だからさ。
ここ創業だったんですか。ああ、そうなんだ。
昔金森屋さんから始まったんだよね。
ああ、そうなんですね。
初代の人はさ、ここは発祥の地だからなくさないって、初代の人は言ってたってさ。
やっぱり大学かって若い人、次の世代になればさ、やっぱり経営の効率考えれば。
五福町のお仕事や甲冑作りのお話。
淡地域の中心だった立山、かつてにぎやかだった商店街。
家業の継承
その場所でお仕事をされてきた秋山さんは、どのような経緯でお店をつくることになったのでしょうか。
3代目でいらっしゃって、おじいさんがやられていて、お父さんがやられていて、その仕事をやるっていうのは、すぐ素直にやろうっていう感じだったんですか。
俺はもう本当の小さい頃からさ、うちのおじいさんから、お前はうちをやる子だ、うちをやる子だって教育されてた。
そうなんですね。言われて育って、そういうもんだって思った。
じゃあもう学校出られて、高校、大学。
一応大学受験やったんだけどさ、失敗しちゃってさ。
うちの親父って、あんまり車運転とかなんか、免許取ろうとか全然なかったの。
そうなんですね。
50ccのホンダのカブ、中学校から15歳から取れたのかな、昔は。
15歳で取りに行ってさ、だから俺がバイクで。
お父さんはやらずに。
俺がバイクで、例えば配達行くとかさ。
お父さん行かれないのに。
バイクとか乗らないから。
そこにさせてみたいな感じで。
なんかそういうのやったんですか。
中学高校とかさ。
だから俺、高校の時にさ、ちくらの配達があったんだよ。
ちくらの配達、はいはい。
で、学校行く前に朝、配達行ってさ。
ちくらが来る道と、ここら辺の手前、ちょうど道路と線路が並行してるわけ。
そうですよね。わかります。
そしたらさ、お前バイクであの通り走ってたって。
見られちゃってるわけですね。
見られちゃって。
ああ、そうなんだ。
そんなこともあって。
でもそれ仕事ですもんね。
学校前に。
勉強よりも仕事で荒れ去れちゃったから。
ああ、そうなんですね。
勉強しなかったから。
ああ、そうなんですね。
じゃあもう高校の時から手伝いというか、お仕事をされて、もう完全にここで働くんだみたいな。
でもじゃあ受験はされて。
一応受験はしたんだけど、そういうわけで勉強してなかったからさ。
ああ、そういうことか。
え、なんか行きたい方向とかがあったんですか?
大学もこういうことを勉強したいとか。
いや、全然なかったね。
とりあえず受けたみたいな感じ。
とりあえず行きたいっていうかさ。
その辺もだから、動機が曖昧なあれだから。
そういうことですね。
じゃあそれで大学は行かずに、高校卒業してすぐにこちらの仕事に。
見習い。
見習いから入ってて。
やっぱり3年は担任の飯を食えっていうのは。
あ、じゃあ別のとこ行く?
そう。
ああ、立山のとこか。
大名。
大名?東京の大名?
そうそう。
それなんかつてかなか?
そう、問屋の紹介でね。
ああ、じゃあ3年間は大名のほうに住んでですか?
そう。
住んで、そこの問屋。
問屋さん。
問屋さんのほうで修行みたいな感じ。
そうそう。
昔の仕事と違って、俺らのときにはもう、要するに普通の社員と。
待遇は全然同じ、全く同じだったからね。
そっか。
お前は見習いだから、遅くまで何やりゃとかさ。
そんなことは一切ない。
普通の社員と同じで、寮があってさ。
寮に入って。
普通の社員と同じ。
ただその社長は、一応最初から3年間審某しろって思って入ったんだけど、
3年目のときになるとさ、一緒に仕入れ連れてくれて、仕入れの仕方とかさ。
そっかそっか。
そういうことなんかは、一緒に連れて見させてくれたっていうかさ、教えてくれたっていうか。
そういうことですね、教わって。
じゃあこういうふうにやるんだなみたいなのを。
着物販売の歴史
やっぱり最初のときって何やるか分かんないじゃないですか。
もちろんここで育ってるから、なんとなくは分かるかもしれないですけど、
実際、修行3年間ってなると、一からというか、一通りやらせてもらって、
それを学びながら、こういうふうにご福の仕事っていうのはやるんだなっていうのを、
そこで学んで、で、帰ってくるんですか。
そうです。
じゃあ3年間高校卒業して、20代前半でこちらに戻ってきて、そこからここで。
そう、ずっと。
ああ、そういうことですね。そっかそっか。
やっぱりその頃って、20いくつか。
ってなると、何年ですか、70年とか80年とかそのくらいですか、1900?
ん?
1900。
ああ、そうだね、えっと、何年なんだ、昭和、昭和、ん?
50、60とかですかね。
もっと前だよね。
もっと前、40年代とか。
だから俺、だからあの、ちょうどね、商売でもバブルがあったんだよね。
ああ、そうですよね。
で、黒の染料がなくなるとかさ。
何ですかそれ。黒の染料がなくなる。
染料って染める。
ああ、染料、はいはい、染める。
とか、そんなような噂も出て、これは大変だって、着物なんかだよ、売れるみたいなのがあったの。
で、だから俺が、もし大学行ってれば、自分がその経験はできなかったわけよ、その。
ああ、そうか。
着物がえらい売れたバブルみたいなのがあったと、経験できなかったんだけど、
俺はそのとき間に合って、自分でその売れる商売はやれた。
だから、そういう意味じゃあ、商売だけで言えば、そういう意味で、まあ良かったかなと。
そういうことですね。まさに売れるときにそこにいて、実際すごく売れてる状態をご存知で。
その時代、僕分かんないんですけど、どんな感じというか。
曲線なんかで言うとさ、昔は入選行式、着物着てたわけ。
ああ、そっかそっか。
で、特に黒い羽織と、水色の着物が。
はいはいはい。
無地の着物と、黒の羽織っていうのがエヴァの羽織なんだけどさ。
まあそれが、ユニフォーム。ユニフォームっておかしいな。
みんなそれを着て。
そういうあれ着て、それで入学式と卒業式と同じ着物は着ていけないから、買うんですね。
っていう時代だったんだ。
うわあ、そうか。だからそれだけ売れるというか。
売れる。
で、みんなが買うから。
大忙しいですよね、そうすると。
4月?
3月、2月、3月、4月。
で、それでまた3月、4月が一つの山で、もう一つはお正月の着物が山なんだわけですよ。
はいはいはい。
ずっと紅白高瀬行きながら着物を届けた。
え?
頑端に間に合えばいいんだから。
頑端に間に合えば買いますよ。
じゃあ紅白がまさにやってる時に。
やってる時に。
秋山さん自身が届けに行くんですか。
そう。日立屋さんがそこまで頑張ってくれて。
やってくれたから。
そっかそっか。であればちゃんと売れて。で、みんな買うから。
そっか。
それは本当の古き良き時代だよ。
ああ、でもそういうことがあったわけですね。
卒業式、入学式も違うし、正月も違ったりするんですか。
正月は正月の着物ですもんね。
正月の着物ですもんね。
みんなそれぞれ買って。
そこは忙しいですよね。年末なんかではすごく忙しい。
そうです。
ずっと注文が入って、それをやっていって。
人口が昔、10時だか10時だかに就勤に来るんだ。
え?
それを預金に欲しいから。
ああ、そうなんですか。
人口大晦日は休みでしょ、たぶん。
やってないと思います。
そうだよね。
昔は大晦日に10時に来るんですか。
10時だか11時だかわかって忘れてたけどさ。
ギリギリのとこに。
そういう遅い時間に、今日の売り上げ預金してくださいって。
で、預金するんですか。
そうそう。そういう時代もあった。
そうなんですね。
黒の染料がなくなるくらいに着物が飛ぶように売れた時代。
卒業式と入学式でそれぞれ違う着物が売れたというお話や、
紅白歌合戦を聞きながら着物の配達をしていたというお話をいただきました。
紅白歌合戦の配達
そんな秋山さんから、前半でいただいた甲冑の件についてご相談をいただいています。
現在、複数ある甲冑を連貨で譲りたいとのことです。
1体からでも複数でもご要望の方は聞く人のウェブサイトからお問い合わせいただければと思います。
というわけで、秋山さんには次回、好きなことについて伺っていきます。
28:39
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