前回に引き続き、保田文庫主宰・前田宣明さんにお話を伺います。
今回は前回からの続きということで、小泉博士の日記を紐解くお話から、伺っていきます。
保田文庫:https://nbakmda.wixsite.com/hotabunko
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サマリー
保田文庫の主宰である前田宣明さんは、小泉博士の日記を通じて歴史を紐解く過程や、地域の文化を次世代に残す意義について語ります。また、地域誌の制作を通じて、自身の郷土への理解を深め、記録を残すことの大切さを強調しています。彼は、過去の記録や知的財産を残す重要性についても言及し、文庫を通じて自身の知識や経験を他者と共有して歴史的な繋がりを築くことを目指しています。さらに、地域の文化を残し繋げることの重要性について述べ、自身の創造活動における自然体なアプローチを強調しています。
小泉博士の日記の発掘
ゆいなわさんの聞く人ラジオ 皆さんこんにちは、ゆいなわさんの聞く人ラジオの時間です。
前回に引き続き、保田文庫主宰前田信明さんにお話を伺います。 今回は前回からの続きということで、小泉博士の日記をひも解くお話から伺っていきます。
2年生まれだから、7歳とか10歳の時の、そこにいた博士の日記を読むことになった。
それを読み始めるってことは、たぶん今まで何でだろうと続いていたものに、より深く築ける気がしたので、楽しく読んだんです。
そうすると、両国初の何時の記者で来たとか、いろんなそういう日常のことから、その別荘を起点に地元の人が庭木の管理に来ましたよとか、魚を持ってきてくれた人がいたとか、
うちの隣の人、薄屋さん、薄作ってたんですけど、そこの人が来たよとか、あと近隣に松山という人物の名前がよく出るんですけど、その人にお茶を呼ばれて行ったりとか、いろんな登場人物が出てくるんですよ。
その登場人物の大半は、うちの小さい地元の歩いて行ける隣の地区ぐらいの人たちなんで、屋号の名前が書いてあるから、生きてたうちのじいさん、ばあさんに聞いたり、昔から知り合いだったら、お家に聞きに行ったりとかするとか、
そうそうそう、あの人ね、ここに出てる人誰?とか言うと、これはあの人だったよということで、教えてくれたんですよ。うちじいさん、ばあさんが店屋をやってたんですよね。お菓子とか雑貨屋を売っていて、だから小さい頃、夏場になると仕事中の人たちが店に来て、ジュース飲んで、僕の頭撫でたりとか。
あと観光客、海水浴客で浜に泳ぎにした人が遊びに来て、話をしたりとか、そういう感じだったんですけど、おそらくその大和屋っていう店だったんですけど、大和屋のお孫さんが大きくなって、また話を聞きに来たっていうのを多分わかってるから話してくれて、そうすると、え、あそこにも別荘あったんですか?とか。
あそこもだって学者だったよ、とか話が出てくるんですよ。
ってことは小泉さんが書き残してた、この人同士って学者同士の関わりがあったんじゃないかとか、っていうその一つの記述から、枝葉が分かれていくんですよ。
で、一個一個、じゃあその場所何があるとか。話だけだとやっぱり一致させていきたいなと思って。
学生時代は社会学部の社会学科ってところで勉強してたんですけど、結構フィールドワークとかをしていたので、現場の声と資料上で一致させるみたいなのが、それで思い出されて、この場合どうしたら資料と一致できるのかなと思って。
まあまずないんですよ。他のちっちゃなエリアの別荘だったり住まいだったことを書き残してる。
資料自体が。
あんまりない。探せば出てきたっていうのも多いんですけど。
っていうことなんで、まずは所有してるんであれば法務局の閉鎖当方を取れば土地の取得者として出るだろうと。
そっかそっか。
で、公図を取って地図と一致させて、この地盤だったらいいよね。たまに外すんですけど。
そうすると、あそこの家のおじいちゃんおばあちゃんが言ってた、自分たちが幼い頃にあそこにああいう博士いたよ、だれだれさんだよっていうのが出てくる。
来たときに一致。で、もうちょっと資料が出てくると、その人が例えば何か書いていたときに、他のことを書いていなくても自分の著書である本の奥付けに自分の住所とかが載ってるからそこと一致したりするんですよ。
そっかそっか。
そうすると、あ、本当だみたいな。
そうか。
っていう、一応聞き書きと現地の見たものと公的な資料と、あとできればそういう本人が書き残したものとかで一致すると、これ完全に板だと。
そういうことですね。はい。
地域の歴史と記録
で、板で終わるのは歴史、歴史学っていうと別に僕学術系でもないんですけど、それはそれでいいんですけど、なんかもうちょっと先を知りたいっていうか。
はい。
基本的には僕、生まれ育ったエリアの共同資格とか最近言っていただけるようになって、あ、そうだなと思うんですけど、基本的には新編史をやってるんですよ。
はいはいはい。
新編の出来事。
はい。
過去あったことから今あることまで、そういうものが人間が生きていくで、感知していくって、案外世界狭いところで生きてるんだけど。
そっかそっか。
そこに人とか自然環境とか開在してることに気づくと、そっから無限に広がるじゃないですか。
はいはいはい。
っていう感覚なので、基本的には新編のことを常に調べたい。
そっかそっか。
幸いに小泉さんの日記から教えてくれたように、僕の生まれ育った周りには自然的な美しい砂浜があって、文化人が人脈を辿って別荘が集中的にパッパパッとできたっていうところから、あ、そういうことなんだみたいな。
新編のことを書き残してた日記から、僕は昔の自分のいたところを新しく発見して。
そうですよね。
そのネットワークで新たな世界が見えていって、出てくる人たちの経歴とか、残した本とかを見ていくと、何て言うんだろう、視野が広いっていうんですかね。
学者だからっていうこともあるのかな。
ラジオ、無線機を開発して発明した人とか、お茶の博士、各茶書ですね、お茶の関係の古典とかの本を研究する国文学者で、茶の絵にも通じていた古道具書、美術書みたいな方がいたりとか。
そこに出てくる、うちの周りに出てくる別荘人10人ぐらいのどんな人だったんだろうっていう、掘るだけでもすごい豊かな世界が広がったんですよ。
だから面白いなと思って。
そうするとですね、最初は小泉さんの日記を解説をつけて、自分なりに。
どういう人で、どういう別荘で、いつからいつにこういう日記があったと。
これは世の中の広くに伝わるものでもないから、その野望とか出てくるんで。
でも、話をしてくれた人に何かお返ししたいし、こういうことがわかったんだっていうふうにお年寄りに伝えるには、言葉よりもやっぱり文字とか写真とかを見せると喜んだんで。
まずそういうお返しをしたくて本にまとめたんですよ。
そうすると、それを興味持ってくれる人っていうのがありがたいことにちょこちょこと出てきて。
今度はそれで知った小泉担が一番信仰を持っていた松山銀床案っていうお茶の研究者ですけど。
歩いて4分ぐらいのところに住んでた人で、そこの人についてを調べて一冊書いたんですよ。
ああ、そうなんですね。
その2人のことを京都市として、町市にも書いてないし、かつてたぶん歴史が近すぎて誰も残してないんだと思う。
新編のホタライブラリー
佐藤の観点からいろんな文献とか見たんですけど、ちょこちょこと第三者が書いていたりするんだけど、
本当に深い松山銀床案という人物が、なぜ穂田を愛してそこにいて、どんな生活の生き残りをしていたかっていうところまでは、あんまり書かれてなかったんですよね。
ってことは、僕に運良く話してくれたけれども、話してくれたおじいさんおばあさんの記憶が聞けなければ、もうその人はいなかったということになっちゃう。
そういうことがもったいないというか、それでいいのかなって思ったんですよ。
少なからず僕はそれを人に伝えようとまで思ってなかったんですよね。
知ることですごく自分なりに満足度を得られたので、いいな、やっぱりいいとこだなとか、お茶の世界って面白そうだなとか。
だけどもうちょっと出会うテーマとかトピックが、有名な人がその人のところを訪ねてきてたりとかっていうことがあったので、
これは郷土誌というか地域誌として、一応何かの形にする必要があるだろうというレベルになったんです。
バリューとして。
なので、ただそれを何らかの形で残すことをしなきゃと思ったので、同じように書くという。
書いたり写真を撮ったりということしかできないから、それで本にしてきたという感じですよね。
で、名前を?
最初はホタ日記をまとめました。
実はもう2つぐらいあるんですよ。
いろいろ分かったことを50音順に並べて、辞典形式の本に1回したんですよ。
その後にホタ小学校に通っていた時に、これも裏山に博士が住んでいたって、たぶん僕らの世代までが最後だと思うんです。
物理学者の石原敦史、石原純とも言われているんですけど、その人が女流家人の原朝夫とスキャンダルで駆け落ちして洋館を建てて住んでいた。
時の一級の文化人同士だったので、彼らが来てからホタにいろんな人が出入りして、
立山の法上の人たちとも交流して、美術団体を作ったり、そういう方だった。
そのことも小さい頃からの一つの謎としてずっと頭にあったんだ。
それも調べて、1冊作ったんですよ。
1、2、3、松山、銀床のことも書いて、4つぐらい作っていく過程の中で、
自分の知的好奇心というか楽しみを満たすだけを超えたなというか。
何かそれだけじゃなくて、人にもお伝えするべき領域があるなというふうになんとなく思って、
全体を入れる器みたいなもの、レコードとか音楽でいうレーベルみたいなイメージなんですけど、
それが必要じゃないかなって思ったんですよ。
いろいろ考えたら、なんとかライブラリーとか、でもカタカナ嫌いだしなとか、
街作りとかそういうのもなんか違うしなとか、いろんなイメージで作った時に、
まずやれることは新編のホタだし、ホタの文化とか、
要は過去の人が残してくれた文章ですよね。
文で教えてもらったし、自分がその文として残すっていう。
文庫設立のきっかけ
それをいろいろ収めるボックスというか器って何だろうって思ったら、
クラって字があるじゃないですか。
クラ、はいはい。
釈迦の子の方の。
そうか、文庫ってあるよねって思ったんですよね。
ひらめきがなんか来たんですかね、文庫。
いろんなところであるじゃないですか、金沢文庫とか。
あれ確か北条氏でしたっけ、
記録とか、いろんな知的財産って言うんですかね、
そういう人間の残したいというものを文の形、美術でもいいんですけど、
それを文庫という名称にしてライブラリー化するっていうのは、
昔の人がやってたから、
そっか、ちっちゃいけど、個人的にそういうことをやろうとしているのかもしれないと思って、
ホタの文庫って使ってみたっていう。
で、ホタ文庫にしてみたっていう感じですね。
すいませんね。
どうでもいいです。
そういう経緯で、最初からやったわけじゃなくて、やっていきながら、
その形が見えてきて、じゃあこうしようというところで生まれたっていう。
そうですね。
過去に記述されていたものから枝葉が分かれていくこと。
社会学的アプローチで小さい頃からの謎を共同詩・新編詩として紐解いていく行為。
何らかの形で残すことをしなきゃと思った前田さんは、
そういう経緯でホタ文庫を作られたというお話です。
歴史的繋がりの探求
何よりも自分だけが知っているだけでもないことになるなと思ったんですよ。
それはこうだったよっていうことを押し付けるというよりではなくて、
こういうことがあったということは僕が見つけましたとかを知ったんですっていう。
ちょっと聞いてよっていう感覚で残しておきたい。
それに興味を持ってくれる人がいたら嬉しいし。
何かの本で読んだんですけど、縦軸と横軸があって、
横軸っていうのは今の現在の空間を共有している同時代を生きる人。
縦軸っていうのは仮にですけど、歴史的時間軸で過去と未来っていうものがあったとして、
縦軸の人同士で伝え合うこと、伝達し合うこともあれば、
縦軸の歴史というか、もういない人たちの声を聞いて残していくっていう。
両方のことなんだなと思ったんですよね。
今聞ける人たちは横軸のことを聞いて、でもその人は縦軸の過去のことを教えてくれたから、
その両方を繋ぐっていうことが、
自分の生まれ育って、お菓子屋の看板息子まではいかないですけど、
丸米坊主で触り心地がいいから撫でられてたから、
そういう僕がもともと知り合ってた人たちのことを聞いて残すっていうのは、
なんかそれかなっていう気持ちがあって、そういうものを入れ込むための文庫っていう。
なるほどな、すごいそれ。
前田さんじゃないとできない感じがすごいするというか、
当然そこやっぱり生まれ育って、他のフードに触れて、
幼い頃からそれは当たり前なんですけど、そこで生まれ育ったわけだから。
謎があって、そのまま大きくなって、やっぱりそこに対しての好奇心もあって、知りたい欲求も。
そんな中で、他の人だとやっぱりちょっとできないんじゃないかなっていうのを聞きながら、
思ったんですよ、実際聞いて。
そこに対して知っていくことで、より面白くなるわけだし、より知りたいし、
それをやっていくうちに本を作るわけじゃないですか。
本作るってそれなりに大変じゃないですか。
そうですね。
時間もかかるし、仕上げて、それが何冊も出るっていう状態があったりとか、
じゃあ文庫にしようみたいな。
なんか他の人がやろうっていう感じなのか、
やっぱり前田さんじゃないとできないんじゃないかみたいな感覚。
なんかそれも過去何人かの方に質問いただいたこともあったんですけど、
周りの状況にどういう形で自分が自分なりのテーマっていうか、
僕の場合はハテナとか問いみたいな興味とかなんですけど、
持ってそれに行くかっていう。
人によって出方違うと思うんですよ。
僕の場合はそういうちょっとややこしいというか、
本を書いたりっていうのだったけど、
それが音楽で出したいとか、
調べるとかじゃなくて、過去のことを調べて本にするっていうことじゃなくて、
自分で俳句を作ったりとか、
自分の感性直でフィルターを通して表現するっていう人とかも出てくると思ってて、
僕はたまたまそういうスタンスが生にあったっていうか、
なんじゃないかなと思って。
実際やっぱりそれで本とか出したりしていくと、
それによるまた何かが起こったりとかっていうのもあったりすると思うんですよね。
そうですね。
本出すって言っても、これ出版社通してとかでは全くなくて、
オンラインで自分で電子書籍を作れるサービスがあったんですよ。
無料で。
基本的には電子書籍を配布しながら、
その内容を一冊ずつ紙の本として自分で印刷して買えるっていう。
そういうことか。
があれば、とりあえず人に渡せると思ってたしね。
たくさん売るっていう気持ちは全くないし、
他の小さなエリアの郷土市に興味を持つ人って世の中に全然いないはずなんで。
これだけ夢中になって話してますけど、相当どうでもいい話になっちゃったのに。
なので、僕がやれるのは興味を持ってくれる人に一人一人手渡しをしたいというところから。
だから、そういうサービスがあるといいなと思ったんですけど、
調べたらたまたまあったので。
なので、自分で書いて仕上げて。
素人でやったから、水溝を50回ぐらいやろうとか、自分なりにテーマを選定して。
詳しい人にアドバイスもらったりしながら、一個一個仕上げていったんですけど、
そういう形で作り始めたんですね。
全部はできてないんですけど、
そのホタ日記っていう小泉担のやつとかを、巨南町の図書室か、図書館はないので、
図書室っていう、公民館の一角の本棚に寄贈して入れたりとか、
立山の図書館にも寄贈させてもらったり、鴨川にもさせてもらったりとか、ちょこちょこ。
あと国会図書館にも納本した。
あれ普通にサービスというか制度としてあるから、送ればやってくれるんですけど。
面白かったのが、松山銀賞案のことを調べたいと思ってたんですよね、僕。
ホタとキスガイラのことを辞典形式にしてまとめた本と小泉担の本を巨南の図書室に入れてたんですよ。
そしたら松山銀賞案の松井の方が自分のルーツを探して、巨南町の公民館に来たんですよ。
当時僕の知り合いがそこで働いていたので、
前田さんっていうちょうど同じ同時代の学者の日記とかを京都市の観点から調べて本をまとめている人がいるから、お繋ぎしますって言ってくれたのが最初で、
こいつみたいな日記に出ていた人の松井が来てくれて、その本があるからお繋ぎしますということで、こういう本を書いている人ですって渡してくれて、お会いして、そこから進展したんですよね。
なので、やっぱりそういう形を作ったことで調べるのに限界があって、
昔のことだし、閉鎖党本には出ている文献が残っている。
だけども、もうちょっと肌感覚の部分を僕は知りたいから、
おじいちゃん、非おじいちゃんはこういう人だったと聞いているとか、ファミリーヒストリーで残っているエピソードとかを聞くと、そこですごく腑に落ちる。
キスガウラのあそこによく潜って、あの辺にはこういう魚がいるんだっていうのを、その家の人たちはみんな共有していて、
みたいな営みとして、その海を愛しているっていう人たちだったので、今でも。
そういう歴史が、縦軸がまだ続いているっていうことが出会いによって、今は横軸でつながったっていうのが、
やっぱりその文が、時間的連続性を手繰り寄せてくれたりとか、っていうのを残した価値があったなと思うんですよね。
もう出してなかったら、いけてないじゃないですか、もうそれ以上。
出したことによって、そこにファッとつながったっていうのが、結構おおーってなりますよね。
興味と好奇心の深化
嬉しかったですね。
おそらく僕が最初の知的好奇心というかだけで、外部に伝わるような文章として残そうというふうに決めてなければ、
おそらくその末裔の方も、その日その時に巨難に来たでしょう。
でも交わることなく変えられたし、僕に会うということもなかったかもしれない。
っていうのが、おそらく今言ってくださったような、残すことで何かにつながるっていうのは、それが大きなテーマかなという気がしましたね。
その松山という人物をより調べていくと、本当に北尾二郎三人の世話人をやってたとか、
金沢をルーツに持っている美術賞の地を引く人で、幼い頃から一級品を扱う美術のものを目にしたり、金沢の土地柄、いろんなものに触れたり、という面白い人だという。
なるほど。
そういうことで一つ一つ近場に面白い世界がまた出てきたっていう。
本当に元々思っていたような近いところにいろいろある、違法人としての目っていうところの話。
そうなんですよ。
そうですよね。
地域文化の保存と表現
だから、自分がこういうことを描きたいとか描けるとかっていうのとはまたちょっと違うんですよね。
そっかそっか。
地域にもともとあったものを、ただ僕が能動的に動いてますけど、もともともうあったことなんで、それ取りに行ってキャッチして流すっていう。
ああ、そういう感じなんですね。
ただのトランスミッターみたいな。
そういうことですね。
ああ、そうか。
僕がやってるという感じもあんまないっていう。
そういうことですね。描きたいっていうのよりもあるから。
そうですね。
それをただ自分を通して出していってみたいな。
だから、音楽をやったり表現したりするアートも好きなんで、自分なりのフィルターを通して表現したいっていうのもないことないんですよ。
だから、ホタブンコの歌っていうのを作ってみたりとか、そういう遊びもしてるんですけど。
音楽は基本的にはもともとあったものを繋いでいくというか、残さなきゃっていう、残すことで地域をとかっていうテンションまでもいかないんですけど、
元あった営みを誰かがそういう風に流していくっていうことは必要だよねという感じですかね。
なるほど。だからそれを描いたりとかってなると意気込んだりとか、ちょっとパワーを使うみたいな感じがイメージとしてあるんですけど、
前田さんはそういうのでもなく、軽やかに自然にやりたくて、それをスーッとやって、スーッと。
力が入ってないというか、自然体な感じでやってるのかなみたいな。
っていうのを今聞いてて思ったんですよね。やっぱりそんな感じなんですかね。
そうですね。たぶんこの基本的姿勢は自然体なのかもしれません。ただ、一冊作るときはもう千本ノック的な感覚で何回も見ますよね。
何か違うとこないかなとか、これ少なくとも言い切れる文章になってるかなとか、素人なんでダメなんですよ。
中途半端なものにはしたくないから、推測のままで世に残しちゃうのは嫌だし、少なくとも言い切れる部分で留めるっていうぐらいじゃないといけないなっていう気持ちもあるから、何度も見るし、
構成とかってこれで良いのかなとか思いながら。
それが自分の作ったものじゃないですか、一応。それを何度も見るっていうのは客観視しなきゃいけなかったりとか、結構しづらかったりとか。
しづらいですね。
自分のものだけにってありますよね。
はい。だから独善的になってないかなと。
そうそうそう、そういうこと思うだろうし。
すごいだから、楽しいんですよ。楽しいし、自分がやらなきゃっていうのがあるんですけど。
なんか、軽のりは嫌だっていう。
自分は大したものはできないんだけど、それなりに磨き込みたいっていう気持ちが強いですかね。
やっぱり書くっていうことに対して、やってきてないことというか、もう今はいっぱい書いてるから、それの経験値としてはすごく積んでらっしゃると思うんですけど。
未知なことをやっぱりそうやってやって、自然とやるようになっていった。
例えば本屋もそうじゃないですか。経験ないけどやるようになったみたいな。
本屋も一応ね、本屋さんとしての何かしらはあるでしょうし。
でもまあ、経験長くやってくるとこういうことかなっていうのもだんだん入ってきたりとか。
そうですね。
そうですよね。だから本屋さんといった意味では、その辺どうなんですかね、実際やってみて。
縦軸と横軸。形に残した、本に表したことで紡がれた語弁。
それはまさに残すことで何かに繋がる、繋がったということ。
そんな前田さんのお話を次回さらに伺っていきます。
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