1. ゆいなわさんの「聞く人」ラジオ
  2. v176-1 保田文庫主宰・前田宣..
2025-11-20 29:22

v176-1 保田文庫主宰・前田宣明さん「風景の見え方を変えていく必要がある」

今回は、保田文庫主宰・前田宣明さんにお話を伺いました。
千葉県館山市にある複合施設・YaneTateyama。その中にある書店「北条文庫」の店主をされている前田さん。
まずは現在に至った経緯について、伺いました。
保田文庫:https://nbakmda.wixsite.com/hotabunko
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サマリー

保田文庫の主宰である前田信明氏が、自身の経歴や書店の運営について述べています。地域とのつながりや風景の見え方の変化を通じて、文化的な活動の重要性を語り、地域の魅力を再評価する視点の重要性を指摘しています。また、彼の音楽活動や地元への愛着、ホタ文庫の設立に至る背景が描かれています。特に、彼は風景の見え方を変える重要性を強調しています。前田信明氏は、家族の別荘に関連する小泉誠博士の日記を通じて、風景の見え方や歴史を再評価する重要性について述べています。興味を持たれたことが、別荘の謎を解く手助けとなっています。

00:03
ゆいなわさんの聞く人ラジオ
みなさん、こんにちは。ゆいなわさんの聞く人ラジオのお時間です。
前田信明の経歴
今回は、保田文庫主宰・前田信明さんにお話を伺いました。
千葉県立山市にある複合施設屋根立山、その中にある書店北条文庫の店長をされている前田さん。
まずは、現在に至った経緯についてから伺いました。
前田さんは、お仕事は何ですか?
私は、現在は屋根立山の1階にある北条文庫という書店でメインは働いています。
複合施設なもので、3階がホテルがあったり、本屋の隣にカフェがあったりというのがあって、
全体を見ながらホテルの清掃だったり、お客さんとの対話、対話じゃないな、やり取りだったりという感じで、
全体的な業務の中、書店というものをメインでやっているという。
書店だけというわけではないということですね。
全体を見ながら、時に別の所にもいながら。
書店は、もともとやっていたとか、やりたいとか、どういう…
それがですね、経験はないんですよ。経験はなくて、書店自体を作るということは、うちのオーナーがやりたいということで作ったんです。
これは仕事というか、ホタ文庫という名前で、家の近所、実家の近所ですね。
ホタ小学校という道の駅がありますけど、あのエリアに生まれ育ったんですけど、
近隣のお年寄りだったり、話を聞いて、周りに残っている古い別荘のこととかを生まれ育ちながら親しんできたので、
それを大人になってから一体どんなものなんだろうというのを調べて、書き残そうと思ったんですよ。
そういう活動を個人的にやっていた延長で、自分の社長と知り合って、
僕も定職のタイミングだったこともあり、この美苔坊草地域で、僕は書き手でしたけど、
本というものを扱う文化的なものを表現する器としては、本屋というのは今減ってますけど、
どこかにあった方がいいよねと思っていたところもあり、
またここの屋根立山の空間性というかイメージというのも、そういうことも考えていたので、
じゃあ参加させてもらいたいということでジョインしたという。
そういう流れで。
そうです。
じゃあ、もともとそういう話がなければやってはなかった。
やってはないですよね。
この前は何をされていたんですか。
地域と文化の再評価
前はですね、いろんなところで働いているんですけど、お土産の仕事をしていたときもあったし、
最初は新聞織り込みの地域情報誌を作っているコアさんクリップに25歳で帰ってきて、
それでいろんな人と知り合っていました。
そうなんですね。
何年前だっけ。
16年とか。
その後、いろいろと大戦兵の会社でお世話になったり、地域で普通にサラリーマンというか仕事をしながら、
コアにいた時代でそういう文化的な活動をしたりする人たちとお会いすることができたり、
地元ってやっぱり面白いなというのがあったんですよ。
ちょっと前に戻りますけど、学生時代から波乗り吉に帰ってきて、
ちくらにあった浅井新平さんの海岸美術館に行くのが好きだったんですよ。
その足でサンドカフェにも寄るっていう。
あれ、サンドカフェって何か知ってるな。
ちくらにあるカフェなんですけど、マスターも前海岸美術館で働いてて、
一番最初は大学の頃東京に住んでましたけど、
向こうでいろんなカルチャーだったり音楽とかあるじゃないですか。
それでも楽しかったんだけど、帰ってくるともう一つの面白い世界があって、
逆に言うと東京とかでは埋もれてて出会えないような人とかエピソードとかっていうものが
わりと近くに感じれたっていう。
っていうのがなんか逆張りに見えたし、地元が楽しそうだっていうのを感じたんですよね。
だから早く帰りたいなって思っていた時に、たまたま早めに帰ってこれて、
そこから仕事しながらいろんな人と知り合って、
フリーベーパーを創刊して作ってた時期があったんですよね。
0470っていう。
それを最初に4人で始めたんですけど、僕が声かけてもらって、
その中で唯一地元で生まれ育った一番若手でしたけど、
何か書けるんじゃないかって言ってくれて、
僕そんなこと考えたこともなかったんですけど、
与えられた文章と風景っていうものを書くっていうテーマの中で、
親しんできた場所っていうのは、
南房総にいくつも学生の時代からドライブしてここはいいなと思っていた場所とか、
一人だと行ってた場所。
今だと人気になっちゃう人がすごいんですけど、
あの頃は全然原岡の大本山場所が誰もいなくて、
あそこを学生時代に帰ってきて、一人で先端で寝てたりしてたんですよね。
今はなかなかできなくなっちゃいましたけど、
そういう波乗りしたりして、南房総のエリアっていうのに親しみがあるから、
そういう自分の中にある思い出というか体験っていうのを、
文章って形でだったら、
なんかそう長くない時数であればできるんじゃないかということでやり始めたら、
結構それが楽しかったんですよね。
転作というか直してくれて、
ちょっとずつ自分の中にあるものを、
短い文章だけど出していくっていうことが、
自分のやりやすい手法になってきた。
日記つけるようになったりとか、そういうことも含めてですけど、
自然に見ている風景とか、そういうもの自体が案外、
その時のシチュエーションというか境遇や機会によって、
すごく大事なものになったりするんだなって思うと、
地元に帰ってきて普通に生活していること自体も、
風景の見え方を変えていく必要があるなっていうか。
旅人としての視点
風景の見え方を変えていく必要がある。
見方って言うんでしょうかね。
普通に過ごすんだけど、旅人はどう見るかなとか。
なるほど。
逆に自分が旅に行った時に、たくさんは行けてないですけど、
結構フラフラっとどっか行くのが好きなんですよ。
そうすると違う視点が得られる。
要はエトランゼっていうか、違法人っていうんですかね。
そういう視点を自分が持ってある場所に行く。
ある場所に行くからそれがあるなって気づくし、
逆に言うとそれを持つと、
今までいた場所の良さとか違いっていうものに
感覚的に気づいた瞬間だと思うんですよ。
そういうものが地元と東京に出たりの往復だったり、
その視点で帰ってきたから、
落ち着くんだけど新しいものがたくさんあるみたいな。
今度それを人との出会いの中で文章に書いてみないかと言っていただけたことで、
今度それらを振り返って出していくっていうタイミングになったんですよ。
なのでそれを続けていこうと思うと、
今まで自分がそういうふうに地元との関わり、
1回出て戻ってきてこれからがあるっていうことを考えると、
旅人としての視点だったり、地元としての視点とか、
いくつかのレイヤーで風景を見ていくことで、
なんかより面白いっていうか、
一人遊びなんですけどね。
そっかそっか。それに気づいちゃったということですね。
っていうのが、ちょっと仕事から外れたけど、
仕事と両輪で何かやってるっていう、
そういうスタイルですかね。
そういうことで、じゃあアウトプットで何かを出しながらっていうのをやりながら。
そうですね。
04070もお声がかかってとか、そういう形だったり、
ここもお声がかかってみたいな感じ。
自然な流れだったというような気もしますけどね。
でも前田さんは一応それの手前の段階でこういうことをやってるみたいなのは、
ある程度声かけてくれた方は知ってたりもする。
そうですね。
だから声かけるみたいな。
知らない人には声かけないじゃないですか、きっと。
だからおそらく何か前田さんが持ってる何かしらに、
その声かけてくれた人は感じるものがあって、
どう?っていう声をかけて、
じゃあ書くみたいなことも、
何かあるからやっぱ書けるんじゃない?みたいなこととか。
で、書いたら書けたとか。
なんかその辺って何でしょうね、不思議な。
今振り返ると、04070に関してはもう、
25、6とか7とかで、
本当に若い、何も知らない人でしたけど、
声かけてくれたのは真央永明さんという文筆家で、
和田でインフォショップ、今こそジンとか、
そういうカルチャーが出てきてましたけど、
かなり早いところで和田の漁村のところで、
古い民家でそういうカルチャー寄りの場を作ってた方がいて、
僕はそこに会いに行くのがすごく楽しくてですね。
そういうことですね。
で、そこに出入りしたりいろいろ話したりしていたときに、
こういうメディアを作ろうと思うんだって声かけてくれて、
なので何してたわけでもない。
そういうことか。
前田さんとしては自然にしてたっていうか、
地元との触れ合い
例えば売ろうみたいなこととかでは全くなく自然に振る舞って、
いろんなことに触れれるから会いに行ってた。
興味のままに楽しいし、
ということがそういうものを導いてきたみたいな感じなんですよね。
かもしれないですね。
でもそういう人さ、
そういう存在を求めてるところが正直昔からあって、
中学、高校、大学、今もそういう人っていうか、
なんかそういう人必要ないですよね。
抽象的な言い方で申し訳ないんですけど。
そうだな。
例えば、僕の生まれ育った家のすぐ下、
ホタ文庫で中心的に調べて、
キスガウラっていう海岸がありますけど、
僕は高校時代ギターやるのが好きで、
家だと夜練習するのうるさいじゃないですか。
文化祭でライブしようって。
柚子なんですけど。
それでうるさいからってことで、
ギター持ってすぐ下が海なもんですから、
海で弾けば誰も言わないじゃないですか。
それ弾いてたんですよ、夜練習して。
そしたらテントのところからむくっとお兄さんが出てきて、
何してんの?って。
いや、ギター弾いてるんですよ。
高校生で文化祭で初めてやるんで、
練習してるんですよって話をしたら、
そうなんだって言って、
僕もメタルのバンドでベースをやってて。
話を聞いたら、大学生の方で、
親が富浦高建山にクルーザーで旅行に行くから、
学生で時間があるので、また旅が好きだから、
折り畳み自転車にテントを積んで、
自分は陸路で通じつかけて向かってるんだって。
ちょうど景色が良かったから、
ここに今日テントを張って寝てたら、
まさかこんな田舎ですぐ上から自分が音楽やってるし、
ギターを弾いてる若い子がいたから声かけたっていう。
僕は田舎というか地元でそういったことやってたけど、
音楽を教えてくれるお兄さんとかに会ったことがなく、
それが確か高校2年ぐらいだったんですけど、
そこで色々弾き方とかをその人が優しくて教えてくれたんですよ。
なんかこうちょっとハーモニクスって言って、
こういう弾き方とか。
およそユズとかやるのでは知らないような。
テクニック的なもの、そういう色々あるんですね。
そういう世界を何の気なしに出て、
日常的に出てた砂浜で弾いてたら、
そういう出会いがあったっていうのは、
なんか世界を広げてくれるお兄さんという存在に影響を受けてですね、
なんかいいなと最初に思ったんですよね。
で、あと大学に行ったら、
音楽の延長でブルースっていうジャンルが、
僕が高校時代に何か聴きたいと思ったんですよ。
でも当時駅前のCDショップに行ったけど、
そのブルースのコーナーがほぼなくてですね。
有名な戦前ブルースのロバート・ジョンソンというのと、
あと昭和海王の方のブルースのアワヤ・ノリコのベストが売っててですね。
僕なぜかアワヤ・ノリコの方が好きなんですよ。
ロバート・ジョンソンではなく。
本当はロバート・ジョンソンが正解なんだけど、
高校生で情報ないですから。
ネットもまだ全然ダイヤラップ接続で情報ない。
で、家で聴いてたら、
おばあさんが、のむちゃんなんでそんな風に聴いてるの?みたいな。
そうですよね。慣れますよね。
っていうような状況だったんで、
少し東京に出ていろんな音楽とか、
そういうものに触れたいなと漠然に思ってたんですよね。
地元の楽しさ、南暴走への親しみ、
フリーペーパー0470の制作に携わることや、
世界を広げてくれるお兄さんの影響。
そこにはトランゼ・イホウジ、風景の見え方を変えていく必要がある、
という思いがあったと前田さんは語ります。
ブルースとの出会い
それで、僕、埼玉の浅賀っていうところに住んだんですけど、
駅から家のアパートに通う間にですね、
なんかブルースっぽい音楽が常に流れてる。
夜になるとバイト終わったり、授業終わって、
家に向かうと、そういう音楽が流れてくるスピーカーがあるんですよ。
すごい気になって、でも階段は暗い地下に向かって降りて、
バーのBハウスっていうバーだったんですけど、
そこにちょっとね、なじみはなかったんですけど、
一回降りてたんですよ。
そしたら、南暴走から出てきて、
ブルースっていう音楽になんとなく触れたいんだけど、
もしかしてこのスピーカーから毎日アパート帰る前に聞いてるんですけど、
これってそうですかって聞いたら、そうだよって言って、
とりあえず若いから酒は出さないけど、ここに来て座んなって言って、
カウンターで学生でこういうふうに状況を知ってきて、
いろんなのに触れたいと思ってるんだよって言ったら、
とりあえず20歳いってないということを言わなければ、
お酒じゃないけど、毎日ジュース出してやるから遊びに来いって言って、
それで味をしめて遊びに行ってたんですよ。
そうすると状況を知った先に、バーという場所で
マスターがいろんなことを教えてくれたり、
小さい箱だったんですけど、ジャンルに特化してるから、
バックバンドで外国から来た演者とかが滞在中にフラッと来て、
演奏してたりするんですよ。
わずか20人から25人くらいの小さい店でしたけど、
そういう演奏も本当に生ですぐ近くで聞いたりしたので、
ホタル育った子供としてはすごく刺激でしたね。
マスターは親ぐらいの世代、ちょっと上かな?でしたけど、
いろんなことを教えてくれるし、常連さんも
「あんちゃん食えや!」っておつまみをあげてくれる。
そういう人の恩に触れたりして、
大学で会ったので、僕の中では
素敵な大人っていう像が常にあるんですよ。
出会っていくこともありながら。
そういう人と触れ合う中で話ができたりしていくのが嬉しかったし、
僕はさっきの話で言うと帰ってきて、
その和田の真央さんがそういう人だったからよく会いに行って、
何か誘ってくれたということが嬉しかったので、
それに答えたいなって思ったんですよね。
何も分からなかったんですよ。
本を読むってわけでもなかったし。
生まれ育った中にその場所っていう記憶とか、ここいいなっていうのが
おそらく人よりあったのかな。
地元再確認っていうか、外の視点で学生時代に見てきたので、
その延長で何かできるかもしれないと思ってお受けしてやり始めた。
そういうことですね。
ホタ文庫の設立
ホタ文庫っていうのもされているじゃないですか。
それは自分でやろうって言って一歩踏み出していくような感じ。
ホタ文庫って何ですかって言ったらどういう説明になるんですか?
何ですかってなりますよね。
基本的には僕も必要に応じて考えついたんですけど、
ちょっとその経緯から簡単に話すと、
0470っていうフリーペーパーを誘われてやっていた時期がありましたので、
2代目の編集長を3年半くらい僕は継いだんですよ。
その後、阿波倉城研究所の関野さんに引き継いでっていう流れだったんですけど、
0470って暴走反倒単位で考えて、
人や物と時間軸、過去と今とこれからっていうものを
自分たちの視点で編集して作っていくっていう作業をしてたんですね。
でも、どこかでもうちょっとコアな自分の生まれ育ったルーツというか、
感じ取ってきたものを何か残したいっていう気持ちはずっとあって、
0470でホタ小学校が閉校するから、そのタイミングでホタの号っていうのを作ったことがあったんですけど、
もうちょっと踏み込みたいっていう気持ちはずっとあったんですよね。
それをやってみたっていうのが大きなテーマ。
家のすぐ目の前にある昭和8年に建てられたある学者の別荘があるんですけど、
僕はそれを小さい頃からそこで遊んでて。
そこの別荘で遊んでた?
はい。要はですね、うちのじいさんが車を貸してもらう代わりに、
不在の時に枝掻きを払ったり、管理をして、世話をして、
古い別荘地に多分あるんですけど、別荘版っていう感じで、
じいさんがそれをやってるんで、小さい頃からじいさんの後について本気一緒にやったりとか、
家建て替える時は家族でそこに住んだこともあったし、生活空間だったんですよね。
ちょっと古い木造りのログハウスっぽい建物で、
洋風な防臭石のベランダがついていたりとか、
幼い頃に周りとはちょっと違うんだと。
オシャレだなってまで行くのはまだ先なんですけど、
別荘の謎と興味
他のところとは違う出立ちで、なぜかじいさんが枝掻きを切ったり、
ほうきを振ったりしてるって、ちょっと不思議な空間だったんですよ。
僕はそれに興味を持って、幼い頃に何度かこれは誰が建てたの?って聞いたことがあったんだけど、
あんまりわかんないですね。何かの博士だったらしいとは聞いてたんですけど、
博士って何だろう?っていうイメージだけがあったんですよ、その謎。
家の前に毎日ずっとあって、毎日見てるけど謎。
その中で0400を大人になってから帰ってきてやった。
でもその謎がずっと続いてるんですよ。
この謎の部分ってやってこれてないよねって気づいたんです。
放送半島のことはやりました。いろんなところに行って人と会ったり。
まさに聞く人的な。
4ヶ月に1回期間で発行して、ピープルのインタビューに行くんで、
常に人に会ってインタビューしてたんですけど、
すごいそれも楽しかったんですけど、
自分の目の前にある、あるいはあった、そこにいた人の声を聞いたことがないから、
いずれやりたいと思ったんですよ。
その状況が許したので、転職とかもあったから、
0400をKANOさんに引き継いだタイミングで、今だなと思って。
まずホタ文庫って名前は考えてなかったんですよね。
単純に毎年夏になるとその別荘に来る人たち。
僕はちっちゃい頃から可愛がってくれてたおじさんおばさんです。
その方はずっと一緒に出てた?
そういうことです。
持ち主というか別荘の。
4,50年来てたんで、今も80代でお元気なんですけど、
僕はちっちゃい頃から知ってるんですよ。
お迎えのいつも鍵渡して会議してる前田さんとこのお孫さんが大人になって、
ところでここの別荘って誰が建てたのって聞いてくれたと。
それを喜んでくれたんですよね。
お迎えの前田さんが聞いてくれたっていうこととか興味持ってくれたとか、
嬉しくなってくださったようで。
それで実はっていう風に教えてくれて、
それが小泉誠っていう慶応義塾の医学部の寄生虫学教室。
寄生虫の研究室。
愛知出身の学者、生物学者ですね。広い地域で今の言い方だと。
当時は動物学者だったんですけど、
化学の髄質をたくさん書いたり、
戦後の虫くだしっていうんですか、
寄生虫の懐中の研究をして、
それを行虫検査とかいろいろありましたけど、
公衆医学、公衆衛生とか基礎医学の研究者でもあったので、
そういった部分に功績があって、
そういう方が建てた家なんですよ。
そういうことか。
私たちのおじいちゃんはその人ですと。
っていうことを教えてくれたんですよ。
そんな人だったんだって。
まさかそういう人がいるとは思ってなかった。
そうですよね。謎だった。ずっと謎だった。
いろいろ調べると、
日本の古本屋とか古書のサイトで
古い髄質が売ってたりして、
買ってみようと思って読むんですよ。
そうすると、その別荘で書いたことが
髄質集に載ってるんですよね。
同じタイミングで、
僕が興味を持ってくれたことを喜んでくれたので、
慶応にあった小泉博士が
うちの前の別荘を敵水居って名付けてたんですけど、
敵水居に来たときに書いていた日記が残ってると。
それを教室が壊されるか、
老朽化とかいうこともあったので、
おじいさんがいたことをまた自分たちが使ってるし、
ここに持ってきたいということで、
日記を持ってきてくれたんですよ。
今、原本はあるんですけど、
僕はそれを1ページずつ読む。
読むと、昭和10年から昭和16年だったかな。
戦前ですよね。
小泉博士が別荘に来た時の日記が書いてあるんですよ。
僕はそこで、うちのおじいさんが
昭和3年生まれだから7歳とか10歳の時の
そこにいた博士の日記を読むことになった。
それを読み始めるってことは、
たぶん今まで何でだろうと続いてたものに
より深く気づける気がしたので、楽しく読んだんですよ。
ブルー星の興味から足を踏み入れたバーのお話。
素敵な大人たち。
そしてホタブンコについて、子供の頃、
祖父が管理していた別荘に住んでいた博士。
その博士の日記。
その詳しいお話は次回じっくりと聞かせていただきます。
博士の日記
どうぞお楽しみに。
29:22

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