1. 栗林健太郎の音声
  2. #11 上演・複製・生成という表..
2023-07-31 24:46

#11 上演・複製・生成という表現のモードと「稽古」への憧れ

楽器ができるようになりたいという話をしました。

Summary

音楽や演劇などの上演芸術は、時間的な制約があり、身体をフィットさせて表現するものであり、文字に比べて直感的に伝わる特性を持っています。一方、プログラムは複製芸術として捉えられ、プログラマーが書いた成果物がユーザーによって実行されて表現されるものです。レコードやプログラムの再現にはテクノロジーや環境が必要であり、生成AIによる芸術のモードも考えられます。稽古という制約がアーティストの表現を輝かせます。

上演芸術と時間の制約
こんにちは、あんちぽです。
僕は楽器とかが全然できないんですけれども、楽器を弾いている人を見るといいなと思って、
そういう風に弾ければいいなと思いはするんですが、なかなか難しいですよね。
ちっちゃい頃にピアノを習っていて、5歳ぐらいですかね、その時に
ヤマハの教室に入らされてという形で入って、
その後、ヤマハの先生についてちょっと練習・稽古するみたいなこともあったんですが、
その時は本当に何をやっているか全然分からなくて、
ピアノの練習をする意味とかも分からないし、
そもそもピアノを弾いたりとか、
そういう行為そのものの意味が分かっていなかったので、
面白さとかを感じることもなく、単に全然意味が分からないから、
なんとなく全くできるようになることもなく辞めてしまったんですけど、
その後、音楽というものを結構好きになって、
それは結構大きくなってからですけど、
それでいろいろ聞いていると、
あの時楽器をちゃんと練習していればもうちょっと楽しめたのになぁと思いながら、
そんなことを定期的に思う日々を過ごしつつ、
思うけど特に何もやらずにという感じで、この年まで来てしまったわけです。
で、音楽とかそういうことは楽器を弾くとかそういうレベルではやらなかった、
やらなかったというか、そういうと他のことをやっていたみたいですけど、そういうこともなくてですね。
もうちょっと話を一般化すると、
音楽というのは楽器が典型的にはそうだと思うんですが、
前回のエピソードで、おしゃべりをするというのは書くことと違って、
性性愛的だみたいな話をしたと思うんですけど、
音楽というのも結構そういうところがあるんじゃないかなと思うわけです。
というのは、例えば楽器を弾くというのは、
基本的にはある種の決められた時間みたいなものがあって、
もちろん自分で即興で弾けばそういうことはないわけですけど、
自分の身体の外にある時間の流れみたいなものをその時間に沿って再現するという、
基本的にはそういう営みだと思うわけです。
もちろん演奏家の人はいろんな考えを持って弾くわけだから、
必ずしもそういうわけではないとは思うんですけど、
基本的な構造の話をするとそういうことだと思うわけですね。
もうちょっと一般化すると、音楽とかあるいは演劇とかもそうかもしれないですけど、
上演芸術みたいなものがあるわけですよね。
というのは、やる方も見る方も基本的にはその同じ時間を共有して、
その時間の中で何かが行われているというものを見るというような、
そういうタイプの技術です。
そういうのは本当に大昔からあって、
小説とか文章による表現、
もうちょっと一般化すれば何らかのメディアによる表現というものより、
歴史が古くからあるわけですよね。
演劇とか、もっと言えば歌とか、
たぶん一番古いのは歌とかなんじゃないですかね。
そういうものは本当に人間が言葉にならないような、
今から言えば言葉にならないような言葉をしゃべっていた時代から、
歌というのはきっとあったんだろうと思うわけです。
これはプルーストとイカという本で読んだんですけど、
プラトン、プラトンじゃなくてソクラテスですね。
プラトンが書き残したソクラテスの話によると、
ソクラテス、いやプラトンだったかもしれない。
どっちかわかんないですけど、どっちかがですね、
文字というのは信用ならないんだみたいな話をしていて、
それどういうことかというと、
文字というのは何か考えを表して、
それを人に伝えるためのもので、
当然プラトンとかソクラテスの時代にもあったわけですけど、
それは信用ならないんだというのは、
自分の考えというのを適切にちゃんと再現してくれるものではなくて、
謝りを含むとか、
何かそういう感じのことが書いてあったんですよね。
それは何でそういう話になるかというと、
文字から複製芸術へ
ソクラテスというのはやっぱり、
広場に人々が集まってですね、
対戦相手みたいな人がいて、
ワーワーやり合うわけですよ。
哲学的な対話を通して、
ある種のその場の即興みたいなものも多分あっただろうし、
声の出し方とか、あるいは観客のリアクションであるとか、
そういうものを見ながら何か言い方を変えていったりとか、
ある種の上演みたいな形で哲学をやっていたわけです。
なので、そういう人からすると、
文字というのは当然そういう雰囲気というのが伝わらないし、
だから考えを伝える形式としては、
やっぱり偽物というか、一部しか表さないんだ。
だから文字なんて信用できないみたいなことを言っていたわけです。
そう思うと、原書の哲学というのは、
ある種の音楽とか演劇に近い形でやられていたわけなんですけれども、
それが文字というものが出てきて、
当然文字があるから、その話を僕らが知っているわけですよね。
それで文字というものが出てきて、
パピルスとかにいろいろ書いたりとか、
用筆誌とかに書いたりとか、
いろいろ書いたりとか、
今、言葉が出てこなくなった、
写しを頑張って書く人がいて、
それでどんどん残ってきた。
それが今、僕らが読めている古典的な本なわけですけど、
それは上演するものであった何らかの表現というものが、
ある種の複製芸術、複製的な表現をしているわけです。
それがグーテンベルクという人が、
印刷術というものを発明して、
そこからどんどん書籍というものが複製されて、
広く流通するものになってきた。
もうそういうふうになったら、
僕らが読むことができるようになったわけです。
それが、僕らが読むことができるようになったわけです。
もうそういうふうになったら、
文字なんて信用できないみたいなことはあまりなくなってきて、
ある種それが正しく考えを伝えるメディアだみたいな感じになって、
久しいし、今も僕らはそういうことを思っているわけです。
そうなってくると、
初期の哲学なり、
あるいはその頃の表現というものが持っていた上演という形式。
要するに演者と観客が同じ時間を享受する。
あるいは音楽に特徴的なように、
ある種の時間的な制約があって、
それをすごく外れたりするわけではなく、
享受するような、そういった形態というよりは、
前回話したように書くというような時間が、
少なくとも演者、この場合は書くという、
書く作家みたいな演者が異なる時間で、
早く書いたり、書き淀んだりする、
そういったことがあまり受け取る側にはわからないような、
そういうものが複製芸術として、複製的な表現として出回ってきたわけですよね。
そうなってくると、だんだん、
時間という制約があって、
それに対してどういうふうに身体をフィットさせていくかということよりは、
もうちょっと抽象的なロジックなり、
そういったものの中で、あるいはそういうものを操作できるというような前提の中で、
どううまく表現するかということになってくるわけです。
それがどんどん進んでいくと、
今、当然そういうものがいっぱいありますが、
例えばレコードみたいなのが出てきて、
たりとか、あるいは写真みたいなものが出てきて、
ベン・ヤミンという人が複製芸術の時代みたいな本を書いたりしましたが、
そういうのが当たり前になって、もう100年以上経つわけですね。
そうなってくると、だんだん演者と観客の時間というのがずれて、
久しい状態になってくるわけです。
なんでこんな話をしているのかというのが、
プログラムと複製芸術の関係
最初そもそも何の話をしていたのかがちょっと分からなくなってきたので、
忘れちゃったんですけど、
何の話をしていたんだっけ、
この話をしているのは、
一つには時間の制約というものがあって、
それに身体をアジャストしていくみたいなことに対して、
もうちょっと自分があまりそういうことに向き合ってきていなかったので、
そういうのに憧れがあるんですよねって話をしていましたね。
音楽を聴いて、こういうの自分もできればいいなと思いながらあまりしなくて、
どっちかというと自分自身は何かを書く、文章を書くとか、
あるいはプログラムを書くとかもそうですけど、
そういう何かを書くことと書く時間、
書く時間はそれは自分である程度コントロールはできないんですけど、
少なくとも何か制約があって、
その時間内に書くっていうとちょっと違うな、
期限はあるんでその時間内に書くってあるんですけど、
その内訳が一定ではないっていうことですけど、
そういうところに結構コミットしてきたわけです。
ただ音楽みたいなある種の時間的な、
一定の自分の身体の外にある時間の流れがあって、
それにアジャストしていくみたいな、
そういうような表現形態をあまりやってこなかったので、
何かそういうのをやるべきなんじゃないかなみたいなことを思いながら、
ずっとやらなかったんだけれども、
やっぱりそういうのっていいよな、みたいなことをやっぱり思ったりするわけですね。
それと同時にこの話をしているのは、
書くということをもうちょっと広く捉えたときに、
例えばプログラムを書いて、
それを何らかのウェブサービスとかアプリとか、
そういったものとして表現するっていうものが、
上演芸術というものがあって、複製芸術というものがあって、
それは別に発展してそうなったというわけではなく、
違う形式のものとして今あるよねっていうことなんですけど、
その上演芸術と複製芸術を比較したときに、
プログラムとか、あるいはプログラムによる表現点をまた、
ある種の複製芸術として見ていけるようなことができるといいなと思っているわけです。
それはどういうことかというと、
プログラムというものをプログラマーが書くわけですけど、
プログラムというのは、実際にプログラムの成果物を享受するときって、
別にプログラマーがプログラミングをしている様子を見て楽しむということではなくて、
そのプログラムのユーザーというのは、
例えばWebサービスだったらWebブラウザでアクセスして、
Webアプリケーションを動作させるわけですよね。
動作するのはサーバー上だったりするわけですけど、
例えばiPhoneのアプリだったらiPhone上にアプリをダウンロードして、
そこでアプリを実行して、
それが何かしらの有用な機能を果たすことによって、
アプリケーションとして実行されるわけです。
それっていうのも、
ある種の複製芸術のような形で実行される、
複製芸術のような形式を持つ、
何らかの表現形式であるというふうに思えるわけですね。
例えばレコードみたいなのがありますけど、
今うちにはレコードを再生する機械はないので、
複製芸術とテクノロジー
レコードというものが仮にたくさんうちにあったとしても、
なかなか聴くことはできないわけですけれども、
その複製芸術というのは、
ある種のテクノロジーによる上演というか再現というか、
そういったものが前提になっているので、
レコードを聴く機械がなければ、
レコードを聴くことはできないわけですよね。
それと同じように、プログラムというものも、
そういうことはあまりないですけど、
Webブラウザーというものがなければ、
あるいはiPhoneというものがなければ、
その機能を享受することはできないわけです。
それはどういうことかというと、
複製芸術における芸術的体験の享受というものは、
テクノロジーとか、あるいはそのテクノロジーを提供する、
あるいは可能ならしめる環境そのもの、
そのものというとちょっと全部という感じなので、
ある種の環境が提供する、可能ならしめる、
何らかの状態というものがあって初めて、
そういうものが可能になるわけです。
レコードの場合だと、
レコードを再生する機械というものがあって、
初めてレコードが聴けるわけですし、
プログラムの場合は、
そのプログラムを実行するような、
ブラウザーみたいなものであるとか、
あるいはその裏で動いているサーバーみたいなものがあって、
初めてその機能が果たされるわけです。
ちょっとエンジニアリング的な視点になってしまうんですが、
サーバーとか、あるいはブラウザーとかもそうですけど、
放っておくとどんどん古びていくわけですよね。
それはどういうことかというと、
例えばWindowsやMacでも使っていると、
iPhoneとかもそうですけど、
どんどんiPhone、iOS何とかとかいって、
新しいのが出てきて、
更新していかないと、
使えなくなっちゃうわけじゃないですか。
それは別に、
表現したい何かに、
固有の本質じゃないといえばじゃないし、
あるいは逆に、
それがないと実行できないわけだから、
ある種固有の本質といって、
いろんな機能があるわけですよね。
それがないと実行できないわけだから、
ある種固有の本質といって、
いいなかもしれないですけど、
複製芸術というのは、
基本的にはそういう、
何らかのそれを再現するための状況というのがあって、
それがないと、
その作品がいくら素晴らしくても、
我々がその楽しみを共有することはできない、
そういうものになっているわけです。
文章を書くというところ、
文章を書いて、
それが本になって、
それを読むというのは、
その本が崩れ去ったりしなければ、
本というものは読めるわけなんで、
ちょっとテクノロシーっぽくはないかもしれないですけど、
でも本質的にはそういうことなわけですよね。
それがレコードであるとか、
アプリであるとか、
そういったものになると、
もうちょっとテクノロジーというものが全面化してくるわけです。
それを再現するためのテクノロジー、
それを含む、
それを成り立たせる環境というものが、
重要になってくるということなわけですね。
そういうところに、
僕としては、
割と自分の表現というものを、
大きくポイントを置いてやってきたというところなんだろうと、
思ったりしているわけです。
だからこそ、
時間という制約が自分の外にあって、
そこに自分をフィットさせていくみたいなところに、
憧れるみたいなところもあるなというふうに、
今話してて思いました。
さらに考えを進めると、
複製技術というのは、
それを再現するためのテクノロジー、
あるいはそれを可能ならしめる環境というところに、
依存するんだという話をしたんですけど、
生成AIの登場
例えば、
生成AIみたいなものが最近よくありますが、
そういうものを考えていくと、
上演というものがあって、複製というものがあって、
さらに生成というある種の新しいモードというものを
考えることができるんじゃないかなと思うわけです。
どういうことかというと、
上演にしても複製にしても、
それを作る人というのは結構はっきりいて、
その人が何かしら、
基本的にはこれが自分の表現だということで作るわけですよね。
もちろんフィードバックを得て何かやり方を変えるとか、
微調整みたいなのをするわけですけど、
何かクリエイトする人がいて、
それを受け取る人がいて、
その両者の関係で芸術が楽しまれるということはあるわけですけど、
生成みたいなモードになってくると、
より生成をする側というか、
ある種の芸術のユーザーの側が主体的になっていくというか、
例えば極端な例でいうと、
何か生成アイみたいなものをユーザーが使って、
個別の文脈で何か芸術、
あるいは何かその人が楽しむべきコンテンツみたいなものを
作り出していくわけです。
そうすると、個人にとって心地よかったり楽しかったり、
そういったものがその人の中に現れていく。
そんな形で何らかのコンテンツなり、
芸術なり、表現なりというのができてくるんだと思うんですよね。
それ自体の良し悪しというのは別にここで言いたいわけではなくて、
形式的な話をしたいわけですけど、
そうなってくると複製芸術というものが、
それを再現するためのテクノロジーやそれを可能ならしめる環境というものの
影響が大きくなってくるんだって話をしたわけですけど、
より芸術的な形式における、
それをクリエイトする人と、
それを享受する側、
あるいは享受する側にある環境の関係というのが、
よりその環境のところが大きくなってきて、
その環境というよりはもっと個別のその人、
その受け取り手の個々のパーソナリティみたいなところに
もっともっと依存する形になってきて、
そこにはもうクリエイトする側の時間と
それを享受する側の時間の差異みたいなものというよりは、
むしろその享受する側の時間のみができてくるというか、
享受する側の時間のみがある、
そういった感じになってくるわけです。
そうするともはや、
僕自身が話していたのは、
何か時間的な制約が自分の外にあって、
そこにアジャストするみたいな話をしたんですけど、
もはやそういうアジャストするべき制約みたいなのが
なくなってくるわけですね。
それがいいことなのかどうかというのは
良し悪しは問いませんけど、個人的には
制約みたいなものがより輝いてくる
そんなこともあるわけです。
稽古と制約
また、その制約というものがもたらす
身体的な訓練みたいな、
もたらすというか制約が化する訓練みたいな、
稽古というものが必要になってくるわけですよね。
その身体を使うというのは、
身体を自分の外にある何かしらの規範、
少なくとも何かしらの体系みたいなのがあって、
そういったものにフィットさせていくということになるわけですけれども、
そういったことがより何か貴重なものに
つながるのが確かなんだろうなというふうに思っていて、
そういう稽古みたいな概念あるいは営みというものが
より自分の中では何かいいなというふうに
思ってきている作梱であります。
何かまとまらないけど長々としゃべってしまいました。
今日はこの辺で終わりにしたいと思います。さようなら。
24:46

Comments

Scroll