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#44 ポッドキャスト再開と「本当のこと」をめぐって
2026-06-01 30:30

#44 ポッドキャスト再開と「本当のこと」をめぐって

久しぶりにポッドキャストを再開した回。文章を書くより手軽に出せる表現手段として音声を選び、台本なしのインプロのように喋ることで、日記やXでは出てこない自分の考えを引き出したいと語ります。きっかけは、noteに書いた随筆「浮き暮らしていた頃」や、土門蘭『ほんとうのことを書く練習』。そこから「本当のこと(本当性)とは何か」をめぐり、自分を掘り下げれば本当があるという見方への違和感と、フリッパーズ・ギター的・ポストモダン的な、関係性の網の中で明滅する真正性のイメージ、それでも残る素朴な手応えのあいだで揺れ続けます。あわせて、ひとりで作るより誰かと喋る方が思考が出ること、OBS+MIDIでBGMを当てる旧来の収録から音声を渡すと自動でBGMを合わせる新ワークフローへ移したこと、最近よく酒を飲む話なども。結論は出さず、考え続けることそのものを置いていく回です。


【参照リンク】

- 随筆「浮き暮らしていた頃」(栗林健太郎 / note): https://note.com/kentarok/n/nb79d65c21e0e

- 土門蘭『ほんとうのことを書く練習』(ダイヤモンド社): https://www.diamond.co.jp/book/9784478123867.html


【栗林健太郎とは】

GMOペパボ株式会社取締役CTO、日本CTO協会理事。博士(情報科学、JAIST)。大学卒業後、市役所勤務を経て、2008年よりIT業界へ。2012年よりGMOペパボ株式会社。現在、取締役CTOとして技術経営、新規事業創出に取り組む。2025年3月、博士号取得。インターネット上では「あんちぽ」として知られる。


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サマリー

ポッドキャストを再開した栗林健太郎さんが、文章よりも手軽な音声でのアウトプットの意義を語ります。台本なしの自由な語りを通じて、日記やSNSでは引き出せない自身の考えを探求したいとのこと。エッセイ執筆や土門蘭氏の著書『ほんとうのことを書く練習』をきっかけに、「本当のこと(真正性)」とは何かを問い直し、自己の内面を探ることで見つかるという考えへの違和感や、関係性の中で明滅する真正性のイメージについて考察します。また、誰かと話すことの思考促進効果や、BGM自動挿入の新ワークフロー導入、最近の飲酒習慣についても触れ、明確な結論は出さず、思考し続けるプロセスそのものを共有する回となっています。

ポッドキャスト再開の動機と音声表現の魅力
栗林健太郎です。このポッドキャスト、しばらくお休みしておりましたが、再開したいと思っております。
ポッドキャストというもの自体をやる必要が必ずしもあるかというと、そういうわけではないんですけれども、
ポッドキャストは文章を書くのは結構大変なので、それに比べると、ただ喋ってポンと出せば終わるという意味では、非常に楽な表現手段であることは間違いないと思うわけです。
そういうわけで、このポッドキャストも再開をして、少しでもアウトプットを増やしていければなというふうに思っておるわけです。
また、そういう機会を増やすことによって、いろいろ考えていることはあると思うんですよ。
ただ、例えば僕の場合は日記を書いたりとか毎日しているんですけど、そこに書くのは結構日常の記録みたいなことが多いので、あんまり深く掘り下げるみたいなことはないわけですね。
なんですけど、こうやっておしゃべりをすることによって、これなんか本当に何の台本もなくただただ喋っているだけなので、ある種のインプロビゼーションみたいな感じで、自分が思っていなかった、いや思っていなかったってことではないですね。
思っていたんだけれども、普段のチャンネルだと出てこないような、そういう何かが出てくるといいなと期待しておるわけです。
なんかそういうふうにチャンネルをいろんなものを並行してやっていくことによって、結局僕がやっているので、あんまり全体としてはそんなに自分にとって意外なものになるかどうかってのはわかんないですけど、
普段自分が自分の考えを出しているのは、日記が一番多いですね。それとXで何か書いたりするわけですけど、Xの方はどっちかっていうとやっぱりパブリックな感じなんで、あんまり個人的な考えを書くみたいなことはほとんどありませんから、
そうなると日記になるんですけど、さっき言ったように日記はどっちかというと記録みたいな感じなんで、あんまりこの考えなかったなみたいなのはそんなに出てくるわけではないわけです。
エッセイ執筆と「本当のこと」への探求
で、こないだちょっといろいろあって、エッセイをノートに書いてみたんですよ。
エッセイを書くみたいなのは、昔からやっていることではあるんで、あんまりそんなに書いてみたんですよってほど新しいことではないんですけども、ちょっと気をつけたというか、過去にあたって考えたこと、ルールを課したみたいなことがありまして、
それはなんかエッセイっぽくしないみたいなそういうことなんですけど、エッセイっぽいエッセイみたいなのって結構書けば書けるわけですよね。
それっぽい感じっていうのは。なんですけど、そういうのを書くっていうよりは本当にパーソナルな自分が感じたことをとか、あるいはその時思い出したことをそのまま書くみたいなことをちょっとやってみようみたいなことを思って。
これ逆に言うと、書けば書けるんですよねみたいなのが逆に良くないなと思っていて、それをある種取り払うためにちょっとした練習みたいな感じでやってみたっていうことがありました。
それは浮きぐらしていた頃みたいな名前で書いたんですけど、それは本当に自分の子供の頃の記憶とかその時のことを今振り返るとこうだったなみたいな話を書いたんですけどね。
それで、自分的にはやっぱりちょっとそこそこ書けたところもあるんですけど、どうしても作っちゃう感じがあって、文章として精細を整えようみたいな感じにしちゃったんで、まだ満足いく感じじゃないんですけど。
ただ久しぶりにそういうのを書いてみて、結構普段あんまり別に反応をくださるわけでもない方々が良かったねみたいなことを言ってくださるんで、何かしら思っていただけるようなこともあるのかなとは思うんですけれども、それは非常に大変ありがたいなと思っております。
そういうことを書く練習を若干してみようかなみたいなことを思ってやってみたりしていたわけでした。
まあでも難しいですね。
エッセイみたいなのは、何ですかね、書こうと思えばそこそこちゃんと書けるんだと思うんですよね。
だけど別にそういうことを書きたいわけじゃないんで、難しいですね。
何て言うのかちょっとわかんないですけど、もちろんウェルメイドのエッセイっていうのが非常にいっぱいあって、本当に全然僕なんかは全く手の届かないような素晴らしいものっていっぱいあるわけですけど、
何かそういうことを書きたいっていうよりは、最近本当のことを書く練習っていう本があって、ドモン・ランさんっていう方が書いたんですけど、言ったらその延長線上みたいなことであるんですが、
でも本当のことって何ですかね、あんまり何か、いやその本は素晴らしいんですよ。非常に素晴らしい本でぜひ読んでほしいんですけど、自分的には本当のことっていうのはその本読んでもわかるけどちょっと違うかなって思いましたかね。
本当のことは本当のことなんですよ。その本は素晴らしいんですけど、本当のことみたいなのがそもそもあるのかみたいな話ですよ、簡単に言うと。
なので別に本当のことを書けないみたいなのは、もちろん現代的ないろいろあって、人の言葉を借りてしか表現できないとか、何かいろんな抑圧があって、
よく見られるみたいな、そういうことで取り繕っちゃうとか、そういうことはあるんだと思いますよ。
だけど、僕が思っているのは、もちろん僕にもそういうことはいっぱいあるんで、簡単には本当のことみたいなのは書けないんですけど、
そういうのを取り払った上で、なお本当のことってなんだろうなみたいなことを言い出すと、逆の意味で本当のことを書くというのと逆の意味で本当のことってなんだろうなみたいなことを言うのは、
それはそれで青臭いなみたいなことはあるわけですけど、やっぱりこれは世代的なものなのかもしれないですけど、自分的には本当のことが自分にあるかと言われると、どうなんだろうなという気はしますかね、そもそも論として。
本当のことを書く練習といっても、そもそも練習して書けるとか、そういう水準の話ではないんじゃないかなという気はしておるわけですが、非常にいい本で、その本に触発されたということもあって、できるだけ本当っぽい感じで書いてみる練習みたいなことはしてみた。
というのがそのエッセイなわけですね。
いや、結構書いてる気がする。書いてる。Xとかでちょこちょこ書くとかも含めると、割とそんなにあんまり読発されてないかなという気はするんですが、ただまあ、そのエッセイとかで、どっちかっていうと技巧的な問題なんですよね。
技巧的についなんか、いい感じにしちゃうんですよね。だから、いい感じにしちゃうっていうのはどういうことかというと、エッセイとしての体裁みたいな、そういうことなんですけど、それをやるとちょっと嘘くさいというか、文章としては形になるんでしょうけど、
別になんか文章として形になることをやりたいわけじゃないかなとか、あるいはその文章としての形にならなさが、むしろその文章としてのインパクトを結果として与えるみたいな、そういうことがもちろんあるわけで、
本当はそういうことができると、より本当さみたいなことが出るのかなと思ったりもしたりしつつ、まあでもそういうのをうまくいい感じにしようみたいなのが、僕にとって読発なのかなとは思いますけどね。
なんで、できるだけそういうのをなしでやろうと思ったんですけど、そのエッセイは結構しっかり希少点決みたいな、そういう感じでついつい書いちゃうんで、本当さというところでは個人的にはそこまで満足してないですが、
ただ、あんまりなんか僕と人間がそういうことを書くってことは、これまで、これまでというか少なくとも最近はそんなになかったと思うんで、ちょっと周りの自分の知っている人とかからあれはよかったよって言われることはあったりしたんで、まあよかったなと思ったりはしておるし、大変ありがたいなと思うわけです。
ポッドキャスト制作ワークフローの変更
ポッドキャストですよ。
ポッドキャストはなんすかね、なんかめんどくさい感じになると続かないんですよね。
なんで、ちょっと今直前に2時間くらいちょこちょこコードを書いたりしていて、これまではOBSで撮って、そのファイルからMP3の音声ファイル抜き出してアップするみたいな感じでやっていて、大事なこと言い忘れたんですけど、
OBSのプラグインみたいなのを作っていて、それでBGMとかを喋りながら合わせたんですよね。
ミディパッドみたいなのでポンと押して、それでBGM流したりとか。
それ結構割と悪くないワークフローで、本当に喋ってそのままファイルできたらポンとアップするみたいなワークフローができてたんですけど、やっぱなんかその押すタイミングとかを間違ったりとか、それがうまく撮れてなかったらやり直しがきかないんで、なんかめんどくさいなーみたいなことを思ってたわけです。
なので、今はちょっと方針を変えまして、音声は音声でこうやって撮ってます。
その音声をスクリプトに渡すと、あらかじめ作ってあったBGMにBGMを調整して、音声との長さに合わせていい感じにフェードインしたりフェードアウトしたりするみたいな感じで、ちょっとそれっぽくなるようなのを自動化するみたいなことをちょっと試してみています。
今、自分が喋ってるだけなんで、それがどういう風な仕上がりになるのかっていうのは聞いてないんでわからないんですけど、ちょっとなんか違うやり方を試すことによって、もうちょっと簡単に、負担なく続けられるようなやり方にしてみたいなと思って今やっております。
はい。
表現手段としてのポッドキャストと自己探求
まあ、ポッドキャストというか音声でいろいろやるっていうのはとてもいいんじゃないかなと思ってるんですけど、
なんですかね、わからないですね。そもそもポッドキャストでも日記でもなんでもいいんですが、別にそういうことをやらなければいけない必然性みたいなのはないですからね。
日記は結構自然性あるんですよ。日記は別に自然性なんですかね、まあもうやらないわけにはいかないみたいな、もう自然な感じになってるんで、自然性というか習慣化されてもう何十年たちますからね、全然いいんですけど、
ポッドキャストとかそれ以外の表現というのはそんなに必然性ないし、別に全然やらなくてもいいというか、まあやらない方が多分いいと思うんですけど、なんというか社会的には別にそういうことをやる必要ないですからね。
なんで全然、はい、まあっていう感じなわけですよ。なんですかね、いや別にやらんでいいことをやらなきゃいいんですが、かといって別に何ですかね、その自己顕著欲みたいなのがあってやってるっていうわけでもないんですよね。
これはちょっと難しいんですけど、だって別にちゃんとした番組みたいな感じで情報をお届けしますとか、あるいは有名な人がおしゃべりしますとか、そういうわけでもないわけですから、全然やる必要はないんですけど、
それで言うと、ただこれは完全に僕の話ですが、こうやって無理矢理でもアウトプットをすることによって自分がそういうことも考えてたんだなみたいなことを引き出せればいいなと思ってこうやって喋っているわけではあるので、
なんというか、自分の考えをできるだけ多く幅広く外に、まあ外に出す必要はないのかもしれないですけど、まあ外に出すということを借りてやることで自分をストレッチするみたいな、そういうことがあるんだろうなとは思っておるわけです。
対話による思考の深化と表現フォーマットの模索
はい。まあそういうわけで、ポトキャストを再開していければなというふうに思っているわけですね。ただ、どうなんすかね、いやなんか結構、僕はなんかこう一人で何でもずっとやってるわけですけど、やっぱおしゃべりするみたいな方が多分いいんですよね。
おしゃべりするっていうのはその人とですね、誰か別、何人でもいいんですけど、人とおしゃべりする方が思ってもないというか自分が知らなかった、ああそういうことを考えてたんだなみたいなのはやっぱ人がなんか意外なことを言うことによってそれに対して自分が応答することで、ああこんなことを思ってたんだなみたいなのって出てくるんで、やっぱ自分だけでやってると結構限界あるなとは思っては、
おります。なので、えーなんすかね、多分、誰か、なんかこう話が合う、話が合わなくてもいいんですけど、まあなんかこう続けられるような人とおしゃべりをするみたいなそういう感じにした方が本当はいいのかなとは思っております。まあその辺はなんかね、そういう人がいるといいですね。
はい。
いやもうなんかもう本当にぐだぐだしゃべってますが、この数ヶ月は結構そういうことばっかり考えたかもしれないですね。
なんかその、いやポッドキャストがどうとかっていうよりは、なんか表現をすることの自分にとって一番ぴったりくるフォーマットみたいなのをあれこれ検討していたっていうのがこの数ヶ月なのかもしれないなと思っております。
エッセイを書いたりしてたのも、まあ一つはそういう目的もあるし、まあでもわかったのは、自分はやっぱりしゃべったりするより間違いなく文章を書く方が向いてるなとは思いましたね。
まあそっちの方が多分言いたいことも言えるし、何ですかね、多分こうやっておしゃべりするよりはずっと達者にものを言えるんで、絶対そっちの方がいいと思うんですけど、
まあそれはそれとして、まあ毎回文章を書くわけにもいかないし、そのエッセイだって一本書いただけで終わっちゃってるんで、そんなに書けないんですよ。大変なんですよねやっぱり文章を書くのって。
何であんなに大変なのかちょっとわからないですけど、やっぱり文章を書くことに対するある種の自分の自負みたいなのがあって、自負っていうのはこれぐらい自分は書けるんだみたいなのがあって、
それでなんかそれぐらいのなんか読んでいい感じになるぐらいのネタとか、あるいはそういう展開みたいなのが思い浮かばないとちょっと活気にならないなみたいな、そういうちょっとおごりみたいなのがあるんでしょうね。
逆におしゃべりだと別に全くそういうのないんで、こうやって普通にダラダラ喋ってるのも全く問題ないという感じなわけですね。
最近の飲酒習慣と「本当性」をめぐる考察
今日は最近結構またお酒を飲むようになって、これは別に良くも悪くもあるんですけど、お酒はあんまり飲まない方がいいかなとは思ってるんですが、美味しいんで飲みますよ。
僕は結構お酒に対してはそんなにお酒だったらなんでもいいっていうわけでは全くなくて、美味しいお酒以外は本当に飲みたくないっていうぐらいの感じなんで、飲むときは自分が好きなお酒しか飲まないみたいな感じで、
一番お酒の味を楽しむという意味では、何か美味しいお酒を自分で買ってそれをお家で飲むっていうのが相対的に良いことになることが多い。
それはもちろん外で美味しいお酒を飲めることはあるわけですけど、それは高かったりとか、なかなかそういうことにならない場合が多かったりするんで、あんまりそんなに美味しいなみたいな感じになることはないわけですけど、
普通にお店で、自分の知ってるいくつかのお店に行けば間違いなく非常に美味しいお酒っていうのは買うことができるんで、非常に意味も大変楽しんでおるわけです。
そうやってお酒を飲んだりも最近はよくしておりまして、ただ一方でそんなには飲めないなというか、飲むこと自体はずっとできるんですけど、いろいろ考えると時間的な問題でずっと飲んでるわけにはいかないですからね。
それでそんなに、いや結構飲んではいますが、自分がそうしたいなって思うほどは飲めないわけであります。
このフォトキャストを再開しようというのも、今もう赤太いお酒を4号瓶を夕方から飲んで、その後それで足りなくてまた別のお酒を出してきて、それを続けて飲んでおるんで、そういうこともあってやってるわけですけど、そうですね。
でも本当の事性ってのはどうなんですかね。
いやわかりますよ。僕もそういうのは非常に大事だなと思ってるし、
例えばAI時代以降、そういう自分自身の本当性みたいなのがより大事になってくるよねみたいなこともあるんだと思っています。
一方で、すごくわかりやすく言うと、フリッパーズ・ギター的な話というか、あるいはそれを準備した80年代ポストモダン的な話と言いますか、
本当のことというものがないとは言わないですけど、ある種のネットワークの中にたまさか浮かんでくることがパチパチとたまに出てくるけど、それは点滅してすぐに消えていって、またあるときにパチパチと出てきて、
本当性がこうやって事故とか他者のいろんな関係性の中でたまに見えたり見えなかったりするんだみたいな、そういうことが本当のことなんだみたいなのが、もう30年以上そういう感じでやってきておりますので、
それを今、自分を掘り下げると何か本当なことがあるんだみたいな話になると、ちょっとそれは若干反動的というか、そういうものなんですかねみたいな気持ちにはなるわけです。
ただでも、どうなんですかね、こうやってゴダゴダ言っていること自体が自分にとってのきっと本当性があるんでしょうね。
本当性ってなんですかねみたいなことをゴダゴダ言っているっていうのが自分にとっての本当性ということなんだろうなという気持ちがするわけですが、別にそれでそうだなという感じもないんですよね。
本当性ってあると思うんですよ本当は。
っていうのはプリミティブな形で、例えばなんか叩かれたら痛いとか、そういうのって本当じゃないですか。
で、叩かれたら痛いってのはもちろん僕も叩かれたら痛いとか嫌なことだったら嫌だなとか、そういうことがいっぱいあるわけですよね。
だけど本当っていうときに、たぶんそのレベルの話をしているんだとは思わないわけですよ。
別に叩かれたら痛いとか、大体の人がそうだと思うんで、だったら別に本当だどうとか言う人ないじゃないですか。
だからそのレベルではないけど、本当のこととか別にないんじゃないですかみたいな、そういう開き直りみたいなところでもないみたいな、
そのどこかの間のところに何らかの本当性の落とし所みたいなのがあるみたいな、そういう話だとは思うんですよね。
なんですけど、ちょっと落とし所がプリミティブすぎるというか、
いやいやわかりますよ。僕ももちろんあるんですけど、そこが本当なのかなみたいな。
それはちょっとプリミティブすぎるっていうわけでもないのかもしれないですね。
ちょっとわかんないですけど、もちろん本当のことってあるわけですが、
本当のことっていうと、どっちかっていうとすごいプリミティブな感じに捉えちゃうんで、
それは当然ありますよね。でも別にそれは叩かれたり痛いとかって普通じゃないですかみたいな感じになっちゃうんですよね。
という意味で、その辺の落とし所というかバランスみたいなのがまだ見えてないので、
それもあって、こうやっていろいろ喋ることによって自分がどういうことを思っているのかなというのをあえて引き出してみようと思って、
ゴジャゴジャゴジャゴジャ言っておったりするわけです。
結論と今後の展望
はい、そういうわけで、じゃあ一旦今日は終わります。さよなら。
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