江口愉空
敬和キャンパスレポ。この番組は、柴田市富塚にある敬和学園大学の大学生が、大学に関わるイベントや人、柴田のことなどをテーマにお届けします。
敬和キャンパスレポは、実践するリベラルアーツ、敬和学園大学の提供でお送りします。
皆さん、こんばんは。この番組は、敬和学園大学から大学のことや柴田、新潟のことを伝える30分番組です。
辺土名Kara
今日の進行は、国際文化学科3年の江口悠久と、英語文化コミュニケーション学科2年の片戸中良です。どうぞよろしくお願いします。
今日は、ハワイと柴田との関わりということなのですが、江口さんは、ハワイについての印象とか、ハワイに行かれた経験はありますか?
江口愉空
いや、ハワイに行ったことはさすがにないですね。でもイメージって言ったら、やっぱりリゾート地、結婚式とかでハワイに行って結婚式あげるぞ、みたいなのがよくイメージとしてありますけどね。
辺土名Kara
そうですね、確かに。私も行ったことないので行ってみたいですね。
というわけで、今日はあるきっかけで、ハワイと柴田、そしてご自身との関わりについて知り、柴田に移住されることになった非常勤講師の伊藤千明先生においでいただきました。どうぞよろしくお願いします。
伊藤知明
こちらこそよろしくお願いします。
辺土名Kara
また、市野平先生にも補佐として入っていただきます。
一戸信哉
はい、たまに入ります。
辺土名Kara
伊藤先生は、今日収録している火曜日に英文法の授業を担当されているということで、朝からおいでいただきました。
一戸信哉
ありがとうございます。
辺土名Kara
授業前の時間おいでいただきありがとうございます。
伊藤知明
ありがとうございます。
この後お二人も授業でしょうから、頑張りましょう。
江口愉空
はい、頑張りましょう。
辺土名Kara
では、まず伊藤先生のプロフィールをご紹介します。
伊藤千明先生は千葉県のご出身で早稲田大学を卒業後、ハワイ大学広校で言語学を学び、2003年に同大学マノア大学院の修士課程を修了されています。
その後、柴田出身の祖先のことを知り、それがきっかけで柴田の人々との交流が始まり、2012年から柴田市に移住されています。
千葉学園大学ではその後非常勤講師として私たちを指導してくださっていて、現在は英文法を担当されています。
ご自身の経験を書いた小説「ハワイの家族」で、2015年に千葉学園大学が主催していた第7回赤北ロマン賞小説部門の審査員特別賞を受賞されています。
伊藤知明
ありがとうございます。
こちらの千葉学園大学の方は、2020年から非常勤で教えさせていただいているのですが、その前の2015年にこの赤北ロマン賞を受賞させていただき、
そのときとても幸運だったのは、京技塾大学の元編集長の加藤宗矢さんとか、俳優の石坂浩二さんにこのとき出会えてコメントをいただけたというのは、本当にこのときラッキーだったなと思っていますし、今でも覚えています。
一戸信哉
当時審査委員長だった加藤先生は、見た文学という文学雑誌の編集長で、知らないご存知かわからないですけど、非常に権威あるですね。文学史の編集長の先生で、その先生は読まれてコメントしてくださった。
特別賞に選ばれた。
伊藤知明
特別賞。問題作でしたけどね。
一戸信哉
これだからあれですよね。ノンフィクションですからね。
伊藤知明
小説というよりは、伊藤先生のご経験がベースになっている。
伊藤先生ご自身がハワイに長く滞在されていたと理解しました。
江口愉空
ハワイで言語学を学ぼうとされていたきっかけ。
その後ハワイでの生活について教えていただけますか。
伊藤知明
言語学。とりあえず人と言葉ということに関して、とても関心が当時あったんだと思います。
人と言葉って、地球上のどこにいてもいろんな言葉を作ってコミュニケーションしていて、それが面白いなと思っていて。
そこに関心があって、言語学を勉強してみようかなと思ったんですよね。
一戸信哉
日本にいたときは言語学ではなかった?
伊藤知明
全然言語学とかはやっていなかったですね。むしろ正直なところ、音楽のことが頭の中にある。
一戸信哉
ハワイに行ってウクレレもやったんですか。
伊藤知明
実はウクレレもやりましたけど、スラックキーギターっていう、ハワイで特別な奏法があるんですけど、
そのギターには日本にいるときから実は知ってて、それも学べるかなって腹黒いところもあって、ハワイに留学したんですけどね。
一戸信哉
やりたいことがいっぱいあったので、8年?9年?
伊藤知明
9年いたんです。
一戸信哉
結構長いんです。
辺土名Kara
9年は。
伊藤知明
おかげさまで。
ただ、大学の外っていうのは、確かにハワイなんですけど、大学の中っていうのはやっぱりアメリカのもので、行って遊べるかな?ぐらいに思ってたら、やっぱりとてつもなく勉強させられて。
江口愉空
課題とかすごく多そうな。
伊藤知明
週末はもうほんとてつやてつやの連続で、もう眠れないねっていう日々が結構あるんで。
いや、もう凝りました。
一戸信哉
なんか気候が良くて素晴らしいけど、大学の中にいるとすごい必死で勉強してるみたいな。
伊藤知明
そうですね。
特に大学院でホノルヌのマノア湖の方に行った時には、もう山の方にマノアっていうのはあるもので、ダイヤモンドヘッドとかワイキキとか見えるわけですよ。窓の向こうに小さく。
それを見て、うーんって思いつつ。ダイヤモンドヘッド遠いな。
辺土名Kara
遠い。
江口愉空
って言いながらもずっと勉強して。
伊藤知明
そんな感じでしたね。
辺土名Kara
さて、そのハワイで伊藤先生はヒンおじいさんである高橋二蔵さんという人物のことを知り、それからの経緯をハワイの家族という作品に書かれています。
概要をご紹介します。
1899年、伊藤先生のヒンおじいさんである高橋二蔵さんが柴田からハワイへ契約労働者として渡ります。
目の病気で渡航を断念した妻とは離れ離れになり、二度と再会することはありませんでした。
伊藤さんはハワイ留学中、偶然にもカウアイ島に住むヒンおじいさんのハワイの家族の存在を知り、100年の時を超えて親戚たちと対面を果たします。
つながった写真、柴田の吉原写真館で撮影され、ハワイの家族が大切に保管していた一枚の家族写真が離れ離れになった二つの家族を再び結びつける鍵となりました。
以上が概要ですが、まずハワイに留学されていた時には、高橋二蔵さんのことをご存知なく、ハワイで勉強を始めてから知るようになったと書かれていました。どのように知ることになったのでしょうか。
伊藤知明
留学前は高橋二蔵という名前は一切聞いたことがなくて、留学してから母がハワイに住みに来た時に、うちの祖先には高橋二蔵というハワイに移民したものがいるんだよという話をその時初めて聞いたんですよね。
その時母は、僕は伊藤ですけど、高橋家の親戚の叔父から高橋二蔵の話を聞いていたということで、その時に僕は高橋二蔵という名前を初めて聞いて、もちろんハワイにいたもので、それも大学にいたもんですから資料いっぱいあるから、高橋二蔵のいろいろリサーチをして調べたんですけど、
なかなか見つけることはできなくて、正直勉強もいろいろ忙しかったので、そのままになってたんですけど、その後、僕が大学院を卒業した後、友人がカウワイ島でリサーチをしていて、それはカウワイ島で話されている英語のリサーチをしていて、
その時にたまたま高橋二蔵の子孫だっていう人と出会って、それで驚いて日本にいる僕に電話をかけてきて、高橋二蔵の子孫だって人がいるけどどうするっていう、カウワイ島に来るって話になって会いに行ったんです。
一戸信哉
友達の方はずっと探してくれてたんですかね?なんか俺に触れてこういう人を知ってるみたいなことじゃない?
伊藤知明
そうじゃなくて、そこがある意味ラッキーだったんですよ。たまたま僕の先祖の話をして、高橋二蔵っていうのが来たんだけど見つからないままなんだって話まではしてたんです。
だけども、たまたまカウワイでリサーチしててその名前が出てきたけどどうする?
一戸信哉
それで行くことになると?
そうなんです。
一戸信哉
その時点では写真のことはまだ見てない?
伊藤知明
そうですね。それでカウワイ島に行くことになって、向こうでハワイの家族の人たちと会うわけですけど、実際もう本当にハワイアンの人たちなので
はて、親戚、血が繋がってると言われてもなーっていう、もう自分一人ぽつん日本人、ピュア日本人、でも周りなんかハワイアンみたいなの多くてね
そういう肌の色も焼けてるような、日焼けしてるようなそういう人たちに囲まれて、はてさてと思ったんですけど
だけども、そんな話をしてる間にある人が、おそらくその高橋二蔵の写真だと思うよって見せてくれたんですよ。ある写真を。
そしたらあれって思って、これは赤ちゃんは僕のおじいさんだし、もう一人子供が写ってたんですけど、その子供は僕のおじいさんの兄にあたる方だし
なんでそれがわかったかっていうと、実は日本に行く前に高橋のお家に、僕のおじいさんやそのおじいさんの兄にあたる方の子供の頃の写真を見せてもらってたんですよ。
だからその面影が残ってたから、僕にはこの二人、もううちのおじいさんとおじいさんの兄じゃないの?と思って。
どうしてこんなハワイで会うんだろうと思って。
てことはこのおじいさんを抱いてる女性って誰ってことになるわけですよね。
そしたらもうひいおばあさんの高橋理恵さんってことになるじゃないですか。
当たり前ですけど、僕はそれまでひいおばあさんの顔は一度も見たことがないから、なんでハワイで理恵さんに会うのかなっていうのはすごい驚きました。
もうひとつちょっと余談ですけど、余談でもないかな。
ハワイに高橋二蔵のお墓があって、その顔が一本に。
そこに写真が埋め込まれてて、そこにも高橋二蔵の当たり前ですけど顔が写ってる。
要は何が言ったらいいかって、ハワイに行って自分の先祖に初めて出くわしたわけです。
初めて顔を見て、これは一体どういうことなんだろうっていう。
すごい驚きました、そのことが。
江口愉空
普通ないですもんね。
江口愉空
そしてハワイで偶然の発見した後で、柴田で吉原写真館を訪ねられています。
吉原写真館の館主は、清和学園大学で視覚経営通論を担当されている吉原先生ですよね。
柴田を訪れた際にはどのような発見があったのでしょうか。
伊藤知明
ハワイの家族が見せてくれた写真という、そこに実は漢字が印刷されてて、
新潟県柴田、吉原瀬、さらにアルファベットでC・吉原って書いてある。
印刷されてたんです。
その写真のプリントを持って柴田に来たわけですけど、
だからといって僕は単にそこに写真に柴田と印刷されて柴田に来ただけであって、
まさか吉原で撮影した場所があるなんて全然思ってないわけです。
何でかっていうと、100年以上前の話ですから、それが撮られたって。
僕のおじいさんが赤ん坊の頃なんで、そうかと思って。
ただ正直なところ、その吉原写真館を柴田に来て、
最初に発見したのは僕のおじいさんで、
おじいさんが一緒にリサーチに来たんですけど、
伊藤知明
僕は図書館でいろいろ調べ物をしてたら、そこにおじいさんが来て、
吉原写真館あったよって言う。
いやいやいや、おじいさん、100年前の話ですから、
伊藤知明
あるかもしれないけど、たまたま名前が吉原だけであって、
それがこの写真を撮影した写真館とは限りませんよって僕は言ったんですけど、
おじいさんが、いやいやいや、いいから黙ってついてこいみたいな。
伊藤知明
そうなんですか。分かりました。そこまでおっしゃるなら分かりました。
ついて行って、そしたら吉原先生が出てきて、
いやいや、こういう写真があるんですけどってお見せしたら、
そうですねと言って、
これおそらくうちで撮影したものだとは思うんですがと言って、
たまたまその時運が良かったのは、
吉原さんが写真館の蔵でたくさんのガラス看板を発見されてたんですよ。
ガラス看板っていうのは後のフィルムみたいなもので、
当時はガラス看板にみんな印刷したわけなんですよ。
それをみんなデータ化してて、ガラス看板に写ってる人たち。
いろんなものをそれで見せてくれたんですね、その時に。
本当にいろいろ見てるうちにあれ?と思うものは一枚あって、
やっぱり僕がハワイで見せてもらった写真のように、
伊藤知明
男の人が着物姿の男の人が立ってて、
横に小さな男の子が椅子に座っているっていうような写真だったんだけど、
まず一つ気がついたのは、後ろ背景のスクリーンの模様が全く同じだと。
洋館の西洋っぽい部屋が描かれたものだし、
さらに椅子の装飾の感じ、モールとかの使い方とかも全く同じだったし、
あれ?と思ってその写真の話を聞いたら、
これはうちの写真館3代目の吉原長平のって言うんですよ?っていう立っている男の人がね。
長平さんですか?って、ちょっと待ってくださいねって。
てことは、もしかしてハワイの家族が持ってた写真に書いてあった、印刷された、
C、吉原のCって長平さんってことなんですかね?って言ったら、
そうだと思いますよ?って言うから、そうですか。
さらに長平さんのことをちょっと聞いてみたら、
実は僕のハワイに行った火おじさんの高新層と長平さんってのは同じ年に生まれ、
てことは2人は同じ時代を柴田で生きてて。
江口愉空
まさかのですね。
伊藤知明
片方は柴田からハワイに移民に行って、長平さんの方はその家族の写真を撮る。
辺土名Kara
すごいですね。
辺土名Kara
では前半はここまで。後半は伊藤先生の火おじいさんにあたり、
二蔵さんの歩みについて伺っていきます。
今日の敬和キャンパスレポは、
敬和学園大学で英文法を担当されている伊藤千明先生においでいただいていて、
伊藤先生の留学先であり、祖先との深い関わりのあるハワイについてのお話を伺っています。
後半もどうぞよろしくお願いします。
伊藤知明
よろしくお願いします。
辺土名Kara
さて冒頭ご紹介した通り、伊藤先生は千和県のご出身で、後に柴田に移住されていますが、
火おじいさんの高橋二蔵さんは柴田のご出身で、1899年にハワイに移民されています。
辺土名Kara
大学では一之平ゼミの先輩が沖縄からの移民について映像にしたことがあると聞いていますが、
柴田からの移民というものは多かったのでしょうか。
伊藤知明
そうですね。新潟県からハワイに行かれた方というのも、結構新潟県のレベルでいると言って、
もちろんおそらく知っているかもしれないですが、ハワイに移民すると言ったら、
広島、山口、それから九州の方で福岡、熊本、ここら辺が多いのですが、
それについて実は新潟県が多いと。
要は東日本で一番多いのは新潟県だと言ったので、
1980年の時には、ハワイに住んでいる新潟県人の人たちの90%以上は実は赤北出身の人たちだった。
伊藤知明
ここはとても僕にとっては興味深いなと思った。
そうですね。
一戸信哉
何があったのかわからないですけどね。
伊藤知明
まだそれを断言するだけのものはないですけど。
一戸信哉
多いですね。この柴田周辺の地域は。
みんなだからハワイに移民するって言って、今の時代の人は想像つかないですよ。
リゾートに移住しそうみたいな。そういうことではない。
伊藤知明
過酷な肉体労働を耐えながら生活規模を築いていったってことですね。
プランテーションのために出稼ぎっていうことですね。
砂糖木畑ですよね。
江口愉空
そして様々な経緯で二蔵さんは柴田に戻ることはなく、
伊藤先生の姫おばあさんにあたる奥さんの理恵さんは一人で二人の息子を育て、
後に次男で伊藤先生のおじいさんにあたる正蔵さんと共に東京で晩年を過ごされたとありました。
この辺りのことは伊藤先生はどなたからお聞きになったんでしょうか。
実際のところは、この話を僕が聞いたというのは、
伊藤知明
とにかくおじいさんという人は母には高橋二蔵や理恵さんのことを話を一切していなくて、
だから母からはなかなか聞けなかったんですけど、
江口愉空
高橋のおじから逆に聞いたというのが一つありました。
複雑な気持ちがあったかもしれないですね。
なかなか軽々しか言えないかもしれないですね。
一戸信哉
さっきの写真の話は、理恵さんが写真を撮ってハワイに送るというのは、
ちょっとさらっと説明しましたけど、すごいことですよね。
どう考えてもガラスカンパンで写真を撮るなんていうのは、すごいお金がかかる話ですよね。
だからそうでもして家族写真を撮って、二蔵さんに自分たちの家族の姿を見せたかったというふうには読み取れますよね。
辺土名Kara
二蔵さんは日本に戻らなかったため、その後おじいさんの正蔵さんは、
父は自分たちを捨てたとして伊藤家の養子に入るというような説明になっていました。
これは伊藤先生がおじいさんから直接聞いたお話なのでしょうか。
伊藤知明
この話も母から聞いたものではなく、おばから聞いたんですけど、
そのおばっていうのも母の弟のお嫁さんなので、
正直なところどうやらおじいさんは自分の子供たちには高橋家の話をしていない。
よそから入ってきたお嫁さんにだけ話しているっていう。
それも晩年になって話しているっていうことですね。
一戸信哉
いろんな思いがありそうですね。
伊藤家の人にはだからあまり話さなかった。
自分の子供には直接の子供に話していない。
伊藤知明
なぜかっていうことですよね。
一戸信哉
そうですね。
辺土名Kara
やっぱりいろんな思いがあったんじゃないでしょうかね。
江口愉空
なかなか言えたもんじゃないですかね。
一戸信哉
柴田との関係はその後も続いては行っていたんですか?
この件で伊藤先生柴田に戻ってきて、
吉原写真館を訪ねてということがありましたけど、
一戸信哉
その間、伊藤家と高橋家もありますよね。
出ていったこの高橋家と柴田の高橋家の付き合いは続いていたんですか?
伊藤知明
それはもう続いていたと思います。
高橋家同士は。
一戸信哉
伊藤家はそういう意味では疎遠人になって、
伊藤知明
そうですね。
うちのおじいさんが高橋家から伊藤家に吉に入ったもんで、
そこでちょっと遠慮なくなっちゃったかなっていうところはありましたけど。
それがこの写真をきっかけに伊藤を手繰り寄せるように訪ねていくことになるという話なんですね。
伊藤知明
しかもハワイの家族も一緒にっていう展開になっていくと。
江口愉空
さて、その後、ハワイの家族との感動の再会があり、
ご親戚とともに写真が撮影された吉原写真館や伊藤さんのお墓を訪ねるなどをして、
ルーツの場所を柴田に住むことになりました。
そしてこの話をノンフィクションとして執筆されて10年が経ちました。
江口愉空
ご自身のハワイ移民の研究や柴田での活動について
私たち学生にお話しする機会もあると思います。
若い世代に地域の歴史や自分のルーツを知ることの大切さなどで伝えたいことはありますか。
伊藤知明
そうですね、僕の場合、まず吉原さんが2012年町おこしのために、
2011年だったかな、写真の町柴田っていうプロジェクトを立ち上げて、
写真という縁もあったので、それをお手伝いするということで、
2012年に柴田に移住してきて、その写真の町柴田というプロジェクトで
いろんなお店を回るんですよ、商店街の。
写真にまつわるいろんなお話を伺って、
そういった活動を通して柴田の町の人とどんどん仲良くなっていって、
ある意味、僕はハワイでヒロという町で感じたのと同じように、
町の人とどんどんつながっていくという感じがすごくあって、
伊藤知明
どんどん柴田いい町だなと思い出して。
だから、そうやって自分のルーツというのを調べていって、
そこから逆に人とのつながりというのは生まれてきたりする。
ここでは今、二造の話の中心ですけど、
やっぱり柴田のあるお菓子屋さんなんかは、
ハワイに移民に出られた方がいて、
その方はやっぱり二造と同じなんですけど、
向こうでハウスキーパーまで家事をする人なんですけど、
要はサトウキビ畑で働かなくて済むっていう。
ちょっとサトウキビ畑で働くよりもランクとしては上だし、
お金もいっぱいもらえるっていう、
そういうそこまでの仕事について、
彼は、その方はあちらでちゃんと働いて成功して、
日本に帰ってきて、お店を大きくして立派なお店を立てて、
伊藤知明
そのお店って今でもやってるんですよ。
辺土名Kara
そうなんですね。
柴田って結構歴史あるお店が多いんですね。
伊藤知明
ハワイ屋さんなんていう野望を持ってる、
当時はまだ聖花店って、
ちょっとした果物とか青物とか売ってるようなお店もあったりして、
あったんですけど、
おそらく興味を持って探してみれば、
まだまだ他にもハワイ屋っていう野望を持ってるお店っていうのは、
柴田以外でも見つかると思いますけれど。
ハワイ屋さんっていうのは、自分で名乗る野望なんですかね。
伊藤知明
それどうなんですか。
一戸信哉
周りの人が言うんですかね。
伊藤知明
そこは僕もわからないですけど、
ただ周りの人が確かに、
あの方はハワイだから、ハワイだからって言った可能性はありますよね。
かもしれないですね。
一戸信哉
なるほど。それを調べてみるのも面白いですね。
伊藤知明
そういって、やっぱりルーツってものを調べていくと、
特に祖先とか調べていくと、
やっぱり自分の芯ができるっていうか、
要はその人と血がつながってるっていうことが、
すごく感じられるようになるっていうか。
特に僕が10代、20代の頃って、
自分っていうのはわからないし、
自分って何ができるんだろう。
自分って何者?とか思ってたけれど、
そこに先祖からのものを辿ってみると、
自分がすべきものっていうのが見えてきたりするっていう。
それで、もしかしたら使命みたいなものを、
自分はこうすべきだっていう使命みたいなものを感じるかもしれないし。
ちょっとギャンブル的かもしれないですけど、
僕はそれに賭けてみて、柴田に実は維持してみたんです。
で、まだその延長上にいるっていう柴田に来て、
そういうふうに感じてます。