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2024-02-06 22:09

「スピリチュアルを信じる」ということ【スピリチュアル証明の可能性】

#スピリチュアル #哲学 #科学 #証明 #論理的思考
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こんにちは、カズです。
今日のタイトルですけど、「スピリチュアルを信じるということ、またはスピリチュアル証明の可能性」という、
一応こういうタイトルであれこれお話ししていきたいかなと思います。
どういう話かっていうとね、
やっぱり音声配信やってると、どんな音声の内容にしようかとか、あれこれ考えるんですけど、いつもあれこれ考えながら、
こういうことをよく思うんですよね。
スピリチュアルを信じるとはどういうことか、またはスピリチュアルを信じる根拠みたいな、そういう話ですね。
こういう話題ってスピリチュアルを学んでいる人なら誰でも大なり小なり思うことだと思うんですよね。
特に自分は疑い深い性格だったんで、この辺の部分についてはかなり考えてきた方じゃないかなと思ってます。
スピリチュアルで言われていることだったり、そういう真実だったりが本当なのかっていう、そこを検証、証明する。
どの程度検証証明することができるのかとか、そういったような話ですね。
かなり自分は疑い深い性格だったんで、相当時間と労力とかけて考えてきた方じゃないかなと思ってます。
その上で今改めて考えて思う、現時点での僕の結論はですね、やっぱりスピリチュアルな真実、スピリチュアルで言われているそういうことを科学的に証明しました。
証明するっていう、そういうことはやっぱりできないよなって思ってます。
いろいろ今すごいYouTubeとかでもクオリティが高くて、しかも科学的な考え方、思考法でスピリチュアルを説明するみたいな動画って結構人気で、面白くて僕も見たりするんですけど、
そういう中で脳科学のリベット実験とか、例えば量子力学の二重スイット実験とか、いろいろありますよね。
スピリチュアルなことを説明するときに、こういう実験の結果があって、だからこれは真実ですっていうような言い方ですね。
説明っていうことを考えたときにやっぱり結論っていうか、こうですっていう主張があって、その主張をこうですって言った後になぜならばこうこうだからっていう根拠が続かなきゃいけないんですよね。
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それがセットで説明なんですけど、その根拠となる部分にさっき言ったリベット実験とか二重スイット実験とか、量子論とかそういう話が話題に挙げられると思うんですけど、そういうのは確かにあるんですけど、
僕が今思うのはですね、結局どんな実験データとかを組み合わせても、事例を検証してもですね、だからスピリチュアルはこうこうこういう理由で、真実です、証明完了っていうね、完璧に証明されましたっていうことには絶対ならないだろうと、少なくとも現時点ではですね。
と思いました。僕はそういう結論になりましたね。
でも僕も最初からこう思ったわけじゃなくて、いろいろ自分で根拠とか、そういう科学的なスピリチュアルの説明方法とかを読み漁っていく上でですね、やっぱ最初はこれを目指してたんですよね。
完璧な証拠を積み上げて、だから有無を言わさず、はいこれ、だからこれで真実ですって相手に見せるっていう試みですね。最初はやっぱりこれを目指してたんですけど、でもやってるうちにちょっと違うなって思い始めたんですよね。
スピリチュアルって根拠がね、やっぱり最終的にはないものだと思うんですよ。ただあるとしたら世界中でですね、やっぱり科学では解明できない、理解できないような不思議な出来事が実際に起きているっていう、そういう事実はありますよね。
ヒーリングで人が癒されたとか、あとテレパシーの実験とかもありますよね。
あと、そういう形式ばった実験という形じゃなくても、日常生活で虫の知らせって呼ばれてるものがあったり、そういう不思議な体験をした実際の体験というのもそこを賢で聞かれることですよね。
実際に世界ではそういう不思議なことが科学ではわからないことがあるんだっていう事実ですね。
これが根拠ですよね、スピリチュアルの。だからこれが根拠なんだけど、逆に言うとこれ以上なかなか根拠はないっていうことになると思うんですよ。
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言うなれば、これ状況証拠ですよね。こういう事例があります、こういう事例もあります、こういう事例もあって、こんな報告もあって、だからスピリチュアルって真実だよねっていう、そういう説明の仕方ですね。
状況証拠って言い方しましたけど、だから犯人を確定する場合、この人が犯人ですって決める場合は、状況証拠をいくら並べても決め手にならないっていうのがありますよね。
決め手となる、だからスピリチュアルは真実です、だから神は存在します、みたいなことを言える決定的証拠とか証明っていうものは多分僕は不可能だと思うんですよね。
なんだけど、この不可能っていうのを認めるっていうのがなかなかちょっと怖いことでもあるんですよね。
だからこれをしたくないっていうか、そこに諦めきれなくてずっとこのことを考え続けるっていう、そういう道を突き詰める人は宗教家ではなく哲学者って呼ばれてるね。
哲学者とか科学者って呼ばれてる人になってくと思うんですけど、でも僕が思うのはこれを突き詰めていくことはブレンキャンディのところでも話した通り、ちょっとスピリチュアル的な本質ではない態度ではないかなと思います。
やっぱりこのスピリチュアルのことを説明するとか証明するとか、その根拠はみたいなことを考えたときにですね、世間一般の人というか大多数の人、この世の論理、常識に従って生きてる人たち、普通の人ってことですね、スピリチュアルと全然信じてない人。
そういう人たちは世間的な常識とか、そういうパラダイムを信じてるわけですよね。
日常のね、人間は猿から進化して、産業革命で文明が発展してこうなって、定時になったら会社に行くもんだし、そこで稼いだお金で食べ物を買って食べて、みたいなね。
そういう営みが人生で、別にそれは特に意味がないし、その魂みたいなのもあまりよくわかんないし、なんとなくそんな漠然なパラダイムだと思うんですよね。
世間一般の人たちの、いわゆる常識みたいなね。
そういう人たちを偶論にも言わさず、1たす1は2です、くらいの論理的な完璧さを持って説得することっていうのは、おそらくスピリチュアルというものの性質上ですね。
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もうその性質上、原理的にこれは無理だと思うんですよね。
これが多分スピリチュアルじゃなければできると思うんですよ。
例えば地球は丸いとか、そういうのは1たす1は2くらいの完璧な論理性を持って説得することがおそらくできるんですけど、スピリチュアルというものは多分原理的に無理なんだろうと思います。
ここで、こういう人がいますよね。
スピリチュアルが、そんなにスピリチュアル、こっちが真実だって言うなら、この俺にも納得いくように証明してみせろよ、みたいなね。
言いたくなる気持ちはすごいわかるっていうか、昔自分が言ってたような気もするんですけど、
そんなにスピリチュアル、引き寄せの法則があるって言うなら証明してみせろよとか、神がいるって言うなら証明してみせろよ、ほら証明できないじゃん、みたいなね。
そういう強気な態度というかわかんないですけど、
そういう人多いと思うんですけど、普通にいると思うんですけど、
僕が思うのは、そういう人は別にもう無理に信じてもらう必要はないと思うんですよね。
あなたが信じる道を進めばいいと思うということですね。
そういう受け身な気がしますよね、この態度。
受け身っていうのは、例えば僕が感覚的に近いなと思うのは、
テレビのチャンネルを切り替えていって、
どの番組も全然つまんねえな、もっと俺を楽しませろよ、みたいな。
もっといいコンテンツ作って俺を楽しませろよ、みたいな。
そういう態度に似てるような気がするんですよね、この態度。
スピリチュアルがそんなに真実だって言うなら、俺にも納得いくように証明してみせろよっていうことは、
それと同じようなことなんじゃないかなと、なんとなく思います。
だから、そういう感じじゃなくて、そういう人はそれでいいと思うんですよね。
別にこっちも無理に説得する気はないし、
信じられないのは別にそれでいいんじゃないですかっていう、
僕らとしてはそういう態度でいいと思うんですよ。
ここで考えるべき大切なことはですね、やっぱりこれだと思うんですよね。
自分の一度きりの人生、どう生きたいのか。
あなたはどう生きたいのかっていう、そういうことなんですよ。
こういう発想、こうした自分のたった一回限りの人生、
どう生きるか、どう生きたいのかっていうところに立脚して、
そこから進んでみる、思考を進ませてみると、こういう発想で考えてみると、
世界がどう見えるかなって考えた時にですね、
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そうすると哲学とかスピリチュアルっていうのも、
そういうあらゆる思想がですね、スピリチュアルに限らず、
哲学だったり心理学だったり、
それから世間的な常識のパラダイムも含めてですけど、
あらゆる考え方、思想っていうのがアイテムみたいに見えてくると思うんですよ。
アイテムって僕のすごい言い方なんですけど、
要は自分にとってどれだけ役に立つのかっていう、
そういうプラグラマティズムみたいなね、そういう発想なんですけど、
その中で自分が理想とする、もうこう生きたいなっていう、
こう生きれたら幸せだなっていう生き方に役立つと感じる思想を
各々学んでいけばいいと思うんですよね。
これは実際に僕もそうしてきました。
僕が実際に体験してきた感覚としては、
スピリチュアルっていうのもそのアイテムの中の一つだったんですよね。
もう自分が本当に不幸で、もう人生つらくてつらくて、
どうにか楽に幸せになりたくて、
そのために役立ちそうなアイテムが目の前に散らばってたわけなんですよ。
成功哲学とか自己啓発とか心理学、哲学、
その中にスピリチュアルっていうのもありまして、
この時点同列だったんですよね。
最初僕はスピリチュアルに対して、
こんなこと本当にあるのかな、なんか嘘っぽいな、
でももしかしたら本当なのかもしれないな、
切り捨てることはできないな、くらいな感じだったんですよね。
調べ始めると、いやどうやら本当っぽいっていう感じになって、
でもまだ確証が持てないなっていう感じに進んでいったんですよね。
この段階になると、なんかどうやら本当っぽいな、
この世界を信じたいな、でもまだちょっと信じきれないし怖いなっていう感じになったんですよね。
自分で自分をよりスピリチュアルと信じるようになるために、
どんどん自発的にスピリチュアルを学んでいくっていう、
そういう段階になると思います。
奇跡講座でも初めはエゴがコースを学ぶって言って、
その後は自分がエゴがコースを学ぶって言って、
その後は自分がエゴがコースを学ぶって言って、
自分の実体験としてはそういう風な変遷というか流れを得て、
今の感覚、今のスピリチュアルが真実なんだろうという立場に立っているっていうことですけど、
ここでですね、
選ぶためには、だからこっちがいいとかこっちが正しいとかね、
何か判断をするにあたってはやっぱりその中身を知って、
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そういう物理的な思考を得るために、
自分の中身を知って、
自分の中身を知って、
そういう物理的な思考を得るためには、
自分の中身を知って、
自分の中身を知って、
正しいとかね何か判断をするにあたっては やっぱりその中身を知ってないといけないですよね
中身を知らなければ比較ってできないですよね 判断はできないですよね
絶対にこのAの方がいいですって言うためには判断するためには 当然ながらAとB両方の中身を把握してなければこれ言えないですよね
僕が思うのはですね スピリチュアルを信じる人はIQが低いとか何とかそういうことを言って
真面目に検討調査調査すらしないで頭から否定するような人たちがまあ中にはいるかもしれないんですけど
そういう人たちに対して僕が感じるのはですね これだけスピリチュアルな思想とか考え方が支持を広めているのに
歴史上にもそうした神秘的な逸話や事例がいくらでも語り継がれているし
日常 僕らの日常でも虫の知らせとかまあそういった不思議な現象はあるし
そういう体験報告も迷宮に居止まらないほどにあるのに
そうした事実をすべてその人の妄想だっていうふうに断定してしまう
スピリチュアルっていうのは そんなの全然その人の勘違いだ妄想だっていう
それだけで断定してしまうそれだけで片付けたことにしてしまえる
そういうなんか浅はかさですね なんかそれを僕は感じますね
そうじゃないですかね 結局スピリチュアルを調査するとか内容を把握するって言っても簡単じゃないんですよ
あのまあ皆さんわかると思うけどすごく時間もかかるし手間もかかるんですよ
だからすごい骨が折れることなんですよね
だから世間的常識で生きている人は真剣に取り合わないのは
まあこういう理由が大きいんだと思うんですけど
楽なんですよね そのそういう態度で決め込む方が
でそういう人たちは結局心の底 無意識ではそういう人はですね
スピリチュアルを学びたくない知りたくないんだなって僕なんかは思いますね
学びたいならまあ学びますよね
で把握した上でAかBか選択できるようになるから
うーんなるほどスピリチュアルはこういうものか
でもまあ違うかなって判断すればいいだけの話で
でもそういう人たちってそれをしないで
妄想だとか勘違いだってよく知りもしないのに片付けちゃうじゃないですか
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片付けちゃえるというか
それって結局まあ無意識的には学びたくない知りたくないって思ってるんだなって
僕なんかは思っちゃいますね
でそれはそれでいいと思うんですよね
選択だからそれは個々人の
だからその学びたくない知りたくないんだったらそれはそれでいいんですけど
それでもいいんだけど
それだったらよく知りもしない分野の内容に対して
あれこれ断定してすぐに批判してしまうのは
知的に誠実な態度ではないと僕は思うし
だからそれはやめた方がいいんじゃないかなと思うんですよね
誠実じゃないですよね
AとB両方把握してAがいいって言ってるのは分かるけど
Aが絶対いいよBはやめときなインチキだよ
Bはどんな内容なんですか
いやそれはよく知らないけどっていうのは
やっぱり知的に誠実な態度ではないですよね
だからそういう人たちが取るべきなのは
妄想だインチキだって断定する態度じゃなくて
それについては私はよく分かりませんって
まあ認めるっていうかまあそういうことだと思うんですよね
この辺の態度はソクラテスの無知の地に
大いに学ぶべきものがあるところだと思うんですよね
あと哲学者のウィトゲンシュタインもこういう言葉を言ってます
語り得るものについては沈黙しなければならないっていう
やっぱり知的に誠実な態度であろうとしたら
こうなると思うんですよね
まあそういうわけで結局何を信じるかっていうのは
その人次第だと思うんですよ
だからそういう信じたくない人たちは信じないでいいし
別にそれは全然悪いことじゃなくて
むしろそういうゲームの宇宙ですから
宇宙には選択の自由があって
だから自由意志があるってことはそういうことですよね
だからこその自由意志なんですよ
そこにこそゲームとしての宇宙の面白さがあるわけなんですよね
そもそもねそれができるのがこの分離世界の醍醐味ですから
でそんな状況の中でですね
僕が結局できるのは
万人が満足して納得して受け入れざるを得ないような
なんかそういうスピリチュアルに対する完璧な根拠みたいなものを
提示することではなくてですね
そんなものはないってことですね
だから最初はこれをやろうとしてたんですけど
だからそうじゃなくて
なんかそっちにスピリチュアルな方向ですね
そっちに行きたい気もするんだけど
まだちょっと信じきれないなぁみたいな
もっとスピリチュアルのこと
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真実の匂いを嗅ぎ分けた人たちがですね
なんかこれが真実っぽいけど
まだちょっとよくわかんないし怖いなみたいな
そういう人たちの背中を後押しすること
そういうことは微力ながらできるのではないかなと思いました
で僕はそういうことをやっていきたいような気がするなと
こんなことをねいろいろ考えながら思いました
以上そんな話でした
長々と喋ってしまった気がするんですけど
いかがだったでしょうか
いろいろやっぱりこのスピリチュアルを信じられるかどうかっていう問題は
なんかその性質上つきないと思うんですけど
それに関連して僕がもやもやと考えていたことを
お話しさせていただきました
何かの参考になれれば幸いです
どうもここまでお聞きくださり
どうもありがとうございました
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