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2024-01-29 30:22

「厨房の哲学者」感想【覚悟の本質】

#読書感想 #スピリチュアル #覚悟 #哲学
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こんにちは、カズです。今日は、「厨房の哲学者」っていう脇谷裕二さんっていう中華料理のシェフの方の本を読んで、
その感想というかね、あの僕が思ったことをあれこれ喋っていきたいなと思います。
まあその、このね脇谷さんの辞伝の本、辞伝なんですけども、
この本なんで読んだかっていうと、たまたまNHKの番組でこの人の脇谷さんのドキュメンタリーかなんかをやってるのをたまたま見たんですよね。
それで面白そうだなと思って買って読んでみたっていうことなんですけども、僕全然料理には詳しくないし、興味も薄い、どちらかというと薄い方だと思うんですけど、それでもまあ読んでみてなかなか面白かったかなと思います。
この本の帯に書いてあるのがですね、中国料理とは何か、その壮大な謎に答えるとも書いてあるんですけど、この隣にですね、書いてあることが重要なのは何かを選ぶこと、選ばなければ人生は始まらない、
選ばざるを得なかった仕事に黙々と熱狂する、運命に従え道は開ける、もがき苦しんだ50年の奇跡っていう風に帯に書いてあるんですよね。
というわけで、僕的な視点から見てね、この本の僕としての感想というか、この本のキーワードは、覚悟と選択、何かを選ぶってことですね、覚悟と選択がこの本のキーワードかなと個人的に思いました。
ちょっとね、いろいろ喋っていきたいかなと思います。
僕もこの和喜屋さん、和喜屋雄二さんの存在はこの本院、NHKだからのドキュメンタリーで見るまで知らなかったんですけど、一言で言うと、めちゃくちゃ成功した中国料理のシェフっていうことになるんじゃないかなと思います。
すごい雑な紹介で申し訳ないんですけどね、中華料理の日本人の第一人者と言っていいような人なんじゃないかなと思いますね。
なんですけど、そんなすごい一流の中国料理シェフの方なんですけど、僕がここで面白いなと思ったポイントはですね、この中華料理っていう道は最初は自分でやりたくて、自分で選んで始めた道ではなかったっていう、こういう事実があるんですよね、この和喜屋さんの場合ですけど。
ここがこの本、というか和喜屋さんのこの辞典のポイントなのかなと思います。
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最初、その中華料理の道になんてね、全然興味なかったし進みたくなかったんですよ、和喜屋さん。
で、まあなんだけど、その道に入っていくっていう辞典なんでね、その経緯が書かれてるんですけども、ちょっとね、今から紹介したいと思います。
辞典なんで、最初はね、幼少期とか少年期のお話から始まるわけなんですけど、このね、小学校から中学時代っていうのは、この和喜屋さんね、相当悪書きだったみたいなんですよ。
で、読んでるとね、その悪業の数々が結構ね、出てきて、まあすごく、喧嘩も日常茶飯事だったし、
なんでしょうね、いろんなものを盗む、大学で育っててる、実験のために育ててるリンゴを盗んで食べたりとか、まあそういうのもね、面白がってやってたみたいですし、
あの、なんか金持ちの家に忍び込んで、その家の池に出かってる鯉を盗み取ったりとか、なんかね、いろいろやってたみたいなんですよね。
で、まあ個人的にヤバい、これはヤバいなと思ったのが、ゴスン釘潰しっていう、なんか事件の話が出てきてね、
列車の線路にゴスン釘を、なんか線路に置いとくんですって、で、それで列車がそのゴスン釘を引くと、あの熱でね、すごく熱くなって、
で、その状態でコンクリートと擦ってですね、そうするとゴスン釘が研げる、研いで、あの、なんかナイフとかね、あの、そういうものに形を変えられるそうなんですよ。
それで、あの、ナイフみたいなね、鋭い尖った狂気みたいなものにゴスン釘を変えてですね、で、それを、えーっと、なんだ、竹かなんかのね、棒を使って弓に仕立てて、その弓矢でね、あの、的を射って遊んでたみたいなね、そういう話が出てくるんですけど、
で、このゴスン釘を、まあ、改造してですね、弓矢にして、あの、遊んでたら、突然、妹さんがね、あの、まあ駆け寄ってきて、あの、名前をね、呼んだらしいんですよ。
それでびっくりして、振り返った瞬間にですね、あの、構えてた弓矢の矢が引けてしまって、で、ゴスン釘が妹さんのね、額に当たっちゃって、そして流血事件になって、みたいな大事件になっちゃったらしいんですよね。
で、その後、ユウジさんは父親にボコボコに怒られてですね、怒られてっていうか殴られて、革靴の、なんか固い底のところで、もうボコボコに、あの、頭の形が変わるんじゃないかぐらいに殴られたっていうね、そういうエピソードとかも紹介させ、されてるんですけど、まあ、なんか、今じゃなかなかね、考えづらいというか、まあ、令和の時代からすると、まあ、考えづらいし、あの、
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なんか、僕の感覚からしてもね、正直ね、まあ、引きますね、これね、何してんのっていう感じですね、その、うーん、この、なんだろう、悪ガキっぷりに対してですね、で、まあ、ちょっとここで、あの、内行外行の話をね、僕は思い出したんですけど、こういうのを見るとね、あの、なんか内行型外行型の話を思い出して、まあ、僕はつくづく内行型だなと思って生きてきたんですけど、まあ、こういうエピソードを読む限り、
脇屋さん、すごい外行型だったんだなと思うわけなんですよね、えっと、外行型っていうのは、うーん、内行外行の本質はどこにあるかっていうと、えっと、犯罪者には心拍数の低い人が多いっていう、そういう事実がまずありまして、これどういうことかっていうと、あの、そう、犯罪者には心拍数の低い人が多いんですよ、で、えっと、まあ、これ別に仮説なんですけどね、
でも、あの、本質っぽいなと僕が思ったその仮説があって、それは、えー、なんか人間、その心地よいコンフォートゾーンみたいな心拍数があって、そのコンフォートゾーンの、あの、快適な心拍数に持っていくために、外行型の人はもともと心拍数が低いんで、その心拍数を上げるためにですね、リスクを犯すことを試行して、
うん、だから危険なことをやったりとか、まあ、刺激を求めるってことですね、で、逆に内行の人っていうのは心拍数をあんまり上げないようにするために、リスクを回避する傾向にあるっていうことなんですよ、え、だから外行型は、えー、なんか刺激感度が鈍いとも言われるんですけど、求める刺激量が多い、だから、えー、まあ、犯罪に走ったりする一方で、えー、社会で、えー、その、あの、その、
大成功して、まあ、大物になったりしやすいのも外行型っていうことですね、で、逆に内行型は刺激感度がすごい繊細なんですよね、ちょっとの刺激ですごいびっくりしたりとか喜んだりとかができちゃうんですよね、なので求める刺激量っていうのは少なくなる、あの、なるってことです、まあ、あと、うーん、まあ、あの、花々しく、
えー、社会で大成功とかしにくい一方で、まあ、犯罪とか走ってね、まあ、大犯罪みたいなのも起こしにくいっていう、そういうのが内行型っていう話があるんですけど、まあ、脇屋さんはたぶんね、これね、心拍数相当低かったんじゃないかなと、この悪書っぷりを読んでて思いましたね、はい、まあ、ちょっとね、脱線したんですけど、まあ、そんな感じですごい無茶苦茶やってて、将来何になりたいとか全然考えてなかったらしいです、あの、その日暮らしっていう感じでね、
09:01
なんですけど、ある時、あの、父親から言われるんですね、父親から、えー、お前は職人がついてる、職人ってあの、職の神様ですね、職人がついてるから職の道に進めってね、ある時言われたらしいです、この父親っていうのはすごい厳格で、厳格な父親で、もう、あの、昔の昭和親父みたいな感じで、もう、俺が、俺の言うことが絶対だみたいなそういう父親だったらしいんですけど、
あの、職業が駅舎だったらしいですね、あの、駅教ですね、あの、占い師だから、あの、占い師ってことです、あの、駅学の、うん、で、その駅舎である父親から、お前には職人がついてるから職の道に進めって、まあ、勝手にね、将来を決められるんですよ、で、父親のクライアントであった、あの、料理人、あの、料理人の、まあ、あの、
クライアントさんが、あの、駅舎の父親にはいたらしいんですけどね、で、その人の、その料理人さんのつてで、東京赤坂のね、一流中華料理店、三能飯店っていうとこに、まあ、勝手に、あの、自分の意向を、あの、全く問い入れられずにですね、父親が勝手に話を進めて、あの、入れられるっていうことなんですよね、で、中学卒業後、そこに、もう、勝手に就職させられるっていう。
で、その、三能飯店で働くのが、中学卒業式の3日後に、早速働き始めたみたいなんですよ、すごいかわいそうですよね、だから、もう全然本人は、そんなことをやりたいとも思ってないし、普通に、あの、みんなと一緒にね、高校進学したかったみたいなんですけど、まあ、父親がね、そんな、あの、突然そんなことを言い出して、勝手に、
あの、決めるっていうね、で、まあ、その中華料理屋に、ぶち込まれたわけなんですけど、で、そこで、あの、ひたすら、鍋洗いから始めるわけです、で、その中華料、一流中華料理屋さんの、あの、まあ、現場っていうのはやっぱりね、厨房の現場っていうのはやっぱり厳しいわけなんですね、で、たかが鍋洗うだけなんだけど、最初は鍋1つもまともに洗えない感じだったらしいです、
うーん、まあ、その中華料理鍋ってすごいでかくて、そこも丸くてね、で、洗うの大変らしいんですよね、あの、そこが丸いんで、なかなか安定して洗えないし、うーん、重いしね、で、しかも、あの、まだ脇屋さん、中学卒業後だから、まあ、15歳っていうことで、まあ、体も小さいしね、
だから、全然思うように、鍋も洗えないし、だから、うまく洗えないと、周りの中国人の先輩たちとかにすごい怒られるし、で、ひたすらつらい、で、何より楽しくないっていうそんな日々だったみたいです、ひたすら鍋だけを洗う日々、で、動機はどんどんやめていなくなってくるんですよ、
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で、あの、まあ、すごい、僕なんかね、この境遇に同情するんですけど、そりゃそうだよねっていう、まあ、自分で、だって、ね、やりたくてやった道でもないし、勝手に父親のわけわからん判断で言えられて、で、あの、全然楽しくない、で、やりたくもない鍋洗いの仕事をひたすらさせられて、で、先輩には怒られるしっていうね、そんな境遇だったみたいなんです、で、
何ヶ月か働いてね、あの、俺もうさすがにやめていいよね、みたいに母親に何度か相談したらしいんですよね、で、父親はすごい厳格で厳しい父親なんですけど、だったらしいんですけどね、母親の方はすごい優しくて穏やかな人だったみたいです、あの、北風と太陽に、まあ、例えられてましたけど、北風が父だったら母親は太陽だ、みたいに書いてありました、
なんですけど、その穏やかで優しい母親も、俺もうさすがにやめていいよねっていう相談を3回目した時に、普段優しく話を聞いてくれていた母親がですね、この3回目の時はすごい厳まくて怒ったらしいんですよ、
いつまでそんなこと言ってるの、いい加減に覚悟を決めなさい、高校に行ったと思って3年はしっかりやってみなさい、3年必死に頑張って、それでもダメだったら何でも好きなことをすればいい、という風に言われたそうです、で、この時の脇屋少年は、なんかすごい衝撃だったらしいんですよね、今まで全然そんな怒ったことがなかった母親が、こんだけの見膜で怒ったのはこの時限りだったと、
で、母親のことはすごい大好きだったんで、道を固めたわけじゃないんだけど、とりあえず3年は頑張ろうってこの時思ったらしいです、この時の理由は単純に母親を悲しませたくなかったからだそうです、
ちょっと引用しますと、おふくろの言葉は胸に響いた、それで働く覚悟を決めたわけではない、店を辞めるのは辞めた、3年間はおふくろに泣き言を言わずに頑張る、そこまでは決めた、おふくろを悲しませたくなかったから、その先がわからなかった、うん、ということでした、
で、3年間はとりあえずやってみようと、ここで決めたわけですね、でもこの時はまだ全然この道に対して前向きじゃない、どっちかって言ったら辛いし辞めたいっていう、その気持ちに変わりはないっていうのがわかりますよね、
じゃあなんでその後ろ向きな辞めたいという気持ちが変わってくるのかっていうと、働いてちょうど1年くらい、この1年間っていうのはひたすら鍋洗いしかしてないし、もう惨めな思いしかしてないかったらしいです、
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で、そのストレス発散というか、たまの休みのため、楽しみのために1人で新潟のスキーに行ったらしいんですよ、まあ友人と会う約束もあって、新潟にスキーしに行ったらしいんですね、
で、そのスキー場のレストハウスの土産物売り場の中にですね、額に飾られたある言葉と出会うことになります、で、それっていうのが小説家の武者農耕二さんの言葉だったらしいんですけど、「この道より我を生かす道なし、この道を歩く。」っていう言葉、なんかこれが額に飾られて土産物売り場に置いてあったそうです、
で、これを、これの言葉と出会った時にね、すごい衝撃だったらしいんですよね、で、その時の心理描写が載ってるんですけど、読みますね、
なぜかわからないけど背筋がザワザワとした。その言葉から目が離せなくなった。何かとても大切なことが書かれている気がしたからだ。心の中で何度もその言葉を繰り返した。僕がわからなかったのはこのことだと思った。何を選ぶかではない。重要なのは何かを選ぶことなのだ。僕が苦しかったのは何も選んでいなかったからだ。
そんな風に思ったらしいです。で、この言葉を、この額縁を買って大事に東京へ持って帰ったということでした。そこから脇屋さんは変わり始めるんですね。道を決めて変わり始める。
ちょっと長いんですけど、読みますね。
むしゃの講師の言葉を読みながら、ふと自分にとってのこの道は何だろうと考えたとき、三農飯店の厨房で鍋を洗う自分の姿が僕の心に浮かんだのだ。それは夢でもなければ希望でさえなかった。
ただ、15歳の子供には何ヶ月か朝から晩まで鍋洗いをしたこと以外に自分に誇れることがなかった。それ以上何かに取り組んだことがなかった。だから、もしかしたらと思った。もしかしたら、自分もこの道を行けばどこかにたどり着けるかもしれないと。
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何にでもなれる未来なんて本当はどこにも存在しない。何でもなれるのは何も選んでいないからだ。どこかにたどり着くためには道を選ばなきゃいけない。一つの道を選んでその道を歩き続けなければいけない。
僕が恐れていたのは選ぶことだった。何かを選ぶことはそれ以外のすべてを捨てることだから。選んでしまったら、そこで自分の未来の可能性は閉ざされてしまうと思い込んでいた。それが間違いだった。選ばなければ人生は始まらない。何ヶ月も中華鍋を洗い続けてようやくそのことに気が付いた。そして僕は中国料理の道を選んだ。
ここで心のスイッチが入るわけなんですね。この時から脇谷少年はノートを取り始めます。親方の調理を見ながらどうしたらこんなに上手に作れるんだろうかっていうふうに考え始めるんですね。次第に純粋に中華料理人というものに憧れを抱き始めるんですね。ここから人生が変わっていくっていう話でした。
その後のいろいろ成功物語というか、迂躍曲折またあっていろいろ書かれているんですけど、今回はね、覚悟と選択っていうところをピックアップして話そうと思うんで、ここで辞典の内容は引用は終わろうかなと思うんですけど。
キーワードは覚悟と選択。選択っていうのは何かを選ぶということですね。もう一度重要だと思われる言葉をこのキーワードと関連した言葉をですね、ちょっと引用させてもらいますね。
重要なのは何かを選ぶことなのだ。僕が苦しかったのは何も選んでいなかったからだ。
どこかにたどり着くためには道を選ばなきゃいけない。一つの道を選んで、その道を歩き続けなければいけない。僕が恐れていたのは選ぶことだった。
何かを選ぶことはそれ以外のすべてを捨てることだから。選んでしまったら、そこで自分の未来の可能性は閉ざされてしまうと思い込んでいた。それが間違いだった。選ばなければ人生は始まらない。
この辺の言葉にですね、キーワードの一つの覚悟と選択ですね。その覚悟の本質というものが現れているような気がするんですよね。
どういうことかというと、覚悟の本質というのは、それ以外の選択肢を立つことだなっていう、そうじゃないかなっていうふうにこの辺のことを読みながら思いました。
21:02
考えてみればですね、この辞典の中の脇屋少年のようにですね、それ以外の未来の可能性っていうものが頭の中にちらついている状態では、やっぱり目の前のことに全力を尽くせないんですよね。目の前のことにコミットできないと思います。
だから、覚悟の本質っていうのは、つまり多くの選択肢の中からこれをやろうっていう、そういうなんかちょっと前向きなね、よしこれをやろうっていう、そういう意識ではなくて、イメージ的にはそれ以外の選択肢がすべて塗りつぶされてなくなって、
あ、もうこれ以外に道はないっていう、そういう意識。なんかそれが覚悟の本質じゃないかなって思いました。で、これ以外に道はないっていうのは、なんかネガティブな意味合いではなくて、今私がやるべきことはこれだっていう、そういう前向きな意識のことなんですよね。これが覚悟だと思います。
覚悟が決まったとき、内側のエネルギーが湧き始めるんですよね。で、この覚悟の本質はそれ以外の選択肢を立つことっていうことですけど、それを表す言葉っていうのもいくつかありますね。
排水の陣とか、あと船を燃やすっていう表現もそうですし、急走猫を噛むっていうね、あれもそうですよね。もうそれ以外の選択肢がなくなって、もうこれしか道はないんだって自分で悟るっていう、そういう感覚。これが本当の覚悟なんじゃないかなと思いましたね。
あと、この覚悟っていうことに関連してですね、努力っていう言葉。これもちょっと一緒に思い出したんで考えたいんですけど、ここから関連してね、努力の本質っていうものも考えたときに、それは結果にフォーカスしないことっていう、なんかそういう話も聞いたことがあるんですよね。
努力の本質は結果にフォーカスしないこと。というのはどういうことかというと、目の前のやるべきことを主体的に行っているとき、人は自由であるということ。
これちょっとね、なんだろうな。要は自分で決めるっていうことなんですよね。人からやらされてたり、可能性がいろいろ脳内で、こっちの道の方が良かったんじゃないかな、あっちの方が良かったんじゃないかなってちらついた状態で、やっぱ目の前のことを全力で取り組むことはできないし、
なんだろう、目の前のやるべきことを主体的に行っているとき、人は自由であるということってね、さっき言いましたけど、努力をするっていうのは、結果を意識しながら努力をするっていうのは、だからそれは本質ではないっていうことなんですよね。
24:07
成功してお金持ちになりたい、だから努力するっていうこの意識、この流れだと、100%努力は報われるわけではないので、約束されてるわけじゃないんで、結果にフォーカスしてると絶対努力って裏切られるっていう結果になってしまうんですよね。
努力しても裏切られた、裏切られたのは結局結果にフォーカスしてるからですよね、結果に執着してたからですよね、でもそこじゃなくて、さっきも言ったことですね、目の前の今やるべきことっていうのを自覚的に主体的に私はこれをやるんだって言ってやること、
そこにフォーカスするということ、これが努力なんですよね、おそらく。
この意識状態で努力できているときに、人は自由を感じるっていうことなんですよ。
哲学者のカントも、自由とはルールに従うことだ、みたいに言ってるんですよね。
これって結構逆説的に聞こえると思うんですけど、どういうことかっていうと、人間は野生動物とは違って社会的な生き物ですよね、社会には守るべきルールっていうものが当然あります。
なんですけど、その人間が野生動物みたいになれれば自由を感じられるかっていうと、そういうわけじゃなくて、守るべきルールが社会にはあるんだから、それを守った上でその枠内でどうしようかっていうのが本当の自由なんだよっていうことをカントは言ってると思うんですけど、そういうことなんですよね。
そうルールを守った上で、その上でどうしようかっていう、そうあるときに逆説的に人間は自由を実感することができるという話なんですよね。
だから自由であるっていうのは主体的であるとも言えるかもしれないですよね。
関連してそんなことを思ったりしました。
この覚悟と選択の話をしてきましたけど、ちょっとこれをね、スピリチュアル的な観点、視点から見て考えてみると、どういうことかなっていうのをちらと思ったときにですね、僕が思ったのは、人の魂の欲求っていうのはハイヤーセルフの欲求なんですよね。
ハイヤーセルフの欲求っていうのは、ハイヤーセルフがやりたいことですね。
つまりその人が本当に心から楽しみたい、やりたいって思ってることっていうのは、ハイヤーセルフの望みであるっていう言い方ができます。
人はね、生我と大我ってあるじゃないですか。
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その生我の方が世間一般的には自分だと思ってる。
自我ですよね、英語ですよね。
その生我が自分だと思ってるんですけど、その生我が望むものっていうのは魂の望みでない場合が往々にしてあるんですよね。
お金持ちになりたいとか、世間で成功したいとか、モテたいとかですね。
よくみんな言うかもしれないんですけど、それ本当にあなたの魂のレベルから望んでることなんですかっていうのをよくよく見つめ直していくと、だいたい違ってたりするんですよね。
本当はそこじゃないんですよ。
本当にその人が魂からこれをやったら本当に楽しいって思える欲求っていうものを見出していくと、それっていうのはイコールハイヤーセルフの望み、ハイヤーセルフが望むものっていうことになるんですよね。
ハイヤーセルフが望むものっていうのは、要するに神が望んでることと言い換えてもいいと思うんですよね。
それがわかると、生がの欲求と対がの欲求がシンクロするというか、要するに自分のやりたいことと宇宙がやらせたいことっていうのが一致してくるんですよね。
一致してくるというか厳密に言うと、神っていうワンネスっていうものに自我っていうものが溶け去って混ざり合うというようなイメージかもしれないんですけどね。
自分がなくなるみたいなね、そういうことかもしれないんですけど。
ここにおいて個人主義か全体主義か、自由か平等かっていうね、永遠に解決不可能かのように思われる問題っていうのもこのレベルにおいて解決されるみたいに個人的には僕は考えたりします。
最後は伝わりにくい話をしてしまったかもしれないなと思いますけど、こんな風に中坊の哲学者という本を読んで僕が思った感想を話させていただきました。
普通に読むとすごい昭和のスパルタ教育みたいなね、ちょっと今で令和の時代の感覚からすると古いと思われる価値観の描写っていうのも結構多い本なんですけど、
選択と覚悟と選択っていう視点から見ると結構得られるものもある面白い読書だったなと思いました。
そんなことでちょっと長くなりましたが、お話しさせていただきました。
30:02
ではここまでどうもお聞きくださりありがとうございました。
何か今回の話があなたの人生に役立ってくれたら嬉しいです。
それでは失礼します。
30:22

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