著者の背景と心理学的決定論
こんにちは、カズです。 今回の配信は、瀬尚武晴さんの「僕という心理実験」という本を読んだので、これの感想をお話ししていきたいと思います。
著者の瀬尚さんは心理学者です。 だけど、この本はあまり学術書という感じではない感じなんですね。
読む前は、僕はそういう内容なのかなと思ってたんですけど、予想と違って意外とエッセイみたいな感じの本になってました。
著者の瀬尚武晴さんは、かなり壮絶な家庭環境で育ったらしいんですよね。
英才教育みたいなのを当たり前のように受けてきて、学歴社会で揉まれて、受験戦争で疲弊して、
一皿勉強勉強みたいな価値観の中で、なかなか苦しみながら生きてきたというかね、今もそういう感じだと思うんですよね、その苦しみの中にいるというか。
この本は2022年にそのくらいに出た本だと思うんですけど、この本の記述によると、わりと最近2021年にも自殺企図を試みたという話も出てきて、びっくりするような感じだったんですよね。
そんな生きづらさを諸に感じている著者の瀬尚さんが、自分も心理学者でそういう研究をしているし、この著者の関心があったのは、心って何だろうっていうところとか、人間って何だろうとか生きる意味は何だろうみたいな、拡大していくとそういうテーマにもなっていくと思うんですけど、
本当にそういうことが知りたいというか、そういうモチベーションだと思うんですよね。
そういう問題意識の中で、この著者がたどり着いた答えというのが一つ帯に書いてあります。心理学的決定論という、つまり自由意志はなくて、全部僕らはオートで動いているんだっていう、そういう世界観なんですね。
これが救いになるんだっていう話をこの本の中でしているわけなんですけどね。うまくいかないのはあなたのせいじゃないっていうふうに書いてありますけど、なんでこれが救いになるかっていうと、今の現状で報われなかったりとか、今の境遇で辛い思いをしていたりとか、人生ね、都合のいい展開ばっかりじゃないですよね。
苦しい、思い通りにいかないとかね、そういうこと全然あるわけで、そういう時にこれが救いになるっていうことなんですよね。なぜなら自由意志はなくて、自由意志があったらあなたの選んだ選択の結果ですよねっていうことになるんですけど、自由意志はないっていうことになると、しょうがないよねっていう話になりますよね。
だから、今の現状っていうのは全然あなたのせいじゃないよ、だから自分を責める必要はないよっていう、そういうことなんですよね。
で、この著者の瀬能さんは、世界の真実、事実として、真実としてその自由意志はないんじゃないかっていう、全部事前にプログラミングされた結果に過ぎないんじゃないかっていう話をしていくわけです。
で、僕の感想というか、意見としては、この主張には僕は概ね賛成なんですよね。僕も三次元的な意味での自由意志はないと思ってます。
三次元的な自由意志はないっていうのは、この物理次元でどのように振る舞うかとか、腕をどういう角度でどのくらいのスピードで振ったり動かすのかとか、次何を言うのかとか、そういうレベルですよね。
そういうレベルで自由意志は僕もないと思ってます。
これはまあいろいろスピリチュアルな分野も含めて、探索してきた結果として、ああそうなんだろうなっていう理解に落ち着いたっていう感じなんですけど、
一番わかりやすいところでは、ラメッシュ・バルセガールっていうインドの有名な聖者がいますけど、あの人なんかは人間のことを肉体精神機構っていう言い方してて、
つまり人間は自由意志のない生命ロボットだよ、生命機械だよっていう感じで、肉体精神機構っていう言い方をしてるんですけど、
だからまあこれ同じ一緒ですよね、心理学的決定論と、つまり自由意志ないっていうね、全部オートで動いてるよっていうことなんですけど、
それをインドの聖者も言ってるんですよ。悟った聖者も、これが真実だっていうことで。
そうなんですよね、なんでそれが救いになるか、それでなんで悟りに至ったみたいな感じになって心安らかになれるかっていうと、
まあさっきも言った通り、自分に責任はないからっていうところが風に落ちるからなんですよね。
なんですけど、僕、著者の主張に概ね賛成で、三次元的な自由意志はないっていう風に言ったんですけど、
でも自由意志が全くないわけじゃないと思ってるんですよね。仮に自由意志が全くない、ゼロ、自由意志の余地なし、本当に自由意志っていう言葉は全くのデザラマで全部が決まってるんだっていうことだったら、
前のね、もう一度選び直すっていう音声配信で話した通り、これ人生の意味がなくなっちゃうと思うんですよね。
現代社会の生きづらさ
自由意志の余地がある、自分で自分の生き方なり選択を選ぶっていう余地があるから人生の意味があるわけなんですよね。
これなかったら別にただの映画、ただの映画と同じで、全部エンディングも結末もシナリオは全部決まっていたとしたら、
じゃあ苦しんでる人は何なのって言ったらば、ただひたすら謎の人生というホラー映画をひたすら体験させ続けられてるみたいな話になっちゃって、
かなり怖いじゃないですか。僕は結構怖いなと思うんですけど。
まあどうなのかな。なんかね、この辺の自由意志を余地を残した方が幸せに感じるって人もいれば、
いやもう完全にガチガチの決定論の方が救いがありますみたいな人もいると思うんで、
まあどっちかな。まあ僕は自由意志が最終的なレベルではあると信じてるし、
僕の結論としてはそうなってるし、その方がすごい救いのある話じゃないかなと思ってるんで、
それをポジティブにお伝えしていきたいなと思ってる立場なんですけど。
まあね、この本は別にスピリチュアルな本ではないので、
そこまで心の次元で実は自由意志ありますみたいな、そういう話には立ち入ってないので、
まあ自由意志はないっていうふうに書いてあるわけなんですけどね。
自由意志がないってなると、なんでそれがいいの、救いになるのって言ったらまあ、
成功とか失敗とかのその結果、結果とか責任というのもあなたのせいじゃないよっていうことがことになるからってことですね。
なんで今の日本がこんなに生きぬくい世の中になってるのか。
うつと呼ばれてる人たちもすごい増えてるし、うつ予備軍みたいな人たちも含めたらめちゃくちゃ多くの人が
含まれてしまう世の中じゃないかなと思うんですけど、
そもそもなんでこんなに辛いのかと。
この本のメインの関心事もやっぱりそこにあるんですよね。
著者自身がすごく生きづらさを感じていて、人生つらくて、
その励ましのための生きついたその世界観、心理学的決定論、
これを伝えることで救われる人が絶対いるからっていうモチベーションだと思うんですよ、本性を。
表した理由っていうのもね。
じゃあそもそもなんでそんなに現代生きづらいのか、苦しいのかって言ったら、
これは今の資本主義という単一の価値観に、
何だろうな、
その資本主義レースみたいな、そこに強制的に参加させられてるからみたいな感じなんですよね。
資本主義、お金を稼いだ者勝ちとか、
成功した者勝ちとか、あと能力がある人が出世するとか、そういう世界観ですね。
これがいわゆる正義みたいになってるから。
で、この価値観に世の中統制されて、ほぼほぼね、回ってる世の中だと思うんですよ。
資本主義ってそういうことだと思うんで。
で、それの何が苦しいのかっていうと、やっぱり、
お金っていう基準で人間の価値を測ろうとした場合、やっぱり勝者と敗者と出るわけじゃないですか。
いわゆる勝ち組負け組みたいな区別になって。
だから全体としては、僕も時々言ってるように、例えば鎌倉時代とか平安時代とかに比べたら、
人間の生活の水準っていうのはもう驚くほど良くなってるにも関わらず、
僕らの内面的な、主観的な幸福度は良くなってるどころか、むしろちょっと下がってんじゃね?くらいになってるっていう。
それ何でかって言ったら、相対的に落ちこぼれちゃってるというか、そういう判断を下されちゃってるからなんですよね。
いくら平安時代と比べて良くなってるって言っても、この現代の今の自分の身の回りを見渡したら、
俺全然ダメじゃんみたいな、そういう感じなんですよね。そうすると辛くなるっていう。だからそれが相対的な評価ってことなんですけど、
今の現代の日本っていうのは、その価値観が行き渡っていて、
それがみんな当たり前だと思って生きてる。当然自分の存在価値というものを判断するときにも、その資本主義の論理、価値観を無意識に採用しちゃうわけなんですよね。
神の子と自己認識
社会で活躍できてない、価値組みになってない、だから俺はダメだみたいになっちゃうってことなんですよ。
そうやって自分のことを、自分でダメだししがちだと思うんですよね。
だからその価値観を強く信じ込んでれば信じ込んでる人ほど、どんどん自分で自分のことを罰して、辛くなっていくっていうことなんですよね。
ここでちょっと奇跡講座の話をすると、奇跡講座が言うところによると、僕らはみんな神の子っていうことなんですよね。
神の子は無敵で、不死なる存在で、一切傷つかない存在なんですよ。
なんだけど、唯一その無敵の神の子が傷ついたって思い込むことができるとしたら、実際は神の子を事実傷つけるっていう、そんなことは絶対できないんですよね。
なぜなら神の創造物なので、神が完璧であるのと全く同じように神の子も完璧でなきゃいけないからなんですよ。
論理的に言ってね。だから神の子が傷ついたら、神も不完全な存在だみたいになっちゃうんで、そんなことはありえないんですけど、でも僕ら実際傷ついてるかのような体験をしてるじゃないですか。
なんでそんなことができるのかといえば、もうそれを神の子自身が自分自身で積極的に妄想をした時のみ傷つくという体験ができるみたいな話なんですよね。
だから神の子は自分で自分自身に傷つくということを許した時のみ傷つくという体験ができる。
実際には傷つくことはありえないんだけどリアルには、ただその妄想することはできる、夢を見ることはできるっていう感じなんですよね。
そういうことで、だから自分を本当の意味で傷つけられる存在は自分しかいないよっていうことなんですよ。
だから人類みんな自爆しているっていうふうに僕は言うんですけど、だからあの人のせいで自分はこんなに不幸ですっていう時、
自己認識と因果関係
実際は直接的な因果関係じゃないんですよね。あの人のせいで自分はこんなに不幸なんだっていうことを言って、実際に不幸になっているっていう結果を成立させるならば自分でそれを積極的に支持しなきゃいけないんですよね。
確かにそうだって。だから自分でその現象にOK出す、認めるっていう、私は傷つけられたって認めるっていう、そういう認識が絶対必要で、これを許さなければ神の子は絶対に傷つかないんだっていうことなんですよね。
まあちょっとね、奇跡講座はすごい深い教えなんで、ちょっとね全然、はしょって説明すると逆に誤解を招きそうなんで、ちょっとこのぐらいにしときますけど、まあそうだな、言いたいことは要は、僕ら神の子なんで、本質はね、だから自分で自分を傷つけることしか実際できないんですよ。
その苦しいっていう思いを実感するためには、自分で自分に対して傷つけるっていう選択を許可しないことには絶対僕ら傷つくことがないっていう理屈なんですよね。
自分で自分を傷つけるっていうのは平たい言葉で言えば、俺はダメな奴だなって自分の価値を低く見積もったり、そうそう、自分には価値がない、こんなこともできない、これもできない、役立たずだし、もういない方がいいわ、マシだわ、くらいね、そうやって本当は神の子なのに自分の価値をすごく価値のないものとして見積もる、認識する。
つまりこれが積極的に愚かな夢という妄想を神の子が信じ込んで、傷つきまくってるっていう夢を体験してるっていう図式なんですけど、ちょっとね、すみません、奇跡講座の話が長くなっちゃったんですけど、結局奇跡講座によれば、それでも全部ゲームでありただの夢なんですよね、この物理次元、三次元世界っていうのは。
僕らも普通にゲームとか映画とかでフィクションの世界を体験したりするじゃないですか、そこではむしろ何か過激な世界観の方が楽しいみたいな感じあるじゃないですか、鬼滅の刃だって鬼がはびこって人がたくさん殺されてとんでもない世界じゃないですか、だけど僕らはそれを疑いもなく何か当たり前な感覚で娯楽としてそれを摂取してるわけなんですよ。
結局そういう、それを娯楽として感じるのは、例えばその鬼滅の刃の世界がリアルだったら、これ全然娯楽にならないじゃないですか、あれがリアルだったらもう地獄以外の何物でもないと思うんですけど、でもフィクションなんで娯楽としてエンタメとして成立してるっていうことが言えてるわけで、
それと全く同じなんだよっていうのが奇跡講座が教えるこの三次元宇宙の説明なんですよね。
これちょっとめっちゃむずいんですけど、だからこの三次元宇宙が積極的に夢、フィクションっていう話です。
これが分かってくる、腑に落ちてくる度合いに比例してどんどん心は楽になってくると思うんですけど、
だって鬼滅の刃の鬼たちの存在とか、あの世界が、これは鬼滅の刃っていう漫画だしアニメだしみたいに思えれば思えるほど笑うことができるようになってくるじゃないですか、
あの世界観を本当にマジでリアルで、もうこれが現実なんだと思い込んでいたとしたら、どんどん笑えなくなってきそうじゃないですか、そういうことなんですよね。
で、完全にこの世界は幻なフィクションだ、ゲームだ、夢だっていう、だから要はその真実というのを思い出した状態がいわゆる悟りと呼ばれていることなんだと思うんですけど、
そしたらだから心の平安が保たれますよね、だってどうせ夢なんだからっていうことなんですよね。
で、それを見破った人は自分で自分のことを罰することってなくなるんですよ。
積極的にその夢を採用しなくなるんでね。
フィクションとしての現実
っていう、ちょっとこの本の内容から脱線して奇跡講座の話がなくなっちゃったんですけど、そんなことなんですけど、それにしたって僕が思うのはですね、それにしたってちょっとハードゲームすぎやしないかと。
なんかゲームはゲームでいいんですけど、それならもうちょっと優しいゲームカセットをセットしましょうよみんなっていうことを言いたいわけなんですよね。
ゲームならちょっとハードすぎる今の世の中と思うんで、これ普通に何の知識もなく素朴に神の子がこの三次元体験ゲームをプレイしたらみんなどんどんそれは不幸になりますよねっていう話ですよね。
だからもうちょっと優しさのあるゲームにしたいよね、そうであって欲しいよねっていう、僕はそんな感覚なんですよね。
まあそういうことなので、僕という心理実験の感想からは最後かけ離れたところで話をまとめてしまいますけど、そんなところを目指して。
やっぱりゲームといえど夢といえど悲しいじゃないですか。
悲しいっていうか目の前の人が苦しんでたり涙を流してたりするよりは僕は笑っててほしいなって素朴に思うので。
というかまあみんな神の子なんでね、両親は絶対持ってますから、みんなそのエゴとかそういうのをなくせば人類みんな生前説みたいな話して普通そう思うと思うんでね。
だけどまあ悲劇には蔓延している理由は積極的に神の子がその妄想話を信じ込んでいるからだし、だからそういう勘違いとか個々のねばならないみたいな言葉に代表される思い込みみたいなものを丁寧に解きほぐしていく、解体していくっていうことがされればどんどんこのゲーム夢の三次元宇宙ですけど、
この様子もね、生きやすいゲームに変わっていくんじゃないのかなって僕は期待しているので、今後も緩めにね、そんな活動をやっていこうかなとこの本生チャンネルでも思ってます。
またねそんな感じで聞いていただけたらすごい嬉しいです。
ということで今日はここまでにしたいと思います。
お聞きくださりどうもありがとうございました。