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2025-06-23 28:08

【奇跡講座・「分離」編】なぜ人は互いに憎み合うのか?


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1000冊以上の読書を経てヒーラーになった元霊感ゼロ人間です。「本質のスピリチュアルをわかりやすく」をメインテーマに、幸せのために役立つ情報をゆるく発信していきます。

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【プロフィール】

元ゲームオタク。
20代前半に新社会人として社会デビューするも、世の中の厳しさに圧倒されて人生を挫折。
その後、ゲームに費やしていた時間全てを読書に充て、
「なぜ自分の人生はこんなにも辛いのか?」
「どうしたら幸せに生きられるのか?」
といった人生の根本的疑問について本を読みながらひたすら考え続ける。
10年以上の読書の中で、自己啓発、成功哲学、心理学、科学、宗教、哲学などの分野を調べわたった末に、心から納得できる人生の答えをスピリチュアルに見出す。
現在ではシータヒーリングを学び、セッションを行いながら、幸福な人生の本質についての自らの知見をわかりやすく発信している。


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#スピリチュアル #奇跡講座 #奇跡のコース #分離 #恐れ #根本原因 #ネガティブ #他人 #責任転嫁 #構造
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サマリー

このエピソードでは、人々が互いに憎しみ合う根本的な原因を探求しています。奇跡講座の教えに基づき、分離から生じる罪悪感や恐れがすべてのネガティブな感情の根源であると論じられています。分離によって生じる恐れと罪悪感によって、人間が互いに憎しみ合う理由を考察し、エゴの存在がどのようにこの状況を悪化させ、他者を作り出して罪を押し付ける行動を促すかを探ります。人間が互いに憎み合う根源は分離感からくる罪悪感や恐れにあり、攻撃することで自己を守ろうとする無益なゲームが続いています。

憎しみの根本理由
はい、こんばんは、カズです。 今日のタイトルは、「なぜ人は互いに憎み合うのか?」というテーマでお話ししていきたいと思います。
なぜ人は互いに憎み合ったり、叩き合ったりしてしまうのかということですね。 その根本原因を今日は説明していきたいと思います。
本当に僕はこれ究極の根本原因だと思っているので、おそらくこれ以上の根源的な説明というのは他に見つけることができないと思います。
そのぐらい究極の話を今日はしたいなと思っています。 この説明というのは、奇跡講座、奇跡のコースが説明している内容になります。
なので、なるべくコースに書かれていることを準じた内容を、僕がなるべく噛み砕いて分かりやすく話していきたいなと思っているので、ご興味ある人はお付き合いをしていただけたら嬉しいなと思います。
なぜ人は互いに憎み合うのか。
世界が100人の村だったらとかね、そういう本もあったりしましたけど、根本はやっぱり人たち同士が協力できなくて叩き合っちゃうから、物事がうまくいかない、世界がうまくいかないっていうことだと思うんですよね、全ての根本は。
みんなが人類に仲良く協力し合ったら、うまくいくんですよ。そのための資源っていうのは地球に十分あるしね、そのように作られているんで、でもいろいろ社会問題が消えなかったり、戦争が絶えなかったり、飢えが絶えなかったりするのは結局協力できないから、叩き合っちゃうから、憎しみ合っちゃうからっていうところが本当に根本のところだと思うんですよね。
で、なぜ人は互いに憎み合うのか、その根本理由を喋っていきたいと思います。
えっとですね、まず分離が起きたわけじゃないですか、人間性の世界って言いますよね。人間性の世界、もともとワンネスなんですよね。
神しかいない、神がいてそれではい終わりっていう世界、God isっていうのは究極の真実ですから、神のみ、愛のみ、愛一元、それで以上、終わりっていうのが究極の真実なんですけど、その究極の真実の状態から分離が起こったっていうことなんですよね。
分離、本当には起こってないんだけど、分離が起こったかのように錯覚した、勘違いしちゃったってことですね。神の子がね、僕らのことですけど。勘違いしちゃった僕らはこの人間性の夢を体験しているっていうことなんですよね。
で、えっとですね、分離が起こったのは、奇跡講座的な説明だと、マガサシタっていうような表現がある、まあ奇跡講座自体じゃないんですけど、その関連の本に神の舎っていう素晴らしい本があるんですけど、そこに紹介されている例えがですね、
例えば無邪気な子供がこれをやったらどうなるんだろうっていう、すごい無邪気な好奇心からマッチ一本擦って火をつけてみたら、うちが全焼しちゃったみたいな、そんな感じらしいんですよね、この分離っていう現象っていうのは。
分離したらどうなるんだろうとか、神様なしで僕らだけでやってみたらどうなるんだろうみたいな、純粋ななんかちょっといたずら心っていうか好奇心っていうか、そういうのをちょっとやってみちゃったらしいんですよね。
そうしたら立ちどころにこの人間性が立ち現れてしまったと、それがその感覚がマッチ一本擦ったらうちが全焼してしまって取り返しがつかなくなったっていうことに例えられてるんですけど、なんかそういう感じらしいんですよね、あの分離が起こったっていうことの説明ですけど。
で、そのエゴとか自我とかっていうのは何かといえばですね、奇跡講座のテキストの中にはこういう説明があります。あのちょっと読みたいんですけど、自我とは一体何かといえば、神の子自身の意志を抜きにして、すなわち彼自身の意志と不可分の創造主の意志を抜きにして、神の子に何かが起こり得るという考えにほかならない、っていう風にコースのテキスト編には書かれています。
つまり、すごい乱暴に言ったら、エゴとか自我とかっていうのは、もう俺だけでやれるからいいよ、みたいな。神様なんていなくてもいいよ、こっちだけでうまくやれるよ、みたいな。そういうことだと思うんですよね。
で、しかもそのさっきのテキスト編に書いてあった、コースのテキスト編に書いてあったことで、しっかりね、コースはあなた方だけでは全く何も真に成し得ることなんて一個もできないんだよっていうこともちゃんと言ってるんですよね。
神の子自身の意志を抜きにして、すなわち彼自身の意志と不可分の創造主の意志を抜きにして、神の子に何かが起こり得るという考えにほかならない、っていうことを言ってますからね。これが、まあ、分離。
エゴとか自我とかの目論みっていうのはそういう感じなんですけど、そのエゴとか自我とかの目論みに扇動された結果、つまり分離っていうのは神の子、僕らが神の子ですけど、僕ら神の子が神じゃなくてエゴ、自我を選択したっていうことなんですよね。これが分離なんですよ。心の深いレベルで選択したんですよ。
神様とエゴ、自我とその二択があって、私はこっちが良いって指差ししている、自我、エゴの方を指差ししている状態、これが分離です。
恐れと罪悪感の影響
っていうことですね。だから、本当に言ったら、今も僕らは心の深いレベルでエゴ、自我の方を指差しし続けている、選び続けているんで、この夢を、人間性の夢を見続けているっていうことになりますね。
ともかく分離が起こったわけです。マッチ一本シュッて擦ったら、うちが全部燃えちゃったということですね。神の子が心の中で分離を選択したっていうことです。
で、この瞬間、ここが今日の話のテーマなんですけども、強烈なとんでもない罪悪感、恐れっていうのがここに立ち現れてきてしまったんですね。
分離をしてしまった瞬間、ものすごい罪悪感、恐れっていうのが神の子の心の中で生まれたわけです。
それっていうのは、さっきのマッチ一本擦ったらの例えが結構わかりやすいかなと思うんですけど、もうとんでもないじゃないですか。とんでもないことをしてしまったっていうことなんですよ。
神様に唾を吐いてしまった、大変なことをしてしまったっていう。面と向かって、神なんかいらないって、お前なんかいらないっていうことを神様に対して言ってしまったんだっていう。
どうしようもないことをしてしまったっていう、そういうとんでもない恐れ、罪悪感っていうのが神の子の心の中で生じたわけです。
次に神様に会ったら、もう神様はもう許されない。神様きっと怒り狂っていて、私を殺してしまうかもしれないっていう、そのくらいのレベルのとんでもない罪悪感、恐れだったらしいんですよね。
で、ここにこの恐れ罪悪感を神の子が抱いたことによって、ここから神、神イコール愛、真実ですけど、そういうものから、神、愛、真実っていうものから逃避するっていう、逃げ出すっていう、その必要性がここから生まれてしまったということなんですよね。
もう顔向けできないってことですね。次に会ったら大変なことになってしまうって、僕らは心の深いレベルで思い込んでしまったっていうことです。
そんなわけで、その分離した時に僕らの心に分離と同時に生じたとんでもない恐れ、罪悪感ですね。これが生まれてしまったと。
で、これが全てのネガティブの根源なんですよ。全てのネガティブっていうのは人生でいろいろ起こるじゃないですか。ポジティブなこともネガティブなことも、良いことも悪いこともいろいろ起こりますと。
人間性の世界ですからいろいろ起こるんですけど、そのいろいろの中のポジティブ成分、なんか幸せなこと、良いこと、居心地が良いことっていうのは神様由来なんですよ、全部。
逆にネガティブなこと、悲劇とか痛みとか苦痛とか、そういうネガティブっていうものは一方が神様由来であるのに対して、そのネガティブの元をたどったら、実は全てこの分離の時に生じた恐れ、罪悪感にたどり着くことになります。
だからこの神から分離した恐れ、罪悪感、これが全ての根源なんですよ、諸悪の根源。
だから他の人生で起こるあれこれネガティブないろいろっていうのは、もう全部この強烈な根本の分離による罪悪感の投影に過ぎないんですよ、チラつきに過ぎないっていうことです。
ということはつまりですね、本当に根本治療したかったら、この状況を本当に何とか改善したかったら、この分離の際に生じた罪悪感っていうのが根本原因なんだから、これをどうにかしない限りは絶対に根本治療にならないっていうことになります。
だから僕らが人生っていうレベルで遭遇するネガティブっていう事象、そういう体験っていうのは、その分離の際に生じた恐れ、罪悪感の投影であり、ただチラつきなので、それをいくらやっつけたところで根本治療にはならないんですよ。
その元の根を立たないと、いくらでも人生にはそういうことが何回でも、むしろ人生っていうか、輪廻転生、ゴミで何万年とかそういうタイプでこれが続くことになります。
実際その人間っていうのは何回もね、何百回とか何千回とか輪廻転生繰り返して人間をやりに肉体まとってやってますけど、
だからその理由は根本治療してないからじゃないですか、ブッダも言った通りね。
悟らないと下脱はできませんよっていうことじゃないですか。
だからその根本的な理由は、この恐れがまだ残ってるからっていうことなんですよね。
この分離の際のとんでもない恐れ、罪悪感っていうのが全てのネガティブの根源なんですよ。
根本的な恐れと罪悪感
このとんでもない恐れ、罪悪感なんですけど、これを心に抱え込んでしまった僕ら神の子はですね、
この恐れっていうのはですね、あまりに恐ろしすぎて直視することができないらしいんですよ。
そんな罪悪感とか恐れとか、いや私持ってないと思いますよとか言いたくなるかもしれないんですけど、
本当に潜在レベルの深い深い層にしまい込まれた恐れなので、
何重にもブロックがかけられて忘れ去られてるんですね。
っていうのは、それをちょっとでもチラ見しただけでも、僕らは恐怖で震え上がっちゃうんですよね。
恐怖で震え上がっちゃうからなんですよ。そういうレベルの恐れらしいんですよね。
これ本当にここで喋っている根本的な分離の時に立ち現れた恐れ、罪悪感っていうのは、
本当に根本的なレベル、分離が始まった原初の選択の間違いによる恐れみたいなことなので、
人類史でいろんな大変なことが今まで起こってきたじゃないですか。
戦争だったり、病だったり、自然災害だったりっていう、そういう色々な悲劇だったりネガティブだったりっていうのが
たくさん起こってきましたけど、それら全部ひっくるめてもまだ全然足りないっていうレベルの恐れなんですよ。
だからどんだけ恐ろしいかっていうことなんですよね。
これに、この根本的な恐れに比べたら、もう現実世界の恐れなんて取るに足らないっていうことなんですよね。
これに比べたら、どうぞどうぞ原爆何発でも打ち込んでくださいとか、どんな拷問でもやってくださいよみたいな、
そういう比較にならないレベルの恐れらしいんですよ。
直視することもできないっていうレベルの恐れですね。
エゴの策略
このとんでもない恐れを僕ら神の子は、心のレベルで抱え込んでしまったんですよ、分離を選択したことで。
ここでさあどうしようかっていうことなんですよね。
分離しちゃったんですよ、もう。
したはいいんだけど、したはいいんだけど、良くないんだけどね。
したはいいんだけど、この罪悪感、このとんでもない恐怖、恐れをどうしようかっていうことが次、神の子の問題になったわけです。
ここでですね、エゴ、自我がですね、僕ら神の子にこんなことを言ってくるんですよ。
いいことを思いついたと、エゴは言ってくるんですね。
どんなことを僕ら神の子に対して言ってくるのかというと、
分離して他者、他人っていうのを作り出せばいいんだと言ってくるんですよね。
で、その他人を作り出して、他人、つまり外側ですね。
自分じゃない外側っていうのを作り出して、他人っていうのを作り出して、そいつに罪を押し付ければいいんだよっていうことをエゴは言ってくるんですよ。
そうすれば君は、そのとおもない罪悪感っていうのを感じないで済むんだよっていうことを、僕ら神の子に対してエゴ、自我はですね、耳打ちしてきたわけなんですね。
こういうことを、エゴ、自我が囁いてくるんですよ。
潜在的なね、心のレベルで僕ら神の子に対して。
神の子はとんでもない罪悪感、どうしようみたいになってますから。
で、この話って何かに似てると思いませんか?
っていうことなんですけど、聖書の創世記に、アダムとイブが生まれたんだけど、蛇に化けたサタンがですね、ある日イブに対して、この善悪の木の実を食べるようにっていうことをそそのかしてきたわけじゃないですか。
で、それにそそのかされて、イブは木の実を食べて、それが神様にバレて楽園を二人は追放されてしまったっていう話ですけど、これとすごい似てると思いませんか?
だからその聖書の創世記のああいう話っていうのは、この分離の部分を象徴的に物語形式で説明している、そういう神話形態なんじゃないかなって僕は思ってるんですけど、まあまあそんなことですね。
とんでもない恐れを分離と同時に抱え込んでしまった僕ら神の子はですね、どうしようかと思ったんだけど、そこにエゴ・ジガがささやきかけて、他者っていうのを作り出して、二元性っていうのを作り出して、そいつらに君の罪を押し付けてやればいいんだ、そうすれば君はその罪から自由になれるんだよっていうことを言ってくるわけです。
つまり、私は悪くありませんっていうことが言えるようになるってことですね。私のせいじゃありません。悪いのはあの人たちですっていうこと。っていうことのできるための他者とか外側っていうのを作り出したんですよ、分離によって。
罪をそのとんでもないレベル、直視するのも不可能な、抱え込むのが不可能なほどのレベルの罪、恐れ、罪悪感っていうのをなすりつける、責任転換することのできるための他者っていうのを心のレベルで作り出したっていうことなんですよ。
これで他者を責めたり攻撃したりすることで、自分がその罪を抱えているっていうことを感じずに済むわけなんですよ、僕ら神の子は。
自分が抱え込んでしまったどうしようもないレベルの罪悪感、恐れっていうのを他人っていうのがいる世界に僕ら移ってきたんで、自分じゃない他人っていうやつがいるんですよ、この人間性の世界にはね。
その人たちの中に罪を見て見出して、あいつが悪いですっていうことを、そういう爆弾押しつけ合いゲームみたいなね、ことを僕らができるようになったことで、人間性の世界に来てね、できるようになったことで、
罪、罪悪感、もう抱え込むのも不可能なレベルの直視さえもできないレベルの恐れを何とかすることができてしまったんですよ。このエゴ、自我の策略に乗ってですね。
そういうことらしいんですよね。これがコースの説明になります。
二元性の世界
今まで聞いてですね、この状況どうですかっていう話なんですよ。わかる通りですね、全くこれ根本解決になってないんですよね。このエゴ、自我が提案してきた他人っていうのを作り出して、そいつに罪を押し付ければいいんだっていう、この解決策、エゴ、自我が提案してきた解決策ですけど、これは全く根本解決になっていないわけです。
なぜならですね、根本原因というのはそもそも分離によって生じてしまった恐れ、罪悪感っていうものなのに、それを困った僕らはどうしたかっていうと、エゴ、自我が言ってきたそそのおかしに乗ってしまって、
だから他人っていうのを作り出して、そいつのせいにすることによって、罪悪感の責任転嫁を図ったわけなんですよ。
で、他人っていうのは何なのかといったら、分離した僕ら神の子なわけなんですよ。だから他の神の子というか、つまり他人だと思い込んでいる自分自身なんですよね。
他人っていうのは本当は自分ですから。でも僕ら三次元的な、二元的なレベルでは、他人っていうのは自分とは思えないわけじゃないですか。それが人間性の世界なんで、分離のゲームにはまっている僕らとしてはそう思えないんだけど、でも本当は自分自身なんですよね。
自分自身のある側面を自分自身じゃないと思って目の前に生み出しているみたいなね、そんな感じなのかな。で、目の前に自分自身じゃない人を生み出せれば、そこに罪を見出して罪をなすりつけることによって自分が無罪だっていう、一時安心することができるっていうことなんですよ。
こういう構造なんですね。なので、お前が悪いとか、いやお前が悪いみたいにお互いが叩き合うことで罪を押しつけ合ってるっていう、さっきも言ったね、爆弾を押しつけ合いゲームをずっとぐるぐる回してるっていう、これが二元性の世界なんですよ。
二元性っていうのは必要があって生まれてるんですよね。全てのネガティブっていうのは何かの必要性がなければ生み出せないものなんですけど、二元性もだから必要性があって二元性が生まれてるんですよ。で、二元性が必要な理由はさっき言ったことですね。他者ってやつを作り出してそいつに罪をなすりつけてやろうっていうそういう必要性です。
それで生まれたのがこの二元性の世界になります。
なのでこれやってる限りですね、恐れとか罪悪感の総量っていうのは一向に減らないってことがわかるじゃないですか。
勝手に自分を分身の術みたいに分裂させて、私とあなたみたいなの作り出して、そいつなんか他人が出てきたからよしそいつを叩くことで自分は安心しようって思い込んでボカボカ殴り合ってるっていう状況ですから。
爆弾をパスし合ってるだけで爆弾の総量って全然減ってないんですよね。
互いに叩き合うことでぐるぐると罪を押し付け合っているだけなんですよ。
人類の歴史ってこうじゃないですか。
いつまで経ってもこんだけ科学技術が発達していろんなことができるようになって原爆さえも作ってしまった人類ですけど、
でも一向に協力できずに互いを信じ合えずに叩き合ってしまう根本理由はどうしようもない分離の恐れ、罪悪感、罪っていうものを抱えきれずにですね。
それが怖すぎるから他人にその遠いを見て他人の中に罪を見出してそれを攻撃する。そのことによって自分は安心を得るっていうこういうゲーム。
これをぐるぐるやってるだけなんですよ。
で、そうこういうことなんですよね。
僕はこの状況がですね、まあ奇跡講座を読んでこういう状況だったのかっていうのは初めて知ったわけなんですけど、ものすごい不毛だなっていうふうに感じるんですよね。
憎しみの根源
本当に意味ないなっていう。結局その見出した他者っていうのは結局のところ誰かって言ったら自分自身なんですよ。
自分自身なんですよね。だからそのスケープゴートとしての他者ってものを生み出してそいつを攻撃すれば安心なんだと思い込んでやってるこの人間性のぐるぐるゲームですけど、結局それって自分で自分を叩いてるんだっていうことなんですよ。
自分で自分を叩くっていう無益なゲームを続けてるんですよっていうことです。これが人が互いに憎しみあって叩きあってしまう根源的な理由です。
さっきも言った通り結局叩いてるその相手っていうのは本当は誰かといえば分離したかに見えた自分自身に他ならないわけなんですよ。
だってそもそもワンネスなんだから自分の他に誰かがいるわけないじゃないですか。だから世界の中で何か攻撃するってことは自分を攻撃してるのと同じなんですよね。
ということでこういう状況なのでこの状況を指して奇跡講座はあなた方は狂っているっていう風に言ってきてるわけです。
だから僕らがそのそそのかされたわけじゃないですかエゴとか自我とかにその他人の中に罪を見てそれを攻撃すればあなたは罪を完熟に済むんですよっていうその誘惑に乗っちゃって叩きあってる
二元性のゲームにまんまと乗せられてぐるぐるそれを回しているのが今の人間の状況なんですけど。
つまりですね人がどうしても叩き合いとか憎み合いっていうのをやめないのはやめることができないのは潜在的なねその心の中の深いレベルに分離の時の罪悪感ですね恐れっていうのが消えずにまだ残ってるからなんですよ。
これがすべての力道の源であるのでこれを抜きにしてこれにノータッチのままいくら世界平和目指してもそれは無理なんですよねいくら法を作って法整備したりとかあのルールを作っても無理なんですよなぜならその叩くっていう攻撃するっていう強烈な必要性を僕らが感じてるからなんですよ。
強烈な恐れを持ってるからねだから僕ら神のこの心の中から罪悪感を解体していかないとその総量をちょっとずつ減らしていかないと真の世界平和は絶対に訪れませんよっていうことになるわけです。
じゃあどうすればこの心の中の恐れ罪悪感を消すことができるのか解体していくことができるのか総量を減らしていくことができるのかっていうところじゃないですかポイントはそれが奇跡講座のいう許しっていうものになります。
これについてはこれもまた説明がすごく難しい深い話なのでこれはまたの機会に改めて話していければいいかなと思ってます。
解決のための許し
ということでした今日はなぜ人は互いに憎み合うのかということでここまで喋ってみました。
では今回はここまでにしたいと思います。
ちょっとすごい長くなってなんかマニアックなテーマになったかなと思うんですけどもし面白かったよとか思ってくれる人がいればいいねとかコメントで教えていただけたらとてもうれしいです。
というわけで長らくお聞きくださいましてどうもありがとうございました。
28:08

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