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こんにちは、カズです。 今日のタイトルは、「知の終着点は無知」というタイトルでやっていこうと思います。
おそらく今年最後の配信になると思います。 2024年ももうすぐ終わりですけどね、なかなか変化の大きな
年になっているんじゃないかなと。 さらに来年は、より大きな変化が来そうな雰囲気が僕もしてるんですけども、
そんな不死身の時期にいるんじゃないかなっていうのをずっと感じているところです。
内容はともかく、テーマ的には2024年の最後にふさわしいようなテーマをお話ししたいなと思っています。
なかなか深い話をしようと思っているので、もしご興味ある方は聞いていただけたら嬉しいです。
知の終着点は無知という話ですね。 どういう話かというと、これは別に絶対的確信があるわけじゃないんですけど、
でもほぼほぼ確信に近いところまで行っている僕の直感というか感覚なんですけど、
分かるとか、物事を知る、把握するとかですね。 分かる、知ってるっていうところをどんどんその領域を拡大していく知識をつけていって、
賢くなるっていうことですよね。それをどんどん拡大していくプロセスを進めていくと、究極的にはどこに行き着くかっていうと、
これおそらく絶対的に分からないっていうところに行き着くようになっているんだと思うんですよね。
そういうような話を今回したいと思います。
物事を知る、把握する、分かる、賢くなる。
賢くなれたらいいと思うじゃないですか。いろんなことを知ってて、これはこうだよ、あれはこうだよっていう、
全知全能みたいなのに憧れある方も多いと思うんですけど、僕もそうなんですけど、
でもそれは無理系なんだっていうような話ですね。
最終的にむしろそれを突き詰めていけばいくほどに、結局のところ行き着く先は無知なんだっていう、
結局この世界のこと分からないんだっていうところに行き着くっていう、絶対こういうふうにこの世界はそもそもなってるんじゃないかなっていう、そういうような話です。
物理学で大統一理論っていうのがあります。
物理学者たちの究極の夢みたいなところ、そういうポイント、到達点のことだと思うんですけど、
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今の物理学だとおそらく、究極的には4つの力、4つのエネルギーがこの世界を動かしてるんだよみたいなところまで説明が言ってるわけなんですけど、
4つもエネルギーの区別がある時点でそもそも統一されてないし、
だからその、要は1つの原理だけで世界のすべてを説明しちゃえるような、そういう理論というか、そういうものを打ち立てたいわけなんですよね、その物理学者たちのおそらくやろうとしてるところは、つまり世界のすべてを把握したいっていうことです。
大統一理論っていうのは、だからすべての物理現象、この世界の物理現象すべてを記述できるっていうことだと思うんですね。
すべてを記述することができる、紙の上で数式に、物理方程式に書き表すことができた時点で、イコール、それはこの世界のすべての動きを思考の上で把握することができるっていう意味合いになると思うんですよね。
で、すべてを把握するっていうこと、これが冒頭で言った、分かる、知ってる、全部知ってるよっていう、そういう状態のことですよね。
これ、なんとなく分かるようにですね、エゴが好きなやつなんですよね、これ、分かりたい、知ってるよっていうのはね、エゴの好きなやつです。
エゴは根本的にどういう欲求があるかっていうと、自分一人で大丈夫だよみたいな、誰に頼らなくても、俺は俺で、すべてコントロールできるし、うまくやれるよみたいな、
俺が一人でやるから他はいらないよみたいなね、そういうような根本的欲求があるのがエゴだと僕は考えてるんですけど、だからそれが分かりたいっていう欲求に繋がってくる。
分かりたいっていうのは、分かれば、把握すれば、コントロールすることができるようになりますから、だからイコールで繋がってるところだと思うんですよね。
今まで、物理学とかそういうモチベーションで、この世界をもっとよく分かりたい、把握したいっていうモチベーションでずっと続いてきた、リレーが物理学史だと思うんですけども、でも最近、結構スピリチュアルでもよく知られるようになってきた現代物理学の最先端である量子論とかの話ではですね、
この量子論が登場したことによって、今までのパラダイムが行き詰まって、覆されてきた感がすごいある感じなんですよね。
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というのも、そもそも今までの科学っていうのは、どういうアプローチで世の中を把握しようとしてきたかっていうと、実験を繰り返してきたわけですけど、対象物を観察することによって科学を進めてきたんですよね。
だから、実験っていうのはそもそも対象物があって、それを実験室みたいな、実験室っていう領域の外側にいる実験者、観測者が観測っていう行為を行うことによって、そこの振る舞いとか動きとかを測定したりして、なるほど、こういう振る舞いをするんだなっていうのが一個一個分かってきて、
そういう実験を繰り返してきて、自然科学っていうのが進んできたんですけども、量子論はそれがもう通用しなくなったっていうのが明らかになったっていうことなんですよね。
量子論が何で茶舟をひっくり返してしまったかというと、外側の実験室の全く無関係だと今までは思われていた外側にいた実験者っていう観測者がいるわけですよね。
その観測者がいる時点でその実験の結果に影響が出ちゃうんだよっていう、絶対その観測者がいるのかいないのかっていう観測があるのかないのかっていうその影響力を絶対に受けちゃうんだよっていうことが明らかになったっていうような話だと思うんですよね。
量子論の話で、二重スリット実験とかね、知ってる方は知ってると思うんですけど、観測という存在、観測者がいるかいないかによって結果が変わっちゃうっていうことが量子論で明らかになったんですよ。
その二重スリット実験の分子の振る舞いも変わっちゃうし、あとシュレディンガーの猫っていう、あれも結局その観測、その猫を直接開けてみるかどうかによって結果が変わるっていうような話なんですよね。
ハイゼンベルクの不確定性原理っていうのがあると思いますけど、これすごい乱暴に言ったらどういうことかっていうと、量子の位置と速度を同時に測定することは絶対にできないよ、みたいなのが証明されたっていうような話だと思うんですよね。
結局、粒子っていう物質をどんどん細かくしていって、分子があって原子があって、原子の中身は粒子があって、みたいな話で、物理的なブロックをどんどん再現なく細かくしていってですね。
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その粒子レベルの振る舞いをどういうふうに動くのかっていうのを一粒一粒特定できたら、この世界が丸ごと漏れなく把握できそうじゃないですか。
なんだけど、その一番ちっちゃい粒子の振る舞いっていうのは原理的にどうやっても把握できないよっていうことが証明されたよっていうのがハイゼンベルクの不確定性原理。
だと僕は理解しているんですけど、観測っていうのも粒子に観測するためには光を当てて、その光が跳ね返ってきたのが網膜に入って、網膜じゃなくてもカメラでもいいんですけど、それでようやく対象物が認識できるじゃないですか。
だけど光を当てた時点、光の光子が粒子に当たった時点で動きが変わっちゃうんで、だから観測者がいる時点で振る舞いの結果に影響が出ちゃって、だから完璧な観測は絶対にできないんだよみたいな、そういう話だと思うんですよね。
っていうように、たぶん物理学でも今までニュートン物理学みたいなところから世界の動きを理解しようといろいろ頑張ってきたんだけど、ここに来てもう突然全部わけ分かんなくなってしまったと。
その実験結果がわけ分かんなくなりすぎて、今物理学の最先端は何やってるかっていうと、その解釈をどうするかっていう問題に終始してるようなんですよね。
こんな直感的には、理性的には、すごい理性に反するような実験結果が出てしまっているんだけど、量子論の実験で、じゃあこれをどのように解釈すればいいんだろうかみたいな、ちょっと物理学の話なのに哲学みたいな領域にシフトしてるようなんですよね。
そんなような感じで、これも分かりたい、把握したいっていう欲求を突き詰めてて、実験を繰り返して科学を進めていった結果、もう途端に全部分かんないみたいなのに突き当たった一つの例じゃないのかなと思うんですよね。
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あとですね、この分からないっていうのが実は一番分かるっていうか、物事は正しく把握できている、分かる、英知の最終進化形態なんだみたいな話をするときに、僕はソクラテスの無知の知っていうこれをぜひ紹介したいなと思ったので、ここでちょっとお話ししようと思います。
僕ソクラテス結構好きなんですけど、古代ギリシャの哲学者なんですよね。
この人めちゃくちゃ誠実で、当時の古代ギリシャにソフィストっていう人たちがはびこってて、すごい乱暴に簡単に言うと、物知り顔で何でも知ったような口を聞くというか、自分は知者だから、すごく賢いから何でも知ってますよみたいな。
いろいろ何でも知ってますよというか、その弁論術っていうのがすごい流行って、その弁論術を教えることで家庭教師みたいな感じかな、それによって成形立てたソフィストみたいな人たちがたくさんいたわけなんですけど、
ソクラテスはその人たちに、いやいやそれはその態度はいかがなもんかいみたいな感じで問答を仕掛けていったのはソクラテスなんですよね。結果めちゃくちゃ嫌われて処刑されちゃったんですけど。
このソクラテスの無知の地っていうことを、この言葉はソクラテスが言ったわけじゃないんですけど、ソクラテスのこの哲学に対する態度が無知の地っていうスタンスだったんですよね。
ソクラテスの無知の地のエピソードが結構面白いんで簡単に説明すると、アポロン神殿っていうところで神様の神託を受けるんですよね。
神子さんがいて、神から賜った言葉をソクラテスに伝えてくれたわけなんですけど、それがソクラテスよりも賢い者はいないっていう、そういう神託だったんですよね。
ソクラテスよりも賢い者はいるんですかっていう問いかけに対して、帰ってきた神様の答えが、いやソクラテス以上の知者はいないみたいな返事だったんですよ。
それをソクラテス自身は信じられなかったんですよね。いやいやそんなはずないだろうみたいな感じになって、自分が一番賢い者なわけないって瞬間的に思ったらしいんですよね。
もちろんソクラテスすごい色々物知りだし、頭もあるし賢い人であるのはもちろんなんですけど、でも自分自身でそうは思えなかったらしいんですよ。
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なぜなら世の中の表層のことはたくさん知ってても、ソクラテス自身が一番知りたい正義とは何かとか、真実とは何かとか、愛とは何かとか、この人生の生きてる意味は何かとか、そういうことを自分は知らないって思ったから、だから自分が知者であるとは自分自身でとても思えなかったんですよね。
だからそんなはずないって瞬間的に思ったんだけど、でも神様が神のご神託でソクラテスより賢い者はいないっていう神託だったんで、神様が嘘言うはずもないしなっていうことでそういうジレンマに陥って、だったら自分より賢い者がいることを証明してやろうというふうに思ったらしくて。
世の中にいるその当時ソフィストっていう自称賢人ですよね、知者たちがたくさんいたんで、その人たちに問答を行って、自分よりもそういう賢い人がいるんだっていうことを証明するっていう活動を始めていったと。
そしたらその知者の人たちも全然ソクラテスの疑問に思っている、正義とは何か、愛とは何か、人生とは何かみたいな質問には最初は物知り顔で全然知ってますよ人生とはねみたいな態度だったんだけど、その問答を繰り返すうちに全然そのボロが出てきてしまって、最終的には知らないっていうことが露呈されてしまったんですよね。
だから最終的にソクラテスは、結果的に自分はもちろん人生とは何か、愛とは何か、正義とは何かを分かってなかったわけなんだけど、世の中のこと全部分かったって豪語してるようなソフィストたちも突き詰めてみたら、結局知らなかったわけなんですよね。
だから、あ、そうかと。彼らは知ってると思ってたけど、知らなかった。それに対して自分は、自分が知らないということを最初から知っていた。だから、その点で自分の無知を自覚しているという一点において、彼らよりも自分自身、ソクラテス自身の方が賢いということが言えるっていうところに付落ちしたんですよね。
だから、そういう意味で神様はソクラテスより賢い者はいないって言ったんだなっていう理解になって、これがソクラテスの無知の地って呼ばれてるような話なんですけど、だからこれすごい好きなんですよね、僕はこんなエピソードが。すごい大事な話をしてるなっていう。
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で、実際ソクラテスも多分この人すごく冷静が高い人で、パワーかフォースかの意識レベル測定でも哲学者の中では結構ぶっちぎりの540測定ぐらいの人なんですよね。
だからこの態度が、この無知の地の私は知らないっていう態度、知らないからこそ知りたい、だからもっと突き詰めて愛とは何か、正義とは何か、真実とは何かを議論していこうよっていう、こういう態度、これがだから霊的に見てもすごいかなったものであるっていうことが反映されている測定結果なんじゃないかなと思うんですよね。
で、スピリチュアルな領域でも、このね、わからない知らないっていう、だから全然知ってるよ、そんなことわかってますよっていう、そういう態度よりも、いや私はわからないです、私は知らないですっていう態度の方が意識レベルが高いみたいな話っていうのは結構ね、しばしば出てきます、スピリチュアルの領域の中でも。
簡単にいくつかまた例え、具体例を出そうと思うんですけど、例えば禅ですよね。
禅の中で、禅マインド、ビギナーズマインドっていう、すごい有名な、たぶんね、アメリカでめっちゃ売れた禅の本があるんですけど、禅マインド、ビギナーズマインドの中にはですね、禅マインドっていうのは目の前のものを知ってる、わかってるっていう、そういう意識ではなくて、あたかもそれを自分が生まれて初めて見たかのような。
自分が赤ちゃんで、今初めて、だから僕の目の前に本がありますけど、見たら本ってすぐわかるじゃないですか、わかるんだけど、でも赤ちゃんは本っていうものを知らないから、その本を見ても本っていうのがわかんないんですよね。
だからそれと同じような感じで、赤ちゃん、自分が赤ちゃんでその体験に初めて触れたかのように目の前の景色を見ること、これが禅マインドだ、みたいな話をこの本の中でね、言ってくるんですよね。
で、それが何かわかんないけれども、それを初めて見たときの、なんだろうな、初めて見たかのようにその目の前の景色を見ること。
そうすると、あ、知ってるよ、これはこうこうで、とか、そんなものはもう当たり前でしょ、みたいな、そういう意識状態で見るのとは全然違うわけなんですよね。
あと禅の本で、これも有名な本で、弓と禅っていう本があるんですけど、これ著者はオイゲン・ヘリゲルっていうゴリゴリの西洋哲学者の人、ドイツの。
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西洋哲学ってすごい言葉論理バリバリなんですよね。言葉っていうのはイコール区別、分離、イコール思考マインドみたいな感じなんで、すごく論理、言葉、思考のゴリゴリの人の著者、オイゲン・ヘリゲルさんなわけなんですけど、
その人が日本の阿波建造だったかな、すごい弓の聖人、達人に弓を習うっていうような話なんですよね。
で、オイゲン・ヘリゲルさんはすごく苦戦するわけなんですよね。弓をコントロールしようとすればするほどうまくいかないっていう状態になっちゃって。
で、心を空っぽにして真空状態になった時に、矢は独りでに放たれて的を射るんだ、みたいな。
そういうことを弓の達人はヘリゲルさんに説いていくわけなんですけど、その境地がどうしてもわかんないって言って悪戦苦闘するような、そういうような実話なんですけど。
で、この弓の達人が著者のヘリゲルさんに言ったのが、自分が矢を射るっていう、自分がやるんじゃないんだよっていうことを言うわけなんですよね。
自ずと矢が自然に放たれるに任せるんだっていうような、そうじゃないとちゃんと打ってないみたいな話なんですよね。
自分が矢を射るっていうのは、自分が自分がっていうことですから、エゴの意識、自我意識じゃないですか。
でもそれじゃあまだ二流で、自分はやってないんだけど自ずとそれが放たれるに任せるんだっていう。
だからこれがお任せとかサレンダーとかね、そういうような境地だと思うんですけど。
こういうふうに矢を射るんだっていうことを指導するんですよね。
だからもはや達人の意気になると自分で矢を打つっていうね、そういう経験がなくなってくるっていうことなんですよね。
これゾーンに入るとかフローに入るとかね、アスリート、トップアスリートの表現であると思いますけど、そういうのとも近しい体験のことを書かれているんじゃないのかなと思います。
あと、エクハルトトールさんのニューアースの中でもそれと関連のあるような記述がすごいあるんで、ここが僕ずっと印象に残っていたところがあるんで、これを紹介したいんですけど、
エクハルトトールさんのニューアースの中にこんなことが書かれています。
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言葉発音されても、あるいは声にならず、思考にとどまっても、ほとんど催眠術のような力を及ぼす。
言葉の前で人は簡単に我を失い、何かに言葉を張り付けた途端に、まるで催眠術にかかったように、それが何であるかを知ったと思い込む。
ところが実際には対象が何であるかなどわかっていない。ただ単に謎にラベルを貼っただけだ。
っていうことが書かれています。
つまり名前をつける言葉を使って名前をつけると、その対象物を僕らわかった。
これは犬だとか、これは本だとか、これは鉛筆だとかね、それでわかったって思い込むんだけど、しかし本当は何もわかってないんだって言ってるんですよね。
謎にラベルを貼っただけだっていう表現で言ってるんですけど、これがすごいなるほどと思ったんですよね。
これは本だって言われると、なるほど本かってすごいわかったような感じになるんだけど、それは何もわかっちゃいない謎にラベルを貼っただけだって言ってます。
これが言葉思考マインドの、このエクアルトトールさんはね、催眠術みたいなって書いてますけど、そのトリックみたいな作用だと思うんですよね。
こういう感じなんですよね。
だから、知らない、わからない、本当は知らないです、わからないですって言った態度の方が実は意識レベルが高いんじゃないかっていうことなんですよね。
それと関連してさっきもちょっとちらっと言ったんですけど、スピリチュアルの領域の中で、たぶんね、最も意識レベルの高いあり方の一つとして、たぶんね、サレンダーっていうのがありますよね。
私は知らないです、でも神様が知ってますみたいな、だから神にお任せします、天に宇宙に全部丸投げします、お任せしますっていう、この態度はサレンダーって呼ばれているものだと思うんですけど、だからこれもそういうことですよね。
僕、マザーテレスはすごい好きなんですけど、マザーテレスはすごいノープランでガンガン行動する人だったみたいなんですよね。
だからどういうメンタリティかっていうと、私はノープランでうまくいく保証もその計画も持ってないんだけど、でも神がお望みならなされますみたいなことをずっと言ってるんですよね。
それで、目の前の貧しい人たちの助けになりたい一心でノープランでガンガン行動していくと奇跡みたいな、奇跡的に資金調達ができたりとか、飛行機のチケットが手に入ったりとか、そういうことが起こってくるわけなんですよね。
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そのマザーテレスのメンタリティは、私は知らないけども、でも神がお望みであればそれは絶対に起こりますっていうことを言ってるんですよ。
それが強く信じられてるから、ノープランでも行動できるっていうような感じなんですよね。
だからこれはすごいサレンダーを体現してるようなあり方なんじゃないかなと思うんですよね。
ということで、いろいろ長々と喋ってきましたが、僕自身の話でいうと、愚かになりたくないっていうモチベーションが昔から強かったんですよね。
その間違いたくないみたいな、失敗の選択を取りたくないみたいなね。
そのためには色々と知らないから、だからまず物事を把握しようと思って、知識を得れば正しい選択ができると思っていたので、
そのために色々幅広く横断的に本を読んできたつもりだし、知識を得ようとしてきた感じがあるんですよね。
でも多分今までの話の通りですね、このやり方っていうのは原理的に多分最初から無理だったんですよね。
イメージ的には最初から負けが決まっていた勝負だったみたいな。
それが分かるまでたどっていくような道だったみたいなね。
そんなような感覚があるんですよね。
以前も音声配信でお話ししたように、もう一度選び直しなさいっていうお話をしたんですけど、
つまり間違う可能性があるっていうことが人生の意義だみたいな話です。
間違う選択をする可能性がある、間違う余地が残されている、その余地が絶対的に残っているっていうのが、
人生が人生であるための最も本質的な要素なんだっていう話。
間違える余地が残ってないと人生が人生になり得ないんだっていうような話なんですよね。
だからもう一度選びなさいっていうことを神は望んでいるっていう話をしたんですけども。
だからエゴの状態だと最初、自分でやろうとするじゃないですか。
私は知ってますとか、私はこれができますとか、私はこれを把握してるしコントロールできますっていう、これがエゴの態度なわけですけど、
でも実は最も偉大な人としての在り方、人からちょっと脱却してるかもしれないですけど、
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最も偉大な態度っていうのは実はそうじゃなくて、
できますとか、やれますとか、知ってますとか、私失敗しないのでとか、そういう態度じゃなくて、
いや私はできません、私は何もできません、何も知りません、でも神が一切をやってくれると知ってますみたいな、
そういう態度が実は真に偉大な態度なんじゃながろうかというような話ですね。
神に全お任せの人っていうのが実は最も偉大なんだっていうことです。
これイコール神に全幅の信頼を置いている人とも言えると思うんですよね。
信頼してないとお任せできないですからね。
っていうことでした。
ちょっとね最後にまとめたいと思うんですけど、だから知性の行き着く先は私は知らない、私は分からないということが分かるっていうこと、
それを悟るということ、これが知性が行き着く終着点なのではないかっていうような話をしてきました。
私には何も分からないとなったら、じゃあどうするかってなったら、もうお任せする、サレンダーするしかないんですよ。
私は分からない、物事を把握できない、この世界を把握できない。
だったらどうするかって言ったら、もっと信頼できる人がいるから、自分じゃなくてその人に主導権を任せるんだっていうこの判断。
これがサレンダーと呼ばれていることだと思うんですけど、神様は人生っていうプロセスにおいて僕たちにおそらくこれを究極的には求めているんですよね。
もう一度選び直しなさいっていうのはそういう意味なんですよ。
ちょっとね誰得になるかすごいマニアックな話をしてきたような気もするんですけど、
結びに僕が大好きな奇跡講座の一節を最後に引用してね、今回は終わりたいと思います。
マニュアルの序章かな、判断はどのようにして放棄されるのかっていうところから引用しますね。
英知とは判断することではない。それは判断を放棄することである。
それならばもう一度だけ判断を下しなさい。それは次のような判断である。
完璧な判断ができる存在があなたと共にいる。その存在は過去、現在、未来にわたる事実のすべてを知っている。
自らの審判がそれに何らかの関わりがあるあらゆる人々や一切の物事にどのように影響するかそのすべてを知っている。
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そしてこの存在の近くには歪みがないので誰に対しても全く公平である。
それ故に惜しむことなく感謝の吐息と共に判断を手放しなさい。
ということでした。かなりマニアックな回になったかなと思うんですけど、
誰得になるか無視して自分の問題意識の元を話したい内容を今日はちょっとしゃべってみました。
何か参考になったり面白かったりするところがあれば嬉しいなと思います。
それでは長らくお聞きくださりどうもありがとうございました。
それでは皆様良いお年を。