人生の責任とは
はい、こんにちは、カズです。 今日のタイトルは、「人生の責任は自分で取らなきゃダメという言葉について」というタイトルで、ちょっとお話ししてみたいと思います。
これは、僕のちょっとスピリチュアルなつながりもある友人が言ってたセリフが元なんですけど、
その友達が言ってたことで、自分の人生の責任を自分でちゃんと取ることが大事だとか、
自分の人生責任はちゃんと自分で取らなきゃダメだ、みたいなそういう教え、みたいなのがよく聞かれるけど、
なんか俺はことさらそのように特別思う必要もないんじゃないかなっていうふうに思うんだよ、みたいなことを話してたんですよ。
で、その理由はですね、だって取るべきとか取らなきゃとかいう話ではそもそもないから、みたいなことをこの友人は言ってたんですよ。
この話で、なんか僕はね結構深いし、なるほどなぁと思ったんで、あのちょっと面白いなぁと思って、
あのずっと印象に残ってたことだったんで、今回それをネタにさせてもらったっていう感じなんですけど、
そうなんですよ。 自分の人生の責任を自分で取らなきゃダメだとか、しっかりね、あの人生の責任は
取っていくことが大事だっていうのは言うんだけど、なんかことさらこれを強調する必要もそもそもないんじゃないのっていう、
なんかそういう感覚だったらしいんですよね。
なぜなら、人生の責任を取るとか取らないとかそういう話じゃないんだっていうことを言ってたんですよ。
なんかわかりますかね、えっと、そもそも人生の責任を取れるとか取れないとか、そんな選択権はだから人間にはないんだっていうことなんですよね。
だから責任を取る、取ろうと思おうが、そこから逃げたいなと思って、うまく責任から逃げるような態度で人生生きようが、どっちにしろ結果は同じなんだっていうこと、つまり絶対にその、だから原因と結果の法則ですよね。
結局その自分が人生生きてるじゃないですか、生きた、この生きているということの結果というのが絶対あるわけなんですよね、この三次元世界での話ですけどね。
真実は全く何も起こってないんですけど、真実普遍なんで、でもそのレベルの非人間の話じゃなくて、ちょっと三次元的なね、幻想バーチャル宇宙の自分の人生の話ですけど、そこでは原因と結果っていうものが支配されてる、そういうゲームルールで運営されてる世界なので、絶対に自分が人生生きてれば、そこに結果っていうのが絶対にくっつくわけなんですよね。
だから、その原因と結果の法則から逃れることは、どう生きようが、逃れることは絶対にできないんだから、そういう意味では、人生の責任をしっかり取っていくことが大事だとかってことさら言うのも、なんか違う気がするっていうか、違和感があるっていうか、そういう話をこの友達はしてたわけなんですよ。
ということなんですよね。
原因と結果の法則
つまりこの話、なんでそういう視点が持てるかというか、そうとも言えるか。
もちろん、人生の責任を自分で取っていくことは大事だと僕も思うし、それを強調するのは、しっかりと人生を生きることによって有意義な自分の人生を想像していけるっていう意味で有用なことであると、僕ももちろん思うし。
だから全然無駄だとか、そういうふうには僕も思わないんですけど、でも一個認識力を上げてメタ視点で捉えてみた場合は、確かに友人のそのぼやきみたいに、確かにそうとも言えるなみたいな話になるんですよね。
だって絶対原因と結果の法則は、僕らがこの物理宇宙で人生やってる限りついて回るし、そこから逃れるっていう余地がないわけなんですよね。
だからどんだけ人生というものから逃避しようが自由なわけですよ。
でもその逃避するっていう自由を行使した結果、結果っていうのは絶対つきまとってくるんで、だからそのつけは自分で払うことになるというか、結果はちゃんとその後に聞いてくるっていうかね、そういう話なんですよ。
だから責任から逃れられると思ってる人はせいぜい頑張ってみればいいんじゃないのみたいなね、そういう冷めた視点でもちょっと言い換えられるかなみたいなね、そういう話なんですけど。
結局何が言いたいかっていうと、結局自分が自分の人生を想像していますっていうことなんですよ。
自分が人生を想像しています、選んでいます。
毎週満週選択しています。
なぜならあなたが自分宇宙の想像主だからなんですよっていうことなんですよね。
もうこれが土台にあるんですよね。
だからそもそもそこにですね、責任を取るとか取らないとかっていう余地がそもそも1ミリもないっていう話なんですよ。
自分がもう間違いなく宇宙の中心にいた想像主なんで、自分がもう常に毎週毎週に自分の人生というものを想像しているので、
だからそこに何だろう、その結果を免れられるみたいなルートがそもそも用意されてないんで、そんなのは無理なんだっていうことなんですよね。
今選択っていう言葉を使ったので、それに乗ってですね、タイムラインを選ぶみたいなね、そういう表現でちょっとこの話を続けてみるとですね、
パラレル宇宙とかですよね、パラレルって無限にあるわけじゃないですか。
夕飯、今日の夕飯何食べようかなみたいなことを考えたらもう選択肢が結構パパパってたくさん出るわけじゃないですか。
その選択肢がたくさんある中のどの選択を取るのかによって、たかが夕飯何食べようかなの選択でさえももうタイムラインが変わってくるっていうことじゃないですか。
パラレルが変わってくるんですよね。
真剣に生きる意味
そういう自分が取っているありとあらゆる全ての行動、全ての選択、毎週毎週の全ての選択っていうのが、自分の人生の今後っていうものに、もう漏れなく全てが影響しているんだっていうことなんですよ。
なんかこの認識を持ってる人ってあんまりいないんじゃないのかなって思うんですけど、どうですかね。
なんかともすると人生ぼーっと生きちゃったりしちゃうじゃないですか。
この配信、次回の意味も込めて自分自身にも言い聞かせるつもりでちょっと喋っていきますが、
ある成功者の方が言ってたセリフでね、多くほとんどの人っていうのはもう生き方が雑なんだっていうことを言ってたのを聞いたことがあるんですよね。
雑っていう表現方法がちょっとともかくなんですけど、僕は一人一人の人生その人ができる精一杯で、人生頑張って生きてるっていう前提なので、そうだと思っているので、
なんか生半可な気持ちで人生やってるっていう人は一人もいないと思っているので、ちょっと生き方が雑っていう表現方法はともかくみたいなところはあるんですけど、
まあでも一理あると思うんですよね。この多くの人は生き方が雑なんだっていう。確かになっていうところもあると思うんですよ。
雑っていうのはなんだろうな。
例えば、今日が人生最後の一日だと思って、そういうつもりで生きるとか、あとですね、教セラの稲森和夫さんなんかが言う、
一日一日を度真剣に生きるとか、そういう言葉、そういう教えっていうのがあるじゃないですか。
今日が人生最後の日だと思って生きる、そういうつもりで生きるとか、一日一日をもう度がつくくらいですね、度真剣に一日一日、毎日毎日をやってくるとかね、そういう教えっていうのがあるじゃないですか。
こういう教えっていうのも、人生に忍び込みがちな雑さみたいなのを払ってくれるような言葉だと思うんですよ。
だから自分の人生の価値みたいなのを捉え直してくれるというか、自分のもう二度とやり直すことのきかない貴重な人生なわけですよ。
これ、それくらい貴重なものを繰り返しているはずなのに、ともすると何かまんねりっていうか雑に生きちゃったりすると思うんですよね、人間。
だけどそれがどれほど何だろうな、もったいないことなのかというか、そういうことに気づかせてくれる言葉だと思うんですよ。
今日が人生最後の日だと思ってそういうつもりで生きなさいとか、1日1日毎日毎日をど真剣に生きなさい。
どがつくくらい真剣に生きなさいっていうね、こと。
こういうことなんですよね。
だから今この音声を僕喋ってますけど、この瞬間もそうだし、この音声を聞いてくれてるまさにあなたもそうなんですよね。
まさに人生やってるわけじゃないですか、現在進行形で。
ってことは自分で自分宇宙を創造していて、その創造の結果を体験してるっていうことじゃないですか。
これはちょっと前のあなた、創造主たるあなたが創造した結果を享受してるっていうことなんですよ。
このことに思いを馳せた時に、これが毎旬毎旬、今後の人生ずっと続いていくっていうことなんですよね。
自分がとっているありとあらゆる行動すべてが、自分の人生の今後に影響しているんだっていうこと。
これがその意味なんですよね。
このことを忘れちゃったり、意識が及ばなかったりした時に人生に雑差が入ってくると思うんですよ。
人生に雑差が入ってきた時に何が危ういのかというと、雑に生きても時間は無常なので、時は進んでいくし、人生のタイムリミットっていうのはだんだん迫ってくるわけなんですよね。
一発勝負なんで。
それはもう変わんないんだけど、その一発勝負の人生に真剣に望んでも一回限り、雑に生きても一回限りなんですよね。
で、そのどのように人生を生きたかに対する結果っていうのは絶対に原因と結果の法則があるので、絶対にそのフィードバックは漏れなく受けることになりますよっていう。
これ自覚してくださいよっていう、こういう話なんですよね。
だから、まさに今もこの音声を聞いているあなたは、あなたの、あなた宇宙の人生をまさにやっている最中だと思うんで、だからこの内容をね、自分ごととして聞いてほしいんですよ、ぜひ。
僕もね、僕に言い聞かせるつもりで、自分に言い聞かせるつもりで喋っていますからね。
っていうことなんですよ。
人生の責任を取る
だから、さっきも言ったね、今日が人生最後の日だと思っていきましょうとか、一日一日を度がつくくらい度真剣にいきましょうとか、そういう言葉ですね。
が大事なんですよって言って、この音声を締めようとするとですね、最初の話題に戻りますよね、これ。
それを言おうが言うまいが、きっちりフィードバックは絶対にくるんで、別にどっちでもいいみたいなね、そういう話から始まったんでね、なんかちょっとややこしいんですけど。
そうなんですよ、自分の人生の責任、自分で取ろうと思うが、そういうことに、人生の本質とか、本気で自分の人生に向かい合って生きるとか、そういうのがなんとなく怖いから、見て見ぬふりして逃げ続けて、自己欺瞞の人生を送るっていう人ね。
今、現代日本にはぶっちゃけ多いと思うんですけど、そういう態度をとって、一見ね、逃げるような態度で人生生きようが、結局、結果っていうのは絶対についてくるんですよ。
その理由は結局、自分で人生を作っているからなんですよね。
想像主はあなたの他にいないので、あなたが想像主なんですよ。あなたが自分の人生を想像して、自分で生きて、だから自分が原因なんですよね。
人生を生きて、その中で選択してきた結果、人生を想像してきた結果、そういうものから逃れられるっていうことはありえないわけなんですよ。
この宇宙に一人しかいないから、あなた宇宙の想像主はあなた一人しかいないからなんですよ。
だから、この事実を直視した時に責任をしっかり取るとか取らないとか、そういう議論の余地が入り込む隙がないよねっていうような、そういう話なんですよ。
なんかね、ちょっと微妙な話で伝わってくれたら嬉しいなと思うんですよ。嬉しいんですけどね。
あなたが想像主なんだから、その結果を受け取るのも100%漏れなくあなたに他なりませんっていうことです。
僕のイメージだと、水晶玉みたいなのの中に入っている自分がいて、その水晶玉の内面に映っているのが現実というスクリーンに映し出された映像ということなんですけど、
だからその水晶玉のあなた宇宙に映し出されるのはあなたの潜在意識に投影された結果であって、その原因というのは100%自分なんですよ。
なぜなら、その水晶玉宇宙の中に存在する実在はあなた以外にいませんからっていうような話です。
今回の話、責任とかいう言葉がちょっときついんで、もしかしたらちょっと怖いなって思う人ももしかしたらいるかもしれないんですけど、
運転を神に委ねる
でもそこで怖いなとか、恐れが思うのはですね、それは自分の人生のハンドルを握ろうとしちゃってるからだと思うんですよ。
怖いって思うのは、自分で人生ハンドルをしっかり握ってしっかり運転しなきゃって思ってるから怖くなるんだと思うんですよね。
そうじゃなくて、スピリチュアルのチャンネルなんでね、スピリチュアルな生き方っていうのはですね、そのハンドルの主導権、ハンドルを神様に預けてしまえばいいんだっていうことなんですよ。
そうすれば楽になります、安心できますっていうことですね。
自分でハンドル操作しっかりして運転しなきゃみたいに、だからそうするとやっぱ緊張しますよね。
自分でハンドル握って運転しようと思うと、周囲にちゃんと目を配って、リスクも把握して、
あ、これもやんなきゃ、これもやんなきゃ、向こうから対抗者が来るから何秒後にブレーキ踏んでみたいな、全部計算しなきゃみたいに思うかもしれないんですけど、
そうじゃなくて、全部お任せしちゃえば楽になるっていうことなんですよね。
絶対性格で自己率0%ですみたいなのが保証されている自動運転AIみたいな、超AIみたいな存在にですね、
ハンドルを全部任しちゃって、自分はもう座席に座ってるだけですみたいな、景色を見てるだけですみたいな状態のほうが楽なんですよね。
そういう感じです。僕の感覚ですけどね。
そういう生き方がハイヤーセルフのお利口さんになりましょうっていうことです。僕が言ってることです。
精霊の声を聞きましょうとか、ちょっと宗教チックに言うと、まず第一に神の国を求めましょうってことですね。
神にそのハンドルを空け渡す、主導権を空け渡せば、もう全てがうまくいきますよっていうのはそういうことですね。
手放す、空け渡す、事実にヒレ伏すっていう全部同じことです。
つまり、エゴで決めないってことですね。自分が主導権を持たないってことですね。
こうすると楽に生きれますということです。
これらのことをもうちょっと具体的に、ちょっと解像度を上げて、僕らの身近な生活に引き付けて話すと、
並木さんが提唱してる、コヒシタフファヨ、これに従っていきましょうっていう話になります。
つまり、うちなる自分の感覚に従っていきましょうっていう話になりますね。
本当に全部繋がってくるんですよね。
ということでした。
今日は自分の人生の責任は自分で取らなきゃダメという言葉についてというテーマでお話ししてみました。
どうだったでしょうか。
ちょっとでも刺激になったとか、なるほどなと思っていただけたら、僕も喋った甲斐があったなと思うので嬉しく思います。
それでは長らくお聞きくださりまして、どうもありがとうございました。