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はじめてのカタカムナ
この番組は、書籍、はじめてのカタカムナを、より詳しく、一つ一つ丁寧に解説していく番組です。
カタカムナを日常にすぐ活かせる形でお伝えさせていただきますので、ぜひ楽しんでください。
ごきげんよう、マコットです。
マコさん、今週もよろしくお願いいたします。
お願いします。
先週のね、最後、「考えるは神に変える」、「神に変える。」
すごいなーって、すごいこうジーンと感じましたね。
大元に立ち戻ると答えがわかるっていうね、すごいなと思います。日本語って。
本当にそうですよね。
本当。
だから、それまでは考えるって悩むみたいなイメージでしたけれども、
神様に変えていくんやって思うと、どんどん考えようって思いました。
源にね、よみがえると答えを持って帰れる、ちょっとファンタジックじゃないですか。
そうですね。
ねー。
ぜひぜひ皆さんもそういうことを参考にしながら、
楽しんでいただきたいですね。
このはじめてのカタカムナを味わってください。
では今週もお願いします。
はじめてのカタカムナ
では子さん、どんどんいきましょう。
ありがとうございます。120ページのですね、今といまを聞き分ける。
こうやって音読すると一緒ですもんね。
そうですよね。
音の組み合わせで言葉ができるということに関して、もうちょっといまという言葉を例に見てみましょう。
例えば小学生の子がお友達を呼びに行って、まるまるちゃんいるーって尋ねるとします。
お休みとか放課後とかね。
いまいるよって言われるか、いまにいるよって言われるかで、
意味の違いは小学生のお子さんも聞き分けることができます。
いまいるよだったら、さっきまでお出かけしてたけど、いまならいるよっていうことですよね。
で、現象に出る瞬間の時間のことを言っています。
いまにいるよと言ったら、おにかえじゃなくてリビングにいるよってこと。
現象に出る瞬間の、この場合は空間のことを言っています。
いは現象に出る瞬間なので、そしてまは時間のことも空間のことも両方を表すことができます。
こうしてどちらもいまと表現できてしまうように、日本語というのは抽象度が高い言語なんです。
それゆえにあいまいな言語だと言われるのは、いろいろな意味合いを同時に多く含むためでしょう。
想像ではありますが、おそらく古代では一つの音で全部が伝わる感覚だったのかもしれません。
多くを語り、細かく説明しなくても通じある感性が、もしかしたら私たちにももともとはあったんではないかと思います。
こうやって改めて聞くというか感じると、そうだなと思うんですけど、このいまといま、普通に使い分けてますもんね。
そうですね。リビングっていまは言うけど、いまなのかいまなのか、標準語だったり関西弁だったり、イントネーションでアクセントをどこにつけるかで変わるみたいなのは、やっぱり不親切ではあるわけですよね。
学ぶ人からすると、えぇーみたいになっちゃうわけですけど、でも現象に出る瞬間の時間か空間なのだって考えれば、よくみんながいるところがいまだから。
で、いうことを考えると辻褄はあってるわけです。それこそその時にその文脈だとか、何しに来たのか、どういう流れがあったのかっていうナラティブを考えると、どっちのいまなのかがわかるっていうことですよね。
で、そういった忖度も含んでその表現になってるわけなので、それは曖昧だって言われてもしょうがないところはあります。でもその抽象度が高いんではないかっていうことが、いまっていう音を一つとっても感じていただけるんじゃないかなと思います。
だからそれに対してこの多くを語り、細かく説明するっていうのがいわゆる英語で言うコンテキスト文化って言うんですよね。
例えば裁判所で通用するような主語は誰で動詞が何で目的は何っていうことを明確にしないと表現したってならない。
あとで問題になるわけですよ。え、こっちのいまだったんじゃないの?みたいな。
なので、明確にしないといけないっていうのは文化の違いとか、言わないと伝わらないっていう前提だからですよね。
でも異心伝心ができるんだったら、まあね。で、わかっちゃうわけ。そういう共感力の高い文化背景があるであろうということです。
この次のページ、125ページ、日本独自の考え方のルーツ。
カタカムナには現代科学でも解明されていないような宇宙の仕組み、物質や生命の成り立ち、宇宙の本質、農業技法、病気の治し方までもが記されているといいます。
カタカムナを残してくれた上古代の人々は、もしかしたら今よりによほど感受性も鋭く豊かで、天文学、物理学、科学、生態学、発生学、心理学、医学、農学までを熟知していたのかもしれないと言われるゆえんです。
カタカムナは愛に通った姿を表すものなので、相似性ってそういうことなんですよね。
応用の範囲もあまりに広いわけですが、何らかの分野の突き詰めがあるとき、どういう節理なのかがふと踏み落ちるものなのではと思います。
例えば私であれば感覚的だったりとか心理学的な捉え方をしているのみですが、今までお会いした方々の中には先ほどの各分野をはじめ周波数に関することやデザインとか色とかアート音楽に造形が深い方もいらっしゃいましたし、
それぞれの身で積み重ねてこらえたことがあって、これを読んだり聞いたりしてくださる皆さんがどういったことを生業にされているか、また下地をお持ちなのかによってカタカムナはいろんな分野で踏み落ちるというか、生かされていくように思います。
その分野でこういうことを言ってるのかなっていうのは、それこそまこちゃんいつも言ってくださるように、同じことをいろんな先生方がいろんな表現でしてくださっていますよね。
順調なときはいいと思うんですよ。でもこれまじでどっちかなって思うとき。そのときが物差しが必要になる。
ということでカタカムナ1個持っておいてもらったらいいんじゃないかなっていうのは思っていて、126ページカタカムナが根底に流れるものは農業技法である植物派農法。
難しい本残ってますよ。メルカリとかなんか出てくるんじゃないかな。炭素循環農法単純農法って呼ばれたりしているものも炭素に注目しているところだとかもカタカムナからのもので各地で長年実践されている方もいらっしゃって、
土地を表す癒し路地、穢れ地っていうことも結構最近知ってる人多いんじゃないかな。そうですよね。癒し路地っていう本は有名な船井総合研究所の船井先生が5本昔に出されていますから、カタカムナっていうものから出てきたワードが癒し路地。
だからそこから親しんでおられる方もね。そこにいると癒される土地と木が枯れてしまう土地っていう意味で建築などで床下に墨を埋めて場を良くするようなこともカタカムナの考え方から来ています。炭素を活用しているということでね。
他にもそこに関してマクロビオティックの周りてめくる小宇宙結びの会岡部先生の5本が知られてたりとかして、そこからカタカムナが気になったという方もおられますし、カタカムナを解読された長崎光月先生とマクロビオティック提唱者の桜沢常一先生はご交流があったそうです。
ゆきかぜ先生ですね。
なので、なんとなく、例えばヨガとかもですね。
沖ヨガとか、昔からの古来の武術だとか相対法とかご存知の方は、一回ね、お話し会に来てくださったのは和道ヨガっていうのをされている方がいらっしゃったんですね。和の道のヨガね。
で、三木座膝っていう、例えば正座をすることを三木座膝って言うんですよ。カタカムナでね。九肥の悟りとかってね。体を整える方法もたくさん教えられてるんですけど。
で、そういったことを教わるんだけど、でもカタカムナそのものが何なのかっていうのは先生は教えてくださらなかったんだって。やっぱ危ないって知ってたんだと思うんですけど。
カタカムナそのものについては何も伝えてくださらなかったので、聞きに来ましたっていう方がいらっしゃいました。
戦後の日本で生かされた可能性も、っていうので、健康や医療に関することも今でこそ聴覚、勤覚とかね。
特に免疫とかコロナとか言われたときね。古くからは血液は腸で作られるなど、千島学説を唱えられた千島貴子先生もまた、
ならさき先生とご縁があった方なのだそうで、他にも体を整える方法にも活かされており、その中ではカタカムナから来ている言葉も広められていたようですと。
文字自体については教わることがなかったので、と概要を尋ねに来てくださったり、こうして日本において、
哲学的、物理的な独自の根幹のようなものが根底でカタカムナとつながっていることも多くあるように思いますし、
神秘的、宗教的に捉えないこと。これが127ページですね。片上奈で言う音の響き。
一応一応に意味があるっていうのは、いわゆるその日本古来の神道とか古神道で音玉とか言玉って呼ばれる捉え方ともちろん一緒なんで、根っこが私の思うにね、似てます。
もちろんルーツが同じなんだから当然だと思いますが、音玉こと玉というとちょっと神秘的な感じになっちゃう。
戦後日本の神道、古化神道と言われるものとなんかごちゃになっちゃったりとかあるらしくて、私はなんとなくそのように表現しないようにはしてます。
あくまで片上奈は宗教的なもの、神秘的なものとして扱わないようにっていうことがね、すごい厳しく大事に言われてたんでしょう。
これはなぜかというと、そのように扱うと必ず上下関係が生まれるからだそうで、そうすると自ずと互いの相違もはっきりとしてしまうということかもしれません。
あくまで個々の感受性でどのように受け取るかを大切にするということを示しているように思います。
だからね、上下関係が生まれるというのは組織化されちゃうんですよ。
派閥ができたり。
できますね。
何何派、何何流、何何式っていうのでどんどん枝分かれしていくっていうのが今までの流れだったと思うんで、悪いことじゃないですけどね。
で、それがやっぱり上下関係ができるっていうのはね、今日もちらっといろんな話してましたけど、やっぱり組織になっちゃう。
もう、表選挙裏選挙みたいな。
なんで対立しちゃう。どっちが本物だ。
そうですよね。
なので、そうするとちょっと切ない世界に文化分離しちゃうばっかり。
で、病院の診察内容とかを何々か何々かっていうのを見てるといつも思うんですよ。
だからもう、信用機関の中に、循環機関の中にどんだけあるんだみたいな。
大きい病院行くとびっくりしません?そんなに分かれてんの?みたいな。
で、その一部をもうすごい正確に精査してみて、そこで何か問題を見つけていって治療しようみたいなのが、近代医学はどんどん文化分離していくっていう感じじゃないですか。
でも、逆に元々の、例えばチベット医学であるとか、中医学であるとか、東医学みたいなのは、ホリスティックに見るわけですよ。
全体の中で、例えば腎臓で起きていることが、例えば膝に現れてるとかいうことがあったりは、実は全体で成り立ってるんであるわけなので。
そういう、今は、おもとの原理と両方を踏まえていく時代なのかなと思うので、その時にカタカムナがね、宗教的神秘的に扱っちゃうと分かれちゃう。
そうですよね。別に分かれてもいいですけど、対立さえしなかったらね。
そうなのよ。だからもうね、そこで喧嘩してるとかが本当にもう、もともともないというかね、あのことなんだなと思います。
だから、私、天の整備先生という方とね、活動をしばらくさせていただいてるわけですけど、やっぱり、もともとうの先生から直接に教わったっていうのが天の先生でいらっしゃるので、
やっぱり、平和のためにあるものだからって、本当にそういうふうにおっしゃって、なんか対立があるとすごく悲しそうになさるんですよね。
でもまあ、もうご引退もね、されていく5年目になられてるので、まあそうだと本当に平和ありにね、私たちがね、本当に水面下で自分たちの暮らしにあくまで生かしていけるといいなっていうふうに思っています。
そうですよね。やっぱり、あこさんの話を聞いてて常々思うのは、本当に知ってて役に立つというか、それを活用すること、実践というかね、その生活の中に取り込むことによって、よりこの良さみたいなものが出てくるのかなと思いますし、
なんかその派閥でどうのこうのとかよりも、いえいえ、そんなことよりも使って自分たちが幸せになろうよみたいな感じの方が、僕としても嬉しいかなと思いますけどね。
だから音の響きをね、掘り下げたり深めたりね、なんかここなんでこう呼ぶんだろうとか、僕なんでこんな名前になったんだろうとかって考えるのってね、お金もかからないじゃない。
いくらでも楽しめるし、私とかだったら各地お邪魔するときにね、もともとの土地の名前とか探すの本当大好きだから、だからもう駅名では消えてるんだけど、公園の名前とか橋の名前に残っているんですよ。
ここもそういう土地だったのかとか、ここはあっちと繋がってたのかっていうのがね、発見できるのはもう本当RPGみたいで楽しいですよね。
そういうラストダンジョンだと思いますよ、日本なんて。そういう紐解いていける宝地図みたいな土地だなって。
そうですよね。地方行ったときに、あれここにも違うところでもあった地名が一緒だよねみたいなところって結構ありますもんね。
そうなんですよ。上手い具合にわかりにくくされてるんですよ。
本当ですね。
そういうのもね、探りながらいろいろな土地を見に行くっていうのも面白いかもしれないですね。
ぜひぜひ。仲間はね、そういう人いっぱいいますからね。だからもう機内説、九州説とかだけじゃなくて、実は岡山に一番隠れてるとか、実は愛知に埋め込まれてるとかね、北海道にとかね。
それぞれの土地にヒントが隠してあるポケモンGOみたいなもんだと思っていて。
なるほど、なるほど。
あっちこっち行けば行くほど面白いのって。これね、他ないですよ。
あっても薄いっていうか、少ないっていうか、申し訳ないけど。
日本ってやっぱりすっごい凝縮されてるんですよ。この狭い土地にどんだけの人口が住んでるかっていうことを考えても、やっぱりもう縮図だなっていうのはまさに思いますね。
はい、次ですね。
特定の名前やお姿のない世界。128ページです。
カタカムナが伝えるものは、物の理、あくまで物理だということが重要で、それはただそうなっていると表現されています。
東から日が昇り、西へ沈む。そうしてなぜか次の日、また東から昇ってくる。ただそうなっているっていう様子においては、特別に偉い人は存在しないんですよ。
誰かがおじさまを押し上げたり、押し下げたりしてないじゃない?
引っ張ったりしてないじゃない?
特定の姿や名前もないのです。世界の主な争い事は、どの神様が好きなのかで起こっていると言われてるというか、私言ってるんですよね。
先祖代々、小さい頃から国や地域で敬って染み込んでいる宗教感、男女感が色濃い場合は、今後変化していくとしても気の遠くなるような時間がかかるように思えます。
何々教、何々教で教えられていることですよね。
ところが日本では、私たちの多くは初詣に行くし、お墓参りするし、ハロウィンで騒いでクリスマスを祝います。
それどころか山にも滝にも樹木にも湧き水の一滴にも八百万の神様が宿っていらっしゃるという独特な元々の感覚も未だに根付いてますよね。
そうですよね。
今のところ先進国と呼ばれる国で、そんな不可思議なところが他にあるでしょうか?いな!
そうですね。
ないんですよ。
ないですよね。
行ってみて、まじで他の国。
ないからっていうことを一生懸命言ってますね。
全てのものにスピリットがある。そういう感性でなければできないことが今後あるように感じています。
特定の唯一絶対的な、これが一神教と言われるものですよね。
唯一絶対的な存在がはっきりしていないからこそ、多様な個性にもフラットに捉えられることがこれから大切であるような気がするんです。
みんな違ってみんな良いとか簡単に言うけどね。
一神教の国でそれは言えないわけですよ。
そうですね。
絶対の神は絶対だから。
それがなかったら生きていけないんだから。
信仰ってそういうものじゃないかと思うので、
本当にそこで生まれて育って、おじいちゃんおばあちゃんもそこを信じ、その信仰を持ってきた人には
それを奪ってしまうのは背骨を失うようなものだと思うんですね。
その感覚が日本人にないんですよ。
ですよね。
背骨になってないもん、それが。
代わりになるのだとしたら、母国語っていうものなのかなと思うんです。
共通して持てる倫理とか道徳とか、そういったものもいただきますであるとか、おかげさまであったりとか、そういったものと言えるのかなと思います。
だってすごいですよね。
普通だけど日本人にしたら神社行ってね、大事な日に手を合わせてお参りするわけでしょ。
そこに掲げてあるものは鏡なんですよ。
カタカナ知っていれば、ヤタの鏡とかヤタカタカミの神って言うと鏡だよねって思うけど、でもそこに映るのは自分なんですよ。
そうですよね。
そんな宗教ある?
ないですよね。
なんかおじさんがぶら下がってたりとか、ごめんなさいね。
とても美しい人が描かれてたりだとか、そういったものじゃないんですよ。
鏡なんですよ。
あなたですよね。
お前だよって。あんたですよって。帰り見てって言われてる感じ?
そうですね。
我が身を帰り見てって。
なんかハッってなりますよね、鏡見ると。
そうですね。
ピカピカに磨いてあればあるほど。
で、そこにあるものに自分にお願い事するんですよ。あれ不思議じゃない?
そうですね。
それはもう他の国の人からしたらめちゃめちゃ不思議なわけ。
すごい美しい存在とか、
敬いたくなるような荘厳な彫刻とかじゃないわけですよ。
白い紙一枚みたいな。
本当ですね。
本当にそうなんですよ。びっくりしますよ。
白い紙一枚の不思議をね、日本によくあるお仏壇とかもね、
空とか雲とか描いたりして、上に貼り付けたりするじゃない?
あれで上に何もないことになる。
すごいずるいですよね。
雲って描きますからね。
本来ならば一番上の階で神棚を祀るのに、その上に階があったら、
これ雲って貼ったらいいんだよとか。
申し訳ないから雲のことにしようみたいな。
そうですよね。
もう充実の世界ですよね、こんなの。
本当に出雲さんとかにお参りすると、やっぱり神迎えをする時に、
お姿は見えないんだけれども、そこにいらっしゃることにするという時に、
白い布を運びながら、おやしろにお休みいただくっていうね、
禅公からの神様を迎えして、出雲のおやしろにお連れする時は、
白い布を使うわけですよね。
その辺もね、もうプロデューサー誰だみたいな。
本当ですね。
ジブリじゃないだから。
演出家すごいみたいな。しかも予算かからない。
本当ですね。
いやもう本当、ディレクターとしてはびっくりしますよ、あの演出は。
でもみんなでそこにないものをあることにすることが、
うやうやしく成り立っているんです。
そうですね。
もうこんなことができるのは、日本しかない。
本当。
本当に。何の話やって思われるかもしれないですけど、
次回もぜひついてきてもらいたいと思います。
それも含めて楽しみにしていきたいなと思います。
ありがとうございます。