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身体が「考える」って何?──哲学者・市川浩とメルロ=ポンティから読み解く〈身〉の知
2026-02-17 37:57

身体が「考える」って何?──哲学者・市川浩とメルロ=ポンティから読み解く〈身〉の知

鍼灸師・柔道整復師として17年、3万人以上の身体に触れてきた大沼竜也が、哲学者・市川浩の〈身〉の概念とメルロ=ポンティの現象学を手がかりに、「身体が知っていること」について語ります。

なぜマッサージ後にコリが戻るのか。「やる気が出ない」「毎日が同じに感じる」が実は身体の問題である理由。そして、言葉になる前の身体感覚=原感覚(Gen-Kankaku)が、私たちの判断や知覚をどう支えているのか。

ダマシオのソマティック・マーカー仮説、ポージェスのポリヴェーガル理論、ギブソンのアフォーダンスなど、神経科学・生態心理学の知見も交えながら、「身体の教養(ソマティック・リテラシー)」の核心に迫ります。

▼ 身体の教養を深めたい方はこちらhttps://www.somaticstudiojapan.com/tatsuyaonuma

#ソマティクス #身体の教養 #原感覚 #メルロポンティ #市川浩 #ポリヴェーガル理論 #身体動態瞑想 #鍼灸 #ソマティックリテラシー #大沼竜也

感想

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00:00
あの、今日はね、ちょっといつもと違う入り方をしたいと思います。
僕こう、針を刺す仕事をしてるんですけど、針を刺す仕事って変だね、なんか。
そんな怪しい仕事じゃないですよ。
あの、神経師で神経をやっていて、そこでこう臨床として患者さんを受け入れて、
身体の問題、普通にコリとか怪我した痛みとかっていうのもやれば、
心理的な症状、メンタル面とかの施術とかっていうのをしているんですね。
で、その中で、インスタとかで話してるのは結構こう、なんだろう、
こういう捉え方をするといいよとか、こういうケア方法をするといいよとかっていうのがあるんですけど、
発信も僕の中では治療の一環のようになってきてるんですね。
こういうのを日常的にやってもらうことで、
よくなる速さも変わってくるし、何より自分で自分を調整するスキルっていうのかな。
技法っていうものが身についていく。
そうすると、そうすることで初めてクライアントの方も自分の体とうまく付き合えるというか、
自分の体っていう潜在的なところを一番引き出して自立していけるっていうところを望んで、
いろいろこう、なんだろうな、介入というか手助けをさせていただいているんですね。
その中で針打ったりもするんですよ。せっかく針が打てる職業なので。
やっぱね、自分で体を感じて調整していくのもすごく重要なんです、プロセスとしてね。
やっぱ自分で感じようとして動かしていくということで、
どんな障害とかストレスがあったとしても負担があったとしても、
自分で調整しながらまたそれに向け合っていけるからですね。
なんだけど、どうしても不調に不調が重なって体もガチガチになってってなっちゃうと、
感覚どこを頼りにすればいいのって、そういうちっちゃな感覚も分かんなくなってきちゃうっていうことは結構あったりするんです。
SNSとかでも見ててくださって、なんか大生こう言ってるけど、その感覚全然分かんないなみたいなのもあったりすると思うんですよ。
そういう方がもし臨床に来たというときは、
施術をすることで快適な力ですよね。
僕の方である程度緩めてあげるっていうことをすると、
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あ、この感覚?とかっていうのが、
施術の時だったり日常の中で感じやすくなるんですよね。
その自立していくサイクルっていうのを早めることができるわけです。
その中で僕もずっと、数えれば18の頃からこの業界にいるので、
何年くらい?気づいたら結構な年数、
人の体に触っているんですよね、毎日。不思議ですね。
そうすると、針を刺す瞬間とか、お体に触れた時っていうのが、
指先で感じるものっていうのがあるわけです。
なんかこういうとちょっとかっこいいですね。
指で読むみたいな。
いや、全然かっこよくないんですけど。
そう思わせてくださいね。
皮膚の抵抗感だったりとか、
目に見えないんだけど、触った時の反発してくる感じとか、
中の方に脂肪の層があるな、筋肉の感じがあるな、
で、その何センチっていうのも具体的には思わないですけど、
大体このくらいの深さのところに骨があるなとかっていうのも、
なんか言葉に区切るとおかしい感じするんですけど、
3センチ奥に骨があるなって。
そんな感じじゃないんだけど、
そんな感じのことを指で感じるようになってくるわけです。
なんとなくイメージしてみてほしいのが、
生まれつき目が見えない方とかって、
目が見えない分、音の反響でどういう環境に自分がいるかとか、
手の感覚だったりとかっていうのが、
目が見える人に比べてすごい敏感なこととかがあったりするらしいんですよね。
それと、やっぱり同じようなことが毎日触っていると、
その感覚っていうのがたぶん育ってくるんだと思います。
これは多分多くの臨床感の人が共感してくれるんじゃないかなと思うんですね。
僕が特別だとかっていうわけじゃないですよ、全く。
たぶんもっと敏感に感じれるっていう人もいると思います、上手な方は。
でも、これって何とも言えないこの感じ、
このクライアントの方の話を聞いて、
こういう悩みがあって、こういう症状を感じていて、
こういう診断を受けててって聞くと、聞いてたのと、
実際に体に触ったときに、
あ、なんかこういうタイプの人かな、こういう感じかな。
ラベリングするわけじゃないんですけど、
06:01
なんとなくこっちの方向に治療を進めていったら、
スクリーニング、
施術全体が、施術の計画っていうものが
そつなく進んでいきそうだなっていう、
なんとなくの直感っていうところからスタートするんです。
これはロジックとか関係なく、自分の直感に従ってるってわけじゃなくて、
セオリーというのがあるんですよね、やっぱ治療の中でも。
一応医療行為にあたるので、
その中の枠組みの大事なことを守りつつも、
こっちの方がよさそうだなっていうのが、なんとなく
自分なりのその道筋っていうのが直感的に立つことがあるんです。
で、進めていって、だんだんとこう、
あ、やっぱりこっちだったなとか、
あ、ちょっとこっち側に行けばいいんだなとかっていうのが分かってくるようになる。
で、これがただ単に、あ、ここに骨があるなとか、
あ、ここら辺にすごい懲りがあるなとか、
あ、なんか血の巡りが悪そうだなとか、
そうやって切り抜いたものといえばそうなんだけど、
それだけではない気がするわけです。
そんなことを感じてた時に、
ある哲学者の市川博さんっていう方が書いた本に出会いました。
身の構造・身体論を超えてっていう本なんですけど、
これはブログの方でもちょっと書いてたんですけど、
僕もソマティックスとか身体論に関連した情報とか小説とかを
たくさん集めて読んでたりとかするのは好きなんですけど、
これもね、いわゆるジャケ買いですよね。
身体論って書いてあったからもう問答無用で手に取ったんですけど、
後から知ったのが市川博さんという方が
この身体性についてすごく研究されていた方だったっていうのなんですよね。
これがすごく面白くって、
何が面白いのかっていうと、
西洋の哲学ってずっと精神と物体っていうもので、
人間を2つに分けて考えるっていうのが割とセオリーだったんですよね。
デカルトが言ってた心身二元論とかもそうですね。
二元論ってよく聞きますよね。
でもこの市川さんはそれを身っていう、身体の真ですね。
身っていう、その一つの概念で捉えようとした。
もう全部一個体として身っていうふうに言ったらどうなんだっていうふうに
09:00
この本では語られていました。
市川さん曰く身っていうのは身体でも心でもなくて、
そのどっちでもあるっていうことですね。
これだけじゃない、全部含めた概念が身なんだっていうこと。
って言うと哲学っぽくなってきて難しそうだなって思う方もいるかもしれませんね。
なんか抽象的だしね。
でもこれ日本語で考えると結構分かりやすいと思います。
身に染みるとか身悶えするとか身を凍じるとかっていう言葉ありますよね。
これ全部、それって心のことなのか身体のことなのかって分からないと思うんです。
両方で使うんですよね。
身に染みるっていうのは心の話なのか、それとも身体の話なのか。
あー美味しいの食べて身に染みるわーとか、優しさが身に染みるわーって。
頭に染みてるわけじゃなさそうじゃないですか、精神とかね。
そっちにもちろん染みてるんだけど、じゃあ身体だけに染みてるの?って言うと、
傷口に塩水がついて、あー染みるーみたいな、洗剤がついて染みるーみたいなのともちょっと違う気がするしね。
で、こうどっちとも言えるわけです。
精神のところも身体のところもどっちとも言えるような気がする。
どっちでもあると。
で、この市川博さんはそこに目をつけたわけです。
西洋的な新しい人間論じゃ組み尽くせないと。
で、身体の血の有りかっていうものがあるんじゃないかっていう風にこの方は言います。
で、これが僕の臨床の中での経験と繋がってくるんですけど、
例えばこう慢性的な肩こりの方がいるじゃないですか。
凝ってるから見ほぐしましょうっていう風に言ったりする。
それが普通というか当たり前の直感的な反応だと思うんです。
凝ってるから、よっしゃー。
肩が凝ってるんだってなったら僕もまず肩から触れます。
でも、施術して、この筋肉が柔らかくなったぞーと思って、
軽くなりましたーって言って、ありがとうございましたー、またお待ちしてまーすってやった。
もうね、3日後とかにはまた戻ってきてるんですよね。
1週間後にまたいらして、みたいなことがよくあります。
昔本当にこれでね、何やってんだろうってすごい病みそうになったことがありましたね。
で、揉みほぐされたのが筋肉だけだからこういう風になってるっていう見方ができるわけです。
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その筋肉をそういう風に、その体をそういう風に使ってい続けている体の無意識的なパターンっていうのがある。
これをメルロポンティっていう原子音楽とかの哲学者ですね、フランスの哲学者の方が、
神体図式っていう名前を使って説明していたりします。
無意識に僕らは体をこういう風に使うぞっていう風に、
もう体に染み付いているんだっていう言い方をしました。
で、ある科学者の方はその神体図式って概念が脳のこの部分に形成されているんじゃないかということも言ってたりしますね。
このマッサージっていうのは物理的な体にはアプローチしているんだけど、
身にはまだ触れていないということになります。
市川博士が言う身の本当に片隅にしか触れていないということになっているわけです。
だから僕がこれまでマッサージしても針しても何日か後にはまた元に戻っちゃうみたいなことが起きてたのは、
おそらくその身に触れていられなかった、身に触れることができていなかったからっていう見方もできるわけです。
先ほど説明したその神体図式の概念、これを提唱しているフランスの現象学者のモーリス・メルロポンティという方がいます。
この人が1945年に「知覚の現象学」という有名な本を書いています。
そこで体っていうのは世界を経験する主体だっていう風に言っているんですね。
体っていうのは世界を経験する主体だ。
体が精神の入れ物なわけじゃなくて、それ自体が思考して、体自体が思考して、
知覚して、世界と交渉する存在なんだよっていう風に言っています。
すごいなんか難しそうな言葉が並びますけど、
要は二元論、心と体っていうのが別個になっていて、キリスト教的な西洋的な解釈で言うと、
魂の仮の器が体だよとかって言ったりするけど、モーリス・メルロポンティはそれを否定するんですね。
僕らは体なんだっていう風に言っているわけです。
だって何を触るにも何と触れるにも体でしょと。何かを聞くのも体だし。
体がなかったら思考も回らないんじゃないかっていうことを客説的に証明しているんですよね。
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で、これ僕の臨床の経験の中でも同じことが毎日のように目撃しています。
体の緊張っていうのがふっと解けた瞬間にその方の表情が変わっていく。
声のトーンも変わったりします。
それがきっかけで、もうずっと体が苦しかったのに施術していって体がほぐれてくれば、
心の使い方も変わってくるわけだ。
なんかちょっとピリついた雰囲気で、少しネガティブなお話とかが多かった方も体のほうほぐれてきて、
余裕が出てくると、なんかこういう楽しいこともしてたな、会話の中でね。
楽しいことをその感覚から思い出してきて、
あれやりたいな、夏になったらとかっていう話が出てきたりするんですよね。
そういう心の働きまで変わっていったりする。
これをリラックスしたから気分が良くなったんでしょっていう風に思うかもしれないですけど、
そういうことなんですよ、つまりは。
リラックスしたから気分が良くなる。
体がリラックスすれば気分は良くなるわけです。
体のその構成的な変化っていうものが、
近くそのものの在り方を変えてしまうっていう、
それが現象として起きているんですよね。
市川さんはメルロポンティの思想っていうのを、
日本語の感覚で咀嚼し直しながら、
独自の身体論っていうのを展開していきます。
中でも僕がすごい好きだなと思ったのは、
体は道具ではないと、世界との接触面そのものであるっていう洞察。
かっこいい言葉ですね。
僕たちは体を使って生きているんじゃなくて、
体として生きているんだよっていう風に言っています。
アソマティックス、僕がいつも話している身体論の根っこにある思想ですね。
もうちょっと具体的に踏み込んでいってみましょうか。
僕が臨床とか実践の理論の中の中核に据えている概念として、
原感覚というものがあります。
これは何かというと、言葉とか言語とか、それから感情とかっていうものが発生する以前、
つまりこう、心地いいなとか気持ちいいな、気持ち悪いなっていう、
その言葉が出る前、これは怒ってる、なんか嫌だなとかって、
そういうのが思う、言葉がつく前の体の感覚のことを言っています。
体の深部、深いところに立ち上がってくる、純粋な物理反応のことなんですよね。
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物理的にその体が変化していっている。
例えば広がっていくふわっとした感じとか、ぽやーっとあったかい感じ、
それからさらーっと流れるような感じ、風が通る感じとかっていう風に表現することもあります。
あるいは逆にギュッと収縮するような感じとか、さーっと冷たくなる、すーっと冷たくなる感じ、
それからギチギチと固着するような、固くなるような感覚。
この心地いいなーっていうのと、気持ち悪いなーっていうのと、
このなんとなくの感覚というものが、僕たちの体の生存というのを根底から支えてくれる、
ナビゲーションのシステムみたいになっているわけです。
この原感覚という概念は、実はいろんな複数の学術的な知見というものを参考にして、
僕なりに扱いやすいものとして使っています。
例えば、一番近いのはアメリカの心理学者のユージン・ジェンドリンという方がいます。
ユージン・ジェンドリン。
この方が言っているフェルトセンスというのがあるんですけど、
これはまさに言葉にならない、身体的な意味の含みという風に言っています。
ジェンドリンというのはフォーカシングという言語化のある種のプロセスを重要視しているのかなという風に僕は思っています。
つまりその感覚って言葉として表現するとどんな感じっていう風にそこを強調して、
言葉でセッションを進めていきながら、施術、治療の方に向かっていくんですよね。
僕は普段からやっぱり身体を触っていたりとか、解剖構造とか運動とかに比較的強いと思うので、
そっちの方に持っていった方が改善する方も多いんじゃないか。
多いなっていうのを自分の実感の中で思っているので、
その原感覚、例えば胸のとこがホワーっていう風になった心地よさを感じた。
心地よく感じるってことは、身体が良い方向に行ってるっていうことです。
つまり身体合理の方に行ってるっていうこと。
じゃあその状態を再現していくために、それはどこで起きているの?という風に見ていきます。
胸のとこですと。胸のとこでフワーっとする感じ。
フワーっていうのは拡張する感じですよね。
じゃあその位置って大体どの辺?表面?触れるところ?それとももっと奥のところ?見ていきます。
どうやってその原感覚というものをできるだけ具体的に物理的な身体に接続していくと、
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なんだ、それってもしかしたら肋骨?胸郭のところの筋筋中による筋肉が固まってギューってなっちゃってるのが
フワーっと開けた、ほどけた瞬間の感覚なんじゃないの?
だからあなたがリラックスしたり、幸せだなって感じる瞬間は、
その物理的な体のところで言えば、胸郭の周りの筋肉がほぐれた時なのかもしれないという風に考えるんですよね。
なのでその感覚というところを身体の教養とか、動画学習コース、ジャーナリングのコースの中では、
自分のなんとなくの感覚というのを、確かに体のここで起きていることだ。
だからこういう具体的な方法として、身体胴体瞑想というのを伝えています。
そうやってほぐしていけば、その時の良い感情、良い感覚というのを再現できるよねという風にやるんですね。
これが何でかというと、僕自身が解剖学とかの方、もともと体を触る触手というのもあるんですけど、
言葉に無理やりどういうことどういうことって聞いていくことのリスクというものも感じているからなんですよ。
言葉にすると、なんかこぼれ落ちちゃうものがあると。
なんとなくという風に言いますけど、言葉で表現するのが大変だからなんとなくという風に言ったりすると思うんですよね。
言葉にしにくいもの。
あえてこれを言語化することもとても意味があることだと思うんですけど、
そこまで重視しなくても、結局体の方が良くなってくれれば、その思考の方も円滑に回ってきてくれるので、
言語化もその後上手になっていくというのがあるのかなという風に思っています。
例えば、ソムリエの方いますよね。ワインを飲む人。
ソムリエがワインを味わう時に感じているあの感覚ってあると思うんですよ。
皆さんもワインを飲んだ時のことを思い出してみてください。
ワインなんていつ飲んだかな最後に。
独特の味がありますよね。
あの味を、例えば、ベリーを感じるなとか、果実の感じ、夏の風味がするとかさ。
前ね、僕もすごい素敵なレストランに行った時に、後ろの方の顔が見えなかったんですけど、
24:10
女性の方だな多分な、ワインを飲んだ時に。
あーなんか地中海の香りがするねーみたいにおっしゃってたのを聞いて、
それ俺わかんないなその感覚って思ったことがありました。
そんな風にね、言葉に表現できるっていうことは、
その体験を自分が昔してるっていうことなんですよね。
もしくは似たような体験をしているから。
ワインを飲んだことで思い出される身体的な体験っていうものと似てるから、
地中海にいるような感じがするとかってなるわけです。
もしかしたらその人は地中海に行ったことあるのかもしれないですよね。
地中海に行った時の飲んだ時の体の状態。
もちろん味っていうのもあると思います。
味を味わって。
その美味しい味に触れた時に、地中海でバカンスを過ごした時の
その体の状態っていうのがもしかしたら再現されているのかもしれません。
ただ単に同じ味ってわけじゃないと思うんですよね。
毎日同じ銘柄のビール飲む方とか、
毎日同じ銘柄の飲み物飲む方とかね、わかると思うんですけど、
タバコとかもそうだね。
微妙に味が違がったりするんですよね、毎日。
イライラしてる時に。
僕だったらタバコを吸うので、せかせかタバコを吸う時と、
ある休みの日に体いっぱい動かして、
ふーって思った時に吸うタバコの味だったりとか、
仕事一生懸命やって、
あー今日もいい仕事できた気がするなーっていう満足感の中で吸うタバコとかでは、
また微妙に味が変わってくるんですよね。
ちょっと話が逸れちゃったんですけど、
そうやって言葉に翻訳するってことは、
自分の中で名前が付けられない感覚、
名前になる前の感覚っていうものがあると。
その引き出し、言葉の引き出しがない方は、
美味しいとか苦いしか出てこないわけです、言葉としては。
でも感じてはいるんですよね、その感覚。
僕もよく、美味しいとかちょっと美味しいみたいな、
表現の語彙力が少ないから、
よく笑われたりするんですけど、
多分ね、感じてる情報量としては、
多くの方が多分同じなんだと思います。
もちろんその解像度がね、この言葉を使えるからこそ、
27:05
感じられるっていうのが出てくるんだと思うんですけど、
味覚の解像度が低いんじゃなくて、
言葉とその感覚の接続っていうのが、
まだ育ってないっていう見方もできると思うんです。
なんか自分を正当化させるみたいで、
ちょっと言ってて恥ずかしいんですけど、
そういう風にも言えると思うんですよね。
だから表現できないからといって、
一周するのはちょっと違う気もする。
ここでちょっと科学の話も入れてみましょう。
神経科学者のアントニオ・ダマショーっていう人が、
ソマティックマーカー仮説っていうのを出しています。
体が発する微細な信号、
胸がざわつくとか、胃が重いとか、
背筋がスーッと伸びるとか、
そういう理性だけじゃ到達できない
判断の精度を支えている、
こういうなんとなくの体の反応っていうものが、
理性を超えていくんじゃないの?
っていうことを言ってたりします。
それから最近すごく市民権を得てきた言葉で、
ポリベーガル理論っていうのがありますね。
スティーブン・ポージェスっていう方が唱えている理論。
これは自立神経系が自分らの認識とか意識よりも、
先に安全とか危険っていうものを察知する。
これはニューロセプションっていう機能の存在を明らかにしたものになります。
こういう知見があることで、
原感覚って単なる皮肉とかスピリチュアルの話じゃないっていうのを、
生物学的な実態を持った現象なんだっていうことが裏付けられているわけです。
今の社会って体を閉ざす方向性に、
ものすごい引力を持っていると思うんですよね。
デスクに縛り付けられたある種長時間労働があったりとか、
もしくはスマホの画面に吸い寄せられる。
そういうふうに作られてますからね、スマホのコンテンツとかはね。
SNSの通知が出てきて、
あっ、これが出たんだ。ネットフリックスとかもそうだよね。
それが悪いってわけじゃないんだけれども、
体の目線で言ったら、
もっといろんなものに触れていろんなものを感じて動かしてくれた方が回るよ、俺らは。
っていうふうに体は言ってるわけです。
僕も映画大好きですよ。映画とかSNSとかね。もちろんインスタもやってるし。
ネットフリックスなんか結構ヘビーユーザーだと思います。
なんだけど、体からしたらもっと動いて、
映画を見るより体験しろよってもしかしたら体は言ってるのかもしれないですね。
30:06
こういうコンテンツだったりとかデジタル、つまりはこういう
身体性をあまり使わないような、身体運動を伴わないような
動作行為というものが増えた社会システムというのが
体を防御モードに閉じ込めてしまうっていう一因もあるんですよね。
僕はこれを閉ざされっていうふうに言ってます。
閉まっていく、閉ざされていくっていう。
閉ざされた身体っていうのは感覚が鈍ります。固くなるからね。
いろいろセンサーが張り巡らされているのが
ギュッと固まったり、使われていないから、
それを視覚する脳の方も弱くなっていっちゃうんですよ。
視野が狭まって同じパターンの思考をぐるぐる繰り返してしまうと。
これをJ.J.ギブソンの生体心理学、
生体心理学のJ.J.ギブソンという方がいます。
この方が言っている環境が僕たちに提供してくれている行為の可能性。
これはアホを断すって言うんですけど、
それを発見する能力が著しく損なわれちゃうっていうふうに言えるわけです。
何をしたらいいか分かんない。やる気が起きない。
毎日が同じことの繰り返しに感じるとか。
こういうのって精神的な問題に見えたり片付けられたりすることも多いんですけど、
実は今までの話からも言えば、
身体的な問題であるということも言えますよね。
そして実際臨床でも体の方から改善していくという例がたくさんあります。
紹介したそのSOMATICS関連の生物のアプローチ、
治療のアプローチというものもこれを裏付けているんだと思います。
身体が閉ざされているから世界の誘いかけに気づけない。
これは怠惰でもない。怠けてるわけでもないし、
能力の問題でもないんですよね。
身体が走っている防御信号というものに囚われている状態なわけです。
身体で世界を知覚できない。
世界と関係できないから頭の方でもんもんもんもいろんなことを考えてしまう。
実際に起きていないことをね。
じゃあどうすればその開かれ、閉ざされじゃない方向に、
開かれた状態に僕らはいけるんだろう。
心身共に。
市川博さんならそれを身の目覚めという風に呼んだかもしれません。
メルロポンティなら知覚の回復って言ったかもしれません。
33:04
僕はそれをSomatic Studioのその身体の教論の中でも紹介しています。
簡単な身体のワークという風に言ってますけど、
それを一つ瞑想的な行いとして実践に落とし込んでいる。
これを身体胴体瞑想という風に言ったりしてます。
つまりは、開・不開っていう2つのバイナリーコードに分けて、
気持ちいいなーっていう開の感覚を自分で探しながら、
それを見つける方向に具体的なその身体の動かし方、
構造を理解した動かし方で解いていく。
心地いいってことは身体がOKだよ、正解だよっていう風に
言ってくれてるっていうことなんですよね。
なので、その感覚っていうのを一つコンパスにして、
ラシンバンにして、皆さんが自分自身で自分を感じて解いていく。
身体をいい状態に高めていくということができる。
そういう技法としてお伝えしています。
正しい姿勢を教わることでも、いい動きをコピーすることでもないんですよね。
自分の身体をいい方向に持っていくのって。
いい動き、正しい姿勢みたいなものも、もしかしたらそれを真似て、
いい姿勢を真似てるけど、体の方はギチギチで不快な感覚が出ている。
つまり身体不合理の方に行っているということも間もあるわけです。
それでは市川博士が言う、地の、身体の地、身の地の領域には届かないわけなんですよね。
自分で感覚を探索していく。
注意を向けて感覚を感じて運動させていく。
それを繰り返していくことで脳と身体というのがつながっていって、
つまり市川博士が言う身というものが円滑に回っていくような状態が作れる。
そうすることで脳で言えば運動や感覚やという部分が発火していって、
今までの無意識の運動のパターン。
人に会ったら肩が上がるとかね、走るってなったらなんか変に腰が、
歩くってなったら腰に力が入る、歩くと腰が痛くなるみたいな、
そういう足式、自動的なパターン。
足式・身体図式というものが書き換わっていくわけです。
36:01
最後にここまで聞いてくださった皆さんに一つだけ、
ちょっと自己内省の問いかけをしてみようかなと思います。
あなたの身、市川博士が言う身、心と体というのが一体になっている。
全体の身というものは今何を感じているでしょうか。
この話を聞いている間に何かしながら聞いているという方もいらっしゃるかもしれませんね。
肩に力入っていないでしょうか。
呼吸が浅くなっていないでしょうか。
眉間にしわ寄っていませんか。
もしそうだったら、その力を抜いてあげてほしいです。
これを聞きながら力を抜いていく。
あ、大沼がしゃべっている。
大沼のポッドキャストを聞いている間は、
力抜かないと大沼なんかうるせえからなって思ってもらえれば、
一つ皆さんの体を解いていくきっかけに、
このポッドキャストがなれるんじゃないかなと思います。
そうすると、その力が抜けたとき、
その力を抜けた状態でいろんなものに関わっていくと、
いろんな感覚が立ち上がってきます。
言葉にする前の、まだ名前がないあの感覚。
それこそが皆さんの無意識、潜在意識、
つまり身というものが知っていることなのかもしれません。
はい、ということで今日はここまでにしましょう。
また次回お待ちしています。
ぜひよろしくお願いします。
37:57

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