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疲れを知らない身体という嘘──ハン・ビョンチョル『疲労社会』から身体の教養へ
2026-02-18 24:21

疲れを知らない身体という嘘──ハン・ビョンチョル『疲労社会』から身体の教養へ

※音質がいつもより悪くなっています。すみません。。。


「もっとできるはずだ」──その声は、いつから外ではなく自分の内側から聞こえるようになったのか。

哲学者ハン・ビョンチョル(韓炳哲)は、現代を「成果社会」と呼びました。誰に命じられるでもなく自分を駆り立て、自分を搾取する社会。主人と奴隷が一人の中にいる社会。「できる」の肯定性が「すべき」の否定性よりはるかに効率的に人を消耗させる──なぜなら、自分自身への要求には抵抗する術がないから。

施術室で毎日触れているのは、まさにこの「成果主体」の身体です。肩は耳まで上がり、肋骨はギチギチに固まり、呼吸は浅い。「頑張る」の漢字が教える通り、頑なに張り詰めた身体。

今回は、ハン・ビョンチョルの社会哲学を手がかりに、ダマシオのソマティック・マーカー仮説、ポージェスのポリヴェーガル理論を交えながら、「疲労社会」の暴力性がいかに身体に現れるかを語ります。そして、哲学者の「深い退屈に身を委ねよ」という処方箋に欠けていたもの──身体の教養という具体的な実践について。

身体の教養は、個人の健康改善にとどまらない。成果社会への構造的な抵抗になりうる。一人の身体が開かれれば、隣の身体も少しだけ緩む。その連鎖が、成果社会の中に「もう一つの時間」を編み込んでいく。

体の声と精神の声、両方を大事にできること。それが人間らしい行為なのだと思います。

参考文献ハン・ビョンチョル『疲労社会』(2010) / アントニオ・ダマシオ『デカルトの誤り』(1994) / スティーヴン・ポージェス『ポリヴェーガル理論』(2011) / J・J・ギブソン『生態学的知覚システム』(1979) / メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(1945)

#身体の教養 #ソマティクス #疲労社会 #ハンビョンチョル #ポリヴェーガル理論 #成果社会 #身体知の書庫


感想

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00:00
おはようございます。 毎日朝、
フォトキャスト収録を撮っているんですけど。 習慣にしていくって大変ですよね。
大変というか、慣れないから、その違和感が。 感覚で動くわけじゃないじゃないですか。あれをしたいから。
お腹空いたから、何食べたいからこれにしようかな、という行動を決めたりするのと違うからさ。
わかりやすく、これお願いします、みたいに仕事を振ってくれる人が、向こうの場合はいるわけじゃないので。
自分で、過去の自分が決めたことをやっていくっていうのが苦手なんですけど。
結構ね、フォトキャストは今までのYouTubeと違って、
本当に僕が面白いな、共有したいな、っていうものを出すって、今のところはいるので楽しみですよね。
なので、こういうテーマについてももう少し聞きたいよ、とかっていうのがあれば教えていただけるとありがたいです。
聴いてくださっている方のイメージというか、その方の顔が思い浮かぶとよりやりやすくなるので、
僕はいつもソマティックスタジオの皆さんとか、熟成の皆さんとかの顔を思い浮かべながら、これを撮っています。
でね、最近ブログを頑張って書いてます。ブログというか文章をね。
新大地の書庫っていう名前でやってるんですけど、知ってる方もいるかな。
松岡誠吾さんっていう方もいるんですよ。
大変な読書家の方で、千夜千冊っていう企画をやっていたんですね。
この間亡くなってしまったんですけど、毎日読んだ本を夜にまとめて、
いろんな多角的な知見からそれを解説されている、
松岡先生なりの解釈というものを存分にいろんなものにつなげて、
それも知識の知能、何て言うんだろう。
松岡誠吾の知ってすごいなって、圧倒されるようなコンテンツになってるんですよ。
僕もそれがすごい素敵な、かっこいいな、面白いなって思っていて、
なおかつね、やっぱこれあるあるものかもしれないですけど、
それぞれの専門分野の目線から見ると、
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例えば松岡先生が体についてとか、精神的なトップについて解説されているのを見ると、
もうちょっと自分だったらこういうふうに書きたいなとか、
こう解釈してるんだ、この人が。
でも俺の解釈だとこうだな、みたいなのが出てきたりするんですよね。
っていうのもあって、身体論に関する、
心と体というところに関連する本というのが僕は好きなので、
それをまとめて同じようなコンテンツを作れるんじゃないかと思って、
今頑張ってやってます。
結構ね、僕の中ではなかなか面白い文章を書いてるかなと思うので、
ぜひ読んでいただけたら嬉しいです。
今度からそのポッドキャストで、そのブログで書いたことを、
僕の声で伝えていければなと思ってますので、
ポッドキャストを見て、
ポッドキャストを聞いてくださったら、
その後ブログに飛んだら、
なるほど、そういうことねっていうふうになったり。
文章を読んで、ブログを読んでから、
ポッドキャストを聞いたら、なるほどねって、
新たな気づきというのが生まれると、
理解が深まっていくものになっていただけたら嬉しいなと思います。
そうやってね、知識を自分の実感とすり合わせられるように、
それを楽しんでいただけるようなコンテンツになったらいいなと思ってやってきたと思います。
ちょっと前半長くなっちゃったんですけど、
今日もやっていきましょう。
今日はね、疲れを知らない体という嘘というテーマで書いたブログについてですね。
これはね、ハン・ビョンチョルっていう哲学者の方がいるんですね。
韓国人の方なんですけど、
ソウルで生まれてドイツに渡ってフライブのところなんでしょうね。
聞いたことないから分かんないや。
あとミュンヘン、ミュンヘン聞いたことあるな。
というところで、哲学と文学を学んで、
今ベルリンの芸術哲学で表面を取っているらしいです。
ハン・ビョンチョルさん。
このね、写真でしかもちろん拝見したことないんですけど、
このね、写真に現れているこの方の表情から伝わるこのたたずないっていうのがね、
めちゃくちゃ男前でシミュレーションがかっこいいんですよ。
ぜひちょっと見てみてください。
イケオジが好きな方。
イケオジ好きだって。
韓国人の俳優さんとかでシミュレーションが多いですよね。
簡単なイメージかな。
ちょっとまっそれちゃったんですけど。
この方がね、書いた疲労社会っていう本があります。
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これね、和訳して日本でもたくさん本出てます。
この方の書籍はね、何とか社会っていうふうに社会を切り抜いて、
その問題点を指摘したりっていうのが結構特徴的かなと思うので、
ぜひ読んでみてください。
これをね、僕も読んだ時もまさにこれ印象の中で経験している
そのクライアントの方が悩んでいる体からこう伝わってくるっていうものが
この本の中で解説されてるなっていうふうに一つ思ったんですよ。
もっとできるはずだっていうふうに頑張る方結構いらっしゃるんですよ。
もっとできるはずだっていうふうにね。
上司に言われてるわけでもないし、
先輩に言われてるわけでもないし、
そんなに親に過剰に期待されてるわけでもない。
頑張れって。もっとできるよとかって言ってはくれてるけど、
必ずそれに答えなきゃいけないってわけじゃない。
そんなふうにわかってるんだけども、
自分で自分に向けて話すような。
できるんだ私は。もっとやりたい。
これって多くの方が経験したことあると思うんです。
僕もそういう言葉にたまたま触れてたんでしょうね。
自分を鼓舞するような言葉。
いわゆる自己啓発の表現なのかもしれないけど、
歌とかもありますよね。
青春時代とかに出会うような曲って結構こういう、
こんなもんじゃねえぜとかね。
もっとやれるんだ俺は。
高く高く。アプチュニティみたいなね。
そういう鼓舞する声って結構多いと思うんです。
これで自分の心身を壊してしまうっていうことも
一つのロジックとしてあるんですよね。
これは悪いわけじゃないですよ。
僕もそういう歌大好きだし、
そういう詩とかこういうみたいなものも
すごく素敵だと思います。
ただこれで苦しくなってしまう。
休めないんですって。
休んだほうがいいなって分かってるんだけど、
でもやりたいって気持ちが先にかかっちゃって休めないんですって。
肩がこんなにまだ上がっちゃってるとか。
一見すると普通の姿勢に見えるんだけど、
体に触れるとガチガチで、
例えば揺らす趣味とかをするんですね。
力が抜けてないと揺れないんですよ。
こうやってガキコキコしちゃうんですよね。
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分かりやすいんですけど、
揺らそうと思ってもなかなか揺れないとか、
首の方を持ち上げても、
僕の手に預けて、
預けることができないんですよね、その頭を。
こういう体の状態であっても、
自分はまだ頑張れるはずだっていうふうに
繰り返しながら仰ってる。
でも体を触ると結構悲鳴に近い状態っていうのが起きている。
ハンビョンチョル先生はこの原書に名前を付けています。
これが聖歌社会っていうものです。
聖歌社会。
フーコーとかが書いた規律社会。
外部の権力が禁止と命令で人を従わせる社会っていうふうに言います。
これを規律社会っていうふうにフーコーが言ったんですね。
これに対してハンビョンチョルが
つらもう過去の近代っていうのが
今は誰に命じられるわけでもないのに
自分で自分を借り立てて
自分で自分を搾取する社会になっているんじゃないか
ということを訴えています。
どういうことかというと
できるっていう肯定性っていうものが
こういうふうにすべきだ
そうなければならないっていう否定性よりも
はるかに効率的に人間を消耗させてしまうっていうふうに言います。
これからの抑圧には反抗ができるわけです。
反抗ですよね。
でも自分自身への要求には
抵抗する術がないっていうふうに言うんですよ。
主人の奴隷っていうものが
命令をする人と命令を受ける側の人っていうのが
同一人物の中には住んでしまっていると。
これを聞いたときに
僕が毎日触れているのは
過去の自分が経験していた
あの苦しい感じっていうのは
この成果主体の体なんだというふうに思ったんですね。
今までも他のところでも話したりするんですけど
日本語の頑張るっていう言葉があります。
頑張る。
漢字で書くと
頑張るって文字通り
固くなり張り詰めるって書くんですね。
固くなり張る。
つまり全身を硬直させて
感覚のアンテナを全部しまい込んでしまうような。
ただ目標を決めた目標っていうものに向かって
突進するようなイメージなんですよね。
これがもし頑張るっていう言葉を
この地面通りに受け取った場合ね
みんながそうじゃないんですよ。
いろんな解釈の仕方があるからね。
ただこの地面通り頑張るっていうのを
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規定した場合、定義した場合
これが
ハンさんが描く成果主体の体っていうのを
そのものなんだっていうことなんですよ。
メルドポンティが言ったように
僕たちっていうのは頭で世界を考える前に
まず体として世界の中にいるっていうふうに言います。
だとすれば成果社会の暴力性っていうのは
まず体において発現するはずなんですよね。
そして実際にそうなっていると。
アントニオ・ダノシオの
ソマティック・マーカー・仮説っていうのがあります。
過去の経験に関連する身体反応っていうのが
意思決定を直感的に解釈してるっていう話ですね。
これは良さそう、これは危なそうっていうものを
これまでの経験に応じて
身体が覚えていて、答えを出してるってことで
成果主体っていうのは
このガイダンスっていうものを無視するんですよね。
体からの信応を
弱さだっていうふうに切り捨てる訓練
僕たちは物心ついた頃から受けてきているのかもしれないです。
ダマシオの臨床報告に
前頭・前皮質っていうのが前側の部分なんですけど
前皮質の損傷で
ソマティック・マーカーっていうのを失った感じの話があります。
脳の身体の内側を感じるための部位があるんですけど
そこが損傷してしまった
事故とかでなくしてしまったっていう方
でも脳は一部なくなってるんだけど
論理的な姿勢とかは計算できるし
国語の問題とかは解ける
でも適切な判断というものができなくなってしまうってことがあったそうなんです。
問題を与えられれば
この答えはこれですっていうふうに言えるんだけど
じゃああなたはどうしたいですか
決めてくださいって言われたときに
適切な判断というものができなくなってしまうってことがあったんですね。
つまり体を感じる力っていうものと
自分が何をしたいとか
何をするっていうような意思決定っていうものが
繋がっているんだっていうことを
ここで魂は発見したわけです。
これをソマティックマーカー仮説と言います。
でもね、僕たちは脳を損傷してないですよね。
でも教育によって
社会システムによって
この広社会、善化主体の
体っていうものによって
同じものを失ってきているのかもしれません。
こうやりたい、頑張りたいけど
動けない、頑張れない。
こういうのは根性がないとか
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意思が弱いとかっていう風に
片付けられてしまうことがあります。
でもね、体が今休んでくれっていう風に
言っている証拠でもあると思うんですね。
ガソリンがないとか
車が壊れているのに
アクセルを踏み続けているようなものでもある。
これをポージェスのポリベーガル理論の中で解説すると
自律神経系っていうのは3つの層があると言います。
よく言いますよね、自律神経。
一般的には交換神経っていうような
フライトオーバーファイトっていう風に言ったりします。
戦うか、逃げるか戦うかみたいな
興奮するような状態っていうのを
交換神経有意って言ったりしますね。
いわゆるリラックスさせるような
それを副交換神経って言います。
副交換神経ね。
この副交換神経も2種類あるっていう風に
ポリベーガル理論の中で言うんですよ。
腹側瞑想神経って
お腹側の方にある神経は
社会的関与っていうのがつかされる。
人と繋がったりとか
温かい気持ちになったりとかするっていうものです。
これもね
人間ではすごい得意なものらしくって
社会的な活動をする人間ならではらしいですね。
繋がりっていうところに関与していくもの。
もう1個の副交換神経っていうのは
背側瞑想神経っていうのが背中の方にあります。
これは動物でも顕著で
強いストレスがかかると
ガーッて興奮して逃げたりとかしたいんだけど
できない状態。
その時、実はこの副交換神経の
背側瞑想神経が有意になって
凍結、フリーズ、シャットダウンします。
動物とかなんとなくイメージある方
多いと
びっくりして動けなくなっちゃってるっていう
シカとかね、いますよね。
ライオンに見つけられて
動けなくなっちゃったみたいなやつ。
ナショナルジオグラフィックみたいなので
よく見るような気がします。
安全を感じているとき、僕たちっていうのは
副測瞑想神経有意の状態にいます。
これを僕の言葉で言うと
開かれの状態っていう風に定義しています。
自分の体が
合理的な状態で、つまり緩んでいて
解かれていて
人と十分に繋がりたいっていう風に思う状態ですね。
ところが
ハン・ジョンイルが言った成果社会っていうのは
交換神経の持続的な活性化っていうものを
生産性っていう風な言葉で
呼びかえているんじゃないかっていう風に言うんです。
興奮している状態
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過覚性の状態を生産性と呼びかえる
アドリナリンが出ている状態をやる気と名付けて
それを微毒にしてしまうということ。
でもね、交換神経の持続的な興奮っていうのは
長みがないんです。
なぜかというと動物においては
フライトオーバーフライトですから
戦うか逃げるかっていう緊急事態の反応なんですよね。
緊急事態の反応をずっと続けるっていうのは
多くの方はそういうふうに
人間の体は作られていませんので
いずれ排足瞑想神経系
つまりフリーズしたりシャットダウンしたり
凍結固まってしまうっていうものの
反応を引き起こしていきます。
これがフォージェスが言っている
シャットダウンの状態っていう風に言います。
これを臨床的に言うと
例えばうつ病の一つの原因だったり
適応障害とかパニック障害とかの
一因になっていきます。
成果主体っていうのが
アクセルを踏み続けた結果であって
エンジンが焼き切れるわけではないんですよね。
一つの懸命なシステムと言いましょうかね。
これがこれ以上の損傷を防ぐために
強制的な電源を落とすんですよ。
これを見方を変えればね
いつも僕が言っている体が
あなたのことを守ってくれているんですよ
っていう風に言ったりします。
じゃあハン・ベンチョルはどういう風に
しろって言っているかというと
彼はハイデ側の言葉を引用しています。
深い退屈っていう概念を持ち出すんですね。
深い退屈。
こういう状態に対して
疲労社会で疲労してしまった私たちは
どうすればいいのかっていう
一つの改善策として
ハイデ側から深い退屈っていう概念を
引用しています。
これ何かっていうと
何もしない時間とか
目的がない時間
その中にこそ
深い施策とか想像が宿ってくるんだよ
っていう風に言うんですよ。
まさに。
よく休みましょうとか
全部忘れて
僕も言いますよ
カラオケとか好きになったら
カラオケとか行ってください。
友達と酒でも一晩バカ笑いして
行ってくださいっていう風に言ったりすることもあります。
哲学的にはね
日本はその通りだし
皆さんも直感的にはわかると思うんですよ。
ところが
過去だったらできた。
前だったら確かにそれできたんだけど
なんか今そういう気持ちになれないなとか
いっても楽しくなさそうだなっていう風に
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やっぱ思う。
ですよね。
そう思えないなら思えなさいっていうことを
言うつもりないんですよ。
全く。
むしろそれは一つの暴力だと思うので
思えないってことはなんか理由がある。
それの理由が何なのかっていうと
その実践の回路がないんですよね。
今忘れちゃってる
動いてないその脳と体の
繋がりっていうものがあると。
深い退屈に身を委ねよっていう風に言われても
それができるなら
感覚的にできるのであれば
誰も燃え尽きる消防軍だとなりません。
身体の脅威を持たない人に
力を抜け。
力が抜いた状態っていうのが
わかんないのに抜けって言っても
なんか泳ぎ方知らない人に
水に浮いてみてくださいっていう風に
急に言うのと同じような思ってね。
え、水に入るんですか。
これによってね
心理療法ってちょっとわからないやんとか
施術とかカウンセリングのちょっと行くの怖いなって
思うような人もね
少なからずいるんですよね。
もったいないので。
既存の心理療法とか
哲学的な解決策みたいなものを
批判しているわけではなくて
哲学者も臨床家も
それを頼る方っていうのも
それぞれの身体を持っていて
それぞれの社会的な立場
っていうのがあっていて
それぞれの日常の経験というものがあるわけです。
特に目に入る場所っていうのは
人によって変わってくるんで
僕たちのような臨床家っていうのは
僕の場合
哲学者のように
うまく言葉は使えないだろうし
深い施策っていうのに
行きづらいと思います。
日常的に言葉に触れてるわけじゃないからね。
でも逆に言えば
そういった
文字とか施策を練るっていう方よりも
実際の身体に触れていたりとか
実際の人に
人と関わっているっていう面では
一つ
勝ち負けじゃないんだけれども
そこにはない
哲学者にはない
施策っていうものを
打ち出せる要因になるのかなと思うんです。
その上で
僕が今やろうとしていること
実際やっていることっていうのは
哲学っていうものを
体っていうところに着地させる
物理的な体っていうものに接続する
っていう意図のみでもあります。
身体の教養ってことは
僕は繰り返し使っています。
って思ったんだけど
時間が無くなってきたから
また続きにしましょう。
今日これで一旦終わりにしますね。
面白かったよって方は
ぜひ
いいねボタンとかあるのかな
コメントとか
24:02
いただけたら
嬉しいなと思います。
じゃあまた明日続きをやりますね。
ということで聞いていただきありがとうございました。
失礼します。
24:21

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