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「ゆるむ言葉」言葉ならぬ言葉が、私たちをやらかくしてくれる。
2026-04-10 14:29

「ゆるむ言葉」言葉ならぬ言葉が、私たちをやらかくしてくれる。

「力を抜いてください」と言われても、なかなか抜けない。でも「だらーっとしてみてください」と言うと、肩がほどけて息が落ち着いてくる人がいます。この差は一体何なのか。

今日はオノマトペの話です。だらー、ふわー、じんわり。子どもの頃に使っていた、言葉にならない言葉たち。

イメージというのは、空想でも妄想でもありません。レモンという言葉で口に唾液が湧くのは、かつて体で経験した酸っぱさが呼び戻されているからです。だらーという音も同じで、お風呂にどぶんと沈んだ瞬間、布団に倒れ込んだ背中、猫が伸びているあの空気。そうした体の記憶に紐づいているから、言葉を聞いた瞬間に、実際に体が緩むんですね。

逆に言うと、日常的に力んで頑張っている人は、だらーの感覚そのものが細くなっています。思い出す元が痩せ細っているから、言われてもピンとこない。リラックスしようとしてうまくいかないのは、頑張りが足りないからでも、知識が足りないからでもありません。想像力を支えている体の方が、その感覚を忘れてしまっているからです。

経済の中で顔の見えない相手とコミュニケーションするうちに、僕らはオノマトペを手放して、論理的な言語化を身につけてきました。便利ではあるけれど、その代償として体は静かになっていく。AIの台頭で、この流れはさらに加速しているかもしれません。

今日は提案です。だらーでもふわーでも、子どもの頃に使っていたような音を、頭の中でもいいのでポロッと口にしてみる。記号の意味合いが強い言葉から少し離れて、体験的な言葉に立ち返ってみる。案外、そこから何か戻ってくるものがあるかもしれません。

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だらーとか、どろーとか、ふわーとか、こういう擬態語、擬音語っていうもの、こういうオノマトペとかって言われるものが、いかにこう身体を緩めてくれるのか。
これがね、ただのイメージじゃなくて、実際に身体に変化を起こしてくれてるんだよっていうもの。
そもそもイメージっていうのが、ただの空想とか妄想とかじゃないんだよっていう話を今日はね、していきたいと思います。
身体の教養ラジオ、今日ものんれんならりとやっていきたいと思います。
治療をしてるとよくあるんですね。
力抜いてください。
なんかこう、いろいろ趣味とかをしていると、どうもなんか力が入っちゃって、なかなか力が抜けてくれないと、
入れたいところに指が入らなかったりとか、動かしたい動きができなかったりするんですよね。
だからちょっと力入ってるなって思ったら、ちょっと力抜いてくださいねとかっていう声掛けを、
当たり前に多分するし、されるっていう、よく力抜いてって言われるんだよねっていう方もいると思います。
でもこれはね、ちょっと発想転換で、力抜いてくださいよりも、だらーっとしてみてくださいとか、
ふわーっていう感じになってみてくださいとか、いう声掛けをすることで、
あ、なるほど、だらーって感じね。ふわーってする感じね。
本当に力が抜けてきてくれたりもするんですよ。
肩がほどけて、息が落ち着いてくるような感じ。
力抜いてって言われるけど、あ、言われても、なんかピンとこないけども、
だらーっとしてみてって言われると、なんとなくできる気がするっていう、この差は一体何なのかっていうことですね。
オノマトペ、だらー、ふわーとかじんわりみたいな擬音語、擬体語っていうのが、こんなにこうなんだろうな、成立の中でも便利だったり、
自分のリラックスした状態、力を抜くために有効なのは、これイメージの力だとかっていう風に説明されたりします。
頭の中にそのイメージ、像っていうのが浮かぶから、体がそっちに引っ張られるっていう風にざっくり言うとそういう話ですよね。
でも、そもそもそのイメージって何なんだろうと、どこから来てるんだろうっていう話なんですよ。
例えば、レモンっていう言葉ありますね。レモンがありますよね。あと梅干しとかでもいいと思う。
梅干し、レモン、こういうものを思い浮かべると、口の中にじわーっと唾液が出てきますよね。
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犬って聞けば、四足歩行の哺乳類みたいな辞書的な定義よりも、毛の手触りとか、近づいてくる時のあの気配とか、匂いとかっていうものが一瞬で想起されると思います。
どっちもこれまでに体で経験したことがあるから、リアルなレモンとか梅干しとか犬のイメージが湧いてくるんですよ。
つまり体を通して得たそれらとの関わり、その関わった時に得られた感覚っていうものが、言葉を聞いた瞬間に呼び戻されているんですよね。
つまりイメージっていうのは、どこからか降ってくるものとか、空想妄想とか勝手にバッてゼロから出てくるわけじゃなくて、
僕ら個人個人がそれぞれに体に設置した感覚っていうものを出所にしているわけです。
体に設置したもの、つまり体を通して経験したものでしか、僕らは想起することも思考することもできないんですよね。
そう考えるとダラーっていう言葉が聞く理由が見えてくると思います。
あの音ダラーっていう言葉っていうのは、例えばお風呂にツボーっと沈んだ時、ダブーンって入った時、その瞬間とか、
布団に倒れ込んだ時の背中とか前身の感じとか、猫がその辺に伸びていて、それを見ていた時のその空気感とか猫のダラーっていう感じとか、
僕らがかつてダラーっとした時、ダラーっとした体の状態になった時の感覚っていうのが、言葉を聞いた瞬間に呼び戻されているわけです。
その記憶のどこかに、体を通して得た記憶のどこかに紐づいているんですよね。
だから体が本当に緩むわけです。本当に物理的に脱力しているんですよ。
イメージが聞いているんじゃなくて、イメージっていう形で体感覚、身体感覚が再現されているっていうのかな、再現されているから聞くっていうような順番なわけです。
逆から言えばこういう風にもなります。体の実感から遠ざかってた人、そのダラーっていう感覚が分かんなくなっちゃっている、忘れちゃってるっていう人はダラーって言われてもイメージが立ち上がりにくいんですよね。
思い出しにくい。早期する元手となるその感覚が細くなっている、やせ細っていってしまっているから。
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まあそりゃそうだよね。日常的に力んで頑張ってこわばっている状態が当たり前になっていれば、ダラーってしばらくしてないってなるとそのダラーの感覚を忘れちゃうんですよね。
だからリラックスってどういう風にすんだろうなっていろいろ調べたりとかさ、自立神経についていろいろ調べたりとか、疲労をとるためのスタンフォード的なんとなかったらとかさ、いろいろこういっぱいあるじゃないですか。
そういうのを見てこう知識をたくさん頭の中に入れたとしても、体の方が動いてきてくれないっていうことが起きたりするんですよね。
リラックスしようっていう風に頑張っても上手くいかないのは、頑張りが足りないからでもないですよね、もちろん。知識が足りないからでもない。
その想像力とかイメージっていうものを支えている体、皆さんの体がその感覚を忘れちゃっているから、脱力とかダラー、リラックスっていうのが上手くできないっていう風になってるんだと思うんです。
僕らは子供の頃考えてみれば、言葉にならないような言葉ってのをたくさん使ってました。
これをオノマトペっていう風に言ったりするけど、泥遊びしている時にグチャグチャとかさ、水たまりを踏んだピチャピチャとか、雪を踏んだ時にギュムギュムとか。
子供とかそうですよね、まさにいろんなこと経験してきてて、パパとかママにいろんなこと伝えたい、それを。
だけどそれを適切に表す言葉記号を持ってないから、わからないんでね。
なんかブワーっていう感じのやつがニューってなってドホーってなったんだよみたいに、なんかもうわけわかんないこと言ってるんですけど。
おそらく彼らが、彼女らが伝えようとしているってのは、その体で通したその感覚をそのまま表現して、あの言葉になっているんだと思うんです。
持ってる手札、言葉の数が少ないからこそ、自分の感覚っていうところを全面に押し出した言葉として表現するんですよね。
つまり体の経験と直結しているっていうわけなんです。
でもね、いつからか、ちゃんとした言葉で話さないと、何言ってるかわかりません。
もっと論理的に言語化しましょう、そんな風に言われるようになって。
そういうことを求められます、やっぱり経済の中で。
顔の見えない相手、体を突き合わせるような距離感じゃない相手とコミュニケーションするには、やっぱり言葉を巧みに使っていかなきゃいけない。
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つまり論理的に言語化しなきゃいけなくなる。
そうすることで、その身体感覚っていうものをオノマトペみたいなものをどんどん手放していってしまったのかもしれないんですよね。
その代わりに得たのが、体から切り離された言葉で意味を操作する技術。
便利ではあるんだけども、その代償として想像力のもとである体の方が静かになっていってしまったということはあると思うんです。
最近ね、このAIの大統によって、やっぱりこういうのって非常に増えていると思うんですよ。
これってこういうことですよねっていうふうにようやく従ったりとか、簡潔に従ったりとか、
もしくはあやふやな抽象的な表現っていうのを嫌って、これがこうだからこうなるよねっていうような、
すごく論理構造の中でしか怖くて言葉にできないみたいな風潮って結構ある気もするんですよね。
だけど実際はさ、ちょっとこの話を聞いた後に皆さんも実生活帰って、
気が許せる相手に対して、並ぶ言葉でコミュニケーションをとってみると面白いと思うんですよ。
ぜひやってみてほしいのね。
これがこうなってああなったっていう話じゃなくて、
こういう話し方する人いた気がするけどな、誰だったかな。
なんかこう、誰々がこうやって来てブワーってなって、
俺なんかグワーってなってゴゴゴってなったんだよ。
めっちゃバーじゃない?すごくない?やばくない?みたいな。
もうなんか何言ってるか分かんない。
だけど、言葉だけ多分文字起こししたら何言ってるか分かんないんだけど、
伝わるじゃないですか。その時の、その本人が体験したような体の状態っていうのをストレートに思い描くことができますよね。
こういう身体的な表現として、このオノマトペっていうものを使ってあげることで、
例えばね、自分の中でよりリラックスしようっていう風に思っても、
体が緩まないと脱力しなきゃいけないのになーとか、
ぐっすり寝ないと明日回復できないのになーっていうようなそういう論理的な方法っていうのを頭で思い描く前に、
ダラーとかでもいいし、フワーとかでもいいし、
その子供の頃に使っていたようなその音、
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言葉のある言葉っていうものをそのままポロッと言葉に、声にしてみてほしいんです。
頭の中でもいいし。
記号の意味合いが強いその言葉から離れて、
体験的なその言葉っていうものに立ち返ってみて、日常を生きてみる。
もちろんそれだけじゃコミュニケーション取れないんですよ。
仕事ももちろんそれじゃうまくいかないし、
あいつ何言ってるかわかんないからダメだなってもちろんなっちゃうから。
でも言葉ってやっぱり論理的なものだけじゃないんですよ。
みんなもLLM、AI触っていて多分気づく場面も増えてきたと思うんです。
なんかもっともらしいこと言ってるけど、ずっとぐるぐる回ってるだけなんですよね。
もちろん便利だよ。いろんなものを記号として整理するってのは重要。
面白いしね。
だけど小説にしろ、いろんな記事とかコラムとかエッセイにしろ、
その言葉の背景に体を通してどんな経験を得てきたかっていうその人間を感じられるから、
僕らはやっぱ面白いな、興味深いな、趣深いなっていうふうに思うわけですよ。
身体を通してやっぱり体と体でコミュニケーションしているんですよね。
なんかそんな子供の頃の身体性豊かな自分っていうものをパッと思い出してみるためにも、
その言葉ならある言葉っていうものに立ち返ってみるのも案外面白いかと思います。
そんな提案として今日は話をしてみようと思いました。
いつもよりちょっと短めだけどね。
ちょっと電車の時間があるので今日はこのくらいで終わりにしたいと思います。
じゃあ身体の教養ラジオ今日はこの辺でまた聞きに来てください、ぜひ。
ではまたお会いしましょう。
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