2026-10-11 10:00

言語化で分かり合えるのか。同担拒否と推し活の話から考えた言葉の限界

【内容】
「推し活の秋」をきっかけに、推し活をしたことがない僕が、推す側と推される側に二極化するのかという仮説から話し始めました。実際はグラデーションで、同じ人を推す人同士で仲が悪くなる同担拒否もあります。その一つのパターンとして、推す気持ちが強すぎるあまり、軽い気持ちで推す人をちょっと嫌だと感じる、ありがちな心理のようだという話にも触れています。言葉は意味の内と外に柵を作り、本来区切りのない概念にも区切りができてしまいます。また、同じものを指しているつもりでも、意味は人ごとにずれていて、真逆のこともあり得ます。なんでもかんでも言語化して分かり合えると思ってはだめで、言葉にできないことをイメージし、心を通わせることに努めなければならない。何千時間言葉で時間を共有しても分からないことの方が多いと思った方がいいし、長く一緒にいた相手を分かっていると思いたい気持ちはサンクコストの呪縛かもしれない、という話です。

【目次】
推し活と二極化の仮説、実はグラデーション
同担拒否の心理と好きのグラデーション
言葉の柵と人ごとにずれる意味
言語化できないものと心を通わせる

この回は、Voicy「かねりん脳内Podcast」で配信した放送です。

📌番組公式サイト(各種プラットフォームへのリンク)
https://nounai.kanerin.co.jp/apps

【パーソナリティ(MC)】
▼金田勇太(かねりん)
・KANERIN Podcast Studios 代表
「刑事司法実務の最前線で多数の犯罪捜査を指揮。2017年から暗号資産業界へ参入。数々のグローバルプロジェクトに参画しコンサルティング、情報分析・アドバイザリー業務を提供。コンサートライブ配信業、音声配信業、テックメディア創業等を経て、ポッドキャストレーベル兼プロダクション「KANERIN Podcast Studios」を創業。多様なパートナーと共に、未来へつなぐ声の原典を共創している。」

【制作】
制作:KANERIN Podcast Studios
著作:株式会社KANERIN

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サマリー

「推し活の秋」をきっかけに、推す側と推される側は二極化するのではなく、実際には濃淡のあるグラデーションだと語る。同じ人を推す人同士でも、好きの強さや向き合い方の違いから対立する「同担拒否」の心理に触れる。そこから、言葉は本来区切りのない概念に境界を作り、同じ言葉でも人によって意味がずれ、ときには正反対になるという言語化の限界を考える。言葉にできないものをイメージし、言語ではなく心を通わせる努力が必要であり、長年言葉を交わした相手でも分からないことの方が多いのではないかと結論づける。

推す側と推される側はグラデーション
かねりんす、えー、推し活の秋って何なの?もう秋ってさ、秋って何でもかんでも何とかの秋って言っとるよな。毎年なんか増えてくよね。
え?読書の秋、運動の秋から始まってさ、幼少期に刷り込まれましたよね。で、何?今何?食欲の秋?読書の秋?勉強の秋?
仕事の秋?趣味の秋?全部だろ。 全部だろ、それ。何や、推し活の秋って。初めて聞いたわ、そんなの。
ちょうどさ、俺、未だにね、イン・ザ・メガ・チャーチも読みましたよ。アサイリョウさんのね。 あとは、おしもゆも見ましたよ。実際、押され活もしてましたよ。今もしてますよ。
ですが、押し活だけはやったことないんですね。 僕、自分が誰かを押したことがないんですね。
えーっと、圧倒的に軸が自分にあり、誰かをこう押すことで満たされるとか、そういう気持ちがね、になったことないですね。
そういう気持ちがわからなくはない、と思っている。一応、想像はできるんだけど、自分がそういう気持ちになったことがないんでね、やっぱ当事者感は薄れているなぁと思いますわ。
で、これってさ、二極化するのかなぁっていう仮説があるんですけど、どう思いますか?
押される側の人と押す側の人って分かれてるのかな?
押しながら押してる人、どうなんだろうね。全くゼロってさ、なんでも人間、グラデーションなんで、よく人ってこう脳のリソースをあんまり使いたくないからなんだろうね。
脳の省エネ機能が発動するからなんだろうけど、単純化して考えたがりますよね。
世の中単純化して考えられることなんてほぼほぼないんだけども、右か左かとか、右か真ん中か左かぐらいに考えるよね。
同担拒否と好きの強さ
これもさ、押しかつ押す側と押される側の人間か、両方か、みたいな、今三つ考える軸を出したけども、実際はすげぇグラデーションだよね。
押してますっていう状態にしたってさ、どこに敷地があるのかわかんないよね。
人によって押されっていうのはすっごい感覚違うのよ。めちゃめちゃ喧嘩になる、喧嘩を目の当たりにしてるからね、俺は。
同族嫌悪という言葉がありまして、同単拒否か、同族嫌悪と一緒だよね。同族嫌悪と違うんだよな、同単拒否って。
同じ人を押している人同士仲悪いみたいなのがあって、仲いい場合もあるんだけど、それってそれぞれ押している人の心理的にはいろんな思いがあるんだよね。
いろいろあるので、いろんなものを全部見聞きしたわけじゃないんだけど、一種の
一つのその同族嫌悪的な同単拒否のパターンで言うと
自分のこの押しを押している気持ちがあまりにも強い、真面目に強すぎるがゆえに軽い気持ちで押している人たちのことをちょっと嫌だなと思う。
これは結構ありがちな心理のようです。私も目の当たりにしてますけれど、気持ちはわからんでもないよな。
そりゃさ、同じ好きとか同じ押しつってもさ、グラデーションあるよな、そりゃ。
グラデーションある。もう本当に一生好きですみたいなぐらいに好き。例えばね、もう愛していますぐらいに好きっていうの好きのレベルと
好き好きみたいな、ちょっと声好きぐらいの、顔好きぐらいのね。で別に同じような人が他に5人とか10人とかいるみたいな。
言葉が作る境界と意味のずれ
まあいろんなレベル感とかがあって、まあ喧嘩するよね。
表に出さなくても喧嘩するに決まってるよね、そんなね。うっとしよね。同じ、同じふうにくくられたくないよねみたいな。
でもやっぱりそのファンとかフォロワーとか押してくれてる子たちみたいな。
で、そういうふうにくくっちゃうからさ、言葉ってくくってこの柵を作るからね。
ここから内側がこの言葉の意味です。この言葉の外と内を作るから、言葉というのは。
で、それは中は無理やりなんよな。本来そんなふうに言葉にすることでそこで区切りができてしまうけれど、本来そんな区切りなんてない概念いっぱいあるでしょう。
だからね、無理やり言語化すればいいってもんじゃないんだよねっていうのもあるし、その言語化、同じじゃあ押し押され、好き嫌い、大好き、愛なの恋なの何なの。
まあそういう色恋についてもそうだけど、ビジネス上のいろんな言葉についても全部そうなんだけども。
同じものを指しているつもりが微妙に人ごとにずれてるよね。微妙どころか全然ずれてるというか、真逆のことを思っていることもあり得るんで。
本当ね、言葉で喧嘩したり言葉でやり合うことって本当に意味ないなと思う。
本当の意味でディスカッションというか、自分の思っていることをお互いにバチバチバトルさせて、お互いに本当に分かり合いたいってなるんだったらそういうことしなきゃいけないと思うけど、めっちゃんこ時間かけながらね、めっちゃんこ時間かけながらお互いの言葉の定義からのすり合わせ、コンセンサスアグリっていうところからすり合わせるわけよ。
言葉を超えて心を通わせる
めちゃめちゃ時間かかるし、そもそもだけど、この間も少し話したけど、人間生きてきた今までの自分の経験値とか環境とか親とかさ、国とかね、地域とかね、文化とか、そういうのでさ、全然価値観って違うから本来。
で、言語化なんてできないから、なんでもかんでもね、言語化して分かり合えると思ってちゃダメよ。で、言語化して分かり合えないんだったとしても分かり合いたいんだったら僕たちは言語で話すしかないじゃんって言うんだけど、別に言語じゃなくて歌で話す人もいれば、歌というこのようなアナログのものを無理やりデジタルデータにしたときに削ぎ落とされるものがあるでしょう。
削ぎ落とされることを嫌うがゆえに言語化を嫌うっていうことがあるのよ。だから、言語というものを使う時点で表現しきれないものがある。で、大抵のものは表現できると思いますが、それは劣化した世界を共有したときに言語でのコミュニケーションを共有するということができた場合において初めて言語コミュニケーションが成立するんであって、成立しているように見えるだけであって、それはほんと英語だよ。
言語コミュニケーション。人種の英語。相手の感覚とか、相手の気持ちとかね、言いたいこととか、察するイメージできる。イメージできるということはとても大事だと思う。イメージできていることを言葉にできる必要はない。むしろ言葉にできないことをイメージしなければならない。
言葉を超えたイメージ、コミュニケーションツールが存在することをまず認め、その上でそうした人たちと心を通わせるということ、言語を通わせるんじゃないんだよ。心を通わせるということに努めなければならない。でなければ人と人で分かり合うことはできない。
分かり合いたいという呪縛
どんだけ言葉で何時間何千時間っていう時間を共有していたとしても、わからないことの方が多いと思ったほうがいい。それはただの参加コストの呪縛が強くなっていってるだけかもしれない。
それはこんだけの時間をね、例えばもう30年連れ添いましたみたいな、相手のことまるで何も分かってなかったなんて思いたくないでしょ。分かっているよって思いたい。そういうバイアスもかかってるよね。だからなんかこう言語を交わせば交わすほど、分かり合えるんじゃなくて、お互いに呪縛、分かり合っていたいという、その世界の中で生きたいというその呪縛、
呪縛にがんじがらめになっているだけかもしれないなって。そんなことを思いましたね。それでも僕たちは言葉を交わす。交わさなければならないこのサガの上で生きてますよね、僕たち人間はね。
ポッドキャストでずっといろんな人と喋って面白い発見もあれば、この関係がどう変質していきながらどこまで続くのかどこまでいけるのかななんてことをエモーショナルな気持ちで思いながら毎週毎週同じ相方と似たような話をしている今日この頃でございます。おやすみ。
10:00

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