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ブッダが指摘した執着することのリスク
2026-09-26 12:08

ブッダが指摘した執着することのリスク

確証バイアスによる誤解を描いたブッダの弟子・マハーカッサパ長老の物語から、私たちの心にある「執着」と執着が手放せない理由を明らかにします。


【目次】

確証バイアス

周囲から偏見の目で見られたマハーカッサパ長老

行いと言葉は心を表す

マハーカッサパ長老を称えたブッダの詩

4種類の執着

なぜ執着を手放せないのか


【出典】

『ダンマパダ・アッタカター』及川真介訳

『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳


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【大忍貫道プロフィール】

1987年福岡県生まれ。花園大学文学部卒業。臨済宗妙心寺派僧侶。

尾張妙興寺僧堂にて修行。

2011年より九州地方の臨済宗妙心寺派寺院にて住職を務める。

SNSでも仏教の情報発信を行い、Instagram フォロワーは4万人を超え、Podcastフォロワーは3千人を超える。

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サマリー

人を一度決めつけると、そのイメージに合う情報ばかり集めてしまう確証バイアスについて、マハーカッサパ長老の物語を通して考えます。古代インドで長老が古い衣を使い続けたことや留守番を任されたことが、周囲には執着や布施欲として誤解されました。ブッダは長老に執着はないと説き、執着には欲望の対象、誤った見解、誤った習慣、自己への四種類があると説明します。好ましいものを得ることを幸せと考える限り執着は手放しにくく、失う不安や争いなどのリスクも見落としがちです。そこで、当たり前の価値観を問い直し、物事を正しく見る「正見」へ進むことが仏教の出発点だと語ります。

確証バイアスとマハーカッサパ長老
私たちは人を見るときにありのままにその人を見てるんでしょうか? 実はそうとは限りません。
一度この人はこういう人だって思ってしまうと、その後はそのイメージを通して相手を見るようになります。
同じ行動をしてても、あの人なら仕方ないと好意的に受け取る時もあれば、やっぱりあの人はそういう人だと悪く受け取る時もある。
そして一度ついてしまったイメージに合うものばかり、そこに引き寄せて、物事を相手を見てしまって、やっぱり自分の見方が正しかったんだっていう風になっていく。
こうした心の働きというのは、現代では拡張バイアスと呼ばれています。 今回はその拡張バイアスにより誤解された
仏陀の弟子マハーカッサパ長老にまつわる一つの物語から、私たちの心にある執着について考えてみたいと思います。
ある時、仏陀は古代インドの都ラージャガハの地においてしばらくお過ごします。 その後、お坊さんたちに弟子たちにこのように告げます。
2週間後に私は遊行に出ます。 日本の箱根駅伝で、袋の南書で遊行地坂というのがありますね。
あの遊行なんですけれども、これはお坊さんたちが各地を修行の旅に出る、これを遊行と言います。
あんぎゃっていうとわかる方もいらっしゃいますかね。 古代インドのお坊さんは1年の多くの季節を遊行しながら過ごす、これが基本的なスタイルだったんです。
で、このような仏陀の言葉を聞いてそれに突き従うために多くのお坊さんたちは旅自宅を始めます。
衣と布施をめぐる長老への誤解
この旅自宅が新しい衣を作る、布を染めるということをやるんですけれども、でもマハーカッサパ長老だけは
新しい衣ではなくて使い古した衣を洗濯していたんです。 日本のお坊さんの衣というのは着物と同じで小剣とかを使いますから、かなり高級品になって一着を長く使用するっていうのが当たり前なんですけれども、
古代インド、現代の東南アジアの仏教もそうですけれども、ああいう厚い国は衣が薄手なんですね。
簡素に作るということをやりますから消費をしていくものになっています。 極端に言うと日本の衣っていうのは陶器のお皿みたいなもので、
厚い国の衣っていうのは使い捨ての紙皿みたいな、そういう扱いなんですね。 だから次々に信者の方々が衣を寄信するっていうのが
古代インドとか東南アジアの仏教国では今も行われています。 それなのにマハーカスサパ長老はずっと同じものを使い続けてるんですね。
私たちの身近にも同じものをずっと使ったりとか着続ける方いらっしゃると思うんですけれども、これがもったいないという思いだったりとか、
愛着であったりと、そういうところで着られると思うんですけれども、それを辛抱して使って終わられると、こういう素晴らしいことだって見ることももちろんできますし、
ちょっとこう、うがった見方をすれば執着しているようにも見える、そういう方もいらっしゃると思うんです。
この時マハーカスサパ長老の周囲にいたお坊さんたちの目には長老が衣に執着しているように映りました。
そこでお坊さんたちは長老はなぜ衣を洗うんだと、遊行に出れば多くの信者たちが待っており、
彼らは長老に衣を差し上げることで自らの敬意を示そうとする、そういう人々の思いを長老はないがしろにしていると、こういうふうに思った。
私たちが人に何かを差し出す、与えるっていうのは、この自分の気持ちを形にして表している、そういう行いになりますよね。
特に仏教では、行いと言葉っていうのは、目に見えない心を表に出すものなんだって考えるんです。
これね、たまに聞くんですけれども、親の供養とかをされない方が、気持ちが大事だからっていうふうにおっしゃるんですね。
でも、仏教では気持ちがあれば供養という行いになるっていうふうに考えるんです。
この信者の方々が、自らの敬意を目に見えるものにするために衣とかを施してくれるんだから、それはちゃんと受け取る、これが礼儀だろうっていうふうに周囲のお坊さんたちは思ったんです。
さて、この遊行に出るにあたって仏陀は、遊行に出るのはいいけれども、僧院、お寺を空っぽにするわけにはいかないと、留守番が必要と、誰がいいかなと試案したところ、
このラーチャガハという町にはマハーカスサバ長老の支持者が多くいると、だから彼に留守番を託すのが良かろうと、こう思われて指名します。
ただ、この敬意っていうのは他のお坊さんたちは知らないんですね。
だから、このマハーカスサバ長老が留守番役をするっていうことを聞きまして、長老は自分を支援してくれる人がたくさんいるここに留まろうとして、多くのお布施をもらおうと思ってるんだって、こう思って長老を非難します。
ここでちょっと思い返して、思い出していただきたいんですけども、周囲のお坊さんたち、先ほどは長老が衣を洗っているのを見て、お布施をもらわないなんてけしからんと、執着しとると衣にと、こういうふうに言ってた。
でも、次はお布施をたんばんにもらおうとしてけしからんと、こういうふうに怒ってるわけですね。
だから、もう周囲のお坊さんたちの中でバイアスかかってるんですよ。長老は執着をする人なんだってなってるんですよ。
だから、すべての行動をそこに寄せて、当てはめて見ていこうとしてしまってるんですね。これが確証バイアスなんですね。
ブッダの詩と四種類の執着
そういうお坊さんたちにブッダは、それは違うよと。長老には執着などありませんよって語られて、次の詩を唱えられました。
心をととめている人々は勤め励む。彼らは住居を楽しまない。白鳥が池を立ち去るように、彼はあの家、この家を捨てる。
この修練を積み重ねている人っていうのは、一つのものに執着しないと、ここでブッダは言われています。私たちは様々なものに執着しながら生きています。
では何に私たちは執着しているか。ブッダは4種類あると言われています。
欲望の対象への執着、誤った見解への執着、誤った習慣への執着、事故に対する執着です。
この中でも最も私たちに身近なのは、一番最初に申し上げた欲望への、欲望の対象への執着です。
私たちの目や耳をはじめとする感覚器官が外の世界にある好ましい対象を捉える。
それは一流の威勢であったり、美味しそうな食べ物であったり、みめ麗しい鞄とか服であったりとか。
そうした好ましいものを目にすると、それを手に入れたいという欲求が起こります。
そしてその欲求から執着が生じてくる。
執着を手放せない理由と正見
ブッダは執着を手放すっていうことを説かれたんですけれども、でも執着を手放すってそんな簡単なことではありませんよね。
なんで私たちが執着するかを考えていただきたいんです。
それは執着する対象をいいもの、素敵なものだと思っているからです。
もっと言うと、私たちは好ましいものを手に入れることを幸せだと思っています。
一流の相手とお付き合いすること、美味しいものを食べること、かっこいい車を購入すること、そうしたものを手に入れることを私たちは幸せだと考えています。
これが世間一派の価値観です。
こういう私たちの現状をブッダはこう言われています。
人々は執着を喜び、執着を楽しんでいると。
そういうのが世の人々のありようであるから、自分の教えというのは世の中の流れに逆らうものなんだとブッダは言われた。
だから理解されないんじゃないかと。
理解されないのであれば、教えを説いても徒労に終わるだけだから、教えを説くことはやめようと。
こういうふうに悟った直後に、教えを広めることを躊躇したというふうに伝わっています。
つまり、これが何を指すかと言いますと、従来の世間一派の価値観のままでは、執着を手放すことはできないということなんです。
だって、いいと思っているものは手放さないんですよ。
なぜ手放せるかというと、それが良くないと分かっているからなんです。
ところが一方で、私たちは、執着によって苦しむことがあるということもやっぱり知っています。
執着の対象が得られなかったり、得ても失ったり、得たら得たで失わないようにって心を砕かないといけないし。
得たことによって、それをめぐって他の人と争う、そういうリスクもある。
私たちはそういうリスクを普段は見ないようにしていたりとか、あるいは過小評価をしています。
けれども、それはふさわしいことではありませんね。
例えば、薬を飲むとき、効果だけじゃなくて副作用もちゃんと踏まえて服用しますよね。
リスクを適切に考慮して、それを踏まえて行動することが私たちにはできます。
ブッダは私たちのその部分に可能性を感じて教えを解くことを決意されたんですね。
好ましいものを手に入れること、それは本当に幸せなんだろうかと。
さらに言うと、そもそも私が好ましいと思っているものは本当に好ましいものなんだろうかと。
ブッダはそこまで私たちに問いを突きつけます。
そうすると、それまで当たり前だと思っていた価値観が由来できます。
ここが仏教のスタート地点になります。
ブッダは苦しみの消滅に至るには八つの道があると説かれました。
この最初に来るのが正見と言いまして、これ正しい見解、物事を正しく見ることです。
仏教が説く価値観に触れて、自分がこれまで当たり前だと思っていた価値観を問い直していくこと、こういうふうに言えます。
そのためにも、まずは仏教の教えをたくさん聞く、これがすごく大切なんだって言われるんですね。
ぜひこの私の番組だけじゃなくてですね、いろんな仏教の話に触れてみてください。
いろんな教えに触れる中で、自分は何を幸せだと思っているのか、本当にそれでいいのか、
そういう自分自身の価値観を今一度見つめ直していただく、そういう機会があればいいなというふうに思っています。
本日もご視聴いただきありがとうございました。
仏教ではこの仏教を広める活動を支えるということも大変苦労のある利益のある行いだというふうに考えられています。
この番組や私の仏教をお伝えする活動をサポート応援してくださる方がおられましたら、ぜひよろしくお願いします。
サポート方法については概要欄の方にリンクを貼っております。
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それではまた来週お会いしましょう。
12:08

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