まず、はじめにご紹介する物語は、ダンマパダの住職書、ダンマパダアッタカタに載っている物語になります。
あるところに、バーラドバーチャという生の4兄弟がいまして、一番上の兄の妻が仏教となります。
このバーラドバーチャという生は、インドにおけるカーストの最上位であるバラモンの生なんですね。
インドにおいては、カーストというものがございまして、ご存知の方も多いかもしれませんが、一番上がバラモン。
次がクシャトリア、これ王族ですね。
3番目がヴァイシャ、商人階級。ガンディとかヴァイシャですね。
一番下になるのがチュードラと。
これは、上位の3つの階級に奉仕をする階級だと言われます。
さらには、この階級にも入らない人たちということで、今はですね、ダリットと呼んだりしますけれどもね。
かつては、私たちが学生時代には、不可植民というふうに習った記憶がありますけれどもね。
そういうふうな方々がいらっしゃると。
その中でも、このバーラドバーチャは、その一番上の階級に位置するバラモンなんですね。
ですから、当時のインドにおいては、現代でもそうかもしれませんが、最も保守的な人々なんです。
その人たちからすると、仏教というのは、この当時においてはですね、一番新しい信仰勢力になりますから、大変目障りなんです。
そういう自分たちの立場を脅かす存在として、ブッダのことを認識していますから、
このバーラドバーチャの一番上の兄にとって、妻が仏教徒であるということは、これ許せないことなんですね。
で、ブッダになんとか恥をかかせてやろうと思って、この夫のバーラドバーチャの長兄は、ブッダのところに乗り込みます。
ただ、ブッダというのは、大変論争もお上手なので、バーラドバーチャの兄は負けてしまうんですね。
で、ブッダのことを言いまかすどころか、自分も仏教信者になってしまうんです。
そうなりますと、次は弟たちが黙ってないんですね。
で、その中の一人の弟とブッダのやりとりというのは、これ大変有名でしてね、
この話は二回の中にも入ってますから、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、ちょっと今日ご紹介したいと思います。
バーラドバーチャの弟の一人がブッダのところにやってきて、突然、バリ雑言をブッダに浴びせます。
で、それを受けてブッダは言い返すことなくじっと黙って耳を傾けていたんですけれども、
やがてこのバーラドバーチャが話し終わったのを見ますと、ブッダは静かにバーラドバーチャにこのように語りかけます。
あなたの家にお客さんが来ることはあるだろうかと。
で、それを受けてバーラドバーチャは、もちろんあると回答します。
するとブッダは、では、そのお客さんに食事を出すこともあるだろうかと。
で、バーラドバーチャがもちろんあると回答しますと、ではと。
そのお客さんが出した食事を残した場合は、その残った食事は誰のものになるであろうかと。
こう尋ねます。
で、この質問を受けてバーラドバーチャは、いやそれは出した自分のものになるしかないと。
自分のところに戻ってくると。
こう回答します。
この回答を受けてブッダはバーラドバーチャの目を静かに見つめながら、こう言われます。
あなたは今日私にたくさんの悪しき言葉を並べた。
けれども私はそれは受け取らないと。
受け取らない以上はそれを発した本人である。
あなたのもとにその悪しき言葉は戻るしかあるまいと。
こう語られるんですね。
ただあなたの品性を怪我して終わるんですよと。
私には何のダメージもありませんよと。
そういうことをここでブッダは言われています。
これを言われまして彼もハッとしたんでしょうね。
ブッダの信者の一人になるんです。
このような調子でバーラドバーチャ4兄弟はある者は信者となり、ある者は出家してブッダの弟子になりました。
この一連の流れを踏まえてブッダは次の詩を唱えられます。
罪がないのに罵られ、殴られ、拘禁されるのを耐え忍び、忍耐の力あり、心のたけき人、彼を我はバラモンと呼ぶ。
ここでのバラモンっていうのは立派な人ぐらいの意味ですね。
バラモンは先ほど申しましたようにもともとは血筋で決まるんです。
生まれによって決まってくる。
でもブッダはそうじゃないよって。
本当のバラモンっていうのは血筋では決まらないんだと。
おこないが立派な人が本当のバラモンなんだっていうふうにバラモンの言葉の意味をかんこつ脱退してしまってるんですね。
次にこんな話もありまして、これは中部経典というもので収録されているカカチューバナ教というものなんですけど、そこにこんな話が載っています。
昔、サーバッティという場所に女性の資産家が住んでおりました。
この女性の資産家は周囲からとても温厚な人物として評判だったんですけれども、彼女の召使いたちはそれを疑っていました。
そこである一人の女性の召使いがこの資産家、女主人を試してみようと思いまして、わざと寝坊をします。
召使いというのがどういう仕事か私は詳しくは知りませんけれども、おそらく主人よりも先に起きるというのは当たり前のことなんだろうと思うんです。
けれどもあえて寝坊をして主人より後に起きるということをやったんです。
1日目は、次から気をつけてくださいねと周囲で済んだんですけれども、また次の日も寝坊しますと、次は大きく怒鳴られてしまった。
それともまた寝坊してみますと、今度は手が出るわけです。暴力を振るわれるんですね。
それを周囲の人が知りまして、あの女性の資産家温厚な人だと思ってたけど、そうじゃなかったんだねと。
このような話を受けて、ブッダは平時温和なのは当たり前だと。
自分の気に触ることがあったときにどう振る舞うか、そこに進化が問われるんだと、こういうことをおっしゃるんですね。
私たちはいつも試されています。
悪意を向けられても、理不尽なことがあっても、それに耐え忍ぶことができるかどうかを。
これ大変難しいことですね。私もよく難しいなと思うんです。
でも忍耐力を養う唯一の機会、チャンスだろうともやっぱり思うんです。
こういうときを除いて忍耐力を養う機会というのはほとんどありません。
このときに大事なのが考え方、価値観になろうと思います。
私も悪意を向けられることというのが多々あります。
このYouTubeのコメントにしてもそうですし、SNS、インスタグラムのコメントとかでもですね、時折心ない言葉を浴びせられることがあります。
でもそのときにいつも思うのが、そこで私がかっとなって感情的に怒り返したりとか、またそのことで落ち込んでしまうというのは負けなんだということを思うんですね。
ニカーや初期協定の注釈には、人々の過失に対する実践が忍耐なんだというふうに示されているんです。
過失ですから、未熟ということなんですね。
相手は大変未熟なんです、そういうことを言葉をかけてくる人っていうのはですね。
だから私たちはそれに対して余裕の笑みを浮かべながら、あなたの力は私には及びませんよと教えてあげないといけないんですね、その態度でもって。
悪意というのは人の誤りであって、未熟さだということなんです。
ここまでは原理、心構えについてお話をしてきましたが、協定の中には具体的に忍耐のためのテクニック、技術のようなことがほのめかされている、そういう場面もありまして、それを最後にご紹介したいと思います。
これは中部経典に収録されている、プンナ教会教と呼ばれるお経のものになっています。
ある時、ブッダの元にプンナという名前の備句がやってきます、お坊さんですね。
彼がですね、自分の故郷で仏教の教えを広めたいというふうに、許可を得にやってきます。
しかし彼の故郷というのは、大変治安が悪いところだったようで、ブッダはあなたの故郷の人々は凶悪ですから、あなたは罵られたりするかもしれませんよと忠告します。
するとプンナは、もし罵られても殴られなかったら、彼らはいい人だと私は思うでしょうと語ります。
これを受けてブッダは、ではもし殴られたらどうするんですかと質問します。
するとプンナは、もし殴られても土の塊、土クレですね、これを投げつけてこなかったから、彼らはいい人だと私は思うでしょうと。
で、まあこうなっていくとだんだん見えてきますね、話が。
次は、じゃあ土クレを投げつけられたらどうするのとブッダは質問しまして、でプンナは、いや刀で斬りつけなかったからいい人だと思いますと。
じゃあ刀で斬りつけられたらどうするのって、命を取られなかったからいい人だと思うでしょうと、こういう繰り返しをするんです。
で、このようなプンナの言葉を聞きまして、ブッダは、あなたは大変忍耐力が備わっている人だから、そういう場所でもやっていけるでしょうと布教を許可します。
実際にこのプンナの故郷というのは、その後大変仏教が栄えたようでして、これは史実的なお話だそうです。
で、このプンナが言っていることっていうのは、耐えしのぶための一種のテクニックだと言えるんですね。
で、この物事事象というのには、どんなことにも必ずポジティブな面がありますね。
反面教師っていう言葉あるじゃないですか。
これは、品性の汚れた人にすら学ぶところがあるということなんですね。
それと同様で、どんなことにも必ずポジティブな面があるんです。
そこに意識的に目を向けるということをプンナ尊者はここでやられているんです。
このプンナ尊者の例はかなり極端なものだろうと思うんですけれども、でも私たちもこれは応用できると思います。
最後に一つだけ注意すべき点がありまして、それは忍耐によって自分と他者の境界線を強くしないということです。
先ほどもですね、私は攻撃とか防御とかそういう言葉を用いましたけれども、
それだけが前に出てしまうと、自分以外の人を敵だとみなして、自他の境界線を強くするということが起こってしまうと。
これは忍耐における穢れなんだというふうに経典の注釈には書いてあります。
自分の外に敵を作り出しちゃいけないんですね。そういう恐れがこれだけだとどうしても出てきてしまうんだと。
だから必ず私たちには相手に対する他者に対する思いやり、慈悲ですね。
ここをまず備えていないといけないんだよと、こういう話でございます。
本日も最後までご視聴いただきありがとうございました。
仏教ではこの仏教を広める活動、これを支えるということ、支援する、応援するということも大変苦労のある行いだというふうに説かれています。
この番組や私の活動をご支援、応援してくださる方がいらっしゃれば大変幸いでございます。
詳細は概要欄のリンクに貼っておりますので、そちらのリンクをタップして内容をご覧いただいてご検討いただければと思います。
また現在ですね、月に1回のペースで東京の浜松町世界貿易センタービルアネックス10階会議室において、仏教講座の講師を務めております。
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それではまた来週お会いしましょう。