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2024-12-16 37:55

#21 京丹波町へ嫁ターン。都会と行き来して描く新しい働き方と暮らし(田中 翼さん)

今回のゲストは、三度にわたる異業種のキャリアチェンジを経験し、それぞれの分野で新たな挑戦を楽しんできた田中翼さんです。自動車メーカー、ウェブ制作業界を経て、現在は樹木葬や手元供養事業を手がける京都の「カン綜合計画・博國屋」で顧客対応やweb周りの業務を受け持っておられます。

未経験の業界に飛び込む秘訣とは一体何なのでしょうか。


▼今回のトーク内容

自己紹介/滋賀県信楽町出身/新卒で大手自動車メーカーへ/10年間勤務してみて/京丹波町尾長野区出身の女性と結婚/京都のウェブ制作会社へ/とにかく楽しむ精神/1年間のキャリアブレイク/少数精鋭の組織で働く/異業種転職で多様な出会い/村での暮らし/兼業農家/これからやってみたいこと/求人募集中


▼出演

ゲスト

田中 翼:

1990年生まれ。A型。一児(6歳男の子)の父。滋賀県・信楽町に生まれ、県内の工業高校に進学。高校卒業後は大阪の大手自動車メーカーで11年の間、エンジンの開発に関わりました。その後、独学でWebについて学びWeb制作会社へ転職し、3年間フルリモートでWebサイト制作に携わりました。退職後は1年間、個人事業主の妻のサポートと家事育児にフルコミットし、キャリアブレイクの期間を経て、現在は樹木葬と手元供養事業を手掛ける(株)カン綜合計画・博國屋で、自社サイトの保守や更新などのWebまわりと、樹木葬地を見学しに来られるお客様のご案内や、それに付随する事務作業を主に担当しています。

メインパーソナリティ

中村 千波:⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/chinamaily⁠⁠⁠⁠

京都に生まれ、大学卒業まで一貫して京都で過ごす。学生時代から「納得できるキャリア形成」に強い興味を持ち、人材業界へ就職。東京・大阪での勤務を経験し、京都へUターン。「これもいいし、あれもいい。」多様性が生まれる生き方・働き方を探究・探求している。


▼田中さんが勤務するカン綜合計画・博國屋について

・最近コーポレートサイトをリニューアルしました!

https://kan-hiro.co.jp/

・X(https://x.com/kyoto_jumokusou

・instagram(https://www.instagram.com/kyoto_jumokusou/


・求人について

社員の私が言うのもなんですが、ブラックじゃないよ~。社員同士、和気あいあいとしていますが、ギュッと定時時間内に実務を行うテキパキ感もある職場です。


▼番組概要

京都の様々なプレイヤーが集まり活動している様子や「居・職・住」について、鴨川でゆっくりしながら雑談する番組。記事に載せきれなかったことや、日々の生活のことなど、音声コンテンツならではの情報もお届けします。ホストは「京都移住計画」のメンバーが務めます。


▼京都移住計画

WEBサイト:⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://kyoto-iju.com/⁠

サマリー

田中翼さんは、京丹波町に移住し、新しい働き方を探求しています。彼は手元供養や樹木草事業を手がける環総合計画広国屋で勤務しています。以前の大手自動車メーカーでの経験を生かしながら、心地よい環境での子育てや地域とのつながりを大切にしています。京丹波町での家族生活や新しい働き方について話しています。また、彼は自身のキャリアを振り返り、田舎暮らしの魅力や地域との関わりについても言及しています。京丹波町での暮らしを通じて、仕事と生活の新しい形を追求しています。特に、空き家管理事業や樹木草の進め方について考えを述べ、地域活性化に向けた取り組みに意欲を示しています。

京丹波町への移住
鴨川でゆっくりしたいラジオ、通称鴨ラジオの時間がやってきました。本日のパーソナリティは中村が務めます。よろしくお願いします。
鴨ラジオではゲスト会と称して、京都移住計画でお世話になっているパートナーや企業の皆さんをゲストにお呼びして、それぞれの京都移住話を伺っています。
今回は手元供養事業であったりとか樹木草事業を行う環総合計画広国屋の田中翼さんをゲストにお迎えしました。
環総合計画広国屋さんは、実は今収録しているのが京都市役所前駅というところにあるんですけれども、そこのクエスチョンビルで収録しています。
そこからだいたい徒歩10分ほどですね、歩いたところにオフィスがある企業です。
ゲストで今回お越しいただいている田中さんは大手メーカーであったりとか、あとウェブ製作会社ですね、勤務経験を持っていらっしゃって、現在は京田馬町に住まわれながら、この環総合計画広国屋さんで働かれています。
そんな田中さんに京都の企業に転職して感じたことであったりとか、あとは田舎暮らしみたいなところですね、そんなところをいろいろと伺っていけたらと思います。田中さんよろしくお願いします。
田中さんよろしくお願いします。
簡単に田中さんの自己紹介ですね、伺ってもいいですか。
初めまして、田中翼と申します。現在は先ほど紹介ありました通り株式会社環総合計画広国屋という長い名前の会社に勤めています。
事業内容としては樹木草の樹木草地の設計ですね、とかお寺さんへの導入のサポートというのを樹木草事業としてやってまして、
もう一つ聞きなじみがない方もいらっしゃるかもしれないですけども、手元供養というものをやってまして、手元供養品の製造販売を行っています。
手元供養というのは知らない方がほとんどだと思うんですけども、個人を身近で供養したい方向けの手元供養品というものがありまして、
ゴイコツを少しだけ手元にとっておいて、毎日声をかけたりとか身につけたりすることで、文字通り手元で供養する、忍ぶということを手元供養と言います。
そういうことを手元供養したい方向けの手元供養品として、小さなコツツボであったりとか、ペンダントタイプのものであったりとか、オブジェのようなものとかを製造販売しているという会社です。
はい、ありがとうございます。
多分この手元供養であったりとか樹木草、初めて聞かれる方も多いんじゃないかなと思うんですけれども、歴史を遡っていくとですね、実は手元供養については20年前ぐらいからでしたかね。
はい、乾燥豪計画広国屋さんが先立って行っていらっしゃったりとか、あとは今ラジオを聞いてくださっている方もですね、樹木草だけでも検索をすると結構関連した、いろんな場所であったりとかで行われているインタビューが見れたりとかもするので、どんどん広まっているような、ある種お墓の業界というか早々業界というんですかね、名前的には。
はい、そういった事業を行っているすごくユニークな企業さんになります。
転職と新しい働き方
今回ですね、田中さんにお越しいただいたのは、もちろんこの乾燥豪計画広国屋さんの事業のお話も伺いたいんですけれども、今まで様々な規模感の企業さんでの働いてみてっていう経験もお持ちなんですよね。
ラジオを聞いてくださっている方の中にも、今の会社から京都に移住して、果たしてどんな働き方をするんだろうとか、ギャップの分ってどう乗り越えるとか、どんなものを待っているみたいなものって結構悩みとして持たれている方多いんじゃないかなっていうことを思っています。
なので、そういった方に対して今回の田中さんの様々な経験されてきたことって感じることがいろいろあるんじゃないかなと思ったりはするので、まずは田中さんについて、今までの話ですね、いろいろ聞いていこうと思っています。
そもそもの出身地はどちらですか?
出身は滋賀県の滋賀ラキ町っていう滋賀ラキ焼きの狸で有名なところが出身地です。
狸マニアとしては絶対に逃せられないような場所にはなるんですけれども、そこから新卒では大手の自動車メーカーに就職をされたんですよね。
これって何であったんですか?もともと自動車がめっちゃ好きとかやったんですか?
きっかけはですね、小学校3年生の時にですね、夏休みの自由研究でそのメーカーの生産工場を見学しに行ったんですよね。
その時、子供ながらにすごくかっこよく見えて、そこで作業されている方が、僕も大きくなったら車を作るおっちゃんになりたいって思ったのを今でも鮮明に覚えてます。
そこからずっとブレずに高校卒業するまでずっと自動車業界で働くっていうことを目指して工業高校入って卒業して、ちょうど休日も来てたので新卒で応募して、
小学校3年生の時に見た職場は製造なんでライン工場だったんですけども、実際に応募して受かったのは開発部門の部署になりました。
なるほど。結構幼少期からかっこいいなと思ってたものが、最初のキャリアというか仕事先になってっていうことですよね。
はい。
結構ね、専門的な分野にはなるんですけれど、そこでされていたことがエンジンですよね。
エンジンの開発に携わっていらっしゃって、働いてあったのは関西のエリアのところでやってってことですよね。
はい、そうです。
はい。大体何年ぐらい働いてあったんですか。
大体10年ぐらいいましたね。
10年間。なんかその10年間でのプライベートの中でもそうですし、仕事での変化みたいなものでいくと、どんなことがありましたか。
10年間ですか。新卒で入りたての頃は、やっぱり社会というものはよく分かっていない年代だったので、18歳とかなので、先輩方に叩き込まれながらですね、いろんなことを。
社会人として自立していった期間を経て、その後はやりたいことをやれてたので、
日々充実した生活になってましたね。
結構激務の会社だったんですけども、新卒で入った一発目の会社なので、全てを素直に受け入れて、こういうもんやという形で10年間働いてましたね。
10年間そこの大手メーカーですかね。働いてみて、もちろん初めて働く場所だから仕事ってこんなものだなっていう、ある種の価値観を得たっていう考え方もできると思うんですけど、
それ以外に、こういうのは身につけられたな、勉強できたな、みたいなものってありますか。
そうですね、やっぱり一番思うのが、仕事に対する姿勢みたいなもの。やっぱり学生気分が初め抜けてない部分結構あったんで、
まあやっぱりこう舐めてかかってた部分とかもあったんですけども、どこかで先輩に悟されて、そういうんじゃないやで、みたいな。
それでやっぱり結構、ほぼほぼ10年間仕事人間みたいな感じで、仕事ばっかりに打ち込んでましたね。
でもいいですよね、そこまで向き合いたいって思うような仕事と出会っていらっしゃってってことですもんね。
途中であれですよね、プライベートでの少し変化もあらはってっていうお話をちらっと伺ったような。
そうですね、大手自動車メーカー在籍中に結婚しまして、その結婚の仕方も無婚入りと言いますか、無婚養子に入る形で結婚しまして、
しばらくは妻と自分の職場の間ぐらいに住んでたんですけども、1年後ぐらいにはもう今住んでる京丹波町の方に移住しました。
京丹波町、京都市についてイメージが強い方からすると、どういうふうに説明しましょうかね。
京都市からさらに北にどのぐらいってある場所になりますかね、今いらっしゃるところは。
そうですね、時間にして1時間半ぐらい北上するんですけども、場所で言うと京都府の形を思い浮かべていただいて、
ちょうどど真ん中ぐらいにあるのが京丹波町、京都のおへそとか言われるんですけど、これが京丹波町です。
めちゃくちゃわかりやすい説明ありがとうございます。ラジオ聞きながら初めて聞くなみたいな方はぜひですね、
Googleマップを片手にちょっと調べてもらうといいのかななんてことを思いましたが、それが2016年ぐらいの話でしたかね。
そこで無雇用士として入られて、関西の大手メーカーで勤められたので、通いながら働いていらっしゃってということですよね。
最初の方におっしゃっていたのが、10年間働いていらっしゃってということなので、その会社から卒業を考えるきっかけが何かあったのかなと思うんですけれども、
どんなことがあって次のキャリアに進もうかなっていうのがあったんですかね。
それは、京丹波町に移住した理由にもちょっとかかってくるんですけども、なぜ無雇用士になってまで京丹波町に移住したのかっていうところをまず説明させていただきたいんですけども、
ちょっとね、こっぱずかしい話になるんですけども、京丹波町というよりは、京丹波町の中の村なんですけどね、
尾長野区っていう村なんです。おっぽの尾に長野県の長野と書いて尾長野っていう村なんですけども、そこが実は妻の出身地です。
妻からしたら里帰りにはなるんですけども、なぜそこに住もうと思ったかと言いますと、妻の性格がね、すごく優しくて純粋で素直な子なんですよ。
お付き合い始めた頃から、どのような環境でこの子は育ってきて、今の彼女の形があるのかっていうのを少し気になって、お付き合い始まってから何度か妻の実家と言いますか、尾長野っていう村の方に何度か遊びに行ったりとか、
地域の皆さんとちょっと交流したりとかするうちにですね、この環境とこのご両親があって、なるほどなって納得する部分があったんですよね。私もこの地域で子育てがしたいなと思って、距離はありますけども移住しようというのを決めました。
めちゃくちゃいい話じゃないですか。いい話でしょ。温めてました。全然恥ずかしくないです。自分が居心地がいいなとか、いいなと思えるような尊敬できるみたいな言葉の方が合うのかなとか聞きながら思ったりするんですけど、そういう人がいて、そういう人が集まっている地域であって、そこの京田馬町の尾長野に惹かれてっていうところもあるんですね。
そこから、じゃあ、移住ももちろんですけど、転職をするっていうのは、これまた通うのが難しくなったとか、なんかそういうのですか。
そうですね。やっぱり片道何時間かかってたのもありますし、あとちょうどね、その勤めてた自動車メーカーの方で転勤の話とかもあって、同じような時期に。
それぐらいの時期にですね、私もせっかく尾長野に移住したので、その地域に根差した生活がしたいなというふうに考えてましたので、できれば自宅で働く、リモートワークって今結構広がってきていると思うんですけども、そういう働き方をしたいなと思って、転職を考えました。
天職に向けて具体的にどんな行動というか活動というかを始めたんですか。
そうですね。当時はまだコロナ禍でもなかったので、あまりリモートワークっていう言葉も広がってなかったんですけども、妻がもともと自宅で個人事業主として在宅ワークをしているものだったので、自分もそういう働き方ができたらなと考えて、
自宅でできる仕事と言いますと、やっぱりウェブポニャララみたいなウェブライター、ウェブデザイナー、ウェブエンジニアとかがあるんですけど、その中でもウェブコーダーと言いますか、エンジニアの方を目指したいなと思って、1年ほど独学でコーディングの勉強をして、ウェブ製作会社の応募をしたという形になります。
なるほど。実際に転職をされたのが2019年というふうに伺ってたんですけれども、デザイン担当として入社をされたんですかね。
そうですね。初め任された仕事が代理店関係のデザインの仕事だったんですけれども、あまり自分にあってなくて、デザインの勉強というのを独学でやってこなかったので、やっぱりやりながら学びながらだったので、なかなかうまくできない期間長かったんですけれども、
そこのウェブ製作会社の社長がですね、「田中くんは話すの好きやね。」っていうのを見抜いてくれまして、そこからはディレクション関係の仕事をさせていただくようになりました。
それはあれですかね。在宅でしながら。
そうですね。初めの1ヶ月ぐらいは研修期間ということで、会社の方まで出社してたんですけれども、それ以降はフルリモートでしたね。完全にリモートワークでした。
なるほど。最初は働き方みたいなところに惹かれてというところはあったと思うんですけれども、どうですかね。まったく異業界、異業種じゃないですか。実際にこの2社目のところですよね。働いてみて、どんなことも学んだりであるとか、ここが正直難しかったよみたいなのって、どんなエピソードがあったりしますか。
そうですね。働いてみて感じたのは、意外といけるなっていうのは思いましたね。初め、転職する前はやっぱり大企業から中小企業だったんで、大丈夫かなっていう不安がすごく大きくて、ウェブ業界の打ち込みとか、めっちゃ調べたりとかして、ほんまにこの方向に舵を切って大丈夫なのかって悩んでる時期は結構ありました。
あったんですけども、いざ行ってみれば、結局仕事相手も人間なので、全然なんとかなります。全然大丈夫です。
キャリアの選択と挑戦
仕事相手も人間やからどうにかなるって、これもちょっと具体的に聞きたいなと思っていて、それ、もともと人と接するのが好きやから、好きなことを活かせてるし、大丈夫やっていう意味で言っているのか、他の意味で言ってるのかでいくと。
そうですね。もともとエンジン相手に仕事してたので、もちろん人とのコミュニケーションもありましたけども、全然見たこともない機材を扱う仕事になるわけじゃなくて、結局人を介すので、コミュニケーションさえうまく取れれば、何でもできるなっていう自信にはなりましたね。
なるほど。かなり大手のところから、2社目で入られたところは大体100名超っていうところですよね。この2社で働いてみて、自分の中で見えてきた仕事をする上で、大切にしているのはこういうことだな、みたいな価値観ですかね。それどんなことをやったんですかね。
そうですね。大手メーカーの時もウェブ製作会社の時も、やっぱり苦手な分野であったりとか、いやこれ厳しいなとか思う時あるんですけども、そういう時いつも思ってたのは、とにかく楽しむっていうこと。できれば声に出して、楽しもうみたいな。
っていうと、割となんとかなるというか、モチベーション的にも持ち帰すことができるので、今の職場でもそうなんですけども、基本的には楽しむことを大事にしてます。
大事ですよね。なんかそもそもの土台となるように、多分スキルのもうちょっと下の土台のところ、基盤ですよね。多分そこにスタンス的なものがあって、そこの部分をちゃんと自分でも醸成されて仕事に臨まれたんだなっていうのを伺いながら感じたりはしたんですが、そこからあれですよね。
2024年に菅総合計画広国屋さんに転職をしあると思うんですけども、何があらはってこの転職しようと思ったんですか。
まずその転職に至るまでですね、実は1年ぐらいキャリアブレイクの期間がございまして、ウェブ製作会社を退職してから1年間サラリーマンじゃない時期があります。
これは何かと言いますと、1つは私自身ちょっと休息の期間が欲しいなっていうのが1つ大きくあったんですけども、先ほど話したように妻が個人事業主で活動してまして、かなり優秀な子ですごく仕事ができる子っていうのはずっと知ってるんですけども、
やっぱり家事とか育児があって、存分にやれてないっていうのが妻自身からもよく聞いてたので、この期間に私がもう完全に家のことをして、妻を全力でサポートしてみて、伸ばせるとこまで妻の事業を伸ばしてみようかなっていうチャレンジの期間でもありました。
なるほど。だからこのキャリアブレイクっていうところは、家族の形を作るじゃないけれども、そういったところのテーマで望まれた1年間ということですね。
そこから、じゃあもう一度この仕事というところに自分戻ろうと思われたきっかけであったりとか、それこそ京都移住計画で探すってまた別ですけれども、早々業界に関わるような会社を探すって多分多くの方はどうやって見つけるのってなる気がするんですよね。
じゃあ、働くにシフトチェンジをされたきっかけと、どうやって今の会社と出会われたのか、そのあたりはいかがですか。
最終職を考えたきっかけと言いますか、それはある程度妻の事業が起動に乗ったっていうのと、あとはやっぱり収入の面で私がサラリーマンしてたときよりもかなり差があったので、やっぱりもう一回最終職しようというのが一つと、
あと私自身結構人と話すのがあって話すのが好きなので、ウェブ製作会社で働いてた3年間とキャリアブレイクで自宅に入ってた期間が1年で、4年ぐらいはずっと家に引きこもってたので、もう外に出たい気持ちが大きくて、それで京都市内で仕事を探し始めまして、
少数制の会社での経験
探し方はもう本当にウェブを基軸に求人を探しまして、普通に求人サイトに載ってたので、総合計画広国屋が。事業内容を拝見して、樹木草はもともと知ってたので樹木草の事業と手元供養っていう何やら聞き慣れない事業をやっているので、
結構供養業界と言いますか、供養の形っていうのも歴史が深くて、結構伝統的な習慣であるように感じるんですけども、樹木草と手元供養って割と新しい文化と言いますか、新しい早々の形なので、そこを最先端を走っているような、早々業界の最先端を走っているような会社だったので、すごく面白そうだなと思って応募したの。
応募しました。
うーん、なるほど。
なんか、それこそ今までの3社目になるじゃないですか、キャリアでいきますと。
で、めちゃくちゃ大手に張って、そこから中小というか、のところの100名規模のところに張って、今回今働いているところって5、6名のかなり少数制の会社にいらっしゃってですよね。
なんか規模感で全てが決まるわけではないと思うんですけれども、やっぱりそれぞれで得れることとか難しさってあるなっていうことを思ったりするんですけれども、そのあたりの今までのいろんな会社を経てみてですね、この少数制の会社に入社して感じることとか、ここちょっと正直難しかったりとかっていうふうに思っていることってありますか?
少数の会社に入って、ここ難しいなって思ったことは全くないです。
全くなくて、むしろ大きい会社にいたときは、やっぱりどうしても分業制の仕事になると思うんです。これだけやるみたいな。
そのウェブ制作会社にいたときも、私はディレクションで決まってたので、隣の関わる仕事とちょっと重複する部分とかもやってたりするんですけど、基本的にはこの範囲って決まってるんですが、やっぱりこの5、6人とかの少数の会社になると割とみんなが全部やる。
なので、会社の中の人の仕事とか流れとかも結構すぐ分かるので、コミュニケーションも全然少し声を張れば全員に声が届くみたいな感じなので、すごく取りやすくて、なんか困ったなとかそういうところは規模で言うと全くないですね。
なるほど。少数生やからこそ自分がその会社の全体の事業がどういう流れになっていて、そこの部分の今これをやってるんだなみたいな、頭で想像がしやすくなったりとか、それがある種モチベーションになったりとかっていうところが規模感ならではで味わえるところなんだなっていうお話なのかなと思ったりはしていて、そういうところがあるんですね。
その他にちょっと気になったところでいくと、それこそ退治する人もまた変わってきたのかなと思うんですね。今までのいろんな会社を経て。早々業界で働いたことありますって多分リスナーの方でもそんなに多くないんじゃないかなと思っていて、この業界で働いてみて、なんかこんな価値観は変わったなとか、これはなんか得たことだなみたいな、なんかそれってあったりするんですか?
まあ、同窓業界に働いたから得た価値観というよりは、全く違う業態になって得た価値観にはなるんですけども、私は結構、今まで仕事で関わってきた方っていうのはやっぱり同世代、30代とか40代、年齢高くても50代とかが多かったんですけども、
やはりこの業界に入ると関わる人、お客様とかは基本的には60代オーバーなので、ただ私は田舎暮らしを通じて年配の方とのコミュニケーションというのは割と自信があったんですけども、
でもやっぱり田舎の方ではなく、都会の方とか、あとお寺関係の年配の方とか、少し属性が一個ずれたりすると、全然価値観が、それこそジェネレーションギャップとか結構あったりするので、
やっぱり私が今まで関わってきた人間っていうのは、すごく限られた範囲の人間だったんだなっていうのを痛感したとともに、やっぱり自分の知らないような価値観を持った方とか、結構いっぱいいるんだなと、いるんだということを知った上でですね、やっぱり慎重に相手のことを知って、言葉を選んで仕事をするべきだなっていうのを感じました。
田舎での暮らしの魅力
すごく大事ですよね。このエリアにいる人とかも、もちろん地域だったりとか年齢とかも、本当になんかいろんな環境、バックグラウンドによって人ってやっぱり違ったりはするので、多分この早々業界に働いている云々は関係なくて、なんかその人ってどんな人なんだっけと、まずそこを知ろうよと。
なんかそこの部分の価値観がやっぱり大事だよねっていうところが気づかれたところ。
そうですね。もう全然違いますね。
ありがとうございます。なんかこれは業界問わず、これが未経験で入るものであったりとか、異業界、異業種で働くっていうところになっても、すごい重要なところなのかなっていうことは感じました。
ちょっと系統を変えて、京丹波町でのこの日々の暮らしですよね。
なんかそこもぜひ伺いたいなと思うんですけども、暮らしておられる尾長の、なんかそこってどんな特徴を持った町なんですか?
町というか村というか集落みたいなところで、世帯数でいうと20世帯ぐらいの村で、
家と家の間隔はだいたい数メーターから数十メーターあるどい中です。
コンビニまで車で15分とかかかるところで、ただ山の中ではなくて、わりと周りが田んぼばっかりで開けてるような雰囲気の場所になります。
年齢層は60代以上、60代から80代がボリュームゾーン。
30代は3人ぐらいしかいないですね。
なるほど。なんか時々この田舎暮らしをしたい人みたいなので、ネットとかで調べるとあまりにも狭いから噂が何でも広まってしまって、めんどくさいみたいな出てきたりすることもあるんですけど、そういうのって実際あるんですか?
いや、それがね、私の地域、私が住んでる地域はそんなこともないかなと思ってまして、
私がリモートワークしてる期間、ずっと自宅にいて、毎朝妻と一緒に村の中散歩してたんですけども、リモートワークを始めて1年ぐらい経ってからですね、村の方から、
あいつ噂くん、仕事してへんの?みたいなことを言われまして、いやいや、私は家で仕事してますよ。全然広がってなくて。
なんか知らんけどずっと散歩してるなみたいな。いやいや、仕事してますよみたいな話をしてるんで、そんなに噂話が広がるみたいなこともないかなと。
そうなんや。やっぱり噂というか、口コミだけを信頼してはいけないなというのが一ついい事例だったのかなと思いながら。
そうですね。話題にもよるかもしれないですね。もっとお年寄りが好む話題やったらすぐ広がるのかもしれないです。
そういうことですね。日々の暮らしみたいなところでいくとどうですか?食の部分であったりもそうですし、あとは住居とか季節の感じ方とか、そのあたりの暮らしについてはどうですか?
食に関しては、この尾長野区という村に住まれている方のほとんどが兼業農家です。私も兼業農家です。
そうなんですか。
はい。なので稲作してますし、有名なところで言うとタンバグロの枝豆。
食べました、最近。
やってます。
そうなんや。
よく口コミで聞く、近所の人が野菜を持ってくるみたいなこと。これは実際あります。
なるほど。
ありますし、うちでいっぱい採れたかぼちゃ。以前もらったから白菜の苗持って帰ってみたいな。全然あります。
我が家で言いますと、母が毎年かぼちゃを作りすぎるので、もう押し付き合いですね。かぼちゃの。そんないらんでっていうぐらい周りの人に配ったりとかしてますね。
食で言うと、そうですね。なので旬の野菜っていうのは必ず食べますし、お米もたくさん採れますので、大体が農協の方に収める形なんですけども、もう何年も暮らせるぐらいのお米が一気に採れるような形になってます。
食がめちゃくちゃ豊かですよね。
そうですね。
今働いてはるところが、それこそ言ってみたら京都市でも都会と呼ばれる、本当に都心部のところだと思うんです。
そことの違いみたいなところもそうですし、通勤をしての気持ちの変化ってあるんですか?都市部に出てきて田舎部に帰るって、両方も毎日体験されてると思うんですけれども。
それで言うと、田舎の夜は暗いですね。街灯が少ないので。あと季節の変わり目とかですと、やっぱり虫がたくさんいます、田舎は。どうしても入ってきます、家の中に。
もうあんまり動じなくなるんですけど、それは慣れで。
ムカデとか、寝てる時に顔の上にカマキリが乗ってたこともあって。
カマキリって乗るんですね。
カマキリ乗りましたね。
布団の中にムカデが入ってたこともありますし、虫が苦手な方はちょっと難しいかもしれないですけど。
でも徐々に共存していくっていうのもそうですけど、それこそ尾長野がもちろん奥様のご実家というか、住み慣れたところっていうのはあると思うんですけれども、これからもやっぱり住み続けたいなって思える場所ですか?
そうですね。長く住みたい場所だと思います。やっぱり癒しが多いですね。やっぱり静かですし、干しは綺麗ですし、やっぱり緑が多いし、安心して子供を育てられる環境だと思います。
なるほど。
なんかこれからみたいなところでいくとどうですか?それこそ尾長野に住まれてでいくともう8年目、9年目ぐらいになるんですよね。
はい、そうですね。
京丹波町での取り組み
この20世帯なので、それぞれとも多分顔見知りでいらっしゃってとかなんだろうなと思うと、この関係性でやってみたいこともあったりするのかなって思うこともそうですし、そこでの暮らしを生かしての仕事にもちょっと、なんでしょうか、店員用じゃないけれども、やってみたいこととか、そんなところってあったりするんですか?
そうですね、少し前に実はちょっとやりかけて一回断念したことがありまして、それは空き家管理事業みたいなことを一回提出したことがありまして、空き家増えてきてるんですよ、私の村でも。
私の自宅の50メートル圏内でも空き家も3軒ぐらい出てて、人様の家なんでどうにかしたいっていう思いもちょっとおこがましいかもしれないですけど、このまま駆使させるにはもったいないなっていう思いがあったのと、あとは将来的には自分の村に人を呼び込むようなことをちょっとしていきたいなと思ってまして、
やっぱり住める住宅と人を呼ぶっていうことを、あんまりまだ具体的には考えてないんですけども、やっていきたいなと思ってますね。
いいですね、長く住まわれてきたからこそ、何か起こっていること自体の課題がかなり自分ごとにも変わってこられたのかなとも思いますし、仕事の面っていうところであるんですか、もうちょっとで1年経たれますよね。
そうですね、今やってる仕事でやってみたいことで言うと、樹木草の事業の方で、結構樹木草の事業自体が全国的に有名にはなってきてるんですけども、弊社が展開している樹木草の形っていうのは結構特殊でして、他の地方でやられているような樹木草と違う点がありまして、
それは、いわゆる墓石というものが存在しなくて、完全にゴイコツを自然に返すっていう形式をとってまして、実は結構少数派の形態でして、今ある樹木草のほとんどがコツツボの状態で埋葬して、ちっちゃい墓石を置くみたいな樹木草が結構多いんです。
本来の樹木草っていうのは、自然層っていう、山骨とかも自然層に入るんですけども、ゴイコツが自然に帰っていって、自然の循環の中に戻っていくっていう思想の早々の形になるので、そういうことを全国に発信できるようなことをしたいなと思ってるんですが、ちょっと京都市の条例でね、お墓の広告っていうのが実は出せないので。
なるほど。そして法律的なものがあるんですね。
なので、やり方は考えないといけないんですけども、マーケティング的な部分ですね。今実は弊社が求人で募集しているのが、マーケティング部門の方、一緒にやっていただける方を募集しているんですけども、そういうところで伸ばしていきたい部分であります。
ありがとうございます。暮らしの部分であったり、仕事の部分もそうですよね。それぞれで今後もやっていきたいことっていうのをお話しいただきましたけれども、京都移住計画でも緩総合計画、ヒロクニアさんの求人は掲載をしています。
田中さん以外にもですね、代表の方もそうですし、一緒に働く方々がこの総総業界というところにどんな思いで向き合っているのか、かなり詳細にこちらは書かせてもらっています。興味がある方はぜひ読んでほしいなと思うのもそうですし、ラジオと一緒に楽しめるなっていうこともちょっとお話を伺いながら感じたんですね。
今出されている求人でいくと、本当に未経験からかなり幅広い形での企画と呼ばれるようなところですよね。マーケティングどうしていくっていうところの構想の部分からみんなと共同しながら、実際の運営実地みたいなところも含めてですね、関わっていけるような仕事だったりはするので、田中さんもそういえば、
異業界、異業種のところから、とはいえのこの人とどう向き合うかみたいな、コアな部分は大事にされながら転職されて、で乗り越えてこられたよねと。自分も未経験だけれども、ちょっとそういった形で幅広く経験を少数生のところでやってみたいな、みたいな方にはお勧めなんじゃないかなっていうのを話を伺いながらすごく感じました。田中さん、人生のいろんな話をですね、今日はお話しいただきありがとうございました。
樹木草の新しい形
ありがとうございます。
鴨川でゆっくりしたいラジオ、通称鴨ラジオの時間でした。次回の配信をお楽しみに。ありがとうございました。
ありがとうございます。
37:55

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