1. 柿内正午の声日記
  2. 原田裕規『評伝クリスチャン・..
2024-03-24 26:08

原田裕規『評伝クリスチャン・ラッセン』(中央公論新社)

2 Stars

大傑作について熱弁。

#声日記 #本 #読書

00:01
はい、というわけでね、ラッセンね。ラッセン、知ってますか?
イルカとね、あのギラギラした、あの青黒い空と海の中、イルカやクジラが羽回り、空には複数の惑星がものすごい近くにこう、あるみたいなね、やつですね。
あのラッセンについて、皆さんはどのような印象を持ってでしょうか?
僕は割と特に何にも思ってなかったんですけど、地元のあの名古屋なんですけど、名古屋の地下鉄の中もそうだし、東京にも中摺広告で、割とそのこう、あの大きめの会場でね、あのラッセン展みたいなものがこう開催されているなーっていうことは、なんとなくふわっとね、あの感じていながらも、
まあ特に、なんて言うんでしょう、あんまりそれに関してはいい絵だとも思わず過ごしてきていたんですけど、あの大人になってね、なんとなく自分があの文化的で、あのセンスの良い人間になりたいみたいなこう色受けが出てくるって以降に、あれこれとその周りを見渡してみると、どうもラッセンってのが非常に馬鹿にされているらしいっていうことは、
わかってくるわけです。でなんか、そうでラッセンはだから別に正直最初からそんなにこう、なんて言うんですかね、あの自分としては何か、好きも嫌いもないぐらいの、なんか電車の中摺広告で見るもの、みたいな感じだったんですけど、あれだね、ノーマンロックウェルに関しては割となんか、好きだったんですよ。
でなんか、実家のね、トイレとかにもこうポスターがあったりとかして、なんか割とこう、なんか可愛い絵だなって思ってたんですけど、これもまたアメリカの大衆画家としてどちらかというとこう文化的な、あの良識的な方々には評判の悪い画家だということを後々知って、それに関しては結構ガーンってきてたんですけど、まあなんかそのような形で、
センスを巡る界隈みたいなものが、まあその美術の世界であったりとか、まあ小説の世界もそうですが、あらゆる芸術ジャンルにおいて何かしらセンスを巡る共同体っていうものがあり、そこから爪弾きにされるようなマスカルチャーみたいなものっていうのがあるというところで言うと、絵画におけるラッセンっていうのはまさにそういった立場に置かれている人なんですが、
このラッセンについて一冊の本を書くっていうですね、原田雄喜さんっていう人の氷田クリスチャンラッセンっていう本がありまして、中央討論審査から出ている本なんですが、これはね、もうこの2、3年読んだ本の中で1、2位を争うほどめちゃくちゃ面白い本でしたね。
03:10
ラッセン、ラッセンはちょっとラッセンにめちゃくちゃ興味が今湧いてきました。なんかあーあーイルカの人ねみたいな、だからなんていうのかな、多分この本はラッセンのことがあんまり好きじゃない人、ラッセンのことを正直バカにしてた人、ラッセンのことをネタにしてた人たちっていう人たちが読んでも面白いんですけど、そもそもラッセンに興味がない人、何の感想も持ってないような人でも面白く読める本で、
というのもね、このラッセンっていうのは日本において1990年代ぐらいのその絵画ブームの象徴みたいになっちゃってる人なんですけど、この人の受容詞でもあるんですよね。受容詞っていうのはどう受け入れられていったかの歴史っていう意味ですけど、
日本でこのラッセンっていう人がなぜここまでバカ受けしていったのかっていうことを描きながら、なんていうんですか、ラッセンを受け入れた日本という文化圏は一体どんなものだったのかっていうことを書いていく本にもなっているわけです。
しかもこれはラッセンっていうものはその美術師から先ほども言ったようにバカにされて無視されて嫌悪されていたりするわけですよ。
ラッセンと同じような画家の中でヒロヤマガタっていう人がいるんですけど、このヒロヤマガタに対して美術家の人とかがもうなんかその名前を聞くだけでもう目も心も汚されたような気持ちになるみたいなことを言ってたりするわけ。
ラッセンもそういうような扱いを受けている。
さらに言うと奈良義友さんが過去にツイッターで、奈良義友さんのことが好きですみたいなファンのフォロワーの人から、僕にとってラッセンと奈良義友さんはすごい同じ箱に入ってますみたいなことを、多分その人自体は割と素朴に言ったんだと思うんだけど、
それに対して奈良義友さんがブチギレて、もう何かイニョリツイッターとか何かで、ラッセンなんかと同じにされるぐらいだったら僕はもう筆を折りますみたいなことを言って、すごい嫌悪感を示したっていうエピソードがあったりするんですけど、そんなような人なわけですよ。
そんなラッセンが、要するに美術の文脈において美術批評の文脈においてラッセンというのを大真面目に語る人っていうのは誰もいない。
かといってそうではないラッセンを需要したような人たちからすると、美術界隈における批評のレイヤーであったり価値判断の微妙なレイヤーっていうものは知ったことないわけだから、奈良義友とラッセンを並列に扱うことに特に何の問題も感じていないわけですよ。
06:02
みたいなところで誰も語らないエアスポットに入っちゃってるのラッセンは。
その正当な美術の文脈からするとそもそも認められていないし、ラッセンは日本語版のwikipediaしかないんだよ。だから英語圏においてそもそもだから知らん人なわけです。
その知らん人が日本でだけ特徴的に有名であり、でもその日本においても美術家たちは基本的にどちらかというと積極的に嫌悪しているっていうようなところがあってね。
要するに良識のある人は誰も相手にしない。
そしてなんかいいなって思ってる人たちはヤンキーみたいな人、マイルドヤンキーみたいな人ばっかりみたいな、そういう世界で分断の象徴なわけラッセンは。
だけどこのラッセンについて語れば語るほどこの日本という文化というのがどのようなものだったかっていうのが見えてくるし、
さらには何が一番感動的かというとこの氷前クリスチャンラッセンというぐらいだからラッセンの反省を描いていくわけだけれども、
そこにおいて大体こういう氷伝っていうのは特にキッチュな題材の氷伝っていうのは結局のところ作品はダメかもしれないけどその人の人生っていうものをネタにしてみると結構面白いもんだよねみたいな、そういうものになりがちなんですよ大体。
ネットフリックスのトラの動物園のタイガキンカとかね、あれとか基本的にあの人本人は全然最低だしなんだけどそれを題材にして何か物語るとなんかこの人間自体は面白いよなみたいになるみたいな、そういう題材はいくらでもありふれているんですけど、氷伝クリスチャンラッセンのすごいところはこの原田雄貴さんっていう人がこの人自身がディスタック者なんだよね。
アーティストで自分で美術作品を作って発表しているような人なんですけどこの人がクリスチャンラッセンの絵画自体をキャリアの初期からずっとあの真剣に吟味して作品論としてまとめていくっていう、第1部と全部で第10章あって全部で4部構成になってるんですけど2部と4部が作品論なんですよ。
だからそのなぜラッセンはこのような描き方になっているのか、なぜイルカを描くことになったのか、なぜそこにさらにクジラだったりなんかエコロジーのような環境みたいなところとのものがあるのかみたいな形で題材っていうものからきちんと紐解いていきながらとことん作品に向き合っていった結果その作品論として面白くてそのだから作品論が面白いからこそこの論を喚起するような作品を作っていくっていうのが大事だと思うんですよ。
このラッセンってどんな人なんだろうっていう興味が湧いてきてそのラッセンがどういう人なのかっていうところに最後こう収束していくっていう本なわけですね。これはね超面白い。めちゃくちゃ面白いよ。
僕はザツナオブザジェットっていうゾンビの本を前作ったことがあるんですけど、これとかもそのタカガラゾンビ映画みたいなものにいかにそこのゾンビっていうものをめぐるその社会的な文脈であったりとかそのゾンビと表彰自体がいかに軽薄なものに見えたとしてもそこには非常に多くの歴史的なものを組み込んでいる表現なんだっていうような本を作ったんですけどなんかまさにそれをラッセンでやっているというかね。
09:28
これはすごいんだよ。ラッセンはハワイの画家なんですけど、お父さんがね、米軍でイオジマなど多くのほぼ日本に対日本に対する多くの作戦に従事している軍人だったみたいなところがあって、だからその日本に侵軍してくる前の中継地点としてハワイに駐屯していた時にハワイに見せられて移住をしていったっていうような人物なんですね。
要するにハワイと日本の関係っていうのはラッセンの親の時代からすでに微妙な緊張関係の中であったというような話があったりとか、あとラッセンのその絵画の技術であったりとか、その授業のされ方の微妙さみたいなところっていうのは実は戦前戦後の戦争画と一本筋を通して語ることができているんじゃないかなっていうふうに思うんですけど。
日本の戦争画っていうのは戦後その生き延びた戦争画家っていうのはどういうところに行くかっていうと、科学雑誌の写真とか、あとはプラモデルの箱の絵とかを描くような仕事に入っていくと、要するにちょっと差実的なんだけど少し大きくデフォルメがあって、それになんかすごいワクワクする気持ちにさせられるようなものっていうのを描いている。
そのあり方とのアナロジー的に語っていくみたいなところがあったりね。
面白いんですよ。
めっちゃ面白いんですよ。
ラッセンの作品論のところでね、イルカとかクジラとかそういうモチーフに対しての歴史が語られていったりするところがめちゃくちゃ面白いんですけど、何よりね、アクアリウムの話が面白くって。
これはレベカソルニットのウォークスっていう本の中でも、人がその自然の中を散歩するようになるっていうのは自然というのは怖くなくなった時なんだっていうことを言うわけですよ。
風景画というものは18世紀、19世紀になるまでそもそも存在しないんですけど、なぜなら風景というものは醜悪なものだったから。
つまり危なくて、汚らしくて、ただ怖いものだったから、わざわざそれを何か絵にして、なんかバエーみたいな感じでめでるものではなかったわけ。
でもそこにテクノロジーが発展していく中で、自然というものは漁することができる。
人間が何かコントロールできるものだっていう風に発想が転換した途端に、やべぇなんかノンブラン山脈めっちゃ映えないみたいなことをノーノーと言ってのけられるようになっていくっていうものがあるんですけど、この風景の最たるものとして海っていうものがあるんですよね。
12:04
この螺旋の絵っていうのは割と断面みたいな感じで、それこそ水族館みたいな絵なんで、空から海までが一直線にスコンとガラス板みたいなのが張っていて、
海の中で魚が泳いでるみたいな絵があるわけだけども、この絵の歴史を紐解いていくと非常に面白くて。
というのも、水族館というか水槽っていうものが発明されるまで、人は魚を横から見るっていうことをそもそもしないんだよね。
これ結構ああ言われてみればそうだって思ってめちゃくちゃ面白いんだけど、要するに池とか作ってそこで鯉とかをめでるっていうことはやってたかもしれないけど、
それはそこにおける人間がコントロール下に置いた生きた魚を見る時っていうのは常に上から見下ろすんですよ。
それがいつから水槽の断面になっていったのかっていう話とかが、螺旋の作品と絡ませながら語られていくわけ。
ここだけでも超面白い。このアクアリウムというものをめぐる人間の感性のあり方っていうところが非常に面白いのでぜひ読んでほしいし、ここまで聞いたら別に、だから螺旋には別にそんな興味ないっていう人たちがいるとすると、でもね、螺旋っていうのは実はものすごいその作品自体が持つもので、
非常にね日本人というものの感性の割と共通項にやっぱり合致していたんだって証拠がいくらでもあるんですよ。
螺旋の絵をちょっと思い出してみてください。螺旋の絵には陰影がない。影がないんですよ。基本的にツルッツルとしてて、すべての事物に均等にライトが当たっている。
肉眼で見る人たちの、我々が肉眼で認知する世界っていうのは実は結構均等にライトが当たっていて、どの視界に収まるすべてのものがきちんと明るく見える。そしてすべてにピンと合わせることもできるわけですよ。人間の目っていうのは。
でもカメラっていうのは手前と奥でフォーカスの当て方で変わってくるし、ライトもちょっと後ろが暗くなったりとか、どっかに明かりを集中させようと思うとその背景が暗くなっちゃったりするんですよ。大体のカメラっていうのは。
これをね、まるで肉眼で見るかのような、写真以上にリアリティのある、すべてに光彩度に光が当たっていて陰影がなくて、全部が全部ピントがしっかり当たっている。そしてライトもしっかり当たっている絵っていうのは、我々どこで見るかというと、新海誠のアニメの風景なんですよ。
新海誠のアニメっていうものが、非常になんか綺麗な世界、リアリティのある風景みたいなところで語られるとき、実はそれはクリスチャンラッセン的な、すべてにピントが当たっているカメラではできないような表現っていうもので、風景を描いているからこそなのである。
15:00
あとはその光のジャラジャラした感じっていうところで言うと、今そのラッセン的な感性を持つ人たちにもてはやされているのはチームラボなんだっていう話をするわけですよ。僕はチームラボは積極的に嫌いなんですけど、積極的に嫌いだからこそ、ああだからラッセンって嫌われてたんだっていうのを逆に納得するというか。
確かに僕はこのリアルタイムでチームラボを見ているからこそ、すごいあれに対してその名前を見るだけで目も心も汚されたような不快な気持ちになってるんですけど、多分ラッセンってそういう立場にあったんだろうなみたいな気持ちになったりもするし。
あとこの氷田クリスチャンラッセンってね、そのラッセンがなぜ嫌われてたかっていう話が一つあってね。東京にお住まいの方とか来たことがある方ならわかるかもしれないんですけど、秋葉原に客引き禁止みたいなポスターが貼ってあるんですよ。駅に大体。
で、客引き禁止のポスターっていうのはだいたいメイドの姿をした人が声をかけているのに対してダメだよっていうのが書かれているんですけど、実はそもそも秋葉原において客引きが禁止される条例ができた理由っていうのは、絵画商法っていう綺麗なお姉さんに声をかけられて、なんか気づいたらめちゃくちゃ接待されて、なんか気持ちよくなってる間にいつの間にか高い絵を買わされてたみたいな。
そういう悪質な商法の被害が多くなりすぎて、それによって条例で禁止されてるんですね。秋葉原だけじゃなくて銀座とかあらゆる都市でそういう同じようなね、ほぼつつもたせみたいなもので絵画商法っていうのがあって、そこで売られてたのがラッセンだったっていうのもあって、ラッセン的なものだったっていうのもあって、
何かその当時90年代の日本において何かつつもたせ的な被害で壺買っちゃったとか絵買っちゃったみたいなところから、なんかそのラッセンっていうのが有害なものとしてレッテルを貼られていった部分もちょっとあるんですよ。あるらしいんですよ。ちょっと僕ここは実感を持って語れないんだけど。
でもねこれが面白くて、あのねクリスチャンラッセンを日本に紹介した会社っていうのがね、これはその当時80年代の世存文化。西部とパルコが文化というものを資本主義化していくっていうような世界でやっていったところなんですけど、そこから百貨店みたいなのがちょっと元気がなくなった後に、次に出てきたのがアールビバンっていう会社が出てくる。
このアールビバンっていう会社が、とにかく何か絵が飾られていると、家の中ですごいなんかふわっとした気持ちになっていいみたいなところから、みんながこう絵のある生活をしてほしいみたいな理由でこのアールビバンっていうのがこう会社ができて、アールビバンっていうのは要するにアートのある生活っていう意味なんですけど。
生活の中に絵を飾ってなんかちょっと心を豊かにしていこうよっていう理念のもと、その複製画を売るみたいなのも、その原画は高くて買えないような人にも版画とかそういったものだったら少しお手軽に買えるからちょっとそういうので素敵な生活してみませんかみたいな。
18:13
ラッセンの原画展の画期的だったところは展示会の真ん中に商談室がある。だからここで見ていいなと思ったら持って帰れますよってあなたの生活の中に組み込めるんですよっていうことをやっていったところに画期があって、で割とこれ自体はいい話じゃん。
じゃあなんで秋葉原そんなことやってたのみたいなことを言うかもしれないけど違うんだよ。秋葉原でそういう仕事をしていたのはアールブリアンっていう会社。もうねひどくない?アールブリアンだよ。全然関係ないんだよね。
アールビバンとそういうパチモンみたいなのがどんどん出てきてそのラッセン人気に乗じてそのパチモンたちがパチモンを売ることで悪名が高くなってしまって結果的に当時としてアールビバンも悪者みたいになっちゃったわけ。だからラッセンとか絵画っていうものをビジネスにすること自体がなんか悪いことになっちゃうし、で残りの他の現役のアーティストとかも普通に最初から白い目で見てるから商業主義にのって走ったような不潔な絵なんか最初から最悪だしみたいな感じだった。
だから誰も擁護してくれないわけ。だからアールビバンは割と綺麗な理念のもと綺麗に実施してた自分たちのそのビジネスっていうものが後から現れたパチモンの風評被害によってうまくいかなくなっていってしまうっていうすごい悲しい話とかもあるんだけど、でもこの辺のね割とその真っ当な名誉回復話とかがさちゃんとこう表現クリスチャンラッセンの中に出てくるわけですよ。
もうねラッセン面白いじゃんってなるし、何よりね一番すごいのはこれだけラッセンについて熱く語れるぐらいこの表現クリスチャンラッセンってめちゃくちゃ面白いの。でラッセンというものを愛した日本という国の文化史としてめちゃくちゃ面白いの。なんだけどじゃあクリスチャンラッセンの絵が好きになったかっていうとそうではないっていうところがまたこれはね面白いところで。
やっぱり何か何かの作品というものにそれ自体心底熱中できなかったとしてもそれに熱中してしまう人たちが多くいるという謎に立ち向かうことはいくらでもできるしその謎に立ち向かうときそのラッセンを好きな人たちのことを何か一つステレオタイプの中に押し込めたりとかバカにしたりとかそういうことするのではなく大真面目にフラットにそれを語ることができるっていうその姿勢に僕は非常に感動したんですよ。
この本の中にもベタとメタとネタっていうよくある参考が出てくるんですけどラッセンってのは非常にベタなんだと。でメタな視点がないんだけどこれはえっと斎藤玉樹っていう精神科医がヤンキー論の中で言ってるんですけどヤンキーってのはメタ視点がないんだと。
21:01
どれだけあのメタなことをやっていたとしてもそれをすべてベタに受け止めるって感性があるみたいなことを書いている本があって例えば騎士団とかはあれは思いっきりメタ視点からヤンキー表彰というものをメタ的に捉えて再構成したバンドのはずなんだけどそれをめちゃくちゃベタに真剣に受け取ったヤンキーファンタジーがめちゃくちゃついてるみたいな話の中で出てくるんだけどそれでラッセンっていうのは本人もメタがあるか微妙。
すでにすべてベタしかないようなところから始まっているんだけれどもこれがツイッター以降だよねそのラッセンというものに対してメタ的に下に構えていた人たちがさらにラッセンをネタにしていくっていうことが起きた後にどんどんラッセンがフリー素材みたいに使われていっちゃうんだよ。
どんべー高のプロモーションで書き上げとか書かされたりするんだよねクリスチャンラッセンってなんかそういう感じでもうなんかパブリックですらなんか自分も含めみんなでネタにすることに走っていってしまうっていう話が表伝の中で出てきて要するにベタからメタというものとの緊張。
メタな美術界みたいなものからの緊張関係の中で常にベタに徹し続けることで商業的に少なくとも日本では成功したラッセンというのが結局それを日本においてもメタとベタの緊張関係をずらすような形でネタに走っていってしまった結果なんかもう袋工事に入っていってしまうっていうこのラッセンの悲哀を表伝の中では書いていくわけだけど。
もうそのねこのどれにもスタンスとしては寄りかからないんだよ。その大体の表伝とか美術表っていうのはメタに入っていってメタな言説空間の中で逆張りゲームをやっていくような話になりがちでラッセンについて本を書くってなった途端にそれは確かにメタの逆張りのようにしかならなさそうなんだけどなんないんだよ。
不思議とラッセンの作品について語るときはしっかりちゃんとベタにちゃんとラッセンの絵に内在的に語ろうとするわけ。しかもそれでラッセンが面白いおじさんとしてネタ化してラッセンの人生を語るわけでもなくてもうめちゃくちゃ真摯に一人の人生を語ろうとするわけ。
だから昔ゴッホの展示を見た川上美恵子がブログで私はゴッホにゆたりたいっていうあのめちゃくちゃゴッホに対して友達みたいな気持ちであのゴッホにゆたりたいお前あんた本当に今めちゃくちゃ売れとめっちゃこうみんなに人気であんたの読みるにわざわざいろんなトークからみんな来てるんやでってもうあのもう食うものに困ってたあのゴッホに私はゆたりたいんやって言ってる非常にエモーショナルなブログがあるんですけど
なんかねどこかしらそういうねボクバックラッセンにゆたりたいみたいなところがあるんですよ。そういう意味ではベタなんだけど
っていうなんかそのね全部あってネタ的なものにもちゃんと目を配ってなんかそういう見方もあるよねって言いつつでも一番冷静にとか冷静に距離をとってそれはダメだっていったのをネタ化することなんだけど
このね参考に対してすべてフラットに等価に並べながらこういう見方も確かに全部あるんだけれどもそもそもラッセンとはっていうところで書いていく
24:09
でこれ作品論として大真面目に書くためにはラッセンほど気を奉変のどちらかと言っても普通にこうバカにされがちな対処について書くためにはもうすべてを等価に扱いながら人物を中心に置くっていうやり方をするしか
そもそもこの作品と真面目にちゃんと向き合うっていうこと自体ができないんだっていう本なんだっていうことに納得するわけだからこの本は表伝クリスチャンラッセンっていう名前で表伝ってついているけれどもきちんとラッセンの作品論になっている
でもこの作品論をきちんと成立させるためには表伝である必要があったんだっていうところでも非常にこうね
必然性のある作りになっていて僕は非常に感動しました 表伝クリスチャンラッセン
中央口論審査から出ております ぜひ皆さん
買ってくださいあのラッセンの絵もねバブル当時は 陶器目的で買っていったような人たちもいたようでして僕はこの本早水健郎さんの
ポッドキャストで紹介されているのを聞いて買ったんですけど早水さんはこの本が値上がりすることを見越して買い占めてるっていう話をされていましたが
それが非常に気の利いたコメントであることもよくわかる いい本でありましたので僕もちょっと買い占めておこうと思うので皆さんも将来的に値上がりすると思います
今は3300円の定価で買えますのでぜひ 買っておいていただけたらいいんじゃないかと思います
そして出版関係の皆さんはぜひ値上がりを見越してさっさと増殺なりしてその陶器目的の人たちを
ペチャンコにしていただけたらいいかなと思いますので表伝クリスチャンラッセンいやマジでめっちゃいい本だった もうすべての作品論がこうだったらいいのにって思う
もう本当に感動しましためちゃくちゃいい本ですのでぜひぜひ 皆さん読んでくださいということで終わりたいと思いますごきげんよう
26:08
2 Stars

コメント

スクロール