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2024-03-25 16:15

速水健朗『ケータイ小説的。 "再ヤンキー化"時代の少女たち』(原書房)

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前回のラッセンの方については、あまりに夢中になって喋りすぎた結果、25分を超える内容になってしまって、
5分のショートで声日記をやるっていう最初の目的はどこに行ったんだっていう感じになってしまいましたが、
5分はともかく、声日記をね、毎日やるっていうこと自体早々に諦めていますけど、
あのいつの間にか声日記もね、工藤文子さんも初めていらっしゃいますし、
雑談オブザデッドの協調者でもある我らが涼太さんも初めていますし、
あのライフでお世話になっているペロン先生もね、初めて。
なんか、どんどん滑挙を呈しているというか、マジで声日記界隈がムーブメントになりつつあるんではないかという気持ちになっていますが、
なりつつあるんじゃないかっていうか、なってるって言うから僕ら勝手に参入してるって話なんですけど、
あの、皆さん結構毎日やってるんだよね。
で、しかもちゃんとさ、短くコンパクトに10分以内にまとめててさ、
もうなんか早々にスタートダッシュを決めたやつが早々に間違っていくっていう感じにちょっと焦りを感じたりしていますが、
まあ、もう読んだ本の話だけをするっていうことにして諦めて喋っていこうと思いますが、
今日ご紹介するのは原書房から出ています早水健郎さんの携帯小説的、
副題がサイヤンキー化時代の少女たちっていうこの本を紹介したいと思います。
なぜこれを読んだかっていうと、ラッセン読んだからなんですけど、
ラッセンの本をそもそも紹介してたのが早水さんだったっていうのもあるんですが、
やっぱりね、そのラッセンに関してはちょっとまだ90年生まれとしては90年代のラッセンブームをリアルタイムでそんなにこう実感できてないところがあって、
そこまでラッセンというものを好きであることも嫌いであることもできなかったなっていう気持ちが結構あって、
なんか僕にとってのラッセンってなんだって思った時に携帯小説なんじゃないかって思ったら、
そういえばちょうど早水さんで携帯小説の本書いてたじゃんっていうところで読んだっていう経緯がありますね。
これちょっと始めにのところちょっとだけ読ませていただきます。
人は自分が理解できないものや自分が知っている常識から逸脱している表現を遠くへ押しやろうとしたり、モンスターに仕立て上げて攻撃したりすることがある。
携帯小説とはまさにそういう扱いをされたジャンルと言えるだろう。
携帯小説は嫌悪感や排除の論理で扱われてきた。
っていう書き出しで始めに始まっていくんですよ。
もうまさに、まさにというかね、まあそもそもこの携帯小説っていうのはこの始めにのこの後にも書いてあるんですけど、
どういうものとして扱われてきたかっていうと、小説をほとんど読んだことのない作者によって書かれ、小説をほとんど読んだことのない読者に読まれているものとして作られているんだっていうような書かれ方が出されていくわけですよ。
まあそもそも携帯小説自体は携帯で読むものっていう、まあそもそもそのメディアとして全然違うものだっていうところもあるんですけど、
それ以上に、まあそもそも小説のそれまでの補佐法っていうものを、まあ全く踏まえていない文章の文章表現であるっていうことで、分担から無視され続ける。
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例えばあの桜庭和樹なんかはライトノベルから始まって、まあ最初はライトノベル作家であったはずなんですけど、今だともう直木賞作家ね。
あ、草川賞だっけ?まあいいや。まあとりあえずなんかそういうその分担に途中、ライトノベルから参入するって道はあるけども、携帯小説からそこに参入する道は絶対にない。
なぜならそもそもライトノベルはギリギリ小説表現として、一つの分担的な文脈の中での際のゲームに組み込まれる余地があるけども、携帯小説は全くの異物だから、
そもそも分担っていうものと別のところで、その海外に参入できるだけの共有する文脈が何一つないからっていう話なわけですよ。
これはほらラッセンの話でしょ? 去年のクリスチャンラッセンの話の中で特に直接お話はしませんでしたが、
ラッセンっていうのはハワイの田舎でずっと暮らしてたから、正当な美術教育を受けてないんだと。
だからそもそも美術界みたいなところに参入するだけの文脈だったりを共有できるような人脈もなかったっていうところに大きなポイントがあるんだっていう話が指摘されているんですけど、
携帯小説はまさにそういう別のところから別の形でぽっと出てきたものって文芸じゃないわけですが、
ではじゃあこの文芸って何から生まれてきたのかっていうことをこの携帯小説的という本の中では書かれていくわけですよ。
第1章がね、もう面白いですよ。
情景のない世界っていうので、情景描写、風景描写がないんですと。携帯小説においては。
で、情景描写もなければ固有名詞も出てこないっていう話をするわけですよ。
ジャスコも出てこない。イオンも出てこない。アリオンも出てこない。
出てくるのはショッピングモールだ。そして〜駅出てこない。出てくるのは駅前だ。
みたいな形で固有名詞が全く出てこないんだっていう話をこうまず指摘するんですけど、
そんな中で重要なのは何かっていうのが、これもちょっともう一回本文読ませていただきますが、
携帯小説に関して何かを語ろうとする場合、何はさておいても浜崎歩みについて触れなければならないっていう書き出しで本編が始まるんですよ。
これはめっちゃ面白くて。浜崎歩みと遊民の歌詞を対比するシーンがあるんですけど、
遊民の中央フリーウェイは中央高速道路から見える情景の話なんだよ。
あれはどういう話かっていうと、直接言うとジャスラック的にあれだろうからざっくりとイメージで言うと、
中央高速を走っていると風が煽られながら走っていくんだと高速道路。
そこを片手でハンドルを切りながらボソッと愛してるよみたいなことを言うんだけど、
もう風に煽られてるからその声はかき消されたあなたに隣のあなたには聞こえていないよねみたいな歌詞なわけ。
もうこれはこの歌詞だけで、そもそもその人たちが都内に生活権があって、
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都内で車を持っているなかなか敗訴な人間であるだけではなくて、
風で声がかき消されるってことはオープンカーであるってことまで言外に表現されているような歌詞だと。
だから要するに具体的なオブジェがめちゃくちゃ溢れているものなんだと。
だけどそれに対してああいう歌詞っていうのは、なんかもうちょっと違うんだよね。
これもちょっとまたフワッと言うならば、これフワッて言うの難しいけど、
なんかね、恋名が出てこないところか、誰の話かもよくわからないんだよ。
なんかあの時本当の強さみたいなものを教えてくれたのはあの人だったかもしれないけれども、
なんか今はそのあの人への未練すらも断ち切ってさらに前を向いていくよみたいな歌詞を書くわけ。
具体的な情景が全くない。だけど何かノスタルジーだけはある。
何か過去を向いて何かを喋っている。
このあゆのこの在り方っていうものの影響権をあれこれ飾っていくところから携帯小説が始まっていくんですよ。
あゆの影響権にあるものは何よりもまず7なんだと。
ホットロードなんだと。
そういう少女漫画における横書きの吹き出しに入っていないポエム。
あの心象風景のあり方とあゆの世界ってのは同じものなんだっていう話をしてて。
携帯小説において基本的にほぼほぼ何一つ固有名詞が出てこないような中で
ほぼ唯一と言っていいほど必ず出てくる固有名詞が浜崎あゆみなんだっていうことを書いているわけ。
この浜崎あゆみの歌詞を直接はもちろん引用しないんだけど、
例えば恋空において彼氏と別れるってなった時に文化祭で歌う曲が浜崎あゆみのなんとかっていう曲なんだけど、
この曲の歌詞を知っているともうそれがその別れることに対して未練たらたらであることがよくわかるみたいな形で。
そもそも携帯小説を読む読者ジャンルの中に入っている人たちの共同体っていうのは何の共同体だったのかっていうと浜崎あゆみの共同体だった。
浜崎あゆみのこの曲名を出すだけでその主人公の心象風景を全て語りうるっていうような作りになっているってところがまだ違うんだっていう話がまず一つと、
さっきのユイミンの話はまさに東京の固有名詞の話だったわけですよ。
でも携帯小説においては固有名詞が出てこないから直接はわからないんだけど、
ワードをよくよく見ていくと県立大学とかそういう言葉がよく出てくる。
要するに都内ではなさそうなんだ。
郊外の小説であり得る。
こういう名詞を出さないことによってそもそも郊外と言いつつもよくネタになるけれども国道だったりだいたい全部青木の洋服の青木があってドライブスルーがついているマークがあって吉野家があってみたいな、
すべて確立化されたあの世界っていうものができてくる頃とこの携帯小説の対等っていうのはかなり直的に重複しているんだっていうところから、
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郊外の生活における固有名詞のなさというか、ある意味個性のなさ、名前に託されるような個性のなさみたいなところとそのあゆ的な世界っていうものとが一つ合体したところに生まれてきた表現が携帯小説なんだっていうようなことが書かれている。
これも非常にね。
携帯小説っていうのは基本的になんかすごいこう、なんていうの?みんな死ぬじゃん?なんかだいたいみんな死ぬし、なんかすごいこうさ暴力振るわれるし、とにかく相当無稽な話がこんなにことあるみたいなことがあるんだけど、でも読んでる人たちはなんかこれがリアルだからっていうわけだよね。
そのリアルだからって言ってる人たちが持っているこのリアルさというかこの独特のリアリティって何なのかっていうことなんですよ。
なんかその道歩いてるだけで急にすごい怖い先輩たちに車につり込まれて暴力振るわれるとかさ、気づいたら付き合った人付き合った人が交通事故やガンで死んじゃうとかさ、それに対してリアルだと感じるのは一体なぜなのかっていう話とかも書かれていくんだよね。
そこが僕は一番面白かったんだけど、あのね携帯小説っていうのはもともとは例明記からして日記的なウェブ日記みたいなもののフォーマットの延長線上にある表現なんだよね。
恋空もそうだし、まぁ大体のその赤い糸とか携帯小説の多くのものが実話に基づく物語って言われているんだよ。だからその書いた書き手の作者と主人公がほぼイコールに結ばれていて、この壮絶な人生を歩んだ自分の物語として書かれているんだよ。
だからそれをね、みんなそういうものとして読むわけ。読む人たちは。だからなんかこの人はこんなに大変なことがあったけどそれでも前を向いて生きていくんだっていう読み方をするんだよ。なぜならそれは本当の話って書いてあるから。
これが面白くて本当の話って書いてあるからバカ売れする本のある本の作者が第2作を書くの。それはね20万部ぐらいの不良在庫を抱えるぐらい失敗するの。なぜならそれはねSF小説だった。だから本当じゃないじゃんってなった。
本当にあった話を読みたいんだよ。携帯小説の読者っていうのは。本当にあったとさえ言われれば多少、どこまで多少というかともかくとして多少口頭無形であってもそれは本当のこととして読むんだっていう理解が共通認識がすでに出来上がっている世界だったわけで携帯小説っていうのは。
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これどこかで聞いたことある話ですよね。そう本当にあった怖い話。つまり実話怪談の世界と同じなんです。携帯小説における全てをベタに読む。そこにメタなあり方を許さないっていうあり方って本当にあったと言われている。その本当にあったって言われてるんだから本当にあったんじゃんっていうところにリアルを感じるっていうこの読者の態度。
このリテラシーなあり方は実話怪談の読み手の世界とほぼほぼ同じなんですよね。だからこいつらは実話怪談だと言っていいでしょ。ここで僕はやっぱり自分の実話怪談が好きだから。実話怪談の世界とこいつらの世界っていうのを非常に携帯小説の世界っていうものの類似性に気づいたところで大興奮しましたっていう話なんですけどね。
携帯小説における文体の特に情景描写もなく、たわやまない会話とかすごい短いポエムだけで全体構成されている。あのあり方自体も自分の同級生の裏赤のブログというかシーサーブログとかで作っているようなブログの闇文体との近似性があるわけだけど。
これは実話怪談におけるリアリティの持たせ方とほぼ一緒なんだよね。実話怪談の世界における文体のあり方っていうのはちょっと拙くすることとか少しこの柄の悪い喋り方だって入れることによって、これは本当になんかそういう人がいてそういう人の体験っていうものをそのまま書き起こしているんだなって気持ちにさせるところに良さがあるわけです。
要するに文章のつたなさも含め、自分たちのうちらのこの界隈でいつもやり取りしている手紙のやり取りだったり、メッセージのやり取りだったりっていうものの延長線上にある人の友達の話を聞くみたいな体験として、携帯小説の読書体験っていうのは成り立っていたんだっていうことに気づかせてもらえただけで、この本は非常に面白い本だったなっていうことと。
基本的にその確立された文壇であったり美術界みたいなところからはどちらかというと馬鹿にされるような表現、知説なものであるとか下品なものであるとかっていうような形で馬鹿にされるような表現をこそ、なぜそれがここまである一定の層に響いて受け入れられていったのかっていうことを内在的に批評するようなことをしない限り批評っていうのはどんどんつまんなくなっていくよねっていう話を
タイトとして表明している本でもあるわけですね、この携帯小説的っていうのは。非常にこの本はクリスチャンラッセンと相通じるところがあるというか、僕はやっぱりそういう批評のあり方にめちゃくちゃ惹かれるんだよなというか。
やっぱりね、いかにも高尚でございとか、いかにもよくできてますみたいなお上品なものをお上品に語ったり、なんかちょっとこじゃれたこと言ってみたいな、そういうシャラくさいものはね、好きだけどやっぱりそれだけでよくないと思いますね。
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なんか何かをバカにして自分が安全権にあるみたいなやり方を態度が批評なんだとするみたいなパブリックイメージができてしまっている理由として、実際ちょっとそういうところがあるからだっていうところがあると思っていて、やっぱり自分の既存の文脈の中では安心して語れないようなものをきちんと自分が普段使っている文脈というものから降りて、別のその文脈を探っていった上でそこから内在的に語るってことをちゃんとしようみたいなことは、
なんか本当にね、もっとね、ちゃんとやった方がいいよなっていうようなことを非常に思った本でございました。
まさにこの内在的に語る、メタな視点というものを一度捨てて、きちんとそのうちらの内輪の中で内在的にベタに語っていくってこのあり方っていうのはまさにヤンキー的な手法なわけで、
今一番批評に足りないのはそういうヤンキー的な態度なのではないかというような形で大きく打ち上げて終わりたいと思います。ご機嫌よう。
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