能力主義と社会の影響
こんにちは、いわみです。
今日も始めていきたいんですが、
この前置きの挨拶をね、より短くというか全くなくてもいいかなって、今ふと思ったので、
今ね、癖で言っちゃいましたけど、なぜかというと、
なんかね、最初の決まり文句を言うと、なんかいつもと同じ思考パターンにね、パッとね、切り替わる気がして、
それはいい時もあるんですけど、自覚してみたらどうなるのかなと思ったので、
いきなりね、そういえばさ、ところでって始まるのがいいのかなっていう。
そうだから、最初の出だしはところでっていうね、だけでもいいのかなと思いました。
それでね、今日は喋ってみたいことというか、ひとした気づきがあって、それについてね、
頭をまとめながら喋っていくっていうことなんですけど、
どういう話かというと、いくつか本を読んでいて、
それがね、全部同じことを言っているような気がしたので、
それについてと、あともうひとつね、自分の家族、子供なんですけど、
息子のね、その学校のことについても、ちょっと共通点があるような気がしたので、
それをね、全然まとまってないんですけど、ふとしたとっかかりを気づいただけなので、
そこからですね、それを結び合わせて、多少結び目ができたらOKぐらいのね、回にしてみようと思います。
だから自分でもね、どんなあれになるのか、着地点になるのか全くね、予想もつきませんが、
お付き合いいただければ幸いです。
まずね、自分なりにそのぼんやりしているテーマ、読んだ本を紹介する前にね、言ってみたいのが、
何の話かというと、能力主義みたいなことなんですよね。
能力主義っていうのはメリット暮らしとも言いますけど、
能力主義によって今の世代というか時代がすごく生きづらくなっている人が多いという話なんですけど、
これいきなり前提を覆すようなことをちょっと差し込んでみたいんですけど、
だいぶ前にですね、僕自分の音声配信で、音声配信だったような気がするんですけど、
こういうことを言った記憶があるんですよ。
多分タイトルにもつけたと思うんですけど、
競争しなくていい社会は逆に残酷だみたいなね、そんな話をした記憶があるんですよ。
確かね、それ今話を思い出してきましたけど、
それも何かの本を読んだ感想だったんですよ。
ちょっと本のタイトルを忘れましたけど、日本の方が書いた割と新しい本で、
確か今の若い人たちがすごく緩い職場環境で、
人によってはそれを物足りなく感じているっていうテーマの本だったんですけど、
昔はね、結構労働環境とかブラックな時代は、
10年かかれば身につけられたことが、今だと5年かかるような、
10年かかれば身につけられたことが、
今だと外側からセーブされちゃうから、やる気がある人でも12年とかね、
下手したら15年くらいかからないと同じスキルが身につかないみたいなね、
そんな書き方だったんですよ。
音声配信の便利さ
ちょっと今、自分がその時に何を喋ったのか気になるので、
ちょっと今ね、ストップして調べてみます。
はい、今一旦停止してね、調べたんですけど、
これね、またぶち込みますけど、
自分の音声配信で何を喋ったかっていうのを調べたい時って、
テキストだったら簡単に見れるけど、
音声だったら一時止めて聞かなきゃいけないとか思うじゃないですか。
今ね、すごく便利なのが、それもAIなんですけど、
僕はリッスンっていうサービスに、
ポッドキャスト配信サービスに登録してやってるんですけど、
これはあれですよね、スポーティファイとかスタンドFMとか、
そういう感じの一つですけど、
それに文字起こしの機能がついてて、
スタンドFM、なんか最近文字起こしなくなっちゃった気がしますけど、
気のせいですかね、まあそれはいいとして、
リッスンにあって文字起こしを全部丸っとコピーして、
チャットGPTにそれをね、ただ貼り付けて、
ブロンプとも打たないんですよ。
僕はその音声をね、テキストを整理するアシスタントみたいな、
決まりきったパターンを一個作ってて、
そこにぶち込んで、リターンを押すとですね、
勝手にそのショーを立てにして、
自分の喋ったことをね、サマリーと本文をまとめてくれるっていうね、
めちゃめちゃ賢い機能があって、
それに今ね、パッとコピーしてぶち込んだら、
その時の回がザーッと出てきたんで、
それで分かったことを喋ってみると、
違う回でしたね。
本の紹介とテーマの発展
僕さっき、若い世代の働き方の本を読んで、
それを思ったって言ったけど、
僕は今言ったことじゃない、別の回でね、
それを思ってましたね。
調べてみたら、
2024年の10月17日の
頑張らなくていい社会の残酷さについて、
そういうタイトルで配信した回にそれを話してましたね。
どっちでもいいんですけど、
それでこの頑張らなくていい社会の残酷さは
何についての話だったかというと、
これらのポッドキャストの本と人生っていう、
家入一和さんと美濃和さんがやってるポッドキャストを
聞いた感想でね、喋ったんですけど、
それもね、いくつかキーワードを言ってみると、
脱成長と自己正当化のジレンマ、
あと自由と低空飛行のどちらを選ぶのかとかね、
あと仕事によってになっていた3つの要素、
お金を稼ぐ、承認を得ること、
あと成長することっていうね。
それが自分が考えたことだったか、
そのポッドキャストの感想だったか、
今となって覚えてないんですけど、
そういう話から僕はですね、
このテーマになる、
今日話そうと思ってるテーマになることを思ったわけですよ。
今日何を話そうかと思ってるかというと、
能力主義と今の時代の引きづらさみたいなことですね。
ここからようやく本題に入るみたいなことになりますけど、
今日すごいバラバラですね。
それでね、今いくつか本を読んでて、
僕はいくつかの本を平行して読むっていう癖があるんですが、
今読んでるのは、
これね、偶然にも全部オーディボルで耳で聞いてるんですけど、
耳で聞く本もね、
僕その散歩しながらとか、
あと家事をしながらとかね、
いろいろ使い分けてね、
それも一章ずつとか、
気分によって聞き分けているんですけど、
それでですね、
まず一つが、
これ読んだ順番にいってみると、
怠惰なんて存在しないっていうですね。
これは前にもちょっと紹介しましたが、
ちょっと前に話題になったデボンプライスさんが書いた
怠惰なんて存在しないっていう。
これは副題が終わりなき生産性競争から抜け出すための幸福論ってね。
これは多分日本語に用につけた副題だと思うんですけど、
まさに多分そういう内容の本だったんですよ。
つまりですね、これは頑張りすぎて疲れ切っている人をね、
そんなに頑張り必要はないっていうね。
簡単に言うとそういう本なんですけど、
結構そういうの増えてますよね、今。
時代の風潮だと思うんですが、
今まで散々ね、生産性とかタイムパフォーマンスとか、
能力主義とかいろいろ言われてきたけど、
それの反動というか、
アンチ生産性みたいな流れは間違いなく起きていると思うんですよ。
これを聞いてくださっている方はどうですかね。
勝手な解釈ですけど、
そんなにね、めちゃめちゃ資本主義でバリバリやってる人はね、
僕の配信は多分聞いていないと思うんで、
結構納得感があるんじゃないかと想像しながら喋りますけど、
つまり今最初の1冊目を紹介している、
タイダなんて存在しないっていう本の主張は、
休むことに罪悪感を覚えてしまう人が多くて、
それで燃え尽き症候群とか、
SNS疲れとか、
人助けの疲れみたいなことがここに書いてあったんですけど、
正直僕はここに書いてある今言っているようなことにはね、
あんまり共感できなかったんですよ。
つまりそのオーバーワークとかね、
SNS疲れとか、
自己責任論から逃れるためとかね、
僕はね、多分昔はあったかもしれないけど、
今はね、そういうのほぼないなっていう、
だからこの本のターゲットである読者とは、
多分違う考え方をしているんですけど、
それにしても言おうとしていることはすごくわかったし、
この本がね、今すごく受けているっていうのも、
納得がいったわけですよ。
これAmazonのページを見ているんですけど、
Discoverの出版社ですね、
コピーみたいなのがダーンと並んでいてて、
これすごくわかりやすいんで、
いくつかピックアップして読んでみると、
なぜ休むことに罪悪感を覚えてしまうのか。
私たちは怠惰を再考する必要が、
再び考え直す必要がある。
怠惰・悪という誤解の数々。
ネットでダラダラは生産性向上につながる。
ただじっとしているだけで心が回復する。
人間は1日8時間以上働けるようにはできていない。
知識を詰め込もうとしすぎると、
かえって理解力や記憶力はダメになる。
今紹介した本は、
怠惰なんて存在しないという本なんですけど、
最初にテーマとして言った能力主義っていうのは、
どこから出てきたかというと、
次にもう1個紹介したい本から来ているんですけど、
これはオーディブルで、
ついさっきね、初めにだけ読んだんですけど、
なかなかこれ面白そうだったので、
ちょくちょく聞いていこうかなと思うんですが、
タイトルがね、
働くということ、能力主義を超えてっていうね、
この人はテシガワラ・マイさんという、
略歴は書いていたのでちょっと紹介してみると、
1982年横浜生まれ、
東京大学大学院教育学研究科修士科、
修士課程卒業、
会社コンサルファームを経て独立、
2017年に小野水株式会社を設立。
二児の母。
能力主義の影響
で、2020年から乳がん等病中っていうね、
それで書き始めたみたいなこと、
最初の前書きに書いてあって、
だからがんになってしまわれて、
小さい子供を二人育てているから、
それまでに何かを残したいと思って書き始めたみたいなことが、
前書きに書いてあったんですよ。
これも出版社のキャッチコピーがあるんで、
読んでみると、
人と人が選ばれる社会って何なのか、
働くということ、能力主義を超えて、
教育社会学の知見をもとに、
むずむずしながら考え抜くっていう本なんです。
この本ね、初めにしか、
序章しかまだ読んでないんで、
完全に想像でしゃべりますけど、
多分ね、こういうことを言おうとしている本なんですよ、これは。
つまりね、私たちは、
学歴とか仕事とか収入とかでね、
そういうのを必死に追い求めてね、
生きている人が多いと思うんですけど、
それはね、本当に何て言うんだろう、
そうしないと生きていけないのかっていうね、
ほとんどの人はその前提を疑っていないんじゃないか、
みたいなことをね、
一つのテーマにしているんじゃないかなと思ったんですよ。
これ能力主義っていうね、
いうのをもう少し噛み砕いて言ってみると、
その仕事ができる人が取り分が多くて、
できない人は少なくてもそれは自己責任だよっていう、
そういう考え方ですよね。
他人に選ばれるためにね、
なんでこんなに頑張っているんだみたいな、
そういう視点から書いてあったわけですが、
そこでね、基準になっているのは能力っていうものなんですけど、
でも能力って何なのかってね、
それを明確に説明できる人ってほとんどいないというか、
実は全然いないんじゃないかってね、
思うんですよ。
この本に関しては僕は全然今語れる状況にないんですけど、
さっき紹介した、
怠惰なんて存在しないっていう本と、
今紹介した働くということ、
能力主義を超えてっていう本なんですが、
まずこの2つだけでも結構共通点があると思うんですよ。
この2つの本が何について語っているのかっていうと、
そんなに頑張って働いてもね、
誰も幸せになれないじゃないですかっていうことが1つですよね。
こういうことを書いている本が多いって最近言いましたけど、
1つの潮流ではあるし、
それは結構自然な流れではあると思うんだけど、
僕はこのトレンドというか、
両方の意見を持っているんですよ。
両方というのは、
まず1つは働き、
そんな仕事ばっかりしてもしょうがないっていうね、
脱成長主義みたいなことも言われますけど、
そういう社会に肯定する方と、
反対として、
一方ね、
それは別に、
社会から決められてやることじゃないよなとも思ったりするんですよ。
冒頭の方にね、
頑張ることを止められた社会は残酷でもあるって話をしたんですけど、
それが理由なんですが、
つまりね、
昔はブラック労働とか当たり前に許されていた社会っていうのは、
そこに誰も疑義を挟まなかったというか、
そこに疑問、誰もってもないのかもしれないけど、
多数派としてそれが当たり前だったから、
とりあえずそこに向かっていれば、
80点ぐらいの幸せが取れたわけですよ。
残酷な社会の中で、
自分たちが、
80点ぐらいの幸せが取れたわけですよ。
他の人はね、そんな幸せは別にいらないし、
疑問を挟んで、
そんな働き方をしたくないっていう人も当時からいただろうけど、
今はその割合が変わってきて、
めちゃめちゃ働いて幸せになれるって思ってる人はむしろ少数派になってきていて、
多くの人は働くことで豊かにもなれないし、
幸せにもなれないんだっていう考え方がだんだん主流になってきたと思うんですよ。
その理由としてね、さっき言った能力主義っていうのが、
働き方の変化
嘘が暴かれてきたというか、
それが通用しなくなってきたみたいなのがまず一つの理由として大きくあると思うんですよ。
能力主義が通用しなくなってきたってのはどういうことかっていうと、
つまり昔のブラックロードとか、
頑張れば頑張っただけお給料が上がって、
頑張らない奴は取り分が少ないのはそれは自己責任で当たり前っていうね、
それがもう共通認識だったときは、
俺はだからもらう側に回るんだってみんな頑張ってね、
体を壊しながら働いたりして、
家族を養ったりとかね、
家の住宅ローンを払ったりしてたわけですけど、
今でもそういう働き方をしている人もいるし、
疑問を挟みながらもね、
こうやってやるしかないんだって思っている人もいるんだけど、
一つ問題なのはですね、
そういうふうにやるしかないんだって思っていても、
同じだけ働いていて豊かになれる割合がね、
今明らかに減ってきているっていう社会の問題もありますよね、経済というか。
それは人口減ったりとか、日本の経済がね、
下向きになってきたっていうのがあると思うんですが、
それと同時にというか、
多分かなり関連していると思うんですけど、
だったらそんなに頑張ってもしょうがないじゃないかっていうね、
幸せは別のね、働いたりとか、
その仕事で評価されるのとは別の軸で、
大事にしていきたいっていうね、
家族とか趣味とか、
友人関係のつながりとかね、
競争じゃないところで、
幸せを得るんだっていうのはね、
今一つの流れになっていると思うんですよ。
今ね、この喋りながら、
だんだん自分で区別がついてきたというか、
今ね、これ僕たぶん二つのことをね、
喋ろうとしているなってことにね、やっと気がつきました。
これね一つは、
例えば働くことと
幸せの関係性が変わってきているっていう話と、
能力主義っていうのはね、
またちょっと別物ですね。
僕はこの能力主義が最初一つのテーマに置こうと思ったけど、
これはね、また別の話だなってことにね、
今気がつきました。
今テーマにしたいことは、
能力主義は一回置いといて、
働くだけで
80点の幸せが取れる時代は
もう終わっちゃったから、
じゃあどうするのかっていう話ですよね。
よく言われているように、
趣味とか家族とか、
星勝とか、そういうところで
お金と時間を使って
幸せになれればいいじゃないかっていうね、
もう一つの解決策みたいなのが
提示されていると思うんですけど、
それだけだとね、あんまり
当てはまらない人が多いなと思うんですよ。
この辺りからちょっとね、
さらにあやふやになってくるんですけど、
つまりね、やっぱり
他者からの承認みたいのは必要だし、
お金を得ないと生活もできないし、
もう一つの
自己認識というか、
自分の罪悪感みたいなものとして、
やっぱり人より優れているとか、
役に立たないと意味がないっていうかね、
そう思わされているところはね、
あるなと思うんですよ。
これはどういうことなのかというと、
仕事をすることでね、
誰かの他者の役に立てているのを
実感できると、
人は幸福を感じるというか、
満足を得られるっていうね、
承認欲求とか社会承認みたいなことだと
でもあると思うんですが、
でもそれもね、半分くらいね、
本当で半分くらいはね、
ちょっと幻想なんじゃないかなって僕は
最近思い始めてきたんですよ。
つまりね、自分のやっていることが
誰かの役に立っているかっていうのは、
飲食店とかね、目の前で人に何かサービスを
提供する職業だったら、
それは分かりやすいんだけど、
でも多くのサービス業だけじゃないし、
製造業とかもね、直接は分からないじゃないですか。
自分の作っているサービスが
誰かの役に立っているっていうのは、
それを判断するのはね、売り上げとか、
口コミとかそういうことでしかないわけですよね。
そうすると何が起こるのかっていうと、
やっぱりね、その数字だけで自分の業績というか、
もっと言うと自分の価値みたいなのをね、
測るようになってきて、
その数字を伸ばそうとすると、
何かいつの間にかおかしなことになってきて、
結局ね、誰も幸せになっていないし、
全然豊かになれていない状況っていうのはね、
新たな価値観の模索
そこに行き着いてしまうと思うんですよ。
なんかここまで喋って、
もう一つ軸が出てきた気がするんで、
自分の中で整理してみたいんですが、
つまり働けば幸せになれるっていうもんじゃないっていう、
その観点と、
周りの評価とか、売り上げとか、
そういうのとはまた別の、
自分で自分をどう判断するかみたいなね、
自分の中の罪悪感を感じないというか、
自分の中で自分に丸をつけてあげられる働き方が
どこにあるのかっていうね、
それはまた似ているようで違う軸な気がするんですね。
まだ本を2冊しか紹介できてないんですけど、
本当はね、
あともう2冊紹介したいというか、
それはちょっと時間もないし、
僕の構造化の能力に追いつかないと思うんで、
それはまた別の機会にしようと思うんですが、
タイトルだけ言ってみると、
一つは目的への抵抗っていうね、
これは国武光一郎さんという哲学者の方が書いた、
わりと知られた本だと思うんですが、
もう一つは、
ちょっと著者名を忘れましたが、
格差と能力主義の疑問
格差という虚構っていう本があって、
これ多分僕ちょっと途中までで別の本に移って、
読み切っていない気がするんで、
家に置いてあると思うんで、後で読もうと思うんですが、
格差という虚構っていう本にもね、
同じようなことが書かれていたなと思っていて、
この本のテーマ、もう半分ぐらい忘れてますけど、
思い出しながら言ってみると、
格差ってね、それも能力主義みたいなもので、
よくできる人がたくさん取って、
そうじゃない人は取り分が少ないのはしょうがないという、
前提とされているルールで、
それを疑うテーマの本なんですが、
確かにこの本はね、
学歴とかそういう格差みたいなことについても触れられていて、
タイトルはね、格差という虚構ってパッと聞くと、
格差が虚構なのかって思いがちで、
自分の考え方とか、
ちょっとミスリードがあって、
この本の言いたいことはですね、
格差っていうのが、
ある種の虚構によって作られたね、
デキレースみたいなものなんだっていうことが、
僕の理解ですけど、
そういうふうに書かれていたなと思うんですよ。
デキレースっていうのは、
最初から勝敗がついているゲームっていうことですけど、
能力主義とここで結びつくんですが、
能力が高い低いっていうのは、
一つのルールに従ってテストの点数とかね、
売上とかそういうのに従って点数がつくわけですが、
そのルールっていうのは、
そのルールを決めた側に有利になるように、
あらかじめ設定されているっていうことですよね。
論理的思考力なのか、
読解力なのか、
もしくは理系の計算能力とか、
プログラミングなのかわからないけど、
そういうのが優れていると人より優れている
というふうになるじゃないですか、
この世の中っていうのは。
それは多くの人は、
それはそうだよなって感じると思うんですよ。
社会ってそんなもんだよねって思うと思うんですけど、
その前提をまず疑ってみてはどうですかっていうことなんですね。
前提と思われているルールを作ったのは、
もともとそのルールだと、
そこに有利なように立てる人がね、
そのルールを作ったことによって、
もうだからデキレースのように最初からね、
子どもが感じる生きにくさ
その順位がある程度決まってしまうようなルールに
そもそも世の中になっているんじゃないかっていうことですよね。
だんだん話がややこしくなってきたので、
そろそろ締めていこうと思うんですが、
僕ね、これ最後にどうしても言いたいことがあって、
それがね、自分の子供のことなんですよ。
僕の子供ね、何度も登場してますけど、
今小学3年生で、
今1学期始まったばっかりなんですよ。
それでね、
昨日、月曜日だったんですが、
1学期始まった第2週目の月曜日で、
よくあることかもしれないけど、
最初ね、すごく学校に行くの嫌がってたんですよ。
つまんないってね。
土日すごく友達と遊んだりとか、
家族でお出かけして楽しそうにしていて、
それがね、日曜日のサザエさん、消耗軍的なね、
日曜日の夜ぐらいからだんだん
学校嫌だって言って、行きたくないって。
で、うちの方針としては、
別に嫌だったら全然行かなくていいんだぜっていうね、
つまんも僕もそういう考えなんですよ。
でもね、逆に子供がね、
行かないとダメなんだっていうね、
すごくね、固くなに言うんですね。
なんでって聞くと、
宿題をやらなきゃいけないとか、
日記をまだ提出してないから書かなきゃいけないんだみたいなね、
割と可愛いことなんですけど、
でもね、僕はここに何か違和感というか、
大げさに言うと、
今の時代の生きにくさをね、
子供も感じているんだなっていうのをすごく感じてしまって、
これ説明するのが難しいんですが、
一見ね、この出来事っていうのは、
子供がね、新学期始まってちょっとしてから
学校がね、めんどくさくなるっていうのは、
5月病みたいなことも言われるし、
結構ね、あるあるの出来事なのかもしれないけど、
でもそれだけに簡単に片付けていいものなのかと思ったんですよ。
今のね、小学校っていうのは、
公立の小学校っていうのは、
特に僕は田舎に住んでますけど、
結構ね、やっぱり窮屈なんじゃないかなというね、
想像があるんですね。
たまに事業参観とか行ったりとか、
あとその学校の様子を聞いたりとか、
他の親御さんと話したりとかして、
その時にはね、そういうことは別に感じないんですよ。
みんな結構大らかだし、
多分ね、都内、東京とか埼玉とかと比べてもですね、
割と緩いことはあると思うんですね。
それでもね、やっぱりね、
これ時代なのか、
地域ではないような気がしてきたんですけど、
多分ね、時代によると思うんですよね。
すごくね、やっぱりなんか、
同一性をね、すごく強要してくるね、
空気があるように感じるんですよ。
これは僕が感じてるわけじゃなくて、
子どもがね、それを無意識のうちに強く感じていて、
それによってね、やっぱり、
学校に行くのがね、
嫌になっているんじゃないかなと。
一回ね、学校に行くとね、やっぱね、
友達もいるし、
普通に楽しそうに帰ってくるんですけど、
でもやっぱりそれ、後で冷静になって、
例えばその休みをね、土日挟んでもう一回行くとなると、
なんか、わーってなるっていうのはね、
僕もまあ、子どもの時にそういう覚えはありますけど、
なんか今ね、そういう、
学校のその、
見えないところのね、
なんていうんだろうな、
無言のね、圧力みたいなのがね、
増しているんじゃないかなという気がすごくしていて、
これはね、別に誰が悪いとか、
教育が悪いとかね、
公立小学校が悪いとか、そういうことじゃなくてね、
なんか本当に時代の空気としかね、
言いようがないものがあるんですよ。
本当に学校の先生でね、
この先生は問題あるなって思う先生に
出会ったことがないし、
友達とかね、親御さんとかでも、
僕はそんなに面識とかない人も多いけど、
でもパッと見る限りね、問題がありそうな家庭とか、
問題がありそうな子どもっていうのはね、
どこにもいないんですよね。
にも関わらず、
なんかすごいね、
見た目はすごいね、
見た目はすごく問題ないし、
普通に仲良くやっているんだけど、
無意識の領域にね、
ものすごく窮屈な、
なんか圧迫感みたいなのがね、
あるんじゃないかなとね。
何回も言いますけど、こういう学校の圧迫感というか、
圧力というか、つまんなさみたいなのは、
いつの時代もあったし、僕の時代でもあったんですよ、確かに。
だからね、別に行かなくてもいいと思うんですけど、
でも僕がここで問題にしたいというか、気になるのは、
子ども自身がね、それを
行かなきゃダメなんだってね、
思っているね、そのルールをね、
自分で自分にね、課してしまっているところがね、
なんだかなーって思ってしまうんですよ。
時代と社会の圧力
最初の方に
怠惰なんて存在しないっていう本をちょっと紹介しましたけど、
この本で書かれて、
怠惰なんて存在しないって本で書かれていたのは、
休むと罪悪感を感じるとかね、
人間の価値は成績とか業績で決まってしまうっていう、
そこから転げ、離れてしまうと
いい人生を送れないんだよみたいなね。
これはアメリカの話だし、
多分この作者は僕より若いけど、
Z世代とかそういう感じの人だと思うんですけど、
30歳とか。
僕から見るとこのZ世代とか
30歳くらいの人たちっていうのは、
ちょっと窮屈なね、社会の縛りみたいなのがあるなーっていう風にね、
日本でもあるなーっていう風に感じるんですけど、
それがね、なんか最近のね、
今の子どもたちっていうのはもっとね、
それが強くなっているような気がするんですよね。
これ今言ってと思いましたけど、
もしくはね、もう1個の可能性があるなと思っていて、
社会の側の圧力が強くなったんじゃなくて、
人間の側の圧力に対するね、
感度が上がりすぎているっていう可能性もあるなって今感じました。
つまりその同調圧力とか、
はまらなきゃいけないっていうね、
外側からの要請っていうのは特に変わっていないんだけど、
でもそれはね、
そこに中にいる人たちの、
言うことを聞くね、
その素直さみたいなのが上がることによって、
それをね、苦しく感じてしまうっていう。
だから同じ水圧なのに、
自分の皮膚のね、
感度というか、
その水圧に対する強度みたいなのが弱まっていることで、
感じている苦しさは上がっているみたいな。
もしかしたらそういうことなのかなと思うと思います。
いい加減今日の話は終わりにしようと思うんですが、
僕はね、今日何を言いたかったか、
何を考えたかったかっていうと、
一言で言うとね、
自分の子供の人生をね、
どう考えていけばいいかなっていう、
単なるこれは親の悩みについて考えたかったんですけど、
それに結びつけて今読んでいる本からヒントを見つけようとしたっていう、
そういうことですね。
怠惰の嘘によって苦しんでいる人が多いとか、
能力主義っていうので、
子どもの生きにくさの考察
仕事ばっかりしていても幸せになれないし、
すら学校の勉強もやらなきゃ幸せになれないと思わされているけど、
そこでやってもしんどくなるだけで、
その競争っていうのからある程度降りるね、
脱成長社会みたいなのが今だんだん出てきているんですよね。
そういうことをね、
僕はね、
脱成長社会みたいなのが今だんだん見直されているっていうのもあるけど、
その一方で、
そんなに頑張らなくていいんだよっていうのが
社会の常識になっていく社会もね、
それはそれで多分ね、
中にいる人は苦しいだろうなとも思うんですよ。
じゃあどうしたらいいねんっていうね、
どうしたらええねんっていうことなんですけど、
これ本当にね、
僕には答えが全く見当たらないというか、
身も蓋もない言い方をすると、
そのね、
衰圧になれるしかないと思うんですよね。
これはね、
不登校が増えているとか、
ちょっと嫌な話ですけど、
子どもたちの自殺みたいなのが増えているっていうのと、
繋がってしまうテーマだと思うんですが、
その理由っていうのは外側に求めるのか、
内側に原因があるのかっていうね、
ことだと思って、
結局は両方だと思うんですが、
でもこれね、
より根深いのは内側、
子どもたちの感度みたいな、
その考え方の方に問題というか、
原因が、
しんどさを感じる原因があったとしたらですね、
これはあんまり変えようがないというか、
そういうもんだからしょうがないっていう風になっちゃうのかなと思うと、
これはね、
親としてはちょっとやりきれないなと、
考えてしまうんですが、
暗い話題で終わるのもどうかと思うので、
少しそのプラスの面を見つめてみようと、
ちょっとだけ見つめて終わろうと思うんですが、
とはいえね、
普通に客観的に見て、
昔の時代より今の時代の方が、
幸せになっているっていうのはね、
客観的には幸せになっているっていうのは、
多分間違いないと思うんですよね。
その物の豊かさとか便利さとかだけじゃなくて、
別にその選択肢とかも本当はすごく増えてるし、
別に学校に行かなくても、
勤めなくてもやっていけるし、
全然幸せになれるね、
あれはあると思うんですよ、可能性というか、
選択肢は。
そこにね、いかにたくさんの選択肢があるってことを、
子供本人が気づくようにするっていうのはね、
多分それが
親の役割だし、
結局それによって、
本人がそれに気づいて、
自分の人生を生きていくんだろうなと、
矛盾をするようですけど、
社会とか国とか、
常識っていうのは、
あんまり何でもありじゃない方がね、
むしろ中にいる人は楽なんじゃないかなっていうね、
ちょっとそういう仮説も立ったりするんですよ。
大げさな話をすると、昔の戦時中とかね、
自由なんて全然ないし、本当に過酷だったわけじゃないですか。
でもその本人たちは、
それが当たり前だと思っていると、
振り幅が少ない分ですね、
逆に幸せになりやすかったというか、
幸せを感じやすい体質だったっていうのは、
あるなと思っていて、
今は振り幅がすごく広くて、
どこにでも行ける反面、
幸せに感じるための感度みたいなのがすごく落ちていて、
だからそれで人が病みやすいのかなと、
そんなことも思ったりしました。
選択肢と幸せの可能性
最後またちょっと暗い話をしてしまいましたが、
これからもこんなことを考えていこうと思っています。
今日はこれで終わりにします。
ありがとうございました。
良い1日をお過ごしください。
さよなら。