文学が提供するものについて
まず皆さん、文学を読むために何を求めているのでしょうか。
ハッピーエンド、爽快な読後感、救済、未知の体験、いろいろなことを文学に求めていると思いますけれど、
必ずしもそういったことを文学が提供しているわけではない、
してくれるわけでは限らない、ということがあると思います。
文学というものは、何か文化の中の大事な要素であると言いなされておりますけれども、
そういった一面もありましょうけれど、
我々にとって必須の何か栄養素であるのかということについては、
いろいろと意見があるでしょうけれども、
おそらく必ずしも人間に生きていくために必要なものをくれる、与えるものではないというふうに考えます。
むしろそういったものを人間にとって救済や幸福な人生や、
本当に超越的な体験というものを人間にもたらすのは宗教や思想哲学、
ある種の文学以外の芸術、こういうものではないかと考えております。
もちろん文学を若干一段下に見ていたり、否定的に見ることによって、
あえて特権的な文学というサンクチュアリーを作るという、
聖域を作るということをここで論じようとしているわけではございません。
ただ文学というものは、そもそもそういった何かすっきりした明確な答えを
われわれに提示してくれるものではないということをはっきりと明言していきたいという次第でございます。
文学と宗教・思想哲学の比較
そもそも文学とは何でしょうか。
小説や詩を読むとき、広義の文学、いろいろな形態があると思いますけど、
そういったものを教示するときに、果たして非常にいろいろな感銘を受けたり、
いろいろな問題を意識を持ったり、未知の体験をしたりとあると思うんですけれども、
しかし一方で、これが何か人生の答えのようなものをあれに提示しているかというと、
決してそういうことは少ないと思われます。
人生の答えや人生の真意や幸福に生きるための方法を提示してくれるとはとても思われません。
特にそれは様々な諸宗教、例えば三大宗教と言われるキリスト教、イスラム教、仏教、
私はこれとの宗教がどれだけ優れているということを言うつもりは全くございません。
いや、そのほかの様々な宗教、思想哲学、そういったものによって我々は救済される可能性があるかもしれません。
では、我々はこの文学というものにどのように向き合っていけばいいのかという点が出てきますけれども、
一旦まず文学というものがどのような性質なのかということを分析するのも意味があることだと思います。
つまり文学というのは、例えば文学者、戦後の日本の文学者だけ見ても、
夏目漱石や堀尾外や、戦後だと三島由紀夫や大江健三郎や村上春樹や、
そういった有名な売れっ子の文学者たちがどういうものを書いているかというと、
皆すべて仏教でいうと、迷いや傲慢さや嫉妬や邪念やそういう怒りやそういうマイナスのもの、
悟りにとって必要のないもの、仏教的な見解から言うと、もちろんキリスト教的な見解から言っても、
キリスト教権ではない日本の文学を見ても見ると当たり前かもしれませんが、
やはり救済に近づけるかというと、そういうところもあまり多くはないと考えます。
むしろ救済に近づこうと文学がすると、とても陳腐な安っぽいというか、
作家とその作品について
非常に出来の悪いものとなるという見方もできると思います。
例えば三島由紀夫は、文学というものはあと一歩で宗教に近づくはずなのだけれども、
そこで宗教を提示させてくれないものが文学だというふうに言われております。
そういう彼も、最後の作品『豊饒の海』という作品は、非常に仏教的なものの思想を取り入れようとして、
それによって本来の意図とは違った方向に文学が方向づけられる。
もしも文学の成功というのが当初の目的と合致したものを貫徹するというもので成功か失敗かと分けるならば、
それは『豊饒の海』というものは非常な失敗作、つまり方向性が変わってしまったということが言えるかもしれません。
つまりそれは三島由紀夫自身が三巻・『暁の寺』が完成した時に非常な不快感を感じたということにつながると思います。
もちろんこれは一つの見方でありまして、
非常にもしかしたら成功作という方もいらっしゃるかもしれませんし、傑作という方もいらっしゃるかもしれません。
私自身もこの作品については非常に重大な要素が含まれていると考えております。
ですから単純なつまらない失敗作というわけにはいきません。
もちろんそれは大江健三郎・村上春樹についても同じことが言えると思います。
一面的には非常に批評を受けたり、一面的には非常な賞賛を受けたり、そういうことがあると思います。
また商業的な成功を収めたり、収めなかったり、そういうものが作家ごと作品ごとにあると思います。
しかしこれらはすべて、いわゆる人間に何かの答えを提示してくれたり、
そういう幸福な生き方を提示してくれるものでは決してございません。
これは断言できると思います。
もしそういったことを目指す文学があったとしても、
文学と答えの不在
それは非常にエセ宗教的な、エセ思想的な、エセ哲学的な、非常に危険な、浅はかなものを含んでいる文学だと思います。
もちろんそういうものをあえて含むものがあっても一向に構いません。
ただそれは非常にもっとシンプルに言えるのに、それをわざわざ文学でしてしまうという部分があると思います。
二度手間ということです。
それでは文学を読む、我々はどういうふうに文学をそういったものに接していけばいいのかという問題が生じてきます。
これについては簡単な問題です。
つまり、文学に答えを求めようとする、何かに答えを求めようとして本を読んだりするとき、文学に必ずしも頼る必要はない、文学にそれを求める必要はないという簡単なことです。
また、我々は強いて小説や詩を読む必要はないと思われます。
もちろん学校教育でそういうものに触れるということがあると思いますが、それは私生再提言の義務教育ということで、義務教育は高校や大学の勉強、研究ということで、生きて勝手にしている人もいるかもしれませんが、
あえて進んでそれを非積極的に関係ない場合、人生に関係ない場合に読んでいくということはしなくても良いと思います。
それを文学に積極的に接するべきだという人がやはりこの世の中には多いと思いますが、
しかし、それを決して何か人間を幸福にしたり、救済をしたり、人間をまた何か非常に良いアイディアをもたらすものでは必ずしもございません。
それは何度も注意しておくべき必要があります。
そういったものはむしろ、世の中にあるハウツー本やそういうもので限りすることもあると思います。
そういうものが文学により下ということは全くないと思います。また、上ということもないかもしれません。
どうしてもそういうところを混同してしまって、世の中の現実というものが作られて、認識というものが作られてしまうということはあると思います。
文学というのは進んで迷うようなものでありまして、進んで迷ったり苦しんだりするものを芸術家というか小説家とか詩人がやっているという、
文学と現実の認識
非常に変わった芸術だと思われます。文芸というものは変わった芸術だと思われます。
そういうものを非常に尊ぐというものは文化と言われるでしょうが、必ずしもそういうわけではないと思われます。
それは我々が文学を非常に高めたり非常に貶めたり、そういうことをするということが我々の非常に人間の特徴というか、人間の言葉を使う生き物としての特徴であると思われますが、
実態としてはもちろん何もない、何も救済や幸福への道はないことを示そうとするものかもしれません。
それは本当に宗教や思想哲学が我々にもたらしてくれればいいものであって、文学によって救済されたり、幸福になったりという励まされる程度はあるかもしれませんが、
そういうものはないと思います。