頼む!来てくれ!!徳島の医師爆増予定ラジオ
こんにちは。 頼む!来てくれ!!徳島の医師爆増予定ラジオ
パーソナリティ徳島県病院局の大野幸介です。
この番組では、徳島で働く医師や看護師の義あるな声を通じて
徳島という土地の魅力と、そこで医療に携わることのやりがいを掘り下げていきます。
地域に根差した医療の現場で感じる手応えや
働く人たちの思いに触れることで、自分もこんな場所で医療をしてみたい
と感じてもらえるきっかけをお届けしていきます。
さて、今回は徳島で救急医としてキャリアを築き
ERとドクターヘリの最前線で活躍されている先生をお迎えしました。
徳島県立中央病院救急科副部長であり、救命救急センター長を務めていらっしゃいます
川下陽一郎先生です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
川下先生は生まれも育ちも徳島で、三好、海風、中など
県内各地の閉地医療に従事されたご経験をお持ちです。
今日はそのキャリアの歩みも含めて、徳島で描く救急医のキャリアをテーマに
現場からの話をじっくり伺っていこうと思います。
それでは本編スタートです。
まずは川下先生の生い立ちから伺っていきたいと思います。
徳島ご出身とのことですが、子供の頃はどのように過ごされていましたでしょうか?
僕のですか?
はい。
子供の頃ですか?
子供の頃。
大野さん、坂の町って知ってます?
坂の町は、分かります。僕、友達が一人いました。
坂の町出身の。
レアですね。
本当ですか?
確かにいなかったですね。人の子だけだった。
これこのラジオ聞いてる人って分かるんですかね、この話。
なかなか坂の、坂のっていうワードは出てきてないかもしれないですね。
なるほどですね。
ただ今まで海布とか、麦とか南とか、あ、なんとかぐらいまでは出てるんですけど。
そうですか。じゃあ声を大にして申し上げますと、
徳島県はですね、小松島市、坂の町というところで生まれ育ちまして、
何にもないところでして、
そうですね、畑を走ってることをよく覚えてますね。
よく覚えてますし。
これ海際ですよね、坂の町って。そんな海でもないんですかね。
海は海際なんですけど、子供からすると海までは遠いんですよ。
海までは遠い島なんで、畑と田んぼがある町ですね。
僕がある程度大きくなるまで信号機もなくて。
あ、そんなにでしたっけ。
コンビニエンスストアも相当建ってから町内にできましたね。
そんなところで育ちました。
小さい頃って何かされてたり、部活とか遊びとかどんなことされてたんですかね。
いやー、でも結構体が弱くて、結構喘息のようなですね。
よく風邪ひいてたんですよ。
それで当時町で剣道クラブをしてくれててですね、
保護者の方たちとかが先生で師範でやってくれてた剣道クラブチームに
小学校4年生の時から入りましたね。
そこから全然輝くような選手では全くなかったんですけど、
なんだかんだ言いながらおかげさまで大学までは続けられましたね。
すごいです、大学まで。
はい、続けましたね。
戦績とかってどんな感じだったんですかね。
全然です。大学の時は一応みんなの助けもあって、
医学部の大会ですけどね。医学部の大会の東と西で別れて大体大会するんですけど、
最後は東日本の大会では優勝することができたんですけど、
医学部の大会ですからね。
いやいや、でも優勝ってすごいですね。
周りに恵まれました。
本当に恵まれました。
体も剣道始めてからは結構強くなってって感じなんですか。
そうなんですかね。スポーツも全然ダメで、基本的に。
でも最終的にはそれぐらい長くやると下手も横突きで、
武道とかスポーツそのものは基本好きですけどね。下手ですけどね。
いやいや、そんな優勝とかするレベルじゃない。
とんでもないんですけど、好きですね。
そういう大学まで剣道を通じて折れない心といいますか、
チームにつながるような姿勢みたいなのとか、
今の救急医療の現場とかで活かされてるんですかね。
それはですね、実は大いにあって、あると思います。あると思っててですね。
大学も最後キャプテンをさせてもらってたんですけど、
いやまだすごくないですよ。
優勝チームのキャプテン。
プレイヤーとしては全然すごくないと思うんですけど、
やっぱりチームが勝つにはとか、相当考えたの覚えてますね。
それは今大野さんおっしゃったように、今の職場でもチームがもそうですし、
もっと言うと徳島県がですね、
徳島県が暮らしやすいというか、
医療に関してみんなが安心できるような地域になるにはどうしたらいいかということを、
結構本気で考えてます。
考えてて、それはやっぱりおっしゃったスポーツとか武道でチームで戦った時の経験は大きいですね。
どうすれば負けないかというか。
多分そういうのはなぜかちょっと得意な方なのかもしれないです。
そもそも負ける試合をしないからかもしれませんけどね。
勝てることしかしてないから。
まさにあれですね、今の徳島県の救急の状況を川下先生がすごい引っ張ってくださっているという、
僕も認識イメージ、そういう本当にだと思うんですけど、
そういうところはやっぱり剣道からそういうキャプテンシーみたいなところとかも、
やっぱり何かあるような気がしますね。
先ほども申し上げたんですけど、その時もですね、大学の時もそうですけど、
本当に周りに恵まれている人生だと思っていて、
僕自身は大したことないのに、何かいろんな局面でチームメイトとか、
みんなの頑張りとかですね、みんなの目線が合っていったとか、
そういう星の下にあるような気がします。
救急に関しても、先ほど大野さんが言ってくれましたけど、
僕が引っ張ってるみたいなふうにおっしゃっていただいたんですけど、
実際はそうではなくてですね、僕はやっぱり僕のチームメイトを尊敬してますから、尊敬してて、
やっぱり周りが描くこういう世界がいいよねとか、こういう医療をするのが適切でしょうって、
やっぱりそういうことで勉強させてもらってきた方で、
自分が尊敬するチームメイトが生き生きと働けるような職場や地域にしたかったですから、
そのためにずっとやってるみたいな、そんな感じですね。
ありがとうございます。
それではですね、ここまでは徳島で生まれてからっていうところで、
学生時代の話を聞いていったんですが、
ここからは医師としての歩みについても伺っていきたいなと思います。
先ほど話題じゃないと被るところもあるかもしれないのですけど、
自治医科大学に川下先生進学されてたということで、
どのような経緯でそこから救急という道を選ばれたのか、
教えていただいてもよろしいですか。
なるほどですね。
もともと僕はですね、そもそも医学部に行くつもりじゃなかったんですよね、そもそもが。
僕もともと激難院志望なんですよ。
そうなんですか。健全医学とまた歩みが違う。
全然違う。
僕って、いわゆる舞台演劇がすごく素敵だなって、中学高校の時とか思ってて、
いわゆる俳優とかですね、そういう仕事に行きたかったんですよ。
剣道ともまた違うんですね。
違うんですね。
スポーツとかでもなく。
激難院ですね、が一番当時は憧れてて、
実際に高校では演劇部にも入ってたんですよ。
剣道部にも入ってたんですけど。
駆け持ちされてたんですね。
駆け持ちしてたんですよね。
本気で考えてて。
当時ですね、本当に今から30年ぐらい前は、当時上等高校が有名だったんですよ、演劇部が。
それで上等高校に行ったんですね。
そうなんですね。
だから演劇をやりたい理由があって。
そこで今後も選ばれたんですね。
演劇がやりたくて。
そしたら地元の、いわゆる田舎のところからは、いわゆる都会の方に出なくちゃいけないんで。
それは勉強しなくちゃいけないってなって勉強したんですよ。
だったんですよね。
ちょっと話が全然ずれてますけど。
いえいえ。
もともとそういう中で心理学が好きなんですよね。
もともとは劇団とか考えてたけど、全然役者としても、全然才能とかあんまり見出せなくて。
そういう心理学の方に系統してですね。
心理師ですね。臨床心理師とか心理学者になろうと思ってたんですよ。
そしたらその時の高校の3年生の時の担任が、せっかく心理学するんだったら、じゃあ精神医学をしたらどうだと。
それ医学部ってことじゃないかって思ってですね。
そうですよね。確かに。
そうですかって言ったらそうだよと。
だからじゃあやってみましょうって。
それがきっかけだったんですね。
医学の入りはそこからなんですね。
担任が勧めてくれたからなんですね。僕の中では。
家も貧乏だったもんですから、お医者さんって稼げるんじゃないのとかそういう横島の思いがあって。
それで目指したってところですね。
そうなんですね。
もともと精神科医志望なんです。
今もそういうところあるんですけど。
実際この自治医科大学に入られてからそういう精神医学みたいなのも専攻はずっとされてるんですか。
それが大体大学3年生4年生ぐらいの時に違うなと思ってですね。
好きなんですけどね。好きなんですけど、大学の頃はですね。
もちろん僕大学が自治医科大学っていうところなんで。
入った時もですね。精神科とかそういうことを考えながらだけどやっぱり診療所の仕事をするんだってずっと思ってたんですよ。
今もそうですけど。
そういういわゆる兵器治療とか今でいういわゆる地域医療が好きだし、そういうことをしたいと思っていましたし。
精神科もそうかと思いながらですけど途中から小児科がいいなと思ったんですよ。
またガラッとちょっと違う。
小児科はやっぱりお子さんって言葉にできないですから自分の訴えを言えないじゃないですか。
そういうものをちゃんと言葉にしたりですね。ちゃんと感じ取る。
それを表現するっていうのはこれはプロだなと思って。
小児科志望になったんですよ。
5年生とか大学6年生の時に、産婦人科がいいと思ったんですよ。
またガラッと。
産婦人科はいろんな診療科の中で唯一心からおめでとうって言える診療科だったと思って。
大学の時のその時の先生がすごい素敵な人でめっちゃマッチョマンだったんですけど。
スポーツマンで。
すごく素敵でかっこいいなと思ったんですよね。純粋に。
いわゆるお産出産の時を経験してですね。
素敵な診療科だなと思って思ってたんですよ。
卒業をして。
卒業して最初の働き出した時ですね。
働き出した時にそれらの中ですね。
産婦人科、小児科、一般的に内科とかかなって思ってたんですけど、一番最初に働き始めて出会った。
そして最初に回ったのが外科だったんですよ。
自分の中の人生の一番最初の働き始めのお師匠さん。
この指導医が外科医でそれが今も僕の人生のお師匠さんなんですけど。
当時の外科のリーダーですね。チームリーダーをしてた医師で八木先生っていう先生がいて。
八木先生に出会って人生がガラッと変わったんですね。
僕の礎になった人なんですけど。
その八木先生に教えてもらってもう痺れたんですね。
外科は素敵だなと思ったんですよ。
だけど最も苦手だったんですね。
外科とか救急と外科が最も苦手だったんですよ。
苦手っていうのは何か。
やっぱり不器用で。
めちゃくちゃ不器用で怖がりだし。
怖くてしょうがなかった。うまくいかなくて。
すごく気分がめいった時期が数ヶ月あってですね。
今でも覚えてるんですけど。
いわゆるフレッシュマンの鬱ですね。
にだいぶ陥ったのを今でも覚えてます。
そういうのを経験したんですけど。
2年間の研修をする中でですね。
やっぱり一番思ったのは診療所とか行くじゃないですか。
その時に自分の目の前でですね。
それこそ自分の家族が交通事故に遭うとか。
やっぱり外傷とか。
目の前でみるみる悪くなっていきますから元気だった人がですね。
そういうふうな自分の目の前でもし外傷に家族が陥った時にですね。
自分は果たして助けられるだろうかと思うと怖くてしょうがなかったんですよね。
これはやっぱり外科の苦手意識等を克服しなければならないと。
救急とかですね。救急も苦手だって怖かったですから。
と思って3年目からは。
当時は自分の専門家とかを3年目で選ぶんですよね。
今もそうかもそうと思うんですけど。
その時に外科を選んだんですよ。
一番最初は外科は自分で選ばれる。
そういう配属みたいな感じなんですかね。
僕たちは徳島県内で3つある県立病院を最初4年間は回るんで。
3年目には県西部の三好病院さんにお世話になったんですね。
その時は外科として配属してもらうことになって。
初めて手術というのを経験したのをよく覚えてますね。
三好病院では記憶に残っているエピソードみたいなので。
いっぱいあって。
僕は最初の中央病院の2年間や三好病院とか。
その後西山村診療所ってとこ行ったんですけど。
その若い時のことがかなり自分を作っているのを自覚してるんで。
そこでかなり若手の外科医って重宝されたんですよ。
何でもしますってなりますから。
はい喜んで。
もうはいかイエスかイエスしかないですから。
基本的に何でもやりますとやってました。
家も近くに感謝があったんで。
本当に今妻からも言われますけどひたすら仕事してました実際。
させてもらえててですね。
たくさん手術もさせてもらえて。
楽しかったですよね。
そういった一例一例すごく緊張しながらの一例目のこともよく覚えてますし。
結構没頭してた2年間ぐらいだったですね。
よく覚えてるのはそこでやっぱり外傷の方が夜来たんですよね。
三好病院って夜の当直って外科系1人なんですよ。
内科系の先生1人でそこを守るんですけど。
いわゆる超重症症例が搬送されてきて。
これはこのラジオを聞いてくれてる方は医療陣の方はわかるかもしれないですけど。
蘇生的回響術。
蘇生的にですねもう本当にもう心停止に陥りそうという方を胸を開けてですね。
直接心臓マッサージをするっていう主義をせざるを得ないぐらい追い込まれることがあるんですよね。
それを初めて三好病院で経験したんですよね。
初めて。
初めて経験してもちろんやっぱり救えなかったんですけど。
手が届かないかもしれないですけどそれでもやっぱり状況によってはゼロではないんですよね。
そういう外症の人に全力を尽くすっていった経験っていうのは今でも覚えてて。
いいとか悪いとかじゃないんですけど。
みんなでそれを目指して頑張ろうっていったことや実際主義として外科の主義が生きたっていうのはよく覚えてますね。
最初は外科で配属されてそこで本当にいい先生と出会えたというかお師匠さんという本当に尊敬できる先輩の方と出会って。
でまた三好でもさらに外科の気持ちが強まっていったという感じが。
三好病院の外科の先輩たち上司もすごく良くてすごく可愛がってくれたんですよ。
本当覚えてます。今の僕の基礎を作ってくれたと思います。
分かりました。ありがとうございます。
すみませんまたちょっと話変わるんですけど三好病院と中央病院と開封の方にも行かれてたんですか?
そうですね。
開封の方ではどういったこと?これも外科で?
開封は三好病院の2年間終わってその後2年間西谷山村診療所でいわゆる一人診療所の所長をやりながら三好病院の外科の勤務もサポートとしてやるっていうのを2年間経験して。
その後は徳島大学病院ですね。徳島大学病院の小学医職外科に社会人大学院生として入局させてもらってそこで半年研鑽を積んで肝炭水という領域ですね。
肝臓水蔵の手術などっていうのも勉強を主にさせてもらいながらその年を過ごしてですね。
その次の年に開封病院と中町のサポートをするっていう仕事を仰せつかってですね。
それは徳島大学病院に所属しながら?
それはまた県の医療政策課に基本的にずっと所属してるので。出向の形でですね。中央病院の地域医療課というところでサポートをする仕事をやってたんですね。
そこで1年間開封病院と中町の当直業務とかそういうようなサポートをしてましたね。
そういう徳島の本当に山の三好だったりとか開封の海の近くだったりさまざまな地域を回られた経験というのがそのまま今の救急やドクターヘリの現場とかにつながっていっているということですね。
密接でつながっていますね。やっぱりヘリとか呼ばれた時もですね、この地域だなとかこの辺に降りるんだろうとかですね。どれぐらいの時間かかるかとか。
全部わかりますよね。
だいたいわかりますからね。
県内全部回られてるからパッと地図が頭に入ってくる。
そうですね。なんならここはあの人が住んでるなとか。
もう感じられちゃう。
覚えてますね。あそこってこんな大地に行ったなとかですね。よく覚えてるところありますね。
ここからまた現在の徳島の救急医療の雰囲気についても伺っていきたいなと思うんですけど、どうですかこの徳島県の救急現場。
他県と比べてというのは難しいかもしれないですけど、今川下先生が思う動きというか。
いやえっとですね、よくぞ聞いていただいたと思ってるんですけど。
これあの先越ではありますが、私その手前味噌でもあるんですけど。
いやあの本当にですね、全国にですね、アピールしたいしアピールするにたるですね、いい土壌いい職場ができてると思ってます。
働きがいいという意味でも、実際の救急会としてのトレーニングを積んだり成長していく過程で、徳島県っていうそのフィールドがですね、結構何でもあるんですよ、救急会にとってはですね。
本当に内科系も外科系も、いわゆるザ救急科領域っていうものもたくさんあるんですね。
それらを十分経験することができますし、そこに病院前診療といういわゆるドクターヘリ、ドクター科というのもありますし。
このやはり5年7年っていうような期間で、集中治療領域のチームメイトもすごく増えてきていてですね。
救急が依頼というフィールドから、その後集中治療というものによりシフトしていくっていう、そのダイナミックなですね、まさに救命救急領域を十分堪能できる場所だと思ってますね。
このどんどん救急の領域で人が増えていってるっていうのは、川下先生的にはどういうところでどんどん増えていって流れができてると思います?
一つはチームを作るってことに重きを置いてやってきたんですね。やってきて、誰かが働きやすいとかじゃなくてですね、ましてやその医者が働きやすいとかそういうことではなくて、ERですよね。
ERの救急が依頼からスタートしてきましたが、救急が依頼に訪れる人たち全ての人がですね、やっぱり働きやすかったり受診しやすかったりですね。
そこに我々のERに来てくれたらですね、安心してそこでいられるっていう空間を作るってことに、もう当初から一番最初からこだわってやってきたつもりなんですよ。
なるほど。そこに動きを置いて。
そうですね。なんでやはり、医療そのものもそうですし、特に救急医療とかって、まさにチーム医療なんで、なんかドクターが一人誰かがいればうまくいくなんて、もう全然とんでもないんですよ。
なんでもなくて、やっぱり医療の力もいるし、もう看護の力が大いに必要なんですよ。あるし、もちろんそれを支えてくれる消防の皆さんの力も、警察の方も自衛隊の方もいろいろおりますし、病院そのものがですね、この事務の力もいるし、みんなの力がいるんですよね。
なんか一人の天才がいればいいみたいなこんな話。
逆にいらないんですよ。いらないって言うか、いらないことはないですよ。みんなすごいんですけど。
そうですね。働いてくださった方、みんな本当にすごい方々。
そういうのは、誰かのために何かを整えるとかっていうのはあんまり好みじゃなくてですね、誰がいても質の高いものが提供できるし、みんなの働きやすさ、ここで言いやすさとか、そういう心理的な安全性が確保できるようにっていうのをかなり意識して作ってきました。
もしかするとそういう変化していってるっていうですね、本当僕が救急を目指した理由はまさにそこだったんですけど、もうそのやっぱり救急を担う医師も医療もすごく少なかったし、こういう県立中央病院とか救命救急センターって名を売ってるところでも、それも本当少なかったんですよ。
やっぱりそういうトレーニングを受けている人がいないところだと、ナースも本当に危ない経験を怖い思いをいっぱいしたと思うんですよね。そういうのって患者さんにもろ伝わりますから、なんだこの職場ってすごい言われてました。
そういうところからコツコツと言葉遣いもそうですし、我々が仕事する意味ですね、とか価値やそのために我々のやりがいとかですね。
もちろん知識とか技術は必要なんですけど、必須なんですけど、それ以上にやっぱりその態度やですね、この価値観や倫理観についてみんなで話をしながらですね、歩んできたっていうのがあります。そういう変化?なんかこの3年ぐらい振り返ったらなんかこれぐらい良くなってとか、なんかそういう変化の中にいると結構やっぱり楽しいし、居心地よく感じてもらえたんじゃないかなっていうのが、もしかしたらあるのかもしれない。勝手に言ってるだけですけどね。
本当にその通りでおっしゃる通りなんだろうなと思います。勝手に言ってるだけですけど。若手の方とかが本当に居やすい場というか本当に仕事しやすい働きがいのある職場っていうのを作っていかれて、それがもう本当に直接質の高い医療にもつながっていってるんかなっていうのは僕はすごい今の話聞いてて思いました。
そうあれればなと思ってやってきましたね。
ありがとうございました。川下先生本日はありがとうございました。
こちらこそありがとうございました。
基地医療の9年間ですかね、徳島だからこそ描ける救急医のキャリアをたくさん伺うことができました。それではここでですね、番組あてに送られてきたメッセージをご紹介できればなと思います。お名前パウさん、徳島在住の方からご意見いただいております。
パウさん。
フライトドクターやフライトナースのお話について伺いたいです。救急の現場はとてもハードかと思います。チームでの迅速な対応、判断が求められる現場の中で活躍されている方の生の声、徳島県の現状等を伺いたいです。よろしくお願いいたします。
なるほどですね。
さっき話していただいたこともあるかと思うんですけど、改めてどうですか。
まずパウさん、ワイシャイですよね。こんなふうに興味を持っていただいたり、実際にご質問・意見をいただける方って素敵だなと思って。
本当にありがたいですね、このご意見。
ありがとうございます。パウさんありがとうございます。
ありがとうございます、パウさん。
そうですね、ご質問いただいているフライトドクター、フライトナース、ドクターヘリの現場のことかなと思うんですけど、ドクターヘリは今やですね、徳島県は今年で12年目を迎える年だと思うんですね。
ドクターヘリが導入されてから。
やっぱり今やですね、社会の中でなくてはならないと感じさせるぐらいですね、すごくインパクトのあるツールにもなっています、なっていると思うんですね。
なってしまったとも言えますけど、始まったとき大変だったですもんね。
それはそうだと思います。
12年前って本当に救急会員も少なかったですから、中央病院で言うとですね、本当に聞いていただいている県民の方からすると、ほいほいって思われるかもしれませんが、僕ももともと診療所で勤めてて乗りに来てたんですよ。
当時、紀藤診療所を所長しててですね。
そういうふうな人材でも引っ張り込まないとできなかったんですよ。
それぐらい人材がいなかったんですよね。
確かに中紀藤診療所って山の奥の奥ですよね。
呼んでいただいて、初期面なんですね、僕は。
本当大変だったんです。
いろんな心ある中央病院の診療科の先生に声をかけて、本当に当時の副院長も乗ってましたし、地理科の先生も乗ってくれたりですね。
もう本当に救急カーのものとか、全然もちろん今でもそうなわけではないですけど、やろうじゃないかと頑張ろうじゃないかという人たちでフライトドクターが成り立ってたんですよね。
そういうところからスタートして、なんとかですね、それでもやっぱり安全にミッションを終えると。
スタートから終わりまで安全に完成するってことが本当に重要で。
なので、花話しさみたいなとか、ダイナミックさっていうところが結構着目されるかと思うんですが、実は元は結構堅実なんですね。
堅実で、それがちゃんとヘリを飛ばすとして適切かどうかっていう判断ですね。
そういう評価と判断もそうですし。
結構、よし行くぞみたいなのはちょっと違うんですよ。
どっちかというとですね、ちゃんとチームで相談して安全にかなり留意してます。
同時に先ほども申したようにですね、やっぱりあんまり花話しというよりはチームワークがすごく重要で、ドクターとナースと一人ずつしかいませんから。
やっぱりトレーニングを積んだ信頼できる仲間でですね、かなり会話をします。
こうかな、ああかなとか、こうすると危なくなるんじゃないかって不安なんだけどとかですね、どう思うとか、お互いに言い合いながらミッションをやっていくんですね。
そういう絶対正解だとかですね、現場での情報が少ないですからね。
画像検査ももちろんないし血液検査もないですから、現場の情報と身体所見ですね。
患者さんから発せられるメッセージをつかんでですね、じゃあどこに搬送してこの先どうなっていくのかを予測するという、そういう結構スキルが必要なんですよ。
そうですよね、本当に患者さんだけを見て数値で何かわかるわけでもないし。
ないので、やっぱりそのトレーニングが必要ですが、その知識や技術とですね、同等にやはりドクターとナーストが今、腑に落ちてちゃんとミッションが進んでいるかどうかとか、そこに多職種ですね。
本当に救急の方、消防の方、警察の方、いろんな社会のリソースのですね、職種の方が現場にいますので、そこに患者さん家族の不安な方がいますね。
そういうところをいかに安心に導いていくかということをミッションに盛り込んでいくというような現場ですね。
情報線なんですよね。情報をちゃんと適切に伝えて把握して評価するというのがずっと頭の中で考えてやってますね。
そうですね。今は徳島県だけでないのかもしれないですけど、高齢化もどんどん進んできて、それでも三冠部に住まれている方はやっぱり一定数いるので、
そういう小さな集落とかの方が何かあったときは、やっぱりそういうドクターヘリとかフライトドクターが本当にすごい重要な立ち位置を占めてくるのかなと思ってますます重要度が増してきそうなポジションではありますよね。
やっぱり救急会の先ほどもテーマに入れてくれた、徳島の救急の特色とか救急の面白さとかそういう観点にもつながるんですけど、
救急会っていうのは結構病院の中でも確かに活躍するんですけど、病院の外でですね、非常に社会を守る存在だと思ってるんですね。
やっぱりお医者さんとか看護師さんとか医療の職員っているんですけど、多くはやっぱり病院の中で活動するじゃないですか。そうすると結構外に出るとですね、なんかこうアウェーなんですよ。
なかなかですね、自分のフィールドに来てくれたら本音を発揮できるけれども、ひとたび病院の外とかに出たときは結構弱いというか苦手なんですよ。
結構この中にお医者さんいませんかってなっても入って手を挙げれる人って実はそんなに多くないと思うんですね。
なかなか確かにそうですよね。
誰かちょっとここに倒れてる人があとかなったときもですね、どうしたんですかっていける医師看護師って実はそんなに多くないじゃないかなって思ってるんです。
看護師さんは結構ですね、やっぱりこの社会とのアクセスになるプロなんで、結構フットワーク軽いと思うんですけど、医師はですね、トレーニング受けてないとそこって難しいんですね。
そういう意味でやっぱり大規模災害とかですね、大きな高速道路の事故とか、やっぱり思いも寄らなくて病院の外で起こってる困ったこと、みんなが困ることですね。
そういう時に社会が不安に混沌に陥っていくんですけど、そこで大丈夫ですよとこう考えましょうって、ここは誰々でお願いしてここは僕がするのでみんなで協力しましょうっていうこういうこのやり取りがリーダーシップがとっていけるようになるのってやっぱり救急カーのトレーニングが必要なんですよ。
普段の診療だけではやっぱりちょっと培えない部分っていうのがあるんですね。
これまでの日本のですね、やっぱり医療の現場だとやっぱり少ないと思うんです。
徳島のいいところとかは、お勧めなのはすごく変化していってるってことなんですよ。今お話したような救急会も増えてきたことも役に立ててると思うんですけど、やっぱり社会にどれくらい役に立てるかということをちゃんと議論できる土壌が徐々にできているんですね。
なのでその医術とか医学もちろん大事だし素敵なんですけど、それをどう社会に生かすかなんですよね。
どうそれが受け入れられて、社会や病院やチームの中に受け入れられるかってことをちゃんと話し合えるような、自分のやりがいを見出せるようなその土壌ができつつあるんですよ。
それは救急だけじゃなくて全ての診療科だし、やっぱりその総合診療ですね。地域医療という目線がまさにそうで、何でもできるフィールドなんですよ。何かとかじゃなくて、自分がトレーニングしたいと思ったことができるし、それを発揮できるフィールドがたくさんあるんですよね。
社会とコネクトできる医療陣を作るっていうのが今徳島は熱いです。
なるほど。もう一言で言うと熱い医療現場ということでわかりました。ありがとうございます。