何から行きますか?振り返りとして。
順番ですか?順番に行きます。
議局が読まさるグループVは2回やってるんですよね。
2回やってます。2月13日と3月14日で、2と3ですね。
グループVはサミュエル・ベケット・ゴドウ・マチナガラの白水ユーブックスのバージョンを使って、現在54ページまで読み進めました。
内容としては、エストラゴンとグラジーミルがメインだったところから、新しいキャラクターとしてポッソーと未だ何も言わないラッキーがいて、
より混沌としてきて、意味がわからず、何が何やらというところですね。
そうっすよね。
みんな事前に読んでないから、1回目なので、一巡目なので、みんな誰も読んでないし、その場その場でやっていく感じですよね。
どうなんだろうな。楽しい?楽しい?これ。
僕は楽しい。
どんなとこが楽しいですかね。
いやでも、出会っていく感じがすごい強くて。
キャラクターもそうなんすけど、なんか言葉のいちいち、なんか結構普段聞かない、この野郎ブタみたいな、
そういうセリフとかも出てくるので、なんかそういうのにいちいち出会っていくっていうところで、僕は面白いなって、いつもやっていますね。
そうっすね。
赤井さんどう?
これまさしくその、今の普通に言ったら汚い言葉と言われるほど入っているポッツを焼くというか、ポッツを読んでて。
でも何もその感情込めないで、ただ文字を追っていくっていうことが、普段やっぱりやらないからすごく新鮮な気持ちになりますよね。
なんかいろいろ、本当に字を追っていくだけだから、なんか普通の読書体験とはまた違う。
だから、読み終わった後どう感じるのかっていうのがすごい楽しみです。
山田さんが読めばわかるよっていう風に言ってるんで、早く読み終わりたい気持ちもあるし。
そうっす。体験として面白いですよね。
赤井さんそういえばこの前面白いこと言ってて、ゆっくり書くと文字がわからなくなるっていう話。
そうです。
あれちょっともう一回話して。
今自分が仕事をしてる石鹿っていう、新白信が石鹿っていうところがあるんですけど、そこで3ヶ月に1回ぐらいかな、4ヶ月に1回ぐらい、石鹿の森マルシェっていうのをやっていて。
マルシェのために駐車場の看板を絵描き筆、ペンキか、ペンキを筆につけて書いてたんですよね。
駐車場の車っていう感じを。
なかなかペンキが乗らないんでゆっくり書いてたんですけど、そしたら車っていう感じ、これって車っていう感じなんだろうかっていうふうな錯覚にあって。
なんかこの感じ、これでよかったんだっけかっていうふうな、それを感じて、わからなくなるっていうのが、今語道を待ちながら読むっていうのもゆっくり書くのとゆっくり読むのって似てるんだろうなっていう。
ゆっくり読むと意味が本当にわからなくなっていく。何してんだろうって思っちゃうっていう。
いやーそれ面白い話ですよね。
なんか山田さんとかもね、デザインとかしてるとなんかありそうですけどね。
いやーどうかなー。
パソコンとかだと違うんですか?
違うんじゃないかなー。
でも確かにあれだよね、僕なんか結構墨と筆使う機会が多いから、確かにわかんなくなるんだよね。
1本1本に集中してると。
それに多分この強みって結構似てるのかなって思って、この前の赤井さんの話はすっごい面白かったっすね。
あずし君どう?
はい。
この辺で、まだ?
いや、大丈夫です。
この辺でOK?
はい、この辺で。
続いて、ついでなんで、もう一つ記憶が読まさるにはグループがあって、これは結構オリジナルでも2,3年やってるグループなんですけど、
グループOっていう名前になってるんですけど、これは今もう新薬ですね。
のことを待ちながら、これは白水社から出てるんですけど、こっちは今使ってやってて、
これは結構交互体になっちゃってるので、
わかりやすいはわかりやすいんですよね。
結構普段使ってる言葉とあんまり変わらない感じで訳されてるので、
このグループOに関してはまだ新薬を一巡まで行ってなくて、
実際最後まで読んでどういう印象なのかなっていうのはまだわからないではいるんですけど、
あずし君たちのグループのグループVで使ってるオリジナルのものとはやっぱり全然違う印象で、
だからあずし君たちも今のオリジナルのやつを2回ぐらいやったら、
新薬ベケットの方にも挑戦してみたら面白いんじゃないかなっていうところですね。
こういう流れが先を切り開いてもらってる感じがして。
何を目指してるんだって話だよ。
めちゃくちゃ何か開拓してますよね今。
確かに。
未開の地を。
未開の地を。
これ終わったらあれなんだよね。
伊藤聖子さんが、
マジっすか。
五道は待たれながらっていう曲を作ってるんですよ。
ヤバいっすねもう。
どっちかなとか思っちゃったりしてるけど、
そんな感じで楽しんでいきましょうということで。
曲の方は今回ですかね。
次が、どうしようかな。
すぶりスタジオですね。
2回やってます。
1回じゃなくて、2月26日の水曜日に和志岳岡津さんの聞くことの力の臨床哲学資論の最後の回でした。
ちょっと何個か拾ってきたのをまとめたやつをトピックを拾ってきてみました。
自分が気になったやつを拾ってきちゃいましたけど、
ケアとはその相手に時間をあげることといっても良い一面を持ち得るというのと、
他者に出会うというのは、少なくとも己の同一性の外に出る用意があるということっていうのが、
自分で皆さんのトピックを挙げてくれてたやつをまとめたやつの中で、
自分が改めてまた気になったのがそれだったなっていうのが、今挙げたやつ。
いろいろあったんですけどね、たくさんありすぎて迷ったんですけど。
ケアとはその相手に時間をあげることといっても良いような面を持ち得るっていいよね。
いいなと思いました。
それがまた難しいことなんだよなっていうのも感じつつ。
いつもやっぱりその小山田さんの話が思い出されますけど、
すごく時間をただあげるだけでいいんだっていう風にも捉えることもできるし、
本人は時間をあげてる自分自身はこれでいいんだろうかって思うかもしれないですけどね。
ただそこにいて、その人に時間を割く。
それだけでいいのかって思っちゃいますけど。
確かにね。
これもう究極の形だね。
何もしなくていいっていうことだもんね。
ついつい何かしなきゃって思っちゃいます。
役に立つことしなきゃみたいな。
そういう意味ではやっぱケアでただ時間をあげるだけでいいんだよって言ってくれてるっていうのはすごく、
もしそういう場面に立ち会ったりとかそういう場面になったときに、
そういえばこんなこと言ってたなって思い出せればいいのかなって思いました。
もう一個のやつは他者に出会うというのは、
己の同一性の外に出る用意があるということだっていうのもいいよね。
この前ちょうど、いや昨日だ。
僕ラジオで、仏教ではアイデンティティをどう考えるのかみたいな話を振られて、
その話を昨日したばっかりで、今の文章の少なくとも己の同一性っていうのはこれ、
アイデンティティの話だなって気づいた。
自己同一性って、アイデンティティって日本語訳されてて、
アイデンティティの外に出る用意があるということって言うと、
分かりやすいかもしれない。
確かに。
これは自分がいろんなとこに行って、
いろんな人に、いろんな人っていうか、
皆さんもいろんな人に会うけど、
本当に違う地域にいて、
自分、アイデンティティ、私はこれですってずっと思ってたら、
なかなか溶け込めなかったりとか、
自分を変えるというか、
自分が変えられてもいいよって思ってやっぱ接しないと、
暮らしとか習慣とか持ってる人の中に溶け込んでいくときってやっぱ、
それが邪魔しちゃうことが多分多いと思うんですけど、
でもやっぱ、自分っていうものの外に本当に出る準備が、
あると本当に出会えるっていうか、そこまで人たちに。
なんかそういうことかなーとか思ってて、
だからって自分が、自分ってよくわかんないなっていつも思ってますけど、
自分って何なんだろうなーって思いますけど、
それでも別に、地域に行って、
それは全然居心地、自分は居心地が悪くないから。
逆に、これが俺だーみたいな感じで、
俺がどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどん、
逆に、これが俺だーみたいな感じで思い続けてる方が、
たぶん苦しくなっちゃうかなーとは思うんですけどね。
確かに。
昨日ちょうど話した中で、ラジオで話した中で、
結構好きな仏教的なフレーズがあって、
例えば、僕ら普通は、私が存在するみたいな言い方するじゃないですか。
だけど、仏教的な考え方で言い換えると、
存在が私するっていうような言い方になるんですよ。
これが結構素敵だなーって思って、
存在が私するってすごいじゃないですか。
すごい。
年になってますね。
いいよね。
私をするってことですか。
そうそうそうそう。
だからすごい大きいって言ったらちょっとおかしいかもしれないけど、
ぼんやりした存在みたいのがあって、
それが私をしているって感覚。
だから、自分が多分想像している私っていうのは、
ほんの一部であって、
存在っていうのはもっと広がりとか深さとかがあるっていうか、
たまたま今この3人で、
たまたまこの3人が揃ったときの私っていうか、
今はね、喋ってるのは。
っていう感じ、感覚で、
結構あんと思って、そのフレーズがね、
存在が私している。
面白い。
でもそうやって入れたらいいですよね。
結構楽だよね。
なんかトイレに貼っときたいですね。
いいですよね。他者に出会うときには少なくとも、
己の同一性のことに出る用意があるということ。
いいですね。
いい言葉でした。
これが2月のSUBRIスタジオ。
これが2月のSUBRIスタジオ。
これが2月のSUBRIスタジオ。
これが2月のSUBRIスタジオ。
これが2月のSUBRIスタジオ。
そうですね。
このまま次行っちゃいますね。
次が3月の26日ですね。
新しい本に入って、
斉藤珠樹さんの
イルカと否定心学。
対話ごときでなぜ回復が起こるのか。
という本が3月から始まりました。
という本が3月から始まりました。
そうですね。
最初の1章を読んで、
最初の1章を読んで、
書いてあることに納得していったって感じだったんですけど、
書いてあることに納得していったって感じだったんですけど、
そのままですね。
一応皆さんがその線引いたこととかをちょっと拾って、
一応皆さんがその線引いたこととかをちょっと拾って、
さっきお山田さんにも送りましたけど、
ちょっと雑と少ないので、
読み上げていってみます。
ハーモニーやシンフォニーではなく、
ハーモニーやシンフォニーではなく、
多い声の 性質のせいと書いて 多声性
ポリフォニーには余白がある
動物は苦痛を経験するとそれを避けようとするが 人間は何かわからないけどまたそれをやっちゃう
対話実践が目指すのは精神病的な発話や現状 あるいは幻覚にとどまっている得意な体験に 共有可能な言語表現をもたらすことなのです
対話を無限に続けられる世界 結論を永遠に先延ばしする世界 対話を無限に続けられる世界
対話を無限に続けられる世界 結論を永遠に先延ばしする世界 対話の本質である余白を生み出し続ける世界 その世界にいること自体が回復を意味するとした
というのをちょっと拾ってみました
いいですね
そうですねポリフォニーっていう言葉 自分はこの本で初めて聞きましたけどみなさんどうですか
そうですよね 仮誠性でいいですよね
なんかこの後多分出てくるんですけど ミハイル・バフチンっていう人がそのポリフォニー使ったっていう話がこれから確か出てくると思うんですけど
そこで僕は初めて知りましたそのミハイル・バフチンの
なんちゃらの私学っていう本があってそれ読んで知りました
なんかこう久しぶりに久しぶりだねみたいな感じでした
それも余白の話?
それはどっちかっていうと文学研究の理論書というかそっち寄りなので
なんだろうな
なんかこう正確なところはちょっとうる覚えなんですけど
作品内でもその小説の物語の世界の中でもこういろんなキャラクターがいて
そのキャラクターが作者の考えとか思想をただ反映してるんじゃなくて
本当にそのキャラクター一人一人に人格があるみたいな感じで書かれてる作品についての
そういうそれを分析する書物だったんですけど
だから今回このイルカと否定心格でポリフォニーっていう概念改めて接したんですけど
なんか小説を読むための道具として聞いたときあんまりピンときてなかったんですけど
その対話実践として強力なツールとして玉木さんが使ってるっていうのを聞いて
実感というか近づいた感じはありましたね
いいよねこのポリフォニーって使いたいね
うん使いましょう
ポリフォニーって出てくるとなんかハーモニーとかシンフォニーとかなんか
窮屈な感じがしてくるもんね
それ知らなければなんか
なんかそのハーモニーじゃないけど知ってる方がいいのかなっていう感じではするんですけどね
それって言うとなんかその
時と場合によるのかなとか思っちゃうんですけど
常にポリフォニーの方がポリフォニーであったらいいのかとか考えちゃう
自分がやってるダンスとかとまた絡めてなんか考えてみたいなとは思いますけど
それがどう繋がるのか
そうだね
時代的にこのポリフォニーの方向 世界はポリフォニーに向かっている感じはするけどね