1. IBUKI STATION
  2. UTMFはあの番組から生まれた!..
2025-04-30 58:27

UTMFはあの番組から生まれた!?Mt.FUJI100大会公式Liveプロデューサー中尾益巳さん

spotify apple_podcasts youtube

Mt.FUJI100シリーズの最後は、今回の大会公式Liveのプロデューサーを務める中尾益巳さんのインタビューです。

かつてNHKに在籍され、日本でトレイルランニングという言葉がまだ生まれていなかった時代に、鏑木毅さんのUTMBへの挑戦を追った『激走モンブラン!』を企画、制作された中尾さん。

その後日本国内でも100マイルレースを、という構想が始まり、UTMFが生まれます。大会のドキュメンタリー番組が制作されるようになり、さらにYouTube Liveの配信も始まって、今に至る、という、大会と映像制作の歴史を伺いました。

お話を伺った中尾さん

公式YouTube Live

IBUKI・結果速報

サマリー

このエピソードでは、Mt.FUJI100大会のライブ配信プロデューサーである中尾益巳氏が登場し、UTMFの立ち上げについて語ります。中尾氏は、NHKでのテレビ制作の経験を基に、トレイルランニングの魅力を伝えるために、ウルトラトレイル・モンブランを取り上げたドキュメンタリー番組を制作したことがきっかけで、Mt.FUJI100の構想が生まれた経緯を述べています。MT.FUJI100大会の公式ライブプロデューサー中尾益巳氏は、富士山を魅力的に映し出す映像制作の重要性や大会の歴史について語ります。また、東日本大震災の影響で大会が中止された経緯やその後のドキュメンタリー制作についても触れています。中尾氏は、UTMFがどのように最初の構想から発展してきたか、また自衛隊との協力関係についても説明します。さらに、NHKの番組制作の変遷やグレートレースの影響、それに続く自身の新たなプロジェクトについても言及しています。中尾氏は、映像制作の重要性と大会の設計について考え、MT.FUJI100大会の未来に期待を寄せています。UTMFイベントの公式ライブプロデューサー中尾益巳氏は、リアルタイムでの体験の重要性やIBUKIメディアの利点について語ります。彼は、選手の自己表現と情報発信が、レースの運営や視覚化に大きく寄与することを強調しています。

中尾益巳の登場
それでは、Mt.FUJI100、今回のライブ配信のプロデューサーであり、NPOディスカバーリアス代表理事の中尾益巳さんに来ていただきました。おはようございます。
中尾益巳
おはようございます、中尾です。
近藤淳也
この度はライブ配信でお世話になりました。
中尾益巳
いやいや、こちらこそ、近藤さんに出ていただき、近藤さんに本当にIBUKIを駆使してライブで見せていただいたので、今でないライブ配信ができたので、とても楽しかったし、
いいものができたんじゃないかなと、少なくともこれまでよりはちょっと違ったものができたと思っています。
バラエティ番組と表していただきましたけれども。
いろんなゲストが意外な話をしてくれましたし、
走り終えた若い選手の人たちも臨場感ある話をしてくれたので、
作っているというより聞いていて面白いなというふうに思いました。
近藤淳也
僕たちも関わらせていただいて本当に楽しい思いをさせていただきました。ありがとうございます。
今日は収録を終えて翌日なんですけれども、お話を伺えるということで時間をいただきました。
どうぞよろしくお願いします。
UTMFの起源
近藤淳也
そして中川さんは今ライブ配信のプロデューサーをされながら、
立ち上げにも、そもそもMt.FUJI100の立ち上げにも関わられたということで、
今日はそのお話をぜひ伺えればと思うんですけど、そもそもどういう…
中尾益巳
今はMt.FUJI100ですけれど、2年前までウルトラトレイルMt.FUJIUTMFって言ったんで、
もうちょっとここからなんですよ、昔の話なんてUTMFって言っちゃいますけど、
もう全然、かつてはそれが正式名称でしたからね。
そもそもきっかけはUTMFを作った、第1回って2012年になったんですけれど、
その前に私、今はもう辞めましたけど、もともとNHKでテレビ番組のプロデューサーをしていて、
そこで2009年に激走モンブランっていうUTMB、ウルトラトレイルモンブランに
株式会社が出場してサインになった年ですけど、
それのドキュメンタリー番組を作ったっていうのがそもそものきっかけなんですね。
伝説の番組ですよね。多くの人があれを見て、トレイルランを志す理由になったっていう選手も多かったと思うんですけど。
一応トレイルランを日本に広めたっていうふうにも言われていますし、
あれを見てトレイルランを始めたとか、UTMBに出る気になったっていうような人がたくさんいるっていうことで、
それは非常に嬉しいなというふうに思ってます。
近藤淳也
じゃあその番組を当時NHKのプロデューサーさんとしてご担当されたのが中尾さん。
中尾益巳
そうです。自分で企画して、こういう番組を作りたいって言って、NHKなんかで企画を通して、
それで撮影にも行って、私ともう一人ディレクターがいたんですけど、作ったんです。
近藤淳也
もともとトレイルランをされてたってことですか?
中尾益巳
いやいやいや、私は全然、ランニングとか山とか全く無縁で、
ただオートバイに乗ってて、オフロードバイクに乗ってて、
昔で言う山を荒らす林道暴走族と言われるような、オフロードで林道を走ってたっていうのは、
イベント制作の挑戦
中尾益巳
若い頃やったり、日本一周バイクのツーリングをしたりっていうような。
バイクで旅をするっていうのは大好きだったんですけど、
ランニングとか山登りとか、普段行ったり使うのは全然全くやろうとも思わなかったです。
近藤淳也
じゃあツーリングマップルを使って。
僕も自転車で使ってたんで、乗りはよく分かります。
中尾益巳
その時にパリダカールってあるじゃないですか、パリダカって言いますけど、
パリダカールラリーに非常に憧れてて、
そういう世界の行ったことないところを競争しながら旅をするっていうのがすごく面白いなと思って、
パリダカールにすごく憧れてたんですよね。
で、そこでウルザートレイル・モンブランっていうレースがあるっていう話を聞いて、
それを教えてくれたのは当時、日本のノースウェイスのマネジメントをやってた三浦勤さんっていう方なんですけど、
三浦さんからその話を聞いて、そこに株楽千代氏というランナーがいるっていう話を聞いて、
なんかそれは面白そうだなって思って、いろいろ話を聞いていくうちに、
それは日本で全くテレビに出てないっていうことが分かり、
じゃあちょっと作ってみようかなと思って、
そして企画を立てたらNHKで通ったっていう、そういうことです。
近藤淳也
当時はまだトレラン日本でそもそもやってる人も少ない時期でしたよね。
中尾益巳
でしょうね、2009年っていうのは。
だから僕は、それでも破節ね、日本山岳台球レースは83年から始まっていると言いますから、やってたんですけど、
他には富士登山競争とか、あとは何だっけ、丹沢、北丹とかの、いわゆる死に戦のレースだったけど、
今みたいに日本中でトレラン、だいたいトレランっていう言葉もなかった。
山岳レースっていう、山岳マラソンとか、そういう名前でやってましたから、
近藤淳也
レースの数も少ないし競技人口もものすごい少なかったんでしょうね。
そんな日本でもまだトレランディングっていう言葉すらなかった時期に、
モンブランのその番組の企画を立てられて、実際実現されたっていう。
そしてそこからどうやってUTMFに。
中尾益巳
番組のことを語り始めるとすら中入って、見ていただいた人はだいたいわかると思うんですけど、
株主さんがサインになるのをずっと追っかけて撮影したんです。
今で言うランカメっていうランニングカメラマンっていうのを初めて使った番組だったんですけど、
それを使って番組作って、株主さんとずっとモンブラン一緒にいていろいろ話しているうちに、
株主さんが当時40歳でしたけど、こういうレースを日本でもやりたいんだっていうような夢を持っていて、
そういう日本でやるとしたら、UTMFってモンブランを一周するレースで、
株主さんが書いたのは富士山を一周。それをやる舞台も富士山しかない。
これ株主さんもよく言いますけど、飛行機で富士山上空を撮っているときに下がよく見えて、
近藤淳也
そこに一本の一周のルートが見えたっていう。
福田立花さんと二人で書かれた本にも書かれてましたよね。
中尾益巳
その話を聞いて、そこがちょうど160キロ、100マイルになるはずだっていう。
100マイルにはできるだろうっていうね。
そういうことで、というか100マイルレースっていうことも全く日本では知られてなかったし、
世界にもそれこそUTMBとウェスタンステージ2ぐらい、アメリカには他にもいくつかあったと思いますけど、
あんまり知られてなかったんで、それを日本で初めて。
実は日本で初めてじゃないんですけどね。
そうなんですか。
これ言うと滝川さんが最初はウチだっていうふうに言われて。
近藤淳也
確かにそうなんですよ。
中尾益巳
だけど、とにかく100マイルを富士山一周でやりたいというふうにことを、
滝川さん考えて、私たまたま静岡県の沼津というところ出身で、富士山の近いところに育ってたんで、
それだったら地元だし、お手伝いしましょうかって言ったのが本当に。
近藤淳也
当時はNHKのお仕事をされていた。
私NHKの職員でしたから。
職員で東京のほうにいらっしゃって、手伝いましょうかって言ったっていう。
どうなったんですか。
中尾益巳
一応私の本業はテレビ番組を作ることで、スポーツイベントを作ることではないので。
ただイベントを作ったらそれを番組化するということで、半分仕事半分趣味のような感じで一緒にやり始めて。
その時に株主さんとさっき言ったゴールドウィンの三浦さんと最初3人でそういう話をして、
そこに静岡大学の村越信さんと、それからもう今ずっと続けている福田立花さん、山梨のほうでは福田立花さんが入って、
あと三吉玲子さんという方が入って、その辺が中心になっていろいろ計画を立ち始めていました。
近藤淳也
最初の3人の1人が中尾さんだったんですね。
中尾益巳
そうですね。
近藤淳也
どうなったんですか。
中尾益巳
僕も当然ですけど、レースを作るなんていうことは全く初めてですし、本業ではないわけで。
だからどういうことをやったらいいかと、まず役所に交渉して、ここの道を通れるかとか、ここの山は誰の山だとか、
そういうことを調べて、だんだん少しずつ少しずつ分かって、三浦さんや神楽さんはそういうことは知っていましたし、
福田立花さんは山梨のほうでもレースをやられたので、そういう方が中心になって、まずコースを決めていくということ。
富士山一周をつなぐということが最初の大コンセプトだったので、その時に自衛隊の中を通わなきゃいけないとか、自衛隊との交渉とか、
いろんなことをやりながらコースを振って、いろいろ準備していたので、2009年の終わりから2010年にかけて。
近藤淳也
自衛隊さんとの交渉とか自治体とか、結構大変じゃないですか。
中尾益巳
大変ですよね。
近藤淳也
それ通ってたってことですか。
中尾益巳
皆さんと一緒に通ってやってました。
近藤淳也
でも役所って平日じゃないですか。
平日の仕事はどういうふうに。
中尾益巳
取材という。
一応テレビ番組の取材でもあるわけですよ。
まあまあ。
その先にはね。
近藤淳也
レースができればね。
中尾益巳
レースができれば。
近藤淳也
なるほど。
じゃあその仕事の時間を使って静岡とか山梨に通われて、いろいろ役所の調整とかされていったと。
中尾益巳
そうですね。
近藤淳也
それは中尾さんがやってたんですか。
中尾益巳
いや僕だけじゃないですよ。
三浦さんが中心でしたし、福田力家さんも一緒にやってました。
でも本当に少数でしたね。
近藤淳也
そういうことですよね。
しかもレースの運営にご経験がないというところで。
やり方というのはどのように。
中尾益巳
ただ僕は全然知らないですよ。
覇節音とかも見たこともなかったし。
全く分かんないですけど。
ただムームランのレースを一応裏側を見てたんで。
例えばエイドステーションがあるとか。
こういうふうにルートマップがあるとか。
こういうスタッフが必要だとか。
スタートとフィニッシュはこんな雰囲気がいいとか。
一応そのUTMBというお手本があったんで。
それをイメージして。
株主さんもUTMBを日本で作りたいというのが目標だったんで。
やっぱりそこで全くゼロ。
日本ではゼロだけど。
UTMBというお手本があったから
それを真似しようという感じでやってたっていうのが。
近藤淳也
じゃあレースを作られた経験もなければ
トレラン走ったこともなかったけど
理想のレースは知っている。
中尾益巳
そういうことです。
近藤淳也
こういうのを目指すんだという理想のイメージは
UTMBを見て知ってたっていう。
中尾益巳
そうですね。
近藤淳也
にしても調整そんな簡単じゃなくて。
じゃないですよね。
中尾益巳
だから役所にしても自衛隊にしても
警察もそうですけど
近藤淳也
そんななんだか分からないくらいですよね。
中尾益巳
富士山の周りを一周
160キロ走るんだ。
しかも寝ずに走るんだって言っても
なんじゃそれっていう。
近藤淳也
なりますよね。
中尾益巳
なりますよね。
どうしたんですか?うまくいったんですか?
その時はフランスではこういうのをやって
写真見せたりビデオ見せたり
こういうのをやりたいんですとか
こうすると
富士山が世界に対して
もっともっとアピールできるとか。
僕はずっと静岡県人だったわけで
静岡と山梨の富士山を選べて
いつも対立。対立って別のことではないけど
どっちが富士山どっちのものか
みたいなことはよく言われるんですけど
どっちから見た富士山が綺麗かとか
近藤淳也
どうでもいいことをみんな言うわけですよ。
よく県民性みたいなのがたまに出てきます。
結構リアルにあるってことですか?
富士山の魅力と価値
中尾益巳
わりとありますよね。
ありますあります。
でもやっぱりその時に
僕はいろいろ下見をして
富士山はまず車ですけど
ぐっと回ったり
今まで行ったことがない天使山地
っていうところに登って
今まで見たことがない角度から
富士山を見たりとかすると
やっぱり富士山っていうものが
改めて見るとすごい
やっぱり象徴なんですよね。
単なる山っていうより
見るものそれから
その周りを回るっていうことが
すごく価値のあるものだっていうことを
それは改めて知りましたよね。
近藤淳也
地元の方でも。
中尾益巳
だいたい地元の方だって
山梨をしたら川口湖の方か
あるいは静岡の御殿場の方から見るのと
富士山の御殿場の方から見ると
南の沼津湖の方から見るのは
全然違いますから
そういうのを改めて一周してみると
やっぱりここはすごい山だって
すごい場所だっていうのが分かったんで
これを回るっていうのはすごい価値がある
単に競争をするっていうんじゃなくて
価値のある旅だなっていうのに気づいたんで
大会の歴史と震災の影響
中尾益巳
そうなるとそれは
テレビ番組としても価値があるわけですよ。
そういう映像を見せるってことが
そういうようなことを言って
NHKを
騙してって言っちゃうんだけど
説得して
こういうレースを作ると
こういう番組ができます
というようなことでやってたんです。
近藤淳也
今はNHKのお仕事は辞められて
中尾益巳
はい、もう完全に退職してますね。
近藤淳也
ちょっと当時のことも
中尾益巳
今喋っても別に
決して会社のお金を
いけないことに使ってたというわけではないですよね。
だからその時
平日とかに至って
かなり自腹で行ってましたからね。
近藤淳也
しかもちゃんとこれだけの大会ができていて
実際に番組もたくさん作られたと思いますので
成果も出てますからね。
一応成果物は残りましたね。
じゃあそうやって始まっていって
それで大会の実施までってスムーズにいったんですか?
中尾益巳
それを準備していたのが2010年
2010年の大会に
福田リッカさんとか三好レイコさん
村越さんもそうですけど
みんなを桃村に連れて行ったんですよ。
なるほど。
それが
桃村に連れて行って
そこでカトリーヌ・ポレッティさんという
UTMBの女性のリーダーとあって
その後いろいろ揉めるんですけど
ウルトラトレイルという言葉をめぐって
そういうのはうだうだ揉める前の話だったので
UTMFというウルトラトレイルマウント富士という
称号を使うという許可をいただいて
それでUTMFという名前にして
準備をして発表もして
2011年5月にやるよという風に言って
近藤淳也
当時も5月だったんですか?
5月でした。
中尾益巳
5月の上旬だったかな
それで本当に具体的にいろんな準備をして
コースマップを作ったり
いろいろやってたんですね。
私は途中からやっぱり
本業であるそれを番組にするという方の
その番組の企画もNHKの中で通って
しかもそれは全部テレビで生中継するっていう
生中継ですか?
とんでもない企画だったんですよ
いまだに見たことないですね
近藤淳也
100マイルの生中継
中尾益巳
それをこういうYouTubeとかやっても
全部テレビでやって
テレビの中継者を
近藤淳也
生中継ってNHKで
24時間とかやろうとしてたんですか?
中尾益巳
連続ではないですよ
時々1時間やってしばらく経ってからとか
そういうタイムテーブルを作って
近藤淳也
すごい企画ですねそれ
箱根駅伝をずっとやってるみたいな
中尾益巳
そうそうそう
箱根駅伝的に
ずっと全部ランナー追っかけるのは無理だけど
エイドステーションと
中継できる場所で生中継やっていくっていう
近藤淳也
とんでもない企画を立てちゃって
通っちゃったんですよ
中尾益巳
それで5月が本番なんで
3月ぐらいからそういうNHKの技術スタッフと
一緒にこの辺を下見してて
本当にかなり具体的な
ここにカメラ置いて
ここに中継者置いてっていう
それは必要ですよね
電波飛ばさなきゃいけないから
こうやって電波を飛ばしてっていうような話を
いろいろ各地回って
なんとかできそうだなというような
めどが立ったのが
2011年3月10日だったんですよ
近藤淳也
2011年3月10日
中尾益巳
3月10日の昼に川口高校班で技術のチーフと
こうやってなんとかできそうだねって
また東京帰って
ちょっと具体的にいろいろ
図面やスケジュール
あと予算もちゃんと立てないといけないから
ちょっと具体的に立てましょうって言ったのが
2011年3月10日で
翌日東京の私の上司であるプロデューサーに
いろいろ話をしたのが
2011年3月11日だったんですよ
近藤淳也
の午後1時
中尾益巳
で1時間ぐらい打ち合わせをして
ちょっとプロデューサーとの間で
ああだこうだいろいろあって
いろいろ直さなきゃいけないところがあって
どうしようかなって思って
昼飯食わずにやってたんで
NHKの食堂行ったのが午後2時半
近藤淳也
午後2時半ちょっと近づいてきてますが
近づいてきて
中尾益巳
その時もう一人で
そこで遅い昼飯食ってたら
ビルがぐらぐらと揺れ始めて
近藤淳也
そこで一気に世界が変わってしまった
じゃあ東日本大震災があって
大会が2011は
中尾益巳
結果的に中止になるんですけど
中止を決めたのは3月15日ぐらいでしたかね
もちろん東北は突然大変な被害だったわけですけど
富士山の周辺は東京もひどい揺れでしたし
こちらも揺れたんですけど
最大の被害になった3月15日に
藤宮の方でちょっとした富士山の直下の地震があったんですよ
前の地震が大きすぎたので
全然ニュースにならずにほとんど知られてないんですけど
山が少し崩れたんです
そんなことあったんですか
あったんです3月15日
覚えてないな確かに
だって震災で大騒ぎしてた
それどころじゃなかったですね
それが決定的でしたね
それでコースの一部が本当に通れないようになったというのと
やっぱり3月15日以降
そういうイベント自粛というのをやって
皆さん東北の復旧に日本全国が
世話になろうとしてた五天馬の自衛隊も
全部東北行っちゃってますから
近藤淳也
もうこれは無理だと
中尾益巳
さすがにね
それでやっぱりこれは無理だねということで
大会の中止を決めて
そうなると当然ですけど
僕がやろうとしてた生中継番組も中止になり
近藤淳也
全てが白紙になったという
2011年が第一回大会計画されていたし
番組も計画されたけど流れて
実際開始されたのは
中尾益巳
翌年2012年
その時は番組の企画はなかったんですか
いろいろやって
震災の後っていろんなことが変わって
結局生中継の番組は
その次の年は通らなかったんですね
本当に幻の企画で終わった
ドキュメンタリー制作の進行
中尾益巳
代わりにそれを全部ロケて収録して
長編のドキュメンタリーにするという企画になって
普通の番組になった
今やっているグレートレース的な
当時グレートレースはなかったですけど
近藤淳也
グレートレースはなくて
中尾益巳
単体のドキュメンタリー
ウルトラトレイルマウント富士っていう
前後編50分ずつの番組を作ったんです
近藤淳也
それで生中継は
結局その後も開いたのを実施されておらず
中尾益巳
ドキュメンタリー番組で紹介されていくというのが続いていた
近藤淳也
そんな経緯だったんですね
株主さんたちが書かれた本は読んだことがあったので
リッカーさんたちと一緒に作られていった様子とかは
描かれていましたけど
中岡さんも結構いろいろ動かれたり
映像のところとかで立ち上げかかわれていた感じだったんですね
中尾益巳
やっぱり生中継はできたらできたらすごく
面白かったしセンシーだったんでしょうか
僕はこのレースを作るっていうか
自分がレースに出るなんてことは全然考えない
やっぱりレースのロケーションというか
富士山のぐるっと回るっていう
そういう映像と
やっぱりそこに出てくる人たちの
ドラマというか
必死になってというか感想を目指す
それもあれですよ
モンブランで見てたから
そのイメージありましたよね
レースのイメージだけじゃなくて
ランナーたちのイメージっていうのがあったんで
そういうのはやっぱり番組にしたい
それをモンブランでは激走モンブランという形でしましたけど
それを日本でも
株式会社さんが
あのレースを日本で作りたいと思ったように
僕も激走モンブランという番組を
日本の舞台にもう一回作りたいという
近藤淳也
その反響はどうだったんですか
中尾益巳
それはかなりありました
激走モンブランを見て始めたっていう人もいますし
UTMFの番組を見て
あれだったら出れるだろう
日本でやってるんだから
あれに出たいと思って始めたっていう人は
その後いろいろ話を聞きましたね
近藤淳也
じゃあその後
中尾さんの大会との関わりっていうのは
中尾益巳
だからその後
何度か番組にしてます
ここまでの間に
グレートレースっていうのが始まってからは
グレートレースっていう枠の中でやったり
してますけれど
あと毎年やってたNHKの国際放送の
NHKワールドという番組で
毎年そういう
ドキュメンタリースタイルの番組を
作って続けてて
その中で2016年、7年ぐらいから
そういうライブっていうのも
やってみようかということで
ちょっとそのテレビと
ドキュメンタリーと並行して
やり始めたっていう感じですね
近藤淳也
じゃあそこはもう
NHKさんの番組作りと
全く関係ないんじゃなくて
中尾さんが両方関わられて
中尾益巳
それをね
そこを細かくついていくと
ちょっと僕
当時の僕としてはやばい
近藤淳也
あんまり質問しないで
中尾益巳
もうコンプライアンスっていう言葉を
厳密に捉えていくと
うん?と言われることが
あるかもしれない
決して悪いことはしてないんですけど
近藤淳也
なるほどなるほど
でもじゃあ両方関わられてたってことですね
そうですね
その大会の自治体さんとの調整とか
道の
中尾益巳
でもその時はもう他のスタッフは
随分増えてきましたし
大会代表やってる千葉さんとかも
入ってきてましたし
だいたい静岡側が
千葉さんが中心になって
山梨が立花さんが中心になっていく
っていう体制でやってましたから
僕その
2010
やっぱり10年11年12年
最初の時はかなり
作る側のことをやってましたけど
それ以降は
いろいろ
コースが
変わったりとか
UTMFの歴史と運営
中尾益巳
逆回りになったりとか
いろいろあったんです最初
ずっと毎年コースが変わって
毎年向きが変わるとかいろいろ言われてたんですけど
その
最初の3
4年くらいですかね
近藤淳也
本当に運営の中心にいたの
そこはやってらっしゃったんですか
ちなみにそこは何があったんですか
もともとその一周
最初の構想も今は一周ではなかったり
しますけど
中尾益巳
その辺の大変さっていうのは
ちょっとその
どっちがいいどっち回りがいいかっていうのが
やってみると分からないところが
あったわけですよね
その
尺子を
最初に
尺子と天使っていうのが
2大難関
どっちを先に
するとかどっちが夜がいいかとか
そういうことも
ありましたし
それは感想率を上げるため
とか
その辺を
試行錯誤してたっていうこと
ですよね
近藤淳也
じゃあそこは許可とか
じゃなかったってことですね
中尾益巳
はい
自衛隊を
通る時間をどういつにするか
っていうところもありました
そこを通る時間を短く
するために
どの時間帯にしたらいいかとか
そういったことで
逆向きにしたり
もしましたね
近藤淳也
今その一周じゃなくなってるのは
自衛隊さんとかは
中尾益巳
今そのこともありますね
自衛隊の
演習中を通るってのはやっぱりすごく大変な
近藤淳也
ことなんで
だって普通に演習とか
されてるわけですよね
中尾益巳
実弾とか使って
だから
今のコースはそこの中を
通らないようにして
4分の3周して折り返すっていう感じ
事実的には一周の距離になってますけど
はい
それだけじゃないですけどね
ただ
いろんな試行錯誤の上
やっぱり毎年同じコースで
やっていくっていうのが
やっぱり理想ですから
それが固まったのは
2018年
近藤淳也
確かにその頃から今の
子どもの国からっていう
中尾益巳
定着してますもんね
ゴールが少しずつ変わってますけど
とにかく
スタートして4分の3行って
戻ってくるっていうスタイルは
近藤淳也
2018年からです
一周じゃなくなった時に残念な声は聞かれましたけど
こうなってみた
ようになってみたで
中尾益巳
安定してるっていうのも
運営も
その方が同じ場所を
通ってくるっていうことで
ボランティアとか
やっぱり自治体や警察
の許可申請とか
そういうことが
やりやすいっていうのがあったでしょうね
僕その時に
相当この現場は離れてますけど
近藤淳也
なるほどね
そして中尾さんは
その後
まずあれですね
NHKの番組はどうなったんですか
中尾益巳
どうなったんですかって
近藤淳也
今はかかられてないのかもしれないですけど
今今年は
応援がないっていうことですけど
中尾益巳
だからそのグレートレース
っていうのが始まって
それまでは
UTMF単独の番組でやってたんですけど
グレートレースの中でも
やろうっていう話になって
やるってのが
2018年から
2018年
19年
22年
18年は別のプロダクションやってたんで
私は全然かかってないんですけど
19年、22年
20、21がコロナで中止だったから
22、23
24まで
やって
私自身は
実は2020年に
NHK退職してるんです
そこからは
堂々と
そこまで堂々としてなかったのかって感じですけど
近藤淳也
大会の人として
中尾益巳
フリーの
テレビディレクター、プロデューサーとして
プロダクションと一緒に
アイアップ工房というプロダクションと一緒に
テレビ番組を作ると
堂々と作ってます
近藤淳也
なるほどね
ほぼ毎年というか
コロナで開催なかった年以外は
ずっと連続で番組が作られて
来てましたけど
ここに来て
一旦止まったのは
中尾益巳
今年、2025年は
そもそもグレートレースっていう
枠が
増えなくなったわけじゃないんですけど
NHKのBSの
波が減った
BSが今で
3つあったのが2つになった
それはNHKの他の番組も
枠が減ったり
番組の本数が減ったりしてるわけですよ
なので
グレートレースっていう番組も
少しずつ
本数が減ってきてて
まだもちろん残ってるんですけど
UTMF
Mt.FUJIはやらないと
海外のレースだけにする
っていうような
近藤淳也
申し込みがあったようですけど
これから続くんですか?
中尾益巳
いやー
NHKのことはよくわからないですけど
本当に
近藤淳也
Mt.FUJIの
番組が作られることが
中尾益巳
あんまり今後もなさそう
また別の企画で
特番として
企画が通れば
あるかもしれませんけど
今までのように
わりとレギュラーみたいな感じで
毎年作るっていうのは
もうないでしょうね
新たなプロジェクトの展望
近藤淳也
ちょっと残念ですね
そんな中で
中尾益巳
今ライブに
近藤淳也
力が入っている感じ
って感じですかね
中尾益巳
個人的には
僕はNHKを辞めてから
岩手県に
移住して
東京都は2拠点生活なんですけど
三陸の方で
そういうレースを
作っているので
自分の重心としては
そちらにシフトしている
正直なところです
Mt.FUJIは
本当に千葉さん中心に
こんだけの
スタッフが集まって
千葉さん、りっかさんたちで
NHKとの関係と番組制作
中尾益巳
もう完璧にできて
ワールドトレイルメジャーズっていう
大きな世界シリーズになっているので
中尾益巳
僕も60歳過ぎて
だいぶ経つので
ここでそんなに
関わらなくても
僕は東北の方で
新しいことをやろうと
シフトしています
近藤淳也
それがディスカバリアスの活動
ここですよね
今ちょっとご紹介いただいてもいいですか
中尾益巳
それは
ステージレース三陸
っていうレースが
主体なんですけど
岩手県の宮古市から
東日本大震災で
被害にあった
三陸海岸
沿岸をずっと
北から南に走っていって
宮城県の南三陸町っていうところまで
走ると
ステージレースっていうのは
ステージレースなので
Mt.FUJIのように
ずっと寝ずに走り続けるのではなくて
一日
60キロとか70キロ走ったら
一回全員止まって
また次の日朝スタートして
っていうことを繰り返していって
最終的には
5泊6日で311キロ
3311を忘れないために
311キロっていう距離を
走るっていうのが
ベースの概要です
まだそこの
311キロまで行ってなくて
これはちょっと
始めようと思ったのが
コロナにぶつかっちゃったっていう
原因があるんですけど
100キロ
1回目は100キロ
去年2回目は130キロ
次は200キロにしたいなっていうことで
少しずつ伸ばして
311キロにしたいという
近藤淳也
プロジェクト
そうですね
中尾益巳
リブキスさんって本当に大変お世話になってます
近藤淳也
じゃあ結局
レースを作った経験も
なければ
トレーラーもしたことないっておっしゃってたのに
今はそういう
トレーラーの大会を
中尾益巳
自ら作られて
いうこともされてる
ステージレースは
トレーラーとは言い難いんですよ
ロード部分の方が
多いですし
やっぱり
走ることが目的ではなくて
三陸沿岸
三陸沿岸って海も山も
町もあるわけですよ
海と山と町をみんな楽しみながら
しかも震災から復興した後
復興した後の
三陸って実はあんまり知られてなくて
あんだけ被害あって
あんだけお金かけて直した
わけなんで
そこをみんなに新しくなってきれいなところを
みんなに見てほしい
そういう走る旅
ですね
レースというより旅要素の
強いものです
近藤淳也
なるほどね
中川さんはご縁はあったんですか
中尾益巳
三陸とは
違うんですけど
これも結局スキーサイズだからなんですけど
また2011年に
近藤淳也
話を戻していいですか
中尾益巳
そのさっき言った
2011年の
東日本大震災が起こって
第1回のUTMFの
大会と番組が
幻になりました
その後
3月と
4月
までは一応僕その時はNHKの職員だったんで
仕事として
遠くには行ってないんですよ
だけどいわゆる渋谷の
NHKの中で
ニュースのお手伝いをしたりとか
いわゆる生活情報
を出したりとか
いろいろ
震災に関連した
番組や報道の
お手伝いをして
報道の畑だったら
すぐに現地行ってとか
いろいろあったんでしょうけど
報道畑ではないので
でもあの時はとにかく
全局体制で震災報道をしてたんで
何をやってる人間でも
全部震災関連の仕事を
やってて
僕はだから渋谷でずっと
震災報道のお手伝いを
3月から4月やってたんですよ
そこでずっと
ニュースセンターとかで
毎日毎日
被災地の映像を
見るじゃないですか
何人亡くなったとか
まだ何人見つかってないとか
そういうのずっと毎日毎日
ニュースセンターで聞いてて
それは大変なことだ
っていうことがあって
その仕事が
ようやく一段階したのが
2011年の
ゴールデンウィーク前
まさに今の時期なんですけど
そこでようやく休みが
取れて
本来だったら
5月の中旬に
UTMFって大会があって
そこで生中継番組やるはずだから
ゴールデンウィークは絶対休めないんですよ
だけど
それが
全部流れちゃったから
休みが取れちゃったんですよ
休みを取れって言われて
2週間の長期の休みを
頂いたんです
私だからNHK入って
その時はもう30年くらい
働いてますけど
初めてなんですよ
長期の休みをもらったのは
言ってみれば
地震によって頂いた
お休みだから
やっぱり何か
お返ししなきゃいけないというのと
ずっとニュースで見てた
映像本当はどうなのかというのは
やっぱり見たいという
気持ちがあったので
NHKの仕事じゃなくて
個人のボランティアとして
被災地に行ったんですね
それが最初のきっかけだった
近藤淳也
全部繋がっているんですよね
UTMFの起源と被災地
近藤淳也
繋がってますよね
中尾益巳
考えるとね
行ってみたら
最初に入ったのは
南三陸町というところで
今私が住んでいる
隣町の陸前高田市というところで
2週間くらいボランティアを
瓦礫の片付けとか
記録写真を撮って
整理するとか
そういうボランティアをやってて
その後
今レースのスタート地である
宮古というところに
一人だけ私の知り合いがいたので
そこまで車でずっと
北上していって
今レースをやろうとしている
宮古と南三陸という
間の距離を
南から北へ
北上していったんです
ボランティアの後に
そこで
三陸海岸は
初めて見て
被災地は
被災地でものすごく
崩れて
めちゃくちゃな状態だったんですけど
でも三陸海岸って
海岸って言いながら
ほとんど山なんですよね
町があって山があって
山を越えたら次の町があるっていう
そういう地形で
町は全部港町なんですよ
港町は全部破壊されていて
でもちょっと山登ると
当然ですけど津波来てないから
すごい綺麗な海と山の景色が
あるわけですよね
またそこの山を越えて
次の町が来るとそこはまた
破壊されているっていう
その繰り返しだったんで
でもそこに山には
実は海が見えるトレイルとかが
あって
ちょっとだけで少し見たら
これはすごいなって
一応僕は
トレイラーは
UTMFを始める前は
全く知らなかったけど
一応それを始めてから
他のレースとかちょっと見たりとか
トレイルってどういうところに
あるのかとかを見たりとか
してたんですけど
その時にこんな海の近くに
こんなトレイルがあるっていうのは
今そこは
三つの丘 潮風トレイルと呼ばれる
ルートになってますけど
そんなところがあるっていうのは
すごいなと思って
ここでレースやるとすごいいいんじゃないの
って思っちゃったんですよ
近藤淳也
あの時に
中尾益巳
思っちゃったんですよ
その時だからUTMFができなかったから
今日の映像制作
中尾益巳
できなかった
UTMFできなかったけど
近藤淳也
いつか
中尾益巳
思っちゃったんですよね
できたらいいなってぐらい
思っちゃって
それが
ただ
被災地は
全然
手つかずの状態でしたから
それはもう手が無理だけど
10年ぐらい経ったら
ここが復興したら
そういうことできるんじゃないかな
それでまだUTMF
1回目も始まってないわけですから
とりあえず1回東京戻って
でUTMFと
NHKの仕事に戻って
やって
その後も
少しずつ
宮城とか岩手に通って
復興の状況を見ながら
ここを通った
ここから
この街を
繋いだらいいかなとか
そんなことをおぼろげに考え始めて
ただそれはやっぱり
UTMFで
一周の静岡と山梨を
繋ぐっていう経験が
あったから
そういうことが
考えられる
やっぱりそこが繋がってるんですよ
近藤淳也
三陸の取り組みもこれから
安心ですけれど
藤井のほうは
中間さんもそろそろ
次の世代に
中尾益巳
いやそれはもうね
近藤さんと岡田さん
という素晴らしいキャラクターが
ここで登場しちゃう
いやいや
近藤淳也
うかがってて
YouTubeライブ
関わらせていただいて
もともと大会があって
普通じゃあちょっと
動画配信もやってみようかという大会が多いと思うんですよ
だけど今の話を伺ったら
そもそも映像がかなり
ありきのそもそも立ち上げ
大会自体の立ち上げであり
かつその流れを
組んだYouTubeライブなんだな
と思いまして
かなりその映像で大会を
表現して伝えていく
っていうことが最初から
この
UTMFなり
折り込まれた大会なんだなっていうのが
中尾益巳
それはそうですね
近藤淳也
新鮮というか
普通はその映像を作ることが
前提となった大会作りってあんまり
行われないと思いますので
その流れを組んだ今の
ライブなんだなっていうのをちょっと思って
すごいなんていうんですか
生徒ライブといいますか
まさにね
大会の一部だなっていう
中尾益巳
ふうに感じたんです
なんかすごい
僕はもともと
テレビやって自分で言いますけど
テレビのドキュメンタリーを
作るっていうのが本業だったんですよね
ただ
ドキュメンタリーってやっぱ被写体があるわけですよ
何に関しては
それはだから
すごい固い
戦争の番組とか
初任地長崎やってるんで
原爆の番組とか
漏洩車の番組とか
いろいろ作ったりしてたんですね
ただそこでスポーツドキュメンタリー
っていうのも一つすごい好きなジャンルとして
あって
例えばなんか
分かりやすいところでオリンピックとか
高校野球とか
それこそ箱根駅でとか
既存の大会があって
それをどう撮るかどう見せるか
誰を取り上げるかどういうシーンを
狙うかみたいなことを
考えて番組化していくっていうのが
ドキュメンタリーなんですけど
それはだから
近藤淳也
モンブランでやったんですよ
中尾益巳
モンブランでやったほうが激走モンブランなんですけど
それをないものを
作って
被写体を作るっていう
近藤淳也
感覚でいただく
中尾益巳
そうすると逆に言うと
こういうシーンがあるといい
こういう風景があると
絵になる
こういう人が出てくると面白いみたいな
のを
ドラマを
作るわけじゃないんですけど
舞台そのドキュメンタリーの舞台を
作ると
絶対そこで番組っていうか
いい映像と面白いドラマが
生まれるはずだっていうのは
思ってました
そういう舞台を作りたい
近藤淳也
番組作るっていう観点からは
そういう風に見えるんでしょうけど
逆に大会に
参加している選手とかからすると
そういう風には
中尾益巳
見えないわけですよね
逆になんだ俺たちは映像のネタか
みたいな
近藤淳也
出演者
みたいな気持ちは別に出てないと思うので
なんかすごい新鮮と言いますか
だと思いましたし
UTMFが
日本を代表する100枚レースになったっていうのは
やっぱりそういう
伝えるっていうことがありきで
設計されていたからこそっていうのも
大きかったのかなってちょっと
中尾益巳
思いましたね
富士山っていう象徴と
富士山を一周回るっていう
株主さんのコンセプトがあればこそ
それがあったから
僕はそういう風に思いついた
わけで
あとはもう一つは
そこでことができる
機材と
スタッフっていうのは
たまたまその時代に
いろんな要素が
同時に組み合わされた
っていうのはすごくタイミングとして
あったと思うんですよね
今じゃあみんな言ってる
ランカメっていうランニングカメラマンっていうのと
当時
ドローンもGoProもなかったですかね
ソニーの普通のビデオカメラを
持ってランニングしながら
追っかけて走るって
それをいかに揺れないように走るかとか
いかに長時間撮り続けるかとか
いうようなことを
こういうのを考えて
自転車で撮るときに
どうやってカメラを取り付けるかとか
そういうことをいろいろ考えて
やってるうちに
だんだん機材が進歩してきて
GoProだ
ジンバルだドローンだっていう
それでそのうちスマホだ
っていうのが出てきて
誰でも撮れて誰でもライブができるようになった
っていうのがだけですけど
多分2009年10年っていう時代
だから
そのきっかけが作れたんですけど
あと10年早かったら
それも全然できなかった
近藤淳也
技術が追いついてたから
っていうのが
とにかく
映像制作と密接に
関わった大会だったんだっていうこと
今更ながら
関わらせていただいてるのに
しっかりとやっと分かって
すごく面白かったです
MT.FUJI100大会の未来
近藤淳也
今ね
三陸の活動にも力を入れられているってことですけど
今後の
Mt.FUJI100大会とか
あと映像の
配信について
ご意見というか
期待感とか
中尾益巳
もしあれば教えていただけますか
今だから
NHKが
だんだん番組も若くなくなってきた
っていうのも一つの時代の流れ
なんですけど
みんながスマホで撮れて
どんどんどんどんSNSでできて
ライブもできて
だって
昨日
今走ってる人たち
ほとんどみんな
GoProかスマホで撮ってるじゃないですか
自撮りしてるじゃないですか
だからそんなことは10年前
ありえなかったわけで
そういうことができるようになったら
はっきり言ってテレビが
一生懸命番組作って
出す必要っていうのは
そんなにないのかもしれないです
でも
ライブっていうのは
逆に言うと
今度はそれを後からドキュメンタリーという形で
見せていたんですけど
同時に体験するこのライブの方が
僕は
必要性というか
ニーズが高くなってるんだろうな
もう
UTMFっていうのがあるっていうのは
ちょっと興味のある人は
知ってるわけですよ
じゃあ出たい
見たい
やっぱりここを
ある程度
一昨日とやってた
24時間ぐらいのスパンで
こういうふうにスタートして
速い人はこういうのがあって
遅い人はまたこんなとこ走ったみたいな
のを
同じ時間軸で体験する
っていうことが
またやりたいっていうモチベーションに
なんか出たい
自分は出るのは難しいけど
ボランティアでもいいし応援でもいいから
関わろうかっていうふうに
だからそういう体験することへの
きっかけに
映像というかこのメディア
っていうものが関わってきてる
僕らは
本当にドキュメンタリー番組っていう
一つの45分とか60分っていう
リアルタイム体験の強調
中尾益巳
パッケージで作ってみせたけど
それを
DVDとかいうメディアに
やってた時期もありましたけど
そうじゃなくてリアルタイムで
同時に体験できるっていうのが
今の人たちには
こういう興味を
持ってる人たちには
有効なんだろうなっていうふうに
近藤淳也
思いますけどね
中尾益巳
じゃあもうライブに来たいっていう
そうです
近藤淳也
ちょっと待って
中尾益巳
戻ってきた感じが
ここからは近藤さんの時代ですか
近藤淳也
そんなこと託されても困りますけど
中尾益巳
だから
メディアでいうと
決して
お世話になってから言うわけですけど
やっぱりIBUKIっていうのは
すごいメディアだと思います
位置情報っていうのを
ちゃんと視覚化して
同時に体験できるじゃないですか
あれ
僕も
三陸で使わせてもらってるけど
レースの運営には非常に
必要なもので
本当に有効なものですよね
三陸って
人数が少ないから全員に持たせてるんですよね
スタッフも少ないんで
今どこに誰がいるとか
完全に
こいつはミスコースしてるとか
この人は1時間ここから動かないとか
そういうのが人数少ないから
全部リアルタイムで分かるんですよね
ですから
レースの運営には非常に
必要な
あれなしではできないと思うんですけど
昨日みたいに
人に見せるためのメディアとして
すごい面白いものじゃないですか
それをちゃんと
近藤さんがグラウザを崩して
こうやって
今こことここ距離は何メートルで
推定だとあと何分で
みたいなことまでできちゃう
っていうのが
だから僕らは
ランカメとか
GoProとか
そういう機材を使って
映像化していきましたけど
映像がないところも映像化してる
っていうのが
近藤淳也
このIBUKIってすごいメディアだなと
思います
ありがとうございます
だから多分こうなったのかなって
そうですね
例えば純粋な安全管理システム
だったら
大会事務局だけ見ればいい
っていう設計にしたりとか
個人情報なんで
むしろどうやって
プライバシーを確保するかみたいな感じで
セキュリティを固めたりとか
そういう方向の運営システムっていうのも
あると思うんですけど
いやそんなの絶対見えた方がいいやんみたいな
感覚はもともとあって
多分たとえばお子様の見守りとか
そういうのだったら絶対
優先だと思うんですけど
大会中の様子なんて
とにかくたくさんの人が見た方が絶対元気がもらえるし
他の人にも絶対
面白いと思うからっていう
最初からリンクさえ知っていれば
全員が見れて当たり前っていう
感じがあったんですし
そこは多分いわゆるシステム会社さんが
GPS計測システム
みたいなの作ったらそうは
ならないんだろうなって思うので
そういう意味ではやっぱりレースの中の
選手の人の様子を
たくさん伝えたいという気持ちはあって
それが多分
IBUKIステーションにもつながっているし
結局なぜかこの公式ライブに
お互いになっていることにもつながっているのかな
中尾益巳
っていうのはちょっと思いましたね
そうですね
僕ら三陸レースは完全に
運営のために全員に
持たせているわけですよね
でもこのマントフジ100では
やっぱりトップランナーの
ライブのためにトップランナーの動きを
伝えたいというので
持たせているじゃないですか
でもそれ以外にものすごいたくさんの人が
自分で買って持っている人も
一緒にあるレンタルで
持っている人もいっぱいいて
結局何人ですか
近藤淳也
今回530人くらい
中尾益巳
だからおよそ
4人に1人ぐらいは
持っているわけじゃないですか
それがやっぱり
走る人たちが自分を見せたい
自分を知らせたい
今俺はここにいるんだよ
っていうことを見せたいから
持っているわけですよね
だからそれは自分発信の
すごいメディアツール
ですよね
それが集まった時に確かに
普段から
あれを持たされていたら
近藤淳也
嫌ですけど
中尾益巳
日常生活でそんなに監視されたくない
それは
絶対
持たされたら逃げちゃうでしょうけど
やっぱり
だからここは
戦いの場でもあるけど
自己表現の場でもあるから
自分がせっかく
これだけの苦労と時間と
お金も使って
楽しみたいし
だからそれをみんなに見せたい
だからSNSで発信するだけじゃなくて
息吹を持つということが
本当に自分から
発信しているわけだから
すごいメディアだな
というのを
僕は
昨日おとといのライブで
改め気づきましたよね
選手の自己表現
中尾益巳
僕も
三陸で使っているのが
運営側の監視システム
でしかなかったので
近藤淳也
融合すべきとして
お話を聞いていて
中尾益巳
ということで
ちゃんと息吹ステーションにまとまりましたね
そうですね
近藤淳也
Mt.FUJI100の
映像配信の
歴史を尊重しながら
これからも
しっかり関わって
たくさんの選手の頑張りと
たくさんの人に届けていく
というのは
ぜひやっていけたらと思いますので
中尾益巳
今後ともよろしくお願いします
長い時間どうもありがとうございました
今度こそ
なりますので
近藤淳也
ならないといけないので
どうもありがとうございました
中尾益巳
すみません
知事の長話に付き合っていただきました
ありがとうございました
58:27

コメント

スクロール