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2023-06-27 34:57

研究者とアーティストのまぐわり:"葬いとカメラ" #2

長野県の葬儀

家族葬の文化

葬儀の現場をカメラで撮る難しさ

条件付きでの撮影

暴力についての議論

影響力

カメラの物質的な性質についての言及

アーティストが権力性や暴力に敏感であるという話題

二藤さん作品を考える:ポンペイの遺跡に石膏を流し込んだ作品

二藤さん作品を考える:空間と実在

物質世界における生死、及び不在感

空港や駅における不在感

空港の非場所性

足跡が意味するもの

00:11
この本の中に、あの、どこだっけ?どっかが、長野県の下稲地方。
はいはいはい。山田さん?
そう、山田さん。
これやっとね。
あ、違うな。
下稲のね、やつが出てくるんですよ。
山田さん、山田さん。地域社会の編用と葬祭業っていう。
うんうん。
長野県飯田下稲地方ってやつが出てくるんですけども。
ちょっと長野県の言い出しって、私が言った長野県の北部とはちょっとだいぶ文化圏も違うので、あれなんですけども。
でもこの、なんて言ったらいいんだろう。
その、自宅で葬式して諸々やってみたいなカルチャーがすごい。
なんかね、こんな感じだったなっていう。自分の父ちゃんの葬式とかを考えると。
そうそう。
自宅で葬式してたんですね。
自宅でどこまでやったか忘れちゃったけど、なんかね、父方のじいちゃんの時は2回やったのかな。
なんか家で、じいちゃん家で、すごい色々やって、出館っぽいこともやったし、葬儀ホールみたいなところでなんかやった記憶もある。
じゃあハイブリッド型だ。
ハイブリッド型、ハイブリッド型。だからどっちもやって、家族のみんなの出館みたいなやつは実家でやり、
なんかいろんな人が大量にお祝うしに来るみたいなやつを、ここでいうホールみたいな。
祭儀場?
そうそう、相模天霊みたいなやつが長野にもあるんですけど。
ちょっと話がずれちゃうかもしれないけど、骨も2つに分けて、1個は墓に入れて、1個は西本願寺に送る、みたいな謎イベントもやった。
へー。
ほんとハイブリッド。
なんかね、ハイブリッド好き?
ハイブリッド好きなのかな、田中家が。
買うときだったじゃない、完全自宅の時代もあったじゃない、長野にも。
全て自宅、全て自宅&寺っていうのから、祭儀場の方が楽っていうか、もうできないよね、自宅じゃっていう時代になって。
今の方が多分、自宅でやってる人少ないと思うんだけど、その時期にいたのでは。
ここにあるように地域の人に許可取りに行くみたいなやつあるじゃないですか。
確かに爺ちゃんの葬式館、父方の葬儀も母方の葬儀も、台所に知らない人超いるんですよ。
03:07
あれは地域の人だったんですね、たぶん。近隣のご近所さんが、別に田中さんじゃないんですよ。
近藤さん、鈴木さん、佐藤さん、いろいろいたと思いますけど、みんなで準備するみたいなカルチャー確かにありましたね。
あれ何だったんだろう、みきさんの知らない田舎の葬式の世界。
私まだ、母方の夫婦も健在で、父方の祖母は物心ついた時には亡くなってて、
だから父方の祖父、おじいちゃん、父方のおじいちゃんの方だけ、週3くらいの時にお葬式に出たっていう、その1回しかなくて、まともなお葬式っていうのは。
あんまり覚えてないし、普通にあの、葬儀場みたいなとこでやったっていう。
そうだろうな。
もちろんそれ以外に、お葬式に参列することはあるけど、それは客人としてだから葬儀場でみんなやってて、
自宅でやってるかどうかとか知らないし、どういう準備をしてるかとかは知らないという感じ。
ちょっと黒目の服着て、ジューズ持って、列並んで照光して帰るっていうだけ?
そうそう、列並んで照光して帰るっていうだけ。
でもそうだよ、そうなっちゃうよな。
そう、だからすごいその葬式経験値がありがたいことかもしれないけど、めちゃくちゃないなと思いながらね。
そうさな。
だからその許可取るとかはすごい不思議でした。
ね。
だから何だろう、研究者でもアーティストでもすごく難しいなと思うのは、研究を真剣にやろうと思ったら一定幅広い対象、少なくとも標準的なものを研究対象にした方が一般性がありそうじゃないですか。
なんですけど、こういうアーティストなり研究者の人を受け入れてくれる家族、あるいは葬儀っていうだけで、結構なかなかのところに分布してる可能性もあるなというふうには思って。
母方の葬儀も父方の葬儀もどっちもダメな気がするんですよね、なんか。
ダメ?
母方の方はもうど田舎の家の玄関に黒電話がまだ置いてあるような家なんですよ。
うんうんうんうん。
06:00
あ、許可が出せないってことね。
そうそうそう、なんて言うんだろう。
そういう外部の人を受け入れるのは馬鹿にならんみたいな感じになっちゃうし、父方は父方で、そういう感じとはちょっと違うんだけど、
なんか、なんて言うんだろう、葬儀に来てるのをバレたくない人まで来ちゃうみたいな、人間関係もろもろみたいな。
なんかそういうの考えると、ここで描かれる、なんて言ったらいいのかな、いい葬儀というか、あえて強い言葉を使うと面白い葬儀を取るための工夫っていうのは大変ですね、すごくね。
許可取りが。
そうですね、許可取りの話も面白かったというか、葬式の会社とまずは仲良くなって、そこでまず信頼関係を作って、
会社の中を取り続ける数ヶ月があって、そこでまず会社の人たちと仲良くなる時間があって、みたいなことを書いてありましたね。
本当はたぶん会社の中で1年くらい待った期間がある中で、葬式とか会社の人の中で起きるかもしれないから、それを撮影しようという心づもりでいたら、
結構起きなくて、葬式をするってなった人に個別に交渉しなきゃいけないってなったみたいなところで。
それでやっぱり難しいなって思ったのが、事前の交渉とかできないじゃないですか。
当たり前ですけど、葬式で起きた時は撮らせてくださいなんて言い出せないじゃないですか。
だから、葬式が起きた後に個別にいいですかって、もう葬式しなきゃいけないっていう人に言いに行くっていうのはすごい難しいことだなって思いました。
そうだよな、結構そうなんだよな。
糖病が長い人とかだと家族とかもね、結構覚悟を決めて、もうなんなら死んだらすぐ連絡しますからみたいな段取りやってる人も実際には結構たくさんいるから、
そういう人たちとね、うまく話せればいいんだけど、なかなか触りづらいテーマですよね。
ホームラインね。
確かに撮影を個別にお願いする場合にも、事前に準備をして覚悟ができてるようなところをまずはお願いしたし、
それでも言葉が出ることももちろんあるし。
それで印象的だったこととして撮ることは構わないけど、
あくまで撮影者からの依頼であって、こっちが頼んでないってことをちゃんと周知してくださいっていう条件がつくとか。
近所の人に言ってないみたいなやつね。
近所の人にちゃんと言ってねって勝手に、自分がやりたくてお願いしてやってるってことを言ってねっていうことを言われるとかがすごい面白かったです。
09:06
この山田さんが撮影中の立ち位置をすごい考えたっていう話とか、
考えたつもりだったけどそれでもやっぱりこう思われちゃったみたいな話とかっていうのがすごい面白くて、
私だったらもうヤバいヤバいことになるだろうなって考えながら読んだ。
ねー。
山田さんのこの作品の一番最後のところに、撮ることは暴力なのかっていう承諾があって、
後半にも暴力話みたいなのが結構ポコポコ出ていた記憶があるんですけど、
すごい乱暴に言うと、このジャンルの人みんな暴力好きですよね。
暴力を好んで実行したいというわけではなくて、暴力っていうテーマを取り上げるのが好きなんだなと思って。
こういうことをするのは暴力じゃないかとか、こういう社会的活動は暴力的であるとか、
なんかみんな暴力っていうコンセプト好きなんだなっていう感想を雑に持ったですね。
なんか暴力が好きなんじゃなくて、気づいたら暴力になってたことがすごい嫌いな人が多いのかなと思います。
この途中に無邪気な暴力性っていうキーワードですげえ皆さん盛り上がっている感じは、
まさにみきさんが言うような感じですよね。気づいたら暴力になってたっていう。
でも確かに暴力好きって思ったところがあって、演劇とかでもテーマにされがちなんですよね。
その夫婦間の気づいたら暴力みたいになっている発端した夫婦の話とか、
別にただ会社の先輩後輩のつもりだったけど気づいたら暴力みたいになってる。
てか、あらゆる物語が気づいたら暴力みたいなものを包含している。
そういうことが起きないと展開しないみたいなこととかはあると思うし、
確かに暴力好きみたいなのはあるかもなとは思う。
なんか読んでて、後々ぞ。
どのことは暴力なのかって、暴力で決まってんじゃんって思いますけどね。
だってカメラ向けてる時点で、暴力じゃない?みたいな。
カメラ向けてるのに普通にしててください。
てかカメラ向けてるけど気にしませんってもう無理じゃない?
なるほどね。
っていう話も後半戦だよな。
結局暴力じゃないわけないんですけど、
でもなるべく暴力にしないように工夫はできるみたいな気着の仕方もしてた気がしましたけど。
カメラ向けるって結構暴力だよなと思いますけど。
ミキさんが言うように、カメラ向けたことによって影響が及ぼされるっていうのはそうな気がするんですよ。
12:10
その撮られた側もそうだし、
向けている場に何か影響がさっきの矢中霊園の中に撮影された作業員の人が何?って言ってきたみたいなのと同じように。
影響を及ぼすことはあると思うんですけど、
それを暴力っていうふうな表現形をするのは結構独特だなと思っていて。
一般的というかすごくよく見るんですよね。
現代アーティストとかを見てても、こういうところに潜む暴力性をテーマにしていてみたいなことを語られる解説ってよくあるじゃないですか。
いやなんか単純に影響を与えただけに見えるんだけど、
なぜあえて暴力という言葉を使う必要があるんだろうかみたいな。
影響は絶対あるんじゃないって言われたらそうだと思います。
それって絶対暴力ですよねって言われると、
俺が知ってる暴力っていう言葉とはちょっとニュアンスのトーンが違いましてって言いたくなっちゃうっていう。
じゃあもう新しい言葉が必要かもしれないけど、
でも影響を与えただけはソフトにしすぎじゃないっていう感覚もわからなくもない気もしますけどね。
なるほどね。
そっか。まぁそうだよな。そりゃそうだよな。
少し居心地を悪くしてる影響だと思うんですよね。
なるほどね。なるほどね。そっか。そりゃそっか。
カメラに関してはインターフェースが変わればいいのかもしれないですけど、
今はちょっとブッツすぎますよね、カメラっていうものが。
なんかあれだよね、相手に砲弾を撃ち出すみたいな形に見えるっていうのもあるもんね。
だから本当に人型アンドロイドみたいな目のとこで撮影してますくらいな、
人間みたいになったら反射は変わるのかもしれないですけど、
今のところちょっと気合があるかなって思います。
なるほどな、確かにな。
これとこの本を読んでいたのとちょっと被って、
いつもの言葉を哲学するっていう本も読んでて、
すげえいい本だったんですよ。
どういう本ですか?
書いてるのは古田哲也さんっていう哲学者の人なんですけど、
結構いろんなエッセイみたいなものをギュッとまとめてる本なんですよね。
例えば、すごく古いところから持ってくると、
可愛いっていう言葉ってなんだっけとか、
そもそもそれってどういう言葉なんだっけみたいなそもそも系もあれば、
15:03
コロナ禍の中で提唱された新しい生活様式っていう言葉がいかにおかしいかとか、
おかしいんだ。
自粛を解禁するってそもそもなんじゃそらっていうこととか、
まん延防止っていうときのまん延のまんって大体ひらがなで書かれるじゃないですか、
それってなんでそういうふうになっちゃうんだっけとか、
常用漢字表ってどう捉えるべきだっけとか、
あと私がすごくすごく好きだったのは、
かけると走る。かけるってのはかけ出すとかのかける。
かけると走るっていう言葉はどっちかだけでいいんだっけっていう。
例えば、同じようなシーンを想定しないかと。
じゃあ優しい日本語、海外の人にとって学びやすい日本語にしましょうっていう動きが仮にあったとして、
お馴染みなお馴染みですとか、
あるいは言葉をシンプルにして、
はけるだっけな。
一個の言葉になったときにどういうことが起きるんだっけみたいなことを丁寧にいろいろ書いていく。
エッセイ集みたいなものですけど、めちゃくちゃいい本で、
それを読んでいたからかもしれないんですけど、
一個一個の言葉に引っかかるっていうのが、
トムライとカメラを読んでいるときに結構起きていて。
それに引っかかったことの一つが暴力ってことですよね。
そうそう。みんな何を言ってんだろうみたいな。
三木さんが言うように、影響するよりも、
ちょっと、なんて言ったらいいんだろう。
ちょっとかどうか置いといて、相当程度の影響を与えるってことだと思うんですよ。
しかもそれが居心地の悪いベクトルで。
そうそう。
で、私なんかが想起する暴力って、やっぱりグーでぶん殴るみたいなことが想起されるわけですけど、
カメラで撮るっていうことを、
なんかその、気がついたら暴力を与えていたって、
どういうことじゃね?みたいなことをすごく思ってて。
だからね、めっちゃ一個一個気になるっていう。
なるほどね。
だから、望めたわけじゃなくて、
物理的な暴力みたいな、グーでぶん殴るとしたらね。
を知っているっていうか、私殴られたこととか見たこととかないからなーみたいな、漫画でしか。
そういう平和ボケみたいなのがあるのかもしれない。
平和ボケ。暴力平和ボケがあるんですね。
だって、人がグーパンしてるとことか見たことないですもん。人生で。
そう。
一回ミヒさんを高校野球部に入れるべきかもしれないですね。
18:02
グーパンするんですか?野球するんじゃないの?
グーパン、あんまり大きな声では言えないですけど、
いろんなリアルな暴力がそこにはあります。
そうなんだー。
金属の棒とかあるわけですよ。日常生活に。
そりゃもう、そうなんだよな。
本の中でも結構、アーティストの人が特にですけど、
権力性とか、暴力とか、画一性とか、そういうのを結構たくさん使われていて。
そういうのにいちいち引っかかっちゃう面倒くさいマンとして活動してましたね。
アーティスト自体がそういう、周りの人がどう思ってるかわかんないけど、
私としてはこれはどうしても気になっちゃうんですっていうことを放置できない人種?
っていうのはあるから、そういう気づいたら暴力みたいなこととかにすごい敏感。
そういうのはあるかなーと今、話を聞いてて思いました。
確かに。
このアーティストの、この…
山頂の谷底に触れるっていう…
はいはい、手のひら出てるやつね。
ちょっとあれ、エグインパクトを受けまして。
あれ、あれすごかったな。
うん。
びっくりしたわ。
私それよりも、これは人工的に作ったものじゃない。
作品じゃない、これは人の。
根底の遺跡に石膏を流し込んだらみたいなやつの方がエグインパクトでしたけどね。
これ?
この次のページにあるやつね。
次のページにあるやつ。
そうか、確かにね。
なんでだろう、世界史の資料集とかで見ちゃってるからかな。
ああ、そうなんですね。
これ有名なんだ、これは。
この作品自体は違うかもしれないけど、
ポンペイの様子みたいなやつを、石膏じゃないかもしれないけど、
この空欄になったとこに落とし込んだの。
中を入れて形作るみたいなやつを何回でも見たことがあって。
ああ、そうやって調査しました、みたいな。
なるほどなるほど。
逆に言うとあれだね、歴史の産物っぽく定型化されちゃうと
インパクトが逆に本来よりも薄まっちゃってるってことかもしれないけど。
この手出てるの。
この手は写真ね。
これなんか、ポッドキャプターの音声で伝えるのすごく難しいですけど、
なんて言ったらいいんでしょう。
富士山登山で登っていくような、ちょっと瓦礫っぽい道があるとして、
石がちょっとバラバラバラってあるんですけど、
その中の一個にパーに開いた手がポンってあるみたいなやつ。
21:08
なんだろう、手のひらなんですけど、その奥に人間があることをすごく想起させられる。
うん、すごく想起させる。
この1ヶ月で見た写真の中で一番怖いもんな、これ。
いったま回ってるみたいな感じしますもんね。
そうね。
これがさっき三木さんが言ってた、二刀ケントさん、
さっきの全身を雑巾に見立て街を歩いていくパフォーマンスなどって紹介されてる方の作品の一つですと。
すごかったな。
これ実際に埋まったんですね。
そうそう、実際に埋まってて、作品を撮るためにちょっと離れなきゃいけないから、
みたいなことが書いてあったり。
この人の作品解説の部分がすげえよかったですね。
どこが特によかったですか?
なんだろう、私がすげえいいなと思ったのは、
105ページぐらいに書かれてる、
人間はいないっていうことを実感しましたって書いてあるところが私、すげえよくて。
もともとは人間の生きて生活してると空間っていうのが周りにあって、
真ん中に人間っていうのがあって、人間が実体で周りが空間であるっていう感じがするけど、
体をこういう土の中に埋めてみると、
地面っていうのは明確にあると。
なんだけど、人間っていうものは色んなところに動いてるだけの存在で、
地面っていうものが実際にあるもので、人間っていうのはいないんだって話をしていて。
ここを読んで、私は一回考え事をしようと思って本をしまって、ブルーボトルを読んでましたね。
なるほど、確かに。
しかし改めて思ったのは人間はいないんだということです。
地面というものは常にかっこたるものとしてある。
24:02
もちろんのけれどもその範囲が固定されている。
それに対して人間はというと常にそこに留まっているわけじゃなくて、
ひたすら風のように動き回るわけです。
なので人間というのはむしろ空間に独する性質のものなんじゃないか。
実体としてかっこたるものとして存在しているというより、
むしろ空間的に振る舞っていて、その体は不大勢の強いものだということを感じました。
うん。
三木さんが読んでくれたところが、私の中ではこの本の、なんて言うんでしょうね。
グレート一節、グレート文章。
へー。
すげー考えようのある内容でしたね。
私も似たようなところでハイライトしているけど、
ちょっとだけ違って、二人とも不在に対して多分感度が高い方なんですけど、
私がいいなって思ったのは、生きている、死んでいるということは僕らにとっては大きい問題だけれども、
物質世界においては非常に些細な、あくまで不在の度合いの問題としてあるんじゃないかっていうところが。
うーん。
でもちょっと私の受け取り方は違って、三木さんは人間なんて空間の一部でじゃんって感じだけど、
私は死んでいる人間も生きている人間も大きく見たら同じじゃん、みたいなことを言っているところにグッときた。
うーん。
不在感のグラデーションが違うだけでしょ、生きているのも死んでいるのもって言っている部分。
あー。なるほどね。
うん。
だけど今の三木さんの話を聞いて思ったのが、だからむしろ死んでいる人間の方があるってことだよね。
空間的に見たら、格好として動かないし、減らす必要がないし。
えっとね、何て言ったらいいんだろう。
いや、でもね、三木さんが言っていることに多分トーンとしては近くて。
なんか、そもそもの人間という存在自体が、ここで言う地面というものとの相対で捉えると、
もう地面の方じゃなくて、空気の方だとすると、三木さんと言っていることは基本的に同じで、
生きていようと死んでいようと、大きい観点で言ったら大したことないじゃないですか。
だから、そんなもんなんだって言っちゃうとちょっとあれなんですけど、何を言ってるかっていうと、
2年か3年くらい前に、医療関係者の人と一緒にディスカッションするプログラムに参加したときに、
死生感っていうテーマのものがあって、
27:04
医療関係者の人って、仕事柄もそうなんですけど、死ぬっていうことに対してすごく強い思いを持ってらっしゃるんですよ。
悪いことだし、防ぐべきものだし、
だから家族の中でも死生感っていうのを話してもらうためにはどうしたらいいかみたいな論点設定をするわけですよ。
個人的にはすごくそれが不思議で、
だって死ぬじゃんみたいな。
もちろん、だって死ぬじゃんはちょっと乱暴すぎるんですけど、
そんなに力入れて避けるべきもんかねみたいな気もするんですよ。
どっかで必ず来るわけですから。
そのモヤモヤっていうトーンと、
ミキさんが読んでくれたところも含めて、
ふっとハマった感じがする。
そんなもんだよなみたいな。
もちろんトーニーに対しては、トーニーにとってはすごく大きな分岐なんですけど、生きてるか死んでるかっていうのは。
大きく考えたらそろそろそうだよなみたいな。
感じがこの文章の中で、なるほどなーってなったですね。
そうですね。
ちょっと話が変わっちゃうかもしれないですけど、
私、駅とか空港とかすげー好きなんですよ。
ほうほうほう。
何かというと、みんな来て、みんなどっかに行く場所じゃないですか。
だから、なんかみんないるんだけど、みんないない感じがする場所だと思うんですよね。
すごいたくさん人間がいて、もう誰もそこにはいないような空間だなっていうのが好きで。
だから私、仕事するときも空港のラウンジで仕事するのすっげー好きなんですよ。
うーん。
オフィスでみんなが何かにしがみついて仕事をしてるんじゃなくて、
みんながただどこかから来て、どこかに旅立っていくだけの場所にいて何かをしているっていうのって、
すごい虚無マックスみたいな空間ですげーいいんですよね。
っていうのを、この生きると死ぬの狭間じゃないですけど、虚実のところにも感じたですね。
その不在感。不在感強めの存在ですね。空港にいる人間って、全員が。
そうなの、そうなの。
これまた話がずれちゃいますけど、最近読んだ記事ですげーよかったのが、
30:01
なぜ人は朝5時にでも空港だと酒を飲んでしまうのかっていう。
確かに飲んでしまうわ。
確かにと思って、朝からラウンジでビール飲んでる人とかいるわみたいな。
ワインとか飲んじゃう。
そうそう。で、結構海外の空港とか行くと、午前9時くらいから開いてるバーみたいなのあるじゃないですか。
うん、あるある。
めっちゃ人いるじゃん。
そうそう。あれ、なんでなんだろう?
空港っていうところに行くと、日常を背負っている役割とかから外されて、旅行者っていうものだけを純粋に役割として背負うことができるようになると。
空港っていう場所は、フランスの人類学者マーク・オジェっていう人が言った、
非場所っていうものであって、空間の中に空港っていう場所があるんじゃなくて、
その人にとっては空港っていうのは出来事なんだって言ってる記事があって、超よかったです。
うんうんうんうん。
いいですね。
でも、今思ったのが、その考え方を日常生活にもし取り入れることができたら、毎日旅行してるみたいな気軽さで生きられるっていうこと?
そう、そうだと思う。
なるほどね。
出来事、出来事ですから。
出来事と思えばいいんだ。
出来事ですからね。
出来事ですからね。
出来事ですからね。
なんか、空港って場所性が大事かと思ってたけど、出来事って捉えたら、もしかしたら日常にも取り入れられるかもって思っちゃいました。
かもしれない。非場所なのかもしれない。
うんうんうん。
すげーよかったっすね。このテキスト。
まあ、ごめんなさい。なんかだいぶ話が逸れちゃいましたけど、
不在って言うと悪いこと、悪いことというかネガティブ要素が全然強くなっちゃう気がするんですけど、
でもそうなんですよね。そんなにあるとないっていう状態、そもそもが混在している場所というか、
そういう感じがすごくした。
うんうんうん。
で、このを表現したのが二藤さんだけど、
本全体を通してはめちゃくちゃ、むしろ弔いの場所こそめちゃくちゃ存在してるっていうか、
グラデーションが存在の方に映ってるような感じですね。
うんうんうん。
二藤さんは人間なんて生きてても死んでても同じじゃないみたいなことを言って、
まあそれは確かにそうだなと思うものの、お掃除機?
お掃除機?
お掃除機?
お掃除機?
お掃除機?
お掃除機?
お掃除機?
お掃除機?
お掃除機?
お掃除機?
お掃除機?
33:00
お掃除機?
お掃除機?
このシーンとかを読んでる時にはすごい存在を感じましたけどね。
あー、そうだねー。
そうだねー。確かにね。
二藤さんの作品の、あるいは作品の記述の中にも出てきましたけど、
足跡っていうものが仮にあったときに、それが意味していることは2つあって、
過去ここにいたっていうことと、
今はもういないっていう2つのことを同時に表すことができると。
足跡ってものの1個で。
お葬式もあるし、そうですよね。
過去にいた人であるってことと、
今はもういないっていうことを、
みんなで認識する場っていうことですよね。
足跡確認会ってことか。
足跡確認会だわ。ここにいたねっていう。
みんなでね。
そうだよな。
2つのことを同時に確認する式なんだな。
そうですね。
そっかそっか。
今、存在をめっちゃ感じたって言ったけど、
認知としてはそうかもしれないけど、存在をめっちゃ感じてるってことは、
不在をめっちゃ感じてるってことでもあるっていうことか。
同時に見るから、濃く感じるってことなんでしょうね。
そうだそうだ。
すごい。
足跡ってすごくいいメタファーというか表現なんだなと思ったですね。
34:57

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