引っ越しってただでさえタスクが多くて、私にとってはね、もうめっちゃ嫌というかストレスフルって感じだったんですけど、そこにちょっともう一つもやもやポイントというか、その出来事が重なってたんですよね。
というのも、母、今回すごい引っ越しに手伝ってくれてたんですよ。お母さんね。
で、多分、私、前も一回何年か前に引っ越ししてるんですけど、その前回の引っ越しの時に、ほぼ母からしてみれば私のことをほったらかしにしちゃったと、それを今後悔いしているということを話してくれたことがあって、今回は何かしらやってあげたいとか、そばにいたいとか、そういう気持ちがあったんだと思います。
しかしながらですね、等の私は、もちろん本当にやってくれて助かったなっていうこともたくさんあったんですけれど、いやいやそこまでは結構ですよっていうこともあったんですよね。
なんて言ったらいいのかな、世話を焼かれすぎることに対してちょっとめんどくさく思っちゃってる自分もいたんですよね。
いつまで反抗期をこじらせているんだという感じなんですけれど、私ね、そう厄介なんですよね。
母に限らず、人間関係ね、近すぎても遠すぎても嫌だなって思っちゃうんですよ。
たぶんほったらかされすぎたらもうちょっと関わってくれてもいいじゃんとか、離れていってしまうけれど、私は大切にしたい人に対して寂しく思うとか、そういうのはあるじゃないですか。
でも遠ざかりすぎても嫌なんだけど、近すぎてもやっぱり嫌で。
基本的に自分の生活とか自分の判断に対して他者から干渉されすぎたり、あるいは私が望んでいないのに過剰に何かを受け取らないといけないという状況がちょっとね、ちょっとってか結構苦手なんだなって最近気づきましたね。
で、それなんでなのかなっていうのをいろいろね、最近考えるわけなんですけど、
仮を作ることを避けたいっていうのも言えるし、その仮をどこかで返さないと私はその人に、これめっちゃ極端に言ったらですけど、従属することになるんじゃないか。
支配される側になるんじゃないかっていう恐怖があるとも言えるかなと思います。
今第二次世界大戦中ですかっていう、帝国主義のゲームルールで動いてるんですかっていう、そんな感じのことを今言っている気がするけれど。
でも、そんな支配されるなんてことはもちろんないんですけどね。
でもやっぱ身近な話で言うと、例えば奢られすぎるのは嫌とか、なんかお土産とかお菓子とかもらってばっかりでは耐えられない、何か返さないとって思っちゃう。
そういうのも含まれますかね。
で、それは物だけじゃなくて、例えば愛情とか心配とかからくる私への行動。
そういうのもちょっと過剰だと距離を取りたくなっちゃいますね。
で、それが同僚とか友人とかだと、それが一時的なことなら我慢すればいいっていう時もあるし、それも無理だったら自分が離れていけばいいんだけれど、家族となるとそうもいかないというかまた違ってきますよね。
母は子供である私に対して無償の愛みたいなものをいつもくれるんですよね。
まあ、うちの母だけじゃないと思いますけど。
それはおそらく見返りを求めるようなものではないと思うし、母からすれば子供が大変そうだったら助けてあげるのは当たり前だっていうふうに思っている。
で、その母の私を気にかけるという気持ちはありがたいし、そう思っているという事実は尊重したい。
だけど、私はその関わり方がなんか少しもやもやするというか不快だなって思う時があって、きっとそのもやもやが態度、自分が母に対して取る態度とか行動に出てしまっている時が多分あったんでしょうね。
で、そういうのを母はきっと不快に思う瞬間っていうのもあったでしょうと。
そういうのが積み重なってくるとギクシャクしてきますよね。
この交わらない感じ。
で、段ボールを片付けて風を浴びていると、そういう肌にまとわりついていた薄いもやもやの雲みたいなものがちょっとさらりと現れているような感じにも思えて、深呼吸できるような気がして。
それは多分引っ越しのあれこれも終盤を迎えていたので、気持ちも落ち着いていってたのかもしれませんね。
で、その洗い流されていくような感覚を感じるとともに、もうちょっと自分が素直になっていきたいなって思ったんですよね。
なんか反抗期みたいにね、27歳にしてつんつんもやもや幼稚なこと言ってる場合じゃないっていうかアホらしいなと。
自分の気持ちには正直にいたいし、ちゃんと向き合いたいし、でもそれってすぐに変えられるものでもない。
だから少しずつ素直にその愛情を受け取れるだけの器の広い人間になっていきたいなーなんていう風になっていきたいというか、なっていこうっていう風にちょっと前向きになれた
そういう瞬間だったかなと思いました。その瞬間を切り取りたいという思いで作った短歌でしたね。
はい、ということで、なんかいつもこんなに自分の内面のちょっとネガティブな部分っていうのは言わない話さないようにしているんですよね。
どっちかっていうと前向きで明るい方がこの番組の私の話したいことなんですけど、今回はちょっと切実さを帯びてしまいました。
これどうしようかなと迷ったんですよ。こういう切実な感じ、ちょっとネガティブ要素ある系でもいいのかなみたいな。
だけど、それをあえてこういう風にしたのも一応理由があって、私、芸術とか創作物とかを鑑賞するときにこれいいなって共感できたり、
こういいなって思えたりするのは大体ね切実さを帯びているものなんですよね。そうそう。
だから、例えばそうだな、別に短歌とかに限らず、現代文とかで誰もが読んだことがあるであろう三月期。
今の文学国語っていう授業の科目の中でもよく取り扱われますけど、三月期もすごい切実な話で虎になっちゃうやつですけど、
あれも結構好きですし、別に文学だけじゃなくて、普通に曲聴いたりするときもこれいいなって思うのはそういう切実なやつ。
そうだな、最近で言うと羊文学とか、バーニングっていう曲ご存知ですかね。アニメ押しの子の曲ですけど、それもねちょっとこれはね紹介しとこうかなと思うんですけど、
愛したいものから壊して失う前に手放してしまえばいいと思っていた。
But I am cryingですよ。
いやーなんか、これはね好きでしたね、このフレーズ。
まあなんだろうな、そういう切実なものに心惹かれるっていうか、自分の根底には常にこうネガティブさを宿していて、
で、なんか心の隅の方で実は号泣している小さな私がいるんですよね。
で、その小さなネガティブ私と響き合って、そういう芸術とか作品とか小作物を見ると響き合って、ちょっと少し心が安らかになるときがあるなと。
それはやっぱりそのモヤモヤに対して言葉が与えられたときの安度っていうふうにも言えると思うんですよね。
で、私も今回単歌といういわば創作をしてみたわけですけれど、それを作るにあたり、その時、当時はなんかモヤっとするなとか、これをどういうふうに処理したらいいかわからないなっていう、このわからなさがストレスになったりするんですよね。
それを言葉で整理して、この混沌としたものを解いていくような作業は、自分を癒すことにもつながるし、単歌っていう形に昇華できるっていうのは自分のためにもいいなと思います。
だから今回このイベントに参加したいなと思ったのも、そういう自分のためでもあったかなと思います。
はい、ということでちょっと長々とすごいプライベートというか、ネガティブなお話を聞いていただいてうつうつとして、本当何を聞かされているのっていう感じかもしれないんですけれど、もし最後まで聞いてくださった方がいらっしゃいましたら大変ありがとうございました。
今回ね、歌会ってことで、他のポッドキャスターさんも単歌とエピソードをあげられていると思いますので、そちらもぜひチェックしてみてください。
歌会というのはですね、表現をする人が単歌を発表するだけではなくて、その単歌についてここがいいですねって言い合ったりするっていうのも特徴の一つなので、
ぜひね、私のこのエピソードや他の方のエピソードにもここが良かったですみたいなことを送っていただけると、非常に歌会らしくなるのではないかなと思います。
ぜひ、星をつけるとかだけでもご参加いただけるとありがたいです。
では今日はこれで終わります。ありがとうございました。