言語の恣意性とは
どうもお疲れ様です、いかです。この番組では、高校の国語化教育をしている私、いかが、仕事のことや仕事以外のことを緩くおしゃべりしていきます。
最近は、そうですね、就業式を終え2学期が終わりました。冬休みに入って、だいぶゆったりと過ごしております。
昨日部活やってたんですけど、今日はもう部活もオフにして1日お休みです。もう年内は仕事を収めました。
皆様はいかがお過ごしでしょうか。
ということで、今日は、なんかそろそろ2学期にあった授業で、この番組で話せていないことをまとめたいなと思ってたので、
ちょっとそれをちょっとずつやっていこうかなと思います。
ということで、突然ですがクイズです。
この生き物は何でしょう?というクイズですね。生き物を当ててください。
問題、この生き物は幼い頃、ケムシやイモムシと呼ばれる姿で過ごし、やがてサナギの時期を経て羽を広げて空を舞うようになります。
その姿は美しく庭先の花に留まることもあります。
さて、この生き物は何でしょう?
はい、シンキングタイム。もういらないんですかね。
はい、正解はチョウと思った方も多いのではないでしょうか。
まあもちろんチョウでも正解です。けれどもガでも正解です。
ガも正解なんですよね。意外に感じる方もいるかもしれません。美しいとかって言ってましたもんね。
ガにそんな印象ってあんまないですよね。
でもね、例えばサツマニシキっていうガは昼間に活動するし、色もねすごく鮮やかで、
もう一見するとこれチョウチョなんじゃない?って思っちゃうほど美しいんですよ。
でね、ガとチョウってそもそも科学的にはリンシモクという同じ分類に属していて明確な違いはありません。
見た目や活動時間とかね、人間が後から便宜的に分けているだけということができます。
まあ、シイて言うなら触覚の形は結構顕著に違うものが多いみたいですがね。
チョウは先が細くなっていくんですけども、ガはマッチ棒みたいな少し太く丸まったような形なんですよね。
まあでもほとんど科学的には同じようなものだと。
で、このチョウとガの区別なんですが、世界の言語の中でもね、必ず同じように分けられているというわけではないんです。
例えば、フランス語ではチョウモ、ガモ、パピオンと呼ばれます。
で、イタリア語ではファルファラ、スペイン語ではマリポサなんですって。
で、どれも区別なく一つの言葉で呼ばれているそうですよ。
で、一方で英語ではバタフライとモス。
バタフライがチョウでモスがガですね。
で、中国語ではチョウがフーティエとガがウーという風にはっきり分けて呼ばれているそうです。
発音は私さっきGoogleの翻訳にお願いして、音声を流したらそれっぽいものが出てきたので、それを今真似て発音していますね。
はい、ということで、日本語では区別する。
他の英語とか中国でも区別するんだけど、フランス語、イタリア語、スペイン語では区別しない。
なんでね、こういう違いが出てくるんでしょうね。
これに深く関わっているのが、エドワード・サピアという言語学者が提唱した言語の恣意性という考え方です。
今日はこの言語の恣意性について扱った授業をしたので、それをちょっと紹介したいなと思います。
はい、言語の恣意性とは何かと、言葉、音や記号ですね、言葉とその意味の間には必然的な関係性がないという考え方です。
例えば犬という動物、これは日本語では犬と呼んでいるんだけれども、英語ではdog、中国語では狗と呼ばれているようにですね、
サピア・ウォーフ仮説
同じ対象でも言葉は文化や歴史の中で恣意的に割り当てられています。
まあ違う言い方をすれば、四つの足で歩いている、愛らしい、ちょっと賢い、耳の生えたあの生き物を犬と呼ばなくても、日本の中でも、別にぴょんでもすんでもぺけでもなんでもいいわけなんですけれど、
まあ一応ルール、みんなのコミュニティの中のルールとして犬と呼んでいると。
まあ別に、だからその呼び方は決まってないよ、だけど、そういうふうにルールの中で決めて勝手に呼んでいるだけだよということですね。
で、冒頭に言った腸とが、ある文化では区別されて、ある文化では区別されないわけですよね。
これはまさに言語の恣性が生み出す現象なんですよね。
あとちょっと重要なポイントになりますけども、
初めからね、がとか腸とかというものが存在しているから呼び分けているということではないんですよね。
フランス語話者にとってはがというものも腸というものも存在していなくて、ただパピオンという一つのまとまりとして存在しているわけですよね。
これ言い換えると、名前があるからこそ私たちはそのものを区別して、違うものとして認識するようになるわけですよね。
言葉が見方を作り出して、世界の分け方を決めているということもできると思います。
言葉はただのラベルじゃなくて、世界をどう見てどう理解するかということに深く関わっているというわけですね。
こういうふうに言語が文化を規定あるいは決定するというふうに考えたのが、
サピアさんという人とウォーフさんという人ですね。
その人たちが立てた仮説のことをサピア・ウォーフ仮説と言ったりします。
サピアさんとウォーフさんの考え方は若干違ってはいるんですけど、
これはちょっと置いておこうかな。
そのサピア・ウォーフ仮説というのは、次のような2つの考え方があります。
1つ目が言語相対説というものですね。
この世の中の様々な事物に名前を与えて区別する仕方は、言語によってそれぞれ違っていて、
つまり相対的で必ずこうだと決まったものではないというものですね。
さっきの話と同じになりますけど、
例えば、日本語では兄と弟と区別しますが、英語ではブラザーと一緒くたにしてしまう。
で、あとはそうだな、水というのも、
英語ではウォーターというふうに一つでまとめてしまうものでも、
日本語では暖かい場合は湯、冷たい場合は水というふうに温度によって区別したりもします。
こういうように言語によってその区別の仕方は違いますよ、
必ずこうと決まったわけではないですよ、相対的ですよというのが言語相対説ですね。
2つ目が言語決定説というものです。
人間の物の見方は用いている言語によって枠に決められてしまうという側面があるということですね。
言葉と認識
これもさっき言ったようなことにつながるかな。
もう少し具体例を出すならば、例えばハマチとブリって、
今でこそ私は成長する魚で、その成長の度合いによって
ハマチとブリと区別してるんだなというのはわかるわけなんですけど、
幼い頃は違う魚だと思ってました。
見た目も似てるけど名前が違うから違うのかなみたいな。
こういうふうにそのことを知っていてもですね、
名前が違うと違う魚なんじゃないかなみたいな。
違うものなんじゃないかなと。
こういうように物の見方っていうのは言葉によって、
言語によって枠にはめられちゃうみたいなことを言語決定説って言ったりしますね。
あとは逆もしかりかな。
私たち関西人にとっては雪が降ったらああ雪やみたいな感じで、
もう雪と一塊に呼んでしまうことが多いと思うんですけれども、
北海道とか雪がよく降る地域では雪を表す言葉が数多く存在しますよね。
もた雪とか淡い雪とか綿雪とか。
これらは彼らの生活環境が雪と密接に関わっているし、
細かい違いを区別する必要があったから生まれたかもしれないんだけれど、
我々はこれを区別あんまりしないので、
認識も違ってきますよね。
同じ雪を見たとしても、ぼた雪だという認識になる人もいれば、
我々は雪だとしかならない。
その彫刀の話もそうなんですけれど、
文化や生活の中で特に重要と感じる部分っていうのが言葉に反映されるし、
ある言語では区別されて、ある言語では一つの言葉に収められているという側面もあるし、
逆に言葉によって思考が枠にはめられていくという側面もあるんですよね。
ちょっとまとめに入っていきますけれども、
私たちが普段当たり前のように使っている言葉っていうのは、
単なるコミュニケーションの手段だけではなくて、
世界をどう認識してどう理解するかという部分に深く関わってくるわけですね。
だから普遍的な一つの真実とか、
あとは一つだけの世界共通の常識っていうものが存在するわけではない。
言葉の違いによってそんなことも考えられるよね。
言葉はそういう大きな視点を私たちに与えてくれるよねみたいな、
そんなことも言えるかなと思います。
そういうことを授業でも具体例を今みたいにいろいろと挙げながら紹介していきました。
実はこの言語の姿勢とかサピア・ウォーフ仮説っていうのは、
私の中では前座というか、一つの導入に過ぎないかなという認識でですね、
実は本当にやりたいことというか、
次にやりたいと思っていたことが音象調というものなんですよね。
この言語の姿勢とは逆の考え方というか、
あれ、言語の姿勢が言葉の特性、特質ではなかったの?
音象調ってじゃあ何なん?みたいな、
そういう頭がこんがらがっちゃうような学問ジャンルがあるので、
授業では言語の姿勢の後に音象調を使っていきました。
ということで次回この番組でも音象調について、
学んだ授業について紹介できればと思います。
では今日はこれで終わります。ありがとうございました。