こんにちは、保育園看護師ドチロ先生こと佐藤です。 新規事業の力で日本を開国せんとす、合同会社黒船の基礎です。
同じく、黒船の河内です。 はい、僕たちは高校の同級生3人で、保育業界向けの新規事業を作ろうということで、実際にプロダクトを作成し、今現状頑張っているところでございます。
はい、そちらもね、冒頭にお伝えできるようになったら随時にお伝えしていきたいなと思っておりますが、
とりあえずこのラジオではですね、週替わりに僕たちがいろんな本を持ってきて、ぜひ保育士のみんなに読んでほしいな、保育者の皆さんにぜひ知ってもらいたいなということを紹介しながら、
いろんなことを深掘ったり、保育のことを考えたり、そんなことをしているラジオでございます。
はい。 知ってます。
知ってます。 というわけでですね、僕は今回持ってきた本は、
木下達也さんのですね、天才による凡人のための単価教室という本を持ってきました。お二人が読まなそうな。
面白いね、なんか普通さ、その才能がいらないとかさ、誰でもわかるとかってやりがちだけど、天才による凡人のための。
だから自分は天才だから、凡人の前らに教えてやるよみたいな。
すごくいいね。 いいでしょ。
謙遜がなくていいよね。
ファーストインプレッション、そう読めるでしょ。なんかそこもまず面白いなって思うし、なんかね、おびにね、アメトークの本気で読書芸人で話題って書いてあって、
アメトークで紹介された本だったんだと思って。
しかもおびの裏のコメントにね、週刊少年ジャンプの副編集長さんからね、コメントが書いてきたり、
ここ数年の読んだ中ではトップクラスに刺さった本で、漫画家さんにも勧めてますって書いてあるぐらいなので、
僕はここからちょっと保育に着地したいと思っております。
まあ、ちょっと冒頭にね、まず、単価って何かお二人ともご存知ですよね。
どんなオシティ語、オシティ。
知りません。初めて聞きました。
ちょっとじゃあ、国語、現代語、あのあれですね、履修していない、現代文を履修していないと言っても、
義務教育を覚えられなかった人間なのですみません。
物心がついていなかったよね。
物心つく前だったんだよ、義務教育って。
だとしたら仕方がないね、それは。
しょうがない。
単価って何か教えてもらっていいですか。
単価は、今木曽さんが言ってくださってましたが、57577の31音で作る世界ですね。
俳句が5575なので、それにプラス7714音を付け加えた31音で、もういろんなことを表現していく、そういうものなんですけれども、
結構歴史も長いんですよね、単価って。
ですよね。
よくよく考えてみれば。
百人一首とかもそうですよね。
そうそうそうそう。百人一首もだし、なんかもっと遡って。
古今若衆とか。
そうそうそう、そういう若衆、その辺は。
そういう若衆、確かにね。
その辺も全部単価なので、日本のこの長い歴史の中でも、結構歴史のある作品というか、コンテンツって言っていいんでしょうかね、になってるんですけど。
フォーマットですね。
そう、この31音に、こうなんというか、言いたいこと、伝えたいことを詰めていくっていうところもまずすごく面白いし、作品そのものもすごい面白いんだけど、
なんか僕は単価って最近すごいこのよく読んでるんだけど、何を書くかじゃなくて、何を残すかっていうのがすごいポイントになってくるんだなっていうのを繰り返し読んでる中でだんだんわかってきて、僕はそこが保育にもつながっていくなってちょっと思ってるので、
なんかちょっとそんなことを念頭においてお話し聞いていただけたらなと思っております。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ざっくり作者の方のご紹介なんですけど、木下達也さんっていう比較的若い歌人、歌人って言うんですよね、歌が作る人の。
歌の人と書いて、歌んじゅう?
歌んじゅうです。
歌んじゅうだね。
歌んじゅう、もしくは歌んじゅうで、やらせていただいているんですけれども。
1988年生まれか、なのでちょっと先輩ぐらいで、意外と年が近いっていうところと、
確かにね、なんか歌人すげえとちょっと年を召した方のイメージ強いけど、割と近い同年代の方なんですね。
そうなんですよ、同年代だし、なんていうか僕、ちゃんと読むまで全然わかってなかったんだけど、思ったよりいっぱいいらっしゃるんですよね、現代の歌人っていうか、
歴史的な、それこそ百人一首みたいなのが最強なのかなと思ってたんですけど、現代の歌人って結構いっぱいいらっしゃって、その中の第一、二者というかね、最近売れてる歌人の先生って感じですね。
結構谷川俊太郎って、我々ね、それこそ現代部とか国語の教科書でもいっぱいね、習ってきた、これは彼は詩ですけど、の方と一緒にちょっと協調という形で、作品をやりとりしたりとかね、それもすごい面白かったんですけど、
なんかそういうところで、意外とこう知ってる人とのつながりが見えてきたりして、とても面白いですが、 歌人っていうのは、なるのにこう資格とか、こういう実績とかが必要なもんだの、それとも、
言ったらもう、僕らも今日から歌人ですって。 名乗れるみたい。 そうなんだ。 この本にね、書いてありました。今日からあなたは歌人ですって。
じゃあ今後挨拶のときは我々歌人ですって名乗ろうかな、確かに。 そうそうそう。あの千尋先生の今この字幕のところ、千尋先生って名前の上に保育圏看護師、保育士、歌人って書いてある。
日々単歌を作ってどこかに発信していれば、もうそれは立派な歌人だと名乗っていいって言ってるけど、まず自分でそう名乗りなさい、だんだん第一章ですね、歌人になるっていう。
ああそうなんだ、ファーマンな、基本のキー、イロハのイみたいな。 まずは歌人というマインドにもう自分を落とし込むというのが面白い。あるんだよ、歌人というマインドが。
マインドが気になるね。 あなたは歌人ですって、もうそこがスタート地点だね。 樋口いいね。
この本は実際にこう、なんというか単歌を作る人に向けて、もうどう作るのかっていうのをかなり具体的にこうやって作ろう、こういうふうにしていこうっていうのを、
あのなんかテクニックっていうよりはもう本当マインドから教えてくれるような本で、 歌人マインドね。
簡単に構成言うと単歌のルールがあって、第一章が歌人になる、第二章で単歌を作る、そして第三章に歌人として生きていく、で第四章に遂行っていうところね。
だから、ただ単純に単歌ってこうやって作るんだよ、こういうものだよっていうのを言ってるんじゃなくて、どうやって歌人になるのかとか、で実際に作っていってどういうふうに遂行していくのかっていうのをめちゃめちゃ細かく、かなり実践本ではあるんですよね。
そうか、単歌の実践本か、面白いね、単歌の実践本。 なかなかさ、読まないじゃん。 樋口読まない。
でも意外となんかお二人が読んだら、お二人の仕事で普段作ってるコンテンツとか、なんかそういったところにもつながっていくんじゃないかなってエッセンスが結構あってるような気がするんですよ。
いいね。なるほどね。 でね、この本の中に作家、要は歌を作ることを日課にしましょうっていう項目が出てくるんですけど、ここでお二人に問題なんですが。
やったことないです。 初めて、かじさんが挑戦者ですね。 いや、先に言っときます。今から単歌を書いたことありますかって聞かれるんだろうと思って、やったことないって今答えました、完全に。
地球推しみたいなもんだね。 そうだね。今すごく早口しました、回答を。 じゃあ残念ということです。
はい、すいません。さっきは知りました。 単歌がうまくなるために必要なものは、何が必要だと思うんですか、単歌がうまくなるに。
広いな。 そう、すごく広い。 単歌、もう僕分かりました完全に。
はい、お願いします。 和の心ですね。 なるほどね。いいですね、和の心。 いいですね、確かに。
人さんどうですか? まあやっぱり日本語力ですかね。
確かに、似たようなこと。 えーなんだろう、でも交しすると観察眼とかなのかな、日常の切り取り方とか、そういうのになりそうだなっていう感じがした。
いいですね、いいですね。 自分と向き合うことやな。
これ別に、あらん限り言って当ててやろう。 これで1時間使おうか。答え聞く前にちょっと。
もう大丈夫です。 大丈夫? あと10個言えるよ俺。 まだ足りてないな。いいです、いいです。
すいません。 いろいろね、こういうふうにしよう、ああいうふうにしようというか、こうするといいよみたいなことたくさん書いてあるんですけど、
1個明確にこれじゃないよっていうのが答えとしてあって、これじゃないよって答え。 じゃないのがあるんだ。
才能ではないっていう。 へえ。
ここだから天才による盆地のための単価教室っていうタイトルにはなってるんだけど、木下さん自身も全然自分は天才だとは思っていない。
なんというか自分が木下さん自身がこういろんな人たちから単価を募集するみたいなのをずっとやってるんだけど、雑誌の企画とかそういうのってね。
やっぱこう本当変な話、素人の人から送られてきた作品の中にもめちゃめちゃ光るものがあったり、すごいぶわっとくるような作品に出会ったりするともう嬉しくて嬉しくてたまらないと。
だからある種そういう自分では絶対に描けない世界をこうやっぱり一人一人持っていてそれを単価として落とし込んできてくれた時にそういう作品と出会えるというか、そこがもうとにかく木下さんにとってめちゃめちゃハッピーなことなわけですよね。
だからその才能云々っていうよりももうみんなにぜひ描いてほしいというか、だから僕が持っている技術は全て伝えるから一緒にやろうよって誘ってくれてるような本でもあるんだけど。
単価の窓口を広げようとしてるわけなのね。 そうそうそうそうそう。それもね僕はいいメッセージだなと思って、だから才能ではないっていうところですね。
で、ちょっとここから保育にもつながりそうなところがあるんですけど、単価って要は型がありますよね。その30、14、57、57、7っていう型がある。でも初心者はとにかくこの定型を守って描こうっていう。定型を守る型を守ろうっていう。
なんかやっぱりこの辺はなんというかそのいろんななんていうんですか、極めていく、要は道、道をそういうものにも通ずるのかなと思うんだけど、まずは型をきっちり守ろう。この31の中で絶対表現しきろうっていうところをかなり思いっきり制限してやる。
もちろん慣れてきてテクニックが全部使えるようになってきて初めて字余りだったり、字ざらずだったりみたいな、そういう表現が初めて生きてくるぐらい達人になっていけば全然いいんだと思うけど、まずはこの型を守ろうっていうのがすごい推して伝えていて、プラス助手を抜くなっていう工夫があってね。
おもしろい、助手をなんかさ、それこそ俳句とか単歌とかって少ない文字数の中で表現しなきゃいけないから、日本語だったらさ、別に助手をはっきり言わなくってもなんとなく通じるみたいなことはあるじゃないですか、それとなく。
そうそうそう、でもこの言葉を雑に扱わないで助手をちゃんと省かないっていうところにすごい美学があってね。それをその助手も抜かずに31の中でどうしたら自分が見たものを感じたことをまとめられるかっていうところに、
もう何回も何回も作っては変えて作っては変えて言葉を入れ替えて、やっぱりこっちにしてみたいなのをやり続ける、そういう遂行がすごく大事だよっていうのを割とメインで伝えてくれているんですね。だから最後の最後、4章編は遂行編になるんだけど、俺ここがすごい好きで、なんか木下さんの作品がね。
別の本で木下さんがそれこそ素人の方が送ってくれたやつをこう自分なりにこう手直しして、もう一回こういうふうにしてみたみたいな作品集もあるし、自分が書いた作品をこういう経緯でこう遂行してって最後こういうふうになったみたいなのなんか結構まとめて書いてくれてる本とかもあって、
なんかその作られていく過程がすごいやっぱ面白くて、なんかねそれが僕はちょっと保育につながっていくような感じがするんですよ。
例を楽しむみたいなところは?
過程を楽しむというよりは、特に保育の記録のところよね。
確かにね、記録って31文字で書いてるもんね全部ね。
そうそうそう、もうほぼ短歌なんですけど。
ミヤミヤ世界だったんだな。
なんか、いや、でも本当にね、その要は、遂行していくっていうことがこの短歌によってめちゃめちゃ鍛えられるんだなってなんかちょっと気づきときてあって、
どの言葉をチョイスするかもそうだし、言い換えはできるのかとか、より少ない文字数で何かはめれるのかとかそういうボキャブラリーもそうだし、
なんかとにかくその文章をひたすら考えていく、遂行していくっていうのが、記録を取る我々保育者にとっても実は似たようなスキルというか感覚がちょっとあるなと思っていて、
要は子供のその日あった保育のエピソード、その子の姿、様子をなんていうか丸っとすると全部書くわけにやっぱりいかないじゃないですか。
これって結局じゃあ我々は現場のその記録をどう書いてるかっていうと、その中で特に今日のその子の姿として一番ピックアップしたいものを選び取るというか、
この時の子の姿がすごく良かった、あるいはこの時の子の姿が今の発達の課題をすごい表していて、その時の保育者の係がこうだった、みたいなことをやっぱりエリス群で書いていくよね。
で、なんかそこがね、いっぱい出てくるんだよ、どれ書こっかなみたいな。ってなってきた時に、じゃあどれを残していくのかっていう、その削る作業っていうのが、僕最初その選んでいくみたいに言ったけど、どっちかっていうと削って捨てていく、どこが一番伝えたいポイントなのかみたいな。
だからその単科における推考と保育の記録におけるその何というか作業が似通っているなという感じがして、今日何したかっていうのを全部書くんじゃなくて、そうね、書くべきものを見つけていく作業が必要だなという。
ここで一旦、ここで一旦ストップするんですけど。 そういう仕組みだったの、これ。
そうそう、ちょっと一旦ここでストップするんですけど。 いやでも、面白いな。なんかでも、別にツッコミを入れたわけじゃないけど、ファンナル聞いてる感想として言うと、その単科っていうものはやっぱりこうクリエイティブなもんじゃないですか、その表現ですね。
そうそうそうそう、目的が表現、ある種自分の切り取ったものとかを伝える行為だけど、記録って一応その情報伝達なわけで、それはどちらかというとこうテクニカルライティングとかそういう世界で、消せることが大事っていう文脈は同じだけど、
とはいえその、何というか目的が異なりそうだなっていう部分も当然あるのかなという感じはちょっと受けたかな。
ありがとうございます。その補足をしたかったです。 合ってた。
合ってます。 確かにね。記録は別に5.75、7.77で、それこそ冗長的な表現をするわけではないもんね。
そうだね。 素晴らしい、さすが。
一方でどこかでその保育者がこれが大事だと思うって主観が混ざるっていうのは人間学文書である以上避けられないっていう視点は全然理解できるので。
主観が入る以上何かを切り捨ててる、その人の判断で何かを切り捨ててるわけだしね。
うんうん。
残すことをどう書くかはそういうテクニカルライティングというか技術の話だな。
そうだね。だから手法が違うというかその、えっと、単価みたいなものはどっちかっていうと自分発露じゃないですか。
自分が伝えたいものみたいな。
じゃあ正解は自分で決めることやな。
そうそう、動機で何か発跡に出せるけど、記録ってやっぱりその大冗談に本来こう取る理由っていうものがあり得るはずだからね。
他の人に明確に伝えるっていうね、事実を。
他の人が多分その保育所指針みたいなもので何かしらこう何人が理解してるか本当にあるのかどうかも分からない幻のような猛雑としても始まった当初には絶対あったはずなんですよ。
じゃなきゃ。
それがベースですから。
それがやっぱちょっと外部的だよね、モチベーションというか目的。
そうだね、記録書きたいっつって、表現しなきゃって書くわけじゃないからね、内発的に。
そうだね、いいですね、とても二人とも保育従事者ではないのに正しいことを言ってくれてありがとうございます。
そこを言っとかないとね、ちょっと勘違いしちゃうからね。
ありがとうございます。
確かにな、でも肩を守る話とかその通りよね、何においても肩を守らないと肩破りになれないみたいな話があったよね。
肩無しだっていう話ね。
そうそうそうそう。
面白いね、肩破りのその論理というか理論というか。
ねえ、基礎を知ってるからこそ肩を破れるんだよっていうのは多分これは別に保育の記録も全く同じだと思うね。
まあその縁なりの肩なのかもしれないけど、
肩は何かしらありそうだよね。
ありがとうございます。
そんなところでちょっと単価と保育の記録がつながっていくっていうところと、
そうそう、その白っていうところの情報をこだわり抜こうっていうその余白に甘えないっていう言葉選びも、なんかまあ無理やり保育に置き換えると、例えば連絡状とかでね、
今日も砂場で元気に遊んでましたっていう一文で終わるのか、今日は砂場でお城を作って遊んでいましたってするのか、
今日はすごい集中してお砂場遊びをしてて、何作ってるのって聞いたら、これは何々の城なんだっていう風に言って教えてくれましたって書くのかで、
だいぶなんかこう伝わり方が違うじゃない、その保育者がなんかこう伝えたかったこと、
親と共有したかった情報ってどこなのかっていうのをなんとなく念頭に置いて連絡状とか書けると、より保護者とつながれるというか、シェアできる、
それってすごい僕は大事だなってやっぱ思うんですよね、ただただこれで遊んでたよっていう、まあそれも事実なんだけど、
それだけで終わるのではなくその子のエピソード、その子の遊びをできる限り詳細に伝えてあげたい、でも限られた時間の中で十何人分書かなきゃいけないから、
そんなつらつらと全エピソードを書くわけにもいかない、でも今日彼が言ったこの一言は伝えたいとか、
全然パッとみんな何のこっちゃわかんないぐっちゃぐちゃな砂の塊でもこれはお城なんだっていう、彼がイメージをして遊べていたっていうところに、
その一文だけである種発達が見て取れる、成長が見て取れるみたいな場面になり得るし、これそこに気づけるか、
そしてその言葉をチョイスできるかって結構保育者の腕の見せどころだなっていうふうに思うので、いいなと思ったんですよね、この余白に甘えないっていうね。
記録を書くときに余白に甘えないって思いながら書くってことね。
いや、わかる、文章とかが下手な人のあるあるはそれだなと思ってて、抽象度の高いそれっぽい言葉を並べちゃうんだよね。
わかるわかる。
絶対意味は外してないけど、逆に真意を食ってない表現みたいなものとか。
覆う感じね、なんか。
そうそうそうそう、それ分かって言ってんのみたいな。
タイトに厳密にっていうところがあんまりいないってことだよね、厳密さみたいな。
その言葉分かったな。
タイムで使ってんならいいけどみたいなのを見ると、なんか雰囲気で書いてるんだなーって思うことはあるね。
確かにね、だってそう思ってたらそんな言葉使わなくない?みたいなこと言ってたよね。
よくあるよね。
確かにね。
あの、敬語と敬語が混ざるとかね。
敬語と敬語が同じ文章の中で混ざるの、意図してやってんだらいいんだけど、ちゃんと書いてたらそこ気にならないの?とか。
そうだな。
今すごいふと思い出した。
昔その、新卒の時にコンサルで働いてて、2010年代ってExcelっていうものがまだ存在していまして。
今でもね、現場におっては全然。
使ってる。
使ってまーす。
使ってますか?
使ってまーす。
僕も使ってるんですけど、Excelのデザインをどうするかみたいなのが社会人、コンサル1年目2年目とかは結構こだわりがちで。
人によって流派が出るのよね。
なんだけど、その時ちょっとエラめの人、直属というよりはもう2個3個ぐらい上の、役員レイヤーぐらいの人と話してる時に、その人は別にExcelの流儀にこだわりはないんだけど、
なんか本気で見やすい資料を作ろうって考えてたら、絶対ここに線入れたくなるじゃんっていうのがあるでしょみたいな話をして。
なるほど、なるほど。
その結果が出てくるものだったら納得できる。けどそれもやんないんだったらあんま資料考えてないんだろうなこいつって思っちゃうって言ってて。
なるほどね。
確かにと思ったその、結果がどうことより本気で考えてたら絶対なんかしたくなるでしょここにっていう。
なるほどね。
言葉選びもそれと同じやな。
そうそうそう。本当に思ってたらそれをしろだっていうことを言いたくならないみたいな。
今日も遊んでいてで終わっちゃうっていうのは間違ってないけど、ちょっともうちょっと踏み込んでもよくないって思っちゃうよね。
相手に伝えることを定期で考えてたらもうちょっと表現変わるよなとかするわけだな。
そこなんですよね。特に連絡帳ってまあまあなウェイトを占める日常の記録の中でもね、
でもうほんと新人からベテランまで絶対にやるので、特に012歳入児グループはね。
幼児まで行くと連絡帳書かないみたいなとこ結構あるんだけど、要は子供がお家に帰って喋ってねっていうところを期待して。
なるほどね。
でもやっぱまだその言葉でのやり取りが難しい、012歳の間は縁の様子っていうのをしっかりと保護者に伝えていくっていうのに、
やっぱ連絡帳にこだわる、連絡帳はこだわるべきだと思うんだよね、個人的には。
手書きだろうがアプリだろうがなんでもいいんだけど。
でも意外と連絡帳のそれこそ書き方とか、こういうふうに情報を伝えましょうっていうのを僕は習ったことない少なくとも。
なるほどね。
だしなんとなく感覚的に、いやこれはたぶん縁によっても全然違うと思うんだけど、その保育者のレベルとか、条件か非条件かとかね、記録を取っていただけたらダメかとかっていうのも、
確かに。
でもやっぱりその関わっている職員は一人一人違うわけで、やっぱり自分の見方というか、保育士としての見るべきポイントはもちろんあれど、何がその今日の自分の感動ポイントだったのかみたいな、
その関わっている子供とのやりとりの中で何が一番面白かったかみたいなのって、やっぱり一人一人ちょっとずつ違う。絶対違うじゃない。
確かに。
だからそこを言語化していくことから逃げないというか、そこをこだわっていってほしいなっていうのは最近ちょっと思っていて。
なるほどね。
で、そうするとやっぱりその人が書く連絡帳、今日はA先生、昨日はB先生みたいな感じでいろんな見方がある。
でも同じ子を見ててその子の成長を喜び合ってるし、保護者とシェアしているみたいなところに、保育のすごさや面白さが詰まってるなってちょっと思えるんだよね。
その中まさに河地が言った通り、なんか本気でそう考えてたら絶対線引きたくなるみたいな感じで、本気でその子と向き合っていたら絶対に今日これ保護者とシェアしたいなっていうのが、やっぱり自然と出てくるんじゃないかなとは思う。
だから連絡帳書くっていうのがすごい業務としてやや負荷になりすぎていて、なんかこなすものみたいな感覚になってきちゃうとすごくもったいないなって思うから。
確かにね。
ちょっとそんな問題提起できたらいいなと思って。
急に問題提起が早い。
で、このタイトル解消に戻るんですけど、天才による凡人のための短暇教室ってあるんだけど、この本を読んでもらうともうお分かりの通りで、決してこの作者の木下さんが私が天才だから教えてやろうっていう話ではなく、
むしろこう自分が身につけてきた技術考え方も全部渡すから、もうあなたが天才の過人になってくれっていう、あなたの短暇を僕は見たいっていうような、そんな本なんですよ。
これはね、すごいね、僕は面白いなって思ったのと、やっぱ人間一人一人のその自分の見方、自分の捉え方みたいなところが、10人いれば10人違うから、短暇もそれだけより素晴らしい短暇が今後も生まれてくる可能性があって、まだまだ面白いものに出会える可能性があってっていうところにすごいこう素敵な可能性を感じるというか、
面白いなって思えるなという本でした。
なるほどね、なんかね、保育とか全然関係ないけど、普通に暮らしてきて、そうだ短暇を読もうって思う人とか、実際に読んだことのある人ってどれぐらいいるんだろうねっていうのが気になったから。
いや、そうでも、俺も全然、なんかなんで急に読み始めたか、今となっちゃう、覚えてないけど。
あれじゃない、なんかあの写真と短暇の共通点みたいな。
あ、そこかそこか。なんで高橋が覚えてんだって思い出せない。
他人に、表現は他人に依存してる。
そう、でも結局写真もそうだけど、やっぱり自分が何を見てるかみたいな、自分が何を見るか何を観察するかって何を残したいと思えるかみたいなところの感覚がやっぱり写真とちょっと似てるんだなって思える。
似てるよね、その水光とかって多分構図とかそういう話なんだろうなって気もする写真で言ったら。何をその絵の中に入れるかみたいな。
自分が見たもの感じたものをどう残したいかという。
なるほど、いやその話で今ちょっと思ったのが記録、今チロは短暇と記録でこう繋げて話してくれたけど、
どちらかというと自分が感じたものを本当に見てる子供たちの中に残してあげるとか、そういう話の方が面白いのかもなーってちょっと思ったな。
記録動向というより、その感覚、言葉ってあるしその人の物の見方の具体化じゃないですか。
それがいろいろどう伝えたいかっていうのが本当のエッセンスで、それを子供たちに言ってあげられるとかの方がなんかより良い時間があるというか。
いいかも、全国のお父さんお母さんにこのハイパー大変な子育て時期をちょっと一個読んでもらって、大きくなった子供にその31をプレゼントするくらいのね。
そっかとかもあるし、その瞬間、大人の世界の見方って子供に影響すごいじゃないですか。
すごいと思う、特に親はね。
そうそう、それを多様にいろいろ、かつ意外と表面でしか言わないから、子供に100%は伝わらないじゃん、普通に。
伝わらないよ、テレビ切ろっつってね、全然伝わらない。
全然意味わかんないもんね、本当に。
僕とかはさ、結構親が何考えてるかわかんない、今でも正直。
それを伝えてあげるとかも、一個いいのかもしれないよね。
確かにね。
僕は割と、うっすら心の奥底にうまく言えないけど、やっぱ親のことあんまり人間だと思ってない節があるというか、装置っていう感覚がちょっとあるというか。
おもろいね。お父さんスイッチってこと?
そうかもね、役割とかなんだろうね、たぶん。
なるほどね。
なんかその人も人間で、その人の笑みがあってみたいなのを、知識としては当然わかるし、想像はできるんだけど、多分奥底であんま分かってない。
舞台装置みたいなもんだと思っちゃってる。
それは多分、僕の両親がそんなにそれをかっこつけなのかわかんないけど。
人間っぽいところよりその親としての動きっていうことだよな、表現が。
っていうのがあるのかもなと思ったから、その親としてのでもいいし、保育園の先生としてでもいいんだけど、意外とその考えたこととか感じたことをちゃんと言ってあげるっていうのも。
確かにね。
なんか、子供が感じたことを言葉にしてもらうみたいな教育というかさ、接し方は結構よく聞くけどさ。
ラベリング的なね。
逆で大人が大人じゃなくて個人として感じたことをちゃんと伝えるっていうのは確かに意外とないかもね。
先生としてはあるかもしれないけど。
すごい大事だね。
僕らの同級生ですごい素の高いやつがいるんですけど、そういう人もよく話してるんですけど。
結局その大人が全力で楽しんでいることが、やっぱすごい大事じゃないって話をたまにするのよね。
やっぱ大人が楽しんでいる姿を見て子供もそうしたいって思えたりとか、自分の夢を見つけてそれに向かって走れるとかも含めて。
大人自身がもう疲れちゃって何もできなくて超つまんなそうだったら、もう子供にとってもそれは決していいことではないよな。
やっぱ大人が楽しめる社会をまず作んないとさっていうね、真面目な話をするときにたまに言うんですけど。
それともちょっと通ずるというか。
エクスだったり、親がね、ひたすら楽しいこと楽しんでいるということをこう表現する。
それを子供にも伝えていく。
楽しいことっていうのに越したことはないんだけど、なんか本当に人間なんだってことを分からせてあげられるっていうのも一つ大事かなっていう気はするかもな。
言うて別に楽しいことだけじゃないしさ。
それで言うと大人が子供に見せるの難しいのって悲しいとかさ、弱く見えることの方が案外子供に伝えづらいかもしれないよね。
でもそれはすごい大事だよね。やっぱ感情を学び取っていく。親だから何言ってもいいとかさ。
外面はいいけど家で大暴れするみたいなところもあるし、親への甘いというか。大事なんだけどね。
何してもいいってぐらいの関係性があるっていうのは、一定の見方をすればすごい素敵なんだけど、
でもある程度大きくなってきたら、そんな態度はそもそも人にとっちゃいかんだろうっていうのがね、あるじゃない。
たとえ親でもそんなこと言うものじゃないというかさ。私、親でもそういう言葉かけされたら悲しいし嫌だよっていうのを、
今まさに僕が長男に伝えてるとこなんですけど。
やっぱね、なかなか難しいな。自分が感情的になってただ言うだけではやっぱ伝わらないし、
かといって言葉を選んで何というか繰り返し言ってもなんかただただ嫌だ嫌だ言われて状況が変わらなかったり。
なんかさ、正直子供の頃親とか周りの大人から言われてたことを子供の頃にどこまで理解できてたかってわかんなくないって思っていて。
測れないもんね。
大人になってから気づくとか見えるものってやっぱあるやんか。
本当に。どうやって育ったんだろう、俺って感じで。
だからなんか理解というか、体感に時間を要する考え方とかものの見方もあるよなっていうふうにはすごい感じるけどね。
でも逆に言うとそれを伝えとくのは、あの時言ってたのはこれかってなるのはすげえ大事だなって思うけど、
引っかかりを作っとくみたいな意味。
なんかやっぱりこう、まあ単純にね怒りに身を任せてぶん殴りみたいなことやっちゃいけないと思うけど。
そうだね、それはなんか不平等だよね。
不平等だね。
それは虐待だからあれだけど。
でもやっぱ怒っている、悲しんでいる、寂しい、そういういろんなネガティブな感情もちゃんと表現していいんだよというか、こういうふうに表現するんだよというか。
こうやってその感情を消化することが、明日を生きていく力になるんだよじゃないけど。
意外とやっぱ日本人の特徴というか、ね、なんとなくこうあまり感情を表に出すのが美徳とはしない文化圏だから。
なんかましてやね、男は泣くなみたいなものもまだ未だにね、あるだろうし。
別に泣いてもいいんだけど泣くならこういうふうに。
泣こうよじゃないけどさ。
外でギャーギャー泣いて喚いて人に迷惑かけることが美徳なわけではないというか。
悲しくて泣いてもいいんだけど、そこで泣いたらじゃあ切り替えて次はこうしようとか。
悲しんでもいいけど、しっかり悲しんだ後はじゃあしっかりご飯食べて一回寝ようとかわかんないけど。
なんかそういう感情のマネジメント能力をコントロールする力っていうのをやっぱり培っていこうと思うと、
親もそういうふうに自分の感情をちゃんと流せないと、なかなかね難しいところがあるよね、子供に伝わりにくいっていうかね。