津波と健康診断
ささぶかにされて、 今回、津波が来るというので、ちょっと怯えてというか、
家に帰ってきました。 二人玉の深山で。
2週間ぐらいこっちにいるということで。
なんかね。 えー、来るんですかね、本当に。
何が?津波? 津波は来てるけど、大したことないでしょ。
えー、と思ってるんですけど。 どうなの?
まあ、そんな感じで。
今日は、1年に1回の健康診断に行ってきました。
そうしたら、 身長が1センチ縮んでますねって言われて。
えー。 去年も1センチ縮んだような気がするんだけど。
どんどん小さくなってきて。 なるほど。
なんと、なんと。 姿勢が、背骨が曲がってるわけではないと思うんですけど。
だんだん乾燥してきてるみたいですね。 うーん。
はい。 では、レオンさんどうぞ。
小橋委員が今、帰ってきたそうなんですけど。
レオンさんで。 昨日、
うちの両方と、ノリクラに行ってきたんですけど。 2700メートルぐらい。
ノリクラだけのノリクラ? ノリクラだけ。
体調が悪かったんだけど、登り始めたらいきなりなんか、目の前真っ暗になって、バッと倒れてたんだって。
やばいと思って。 酸欠になっちゃったりだよね。
うーん。
体調の悪い時に、あんなに高いところに行くもんじゃねえだと。
今日、平地に降りたら、だいぶ良くなった。
うーん。
だから、空気が薄いって言ったら、こんなもんだなと思って。
なので、酸素が全然足らない感じがしてて。
頭にこう、回ってこない酸素が。
うーん。
で、立ち比べしたような気が、こんなになっちゃって。
これはやばいと思いながら、ちょっと思って、すぐもう降りちゃったんだけどね。
へー。
うん。体調が、まあ、ちょっと風邪気味だったことがあって、それもあったんですけど。
いやいやいや、無茶したい感じだと。
うーん。
ジジイたちも。
はい、そんな感じで、今日無事帰ってきました。
ちょっとでも、咳が残ってますよね。
ちょっとでも、体調が良くないですかね。
映画とシニアワリビキ
うん、咳がね、まだね、残ってる。
なるほど。
はい。
はい、私はですね、今日突然思い立って、国宝を見に行ってきました。
ああ、いいじゃん。
なんか、奈良でやったやつ?
いえいえ、国宝、映画です、映画。
ああ、映画の国宝か。
うん。
国宝、映画を、噂の100億を超えた。
うーん。
見てみて。
3時間だったから、なんか、間に合わないと思いながら行ったら、
え、この時間?みたいな感じでバタバタ。
長いですね。
長いですね。
でもまあ、飽きさせないというか、なかなか休憩もなく、ずっと見させるぐらいの。
なんか、すごい時間が飛ぶから、ある意味、なんていうんですかね、
こう、すごくこう、ガンガンと飛んでいくから、すごくついていくので、
割に飽きないというか、次どうなんだろう、次どうなんだろう、みたいな。
なんか、人の人生を見ているように、なんかいろいろ感じることはあるなあっていう感じでしたね。
面白かった。
まあ、面白かった。
でも、友達とかは、もう1回見に行かなきゃとかいう人がいたんだけど、
いや、そこまででもないかもと思う。
いや、でも、友達なんかその、ちょっと主人公が似てるんで、
あれはどっちの誰だったとかって言って、
え?って、分かるやんっていう感じで、いや、分かんない人もいるし、
うちの母に至っては、なんか、よく分かんなかったわって言ってたし、
なんか、やっぱり分かりにくいのは、まあ分かりにくいかなと。
表情人物が複雑に交差していく感じだったので、
はい、なかなか面白かったけど、そうですね。
最近、皆さんはどんな映画を見られたのかなと思いながら、
私も久しぶりに映画見て、
あ、でももう1個一番驚いたのは、
シニアワリビキが55歳からっていうふうに書いてあって、
もう私、来年シニアワリビキ、ちょっとびっくりなんですけど、
って思って、普通60歳じゃないとかって思って、
え?55歳?とかって、それにちょっと一番驚いちゃった。
友達がシニアワリビキだったって、一緒にいた友達が、
ちょっと上だ、2、3、3つぐらいの人で、
え?シニアワリビキだったの?っていうことに、
ちょっと驚いて、自分も来年がラッキーっていうよりも驚いたって感じでした。
実は僕も行く予定だったんですよ、国宝。
あ、そうですか。それで国宝しんだ?
それで会員なのでね、前もって席を確保しようとして、
パスワード入れたら弾かれたんですよ。
おかしいと思ったら、今月の25日で期限が切れてて、残念でした。
まあ、夫婦で行こうと思って、奥さんに言ったら、
じゃあ、まあいいわ。テレビでやるまで待つわけないって。
えー、そうか。
いや、まあ、テレビ向きではないから、見に行ったほうがいいかなと思うけど。
混んでましたよ。また混んでた。
2、3時間前に見てたときは、
45席の中で6席ぐらいしか埋まってなかったんだけど、
行ったら前に2列だけが埋まってないだけで、
ほぼ結構埋まってたから、人気だねって感じ。
やっぱり年代上だから、事前に買えない人ばっかりだったっていうのが私の大きな予想だったんですけど。
どこまで行かれるんですか?
今ちょうど萩にいたから、
先は、一週何か月か遅れてやってくる、古いレトロ的な映画館が結構あって、
で、あとはもう上に行くか、豊富って、結局もう南に南下するしかない。
なんか南が栄えてるイメージ。
そうそう、やっぱり栄えてるから、そっちしかない。
今もう下の席まで行くかぐらいになっちゃうから。
下の席まで1時間半、上まで1時間ちょっと、豊富まで1時間15分とかそんな感じ。
で、そんなバタバタした。
なるほど。
こんな感じだった。
え、最近見ました?なんか。
他には見てないです。レオンさん見た?
いや、見てない、最近。
どんちゃんは自宅でずっと映画三昧とかそういうことはないんですか?
私、映画とか全然見ないんですよね。
そうなの?映画って。
そう、全然お得って。
YouTubeばっかり見てます。
え、YouTubeでも映画じゃないってことでしょ?
YouTubeは映画じゃないですよね、はい。
そうか、そうか。
小村さん会員切れちゃったんで。
だから最近、劇場では見てないんですよ。
なるほど。
ネットフリックスでずっと見て。
なんかお勧めありますか?最近の映画で。
えっとね、ちょっとタイトルはっきり覚えてないですけど、
僕が住む二つの世界みたいなタイトルの映画で、
それこそ吉澤亮の主人公で、
親がね、二人とも老和者。
孝だってそういう人言うらしいんですよね。
ああ、そういう人。
生まれた時から両親が聞こえない人だから、
子供は手話で、手話を覚えて。
ああ、なんか思い出してる。
大人になっていろいろ体験していく。
その過程がね、描かれてるんだけど、
なかなか面白かったです。
うーん、そうか。
なるほど。
2万人もいるらしいですね。
聞こえない人が?
両親とも聞こえない人。
両親とも聞こえない人は、なるほど。
どっちかが聞こえればね、
大人になるんだけど、
赤ん坊が泣いてても、
二人とも聞こえなかったら、
確かに。
全然面倒くさくないですよね。
なんかあるんでしょうね。
どうしてるんだろう。
なんかセンサーか何かがあるんですかね、音に反応する。
音じゃなくて、光で知らせたりとか。
光、ああ。
例えば帰ってきたらただいまの合図が、
電気のスイッチをパチパチってやるとかね。
そういうことで知らせるもんね。
でも赤ちゃんだとできないですよね。
赤ちゃんはできないよね。
赤ちゃん、でもずっとあれしてるんですかね。
ケアしてるんですかね。
代わり番号で。
気にかけているんじゃない。
ちょっと考えても見なかった世界でした。
私も知らない世界ですね。
なんか、たまに映画見るといいなと。
なんか、今は映画見たい、本読みたいなという感じになってきてるんですよね、最近。
そんなこんな。
あと何タイトルって言ったっけ。
ハッピーエンドとか、なんか友達がすごいよとかって言って、
週末ケアみたいな、どうやってあなたは死にたいですかみたいな。
そんなドキュメンタリー的な映画が友達にお勧めされて、
それも見に行こうか考えたんですけど、時間が合わず。
今上映中のロードショー?
今、ロードショーがかかっているところもあるのかな。
私たちは山口だとすごい、
ちょっとこう、単館ロードショーでやるような映画館で、
ちょうど今かかっている感じですかね。
ハッピーエンドっていうのがあります。
人を聴く文化の座談会
はい、ではじゃあ、今日の座談会のところかな。
あら、これがいつもどうなのっていう。
結構ページ座るんですよね。
あれ、あら、そこじゃない。
みんな座っているところが。
スタートでしたっけ。
あ、違う、ここからだよね。
はい、サイエンス研究所。
はい、ここからちょっとじゃあ読んでみましょうか。
読んでみましょう。
これ全部読めばいいよね。
これでもどこまで行くかな。
そうなんですよ、読むとまた5、6回かかるみたいなやつ。
5、6回行っちゃうんですかね。
人を聞くとの出会いから、相手のことをわかるという勘違いぐらいまで。
相手のことをわかるという勘違いぐらいまで行けるのかな。
どうなんでしょうかね。
とりあえずちょっと読んでみますか。
とりあえず今、私がこっちに送ったのが、
相手をわかる勘違いの前の、
人を聞くっていうのをどうしてスタートしたのか、
みたいなのが書いてあるところが最初にあるので、
そこから読んでみたいと思うんですけど。
レオンさんいいですか、一番最初。
サイエンス研究所、サイエンススクール。
これね。
サイエンス研究所、サイエンススクール、
あずわネットワーク、鈴鹿コミュニティは、
常に連動している。
あずわネットワーク、鈴鹿コミュニティは、いわば実生活。
そこで起こる様々なことが、
クールの研修や検討会で明らかにされ、
研究所で分析され、
分析されたことがスクールやコミュニティに還元される。
その様な有機的な繋がりを示す、
表す一つの事例だと思うが、
今年、2001年、
3月からサイエンススクールのコースとして、
人を聞くためのコースが新たに加わった。
人を聞くということに、
なぜ重点を置きやろうとしているのか。
また、私たちが作ろうとしている、
新しい社会の試みがどういうものなのか。
その辺りが明らかになるのではと思い、
このコースに参加した人の中から、
4人の人に集まってもらって、座談会をしてみた。
というので、後はいろんな方が出ていますが。
はい、これが参加した人たち。
藤川さんと片山博さん、
中野俊二さんと宮路さんと石丸さん。
研究所の人も入っている。
その5人の座談会です。
人を聞くとの出会いということで。
じゃあ、とんちゃんお願いします。
はい。
人を聞くとの出会い。
まず、人を聞くためのコースに参加してみてはどうですか。
人を聞くという言葉を聞いたのは、
3年ほど前、小野さんの研究発表でだったと思う。
人を聴くことの意義
今までの自分にはない言葉で、
でも、人を聞くってどんなことだろう、
と言うのがずっと頭の片隅にあった感じかな。
参加してみては聞くということをみんなで、
みんなで、なんて読むんだろう。
調べていって。
調べていって。ありがとうございます。
調べるってこんなに楽しいんだなって感じたのと、
人と人というのが浮かび上がってきて、
人を聞くということは人の幸せにとって大きいんだなと思って、
人を聞く文化の創造というのをやっていきたいって思った。
私は人を聞く文化の創造という研究所のサイエンスカレッジのコースに入っていました。
聞くことが何をすることなのか、よくわからなかったんです。
人の話を聞くとか、人の話をよく聞いてというのは、
ずっと聞いてきた言葉だけど、どうしていいのか。
お手上げ状態で聞いてるとくたびれちゃってね。
あまり人の集まるところへ行きたくないという状態になっていた。
それで人を聞くというタイトルに惹かれたのね。
今までの自分の感覚の聞くと違う聞くに出会えるかもしれないなと思って。
あの頃なんで聞くがわからなかったかというと、
だいたい人の話を聞いているといろいろ連想するわけね。
いろんな思いが聞いた途端始まるんですよ。
それを考えたり、相手の話を聞いたり、すごく忙しくてね。
どう仕分けしたらいいんだろうって悩んでた。
聞くとは何をすることなのかを知りたい。
心の成長と人との関係
純粋にそんな感じだったんですね。
僕は人生を知るためのコースに参加して、
次を変えろっか、次。
宮地さんの番です。
お願いします。
宮地。
僕は人生を知るためのコースに参加して、
人の人生を、人の一生を見てみると、
体はいろいろ食べるものとか空気とかを栄養として得ながら、
ずっと成長してきている。
じゃあ心の面で成長を考えた時に、
体の場合の食物にあたるものが、
その時は心の糧という、
消えちゃった。
あ、消えちゃったね。
あ、また消えちゃった。
よいしょ。
明日は何だっけ。
明日のまま。
消えたね。
明日でいいか。
ここですよね。
ここですよね。
そうですね。
心の糧という表現で考えたけど、
その心の糧とはどうなっているのかって考えたんだ。
これまでは体の成長に関しては考えてきたけど、
心の糧という観点で、
人間とはどういうものかとか、
人間の成長ということを考えてこなかったことに気がついた。
自分は心の糧というので、
だからどうそれを受けてきたのかとか、
他の人とどう接してきたのかと考えると、
ちょっと寒々しい気分になる。
寒々しい気分になる。
これから人間の心の面も、
面のことを大事にしていこうと思って人と接するんだけど、
身近な人との間ではいろいろな心の現象が起こるわけね。
ムッとしたり、感情が立ち上がるわけ。
おめさんと話していると、「ん?何?」という感じが出てくる。
心の面を大事にすると言っても、
実際自分の中に立ち上がるものが何かおかしいと感じて、
日常化レッスンに参加して調べてみた。
今まではそういう感情が起こってくると、
それをどう解消するかに関心が行ってたんだよね。
だけどこの期間、すぐ方法に行かないで、
しばらく嫌な感じとか、不機嫌な感じが出てくる自分を見てみようという機会にしている。
【佐藤】はい。次、どん。
それで、心の面を大事にすると言うけれど、
実生活でどういうことかをもっと見てみたいと思って、
人を聞くためのコースに参加したというのが三谷さんですね。
【三谷】はい、すみません。じゃあ、としみさんの
私は5月に行きました。
人を聞くと聞いても、あまりそこに関心を向けていなくて、
どうせ自分にはできないし、聞くのは難しいという思いが私にはあってね。
ただ、毎月日常化レッスンに行ってて、
私の日々の関心は子供の内面のことが知りたいと思ってたの。
でも会話した時に、あ、そう思ってたんだって。
関心が強いから余計に相手の言ったことが、相手の思っていることになっちゃう。
もうこれは日常化レッスンで半年ぐらいやってきているから、
頭での理解はあるのだけど、実態としては繰り返しているのかな。
この息を出ない、出ないなぁ、みたいな。
理論的にはわかるわけ。
順番で追うと、聞いて、思って、は自分の頭の中。
でもそのことが相手の思っていることになっちゃうっていうのは、
何遍もやる中で、そうなる自分の回路の理解は深まるんだけど、
なんでそうなるか。
なんで相手のこととしてしまえるのか。
しまえるのが、自分の考えるテーマとして浮上してきて、
日常化レッスンに参加していても行き詰まるわけ。
本当の意味での理解がないから、
そこの理解をもっと深めたいと思って、人を聞くためのコースで参加したの。
で、としまるさんが、参加してみては、ということで、としみさんはまた答えます。
聞くのは、いくらでも聞ける。
だって聞くだけでしょ。
もう大いに聞きたいわって感じに思ったの。
聞いたら聞いた分だけ。
それだけ自分が知らない相手のことをいっぱい聞けるわけだから、
聞いた分だけ私がむっちゃ幸せになるんだわって思った。
豊かになっていくって思って、
それでまず聞くが面白くなってきたの。
面白くなってきたというより、楽になってきたのかな。
しまるさんの楽になるというのは、
ということから次のところに行くんですよね。
あれ、ここまで。
あ、すいません。私がこっちを読んでて、これをめくってなかったんですね。
はい、というところまで来て、次が相手。
これまだ先読んでいった方がいいですよね。
はい、一回ちょっと共有を停止して、
もう一回やるから。
はい、次。この相手のことが分かるという勘違いっていうところ。
今のさっきのとしみさんの続きかな。
聞くは分かっても分からなくても、聞くだけでいいわけ。
そこに気づいてからずいぶん楽になった感じがある。
しんどくなるのも分かろうとするから頑張るわけよね。
頑張ったからといって聞くことができるわけないのに、
私の中では相手の難面が自分には分かると思い込んでいたから、
聞けば聞くほど大変になってくるわけよ。
分からなければならないみたいな感じで思って、
聞くっていうのは分かることという理解だったからね。
ということで、またまだとしみさんが続くんですけど、
ちょっとレオンさん変わってください。
串丸さんの相手のところから。
真ん中。
相手の難面が自分に分かるという思い込みって。
としみさん、検討会の中で尾野さんがティッシュボックスを持って、
雑巾を1枚ずつ取ってくださいというのを聞いて、
聴くことの豊かさ
はあ、ティッシュじゃんねえと思ったの。
まあでも尾野さんはこれを雑巾と思ってるのかな、と私なりに理解したのね。
その後にそれを検討した時に、
最初に雑巾って聞いている時点で、
はあ、これはティッシュでしょ、と私にはあるのに、
尾野さんはこれを雑巾として何とかしたいのかな、とか。
尾野さんのことをすっかり自分なりに理解してるつもりになっているわけ。
この時すごくハッとして、こういうことを日頃やってるのかなと。
自分で相手のことを考えて理解しちゃう。
分かってしまう、分かりたい、知りたいのは相手の中身なんだけどね。
そういうのが自分の中に鮮明になったのかな。
内丸、相手の思っていることとしていることが実は自分の考えであると。
そうすると聞くとはどういうことなんだろう。
栃木さん、人を聞くという耳辺の聞く、人を聞くのは難しい。
私には理解が無理みたいに思ってたんだけど、やっぱり知りたいじゃん。
子供のことも知りたくて、いっぱい聞きたいと関心を寄せるだけで、
そういう状態がもう聞こうとしている。
知り得ないかもしれないけど、知りたい。
それで何かしら捉えたことがあるだけで、とっても私は痛かりになる。
あるいは逆に考えると、人に聞いてもらうと安心したり、すごく軽くなったという体験が私にはある。
ああ、この人は私を聞いてくれるという安心感。
だけど、それがどういうことか分からなかったんだけど、
私にすごく関心を寄せてくれて、どことも聞こうとしてくれるというのは、
私のことを分かってくれたかどうかよりも、そのことだけでは嬉しい。
私にそんなにも愛情を傾けてくれるとって、なんだかそういうことが聞くことなのかなと思って、
意見が合うとか、分かってもらえるということよりも、愛情が行き交う。
そういうことって自然と発露してくる。
それが一人一人どんどん増えていったら、心の世界はとっても豊かだなと思って、
ことがならなくてもOKみたいな感じなの。
私は人を聞くまで、ものすごく幸せみたいな印象で帰ってきた。
はい。とりあえずこれで終えてみますか。
次はね、牛丸さんの後で、つながっちゃってるね、これね。
そう。で、多分もう、ひろこさんに次行っちゃうから。
そうだね。映っちゃうね。
もう映っちゃうと思うんですよね。
なので今、としみさん、聞くを何でやりスタートしたのかっていう説明と、
何で参加したのかっていうことから、としみさんの相手のことが分かるっていうこととか、
聞くの豊かさみたいなことがちょっと書いてあったと思うんです。
この辺り、どうですかね。今のを読んでみて感じることって。
あ、消えた。どんな感じでしょうか。
コースってなにさん出たの?
え、人聞く?コース出ましたよ、もちろん。
やっぱりこんな感じ。
そうそう。だから、なんか思ってなかった。
一番だもん、これできてないよね、とも思ったし。
でも今、私、これ読んでてっていうか、としみさんの聞いてくれることの安心感ってすごく分かるんだけど。
それを聞いてくれてありがとうっていう人もいるんだけど、
あんまり自分自身がそんなに聞いてくれっていうか、どうなのかな。
求めてないのか、求めているのか、聞いてもらいたいときにわーって喋るときもあるから、聞いてもらってたりもするかな。
ここまで聞こうとしていること豊かなんですよとか、そこまで感じてんのかなって。
ただ、聞けてないなってことがすごくわかりました、このコースに出て。
自分が聞けてないんだなっていうのをすごく感じた思いがあるんだよね。
普段喋ってて、会話をキャッチボールしてるつもりなんだけど、
その人の本当の本心みたいなものを、やっぱり普段聞けてないよねっていう感じがしたかな。
ただ、私もう一個仕事としてもそれをやるときは、ちょっとモードがやっぱり切り替わるというか、
なんでそう感じてるんだろうみたいなこととか。
あとスマップのときも、でもちょっとモードが違うときがあるなぁとか思いながら、
一応ちょっと読んでたって感じかな。
モードが違う。
モードがちょっとそういうので変わったりするけど、
じゃあ普段それと同じモードのように深く、その人の奥深くまで聞けてるかというと、
ちょっとそれは、わりに通常モードで言ってる感じ。
通常モード。
通常モード。
なんかあんまりそこまで全部のことを聞くと、それだけであるスイッチが入ってる気がしますよね。
なんかモードというか、エンジンの何かが違う感じがあるかな。
道筋とティッシュってね、色が違うという。
人を聴く文化の意義
いまだによくわかんないけど、なんすかあれ。
こういうのやるんですかね、山岸も。
やらないですか、そんなこと。
あんまりやらないね。
あんまりやらない。
何だろう。
あんまりやらない。
相手が言いたいことは何なのかっていうのはありますけどね。
なんかね。
この場合でも、小野さんが何を言おうとしてるのか、そういうふうに発した意図は何だろうっていうのがありますよね。
情報こっちで処理するだけではなくて、
相手の意図していることが何なのかっていうことまで聞こうとするのか、
小野さん間違ってますよ、それティッシュペーパーですよって反応するというパターンでいくのか、
相手とどういうふうに距離を縮めていくのかっていうあたりだと思うんですよね。
相手は何か意図してそれを雑巾っていうふうに呼んだわけじゃないですか。
なんで雑巾っていうのっていうあたりをね。
ただこういうふうに聞いたら正解っていうことでもないと思うんで。
距離を縮めていく、相手のシーンを聞いていくっていう辺がやりたいことなのかなと思ったりします。
相手が喋ることを正確に伝えてくださいっていう話ではないと思う。
聞くことの難しさ
長木さん、この話のオチは誰なんですか。
これのオチというか、どういうふうにしてみんながこのセッションを終わっていくのか。
何を聞いたとかってその後すごい聞かれたような気がする。
どういうふうに受け取ったみたいな。
それを、だからあなた間違ってることを言ってるよねっていうふうに。
だから例えば勘違いしたんじゃないとか、言い間違えたっていう説もあるし、
ただ言い間違えたんじゃないかっていうふうに感じましたっていう人もいるし、
何か意図があったんじゃないかって思う人もいるし、
何か考えてることがあるからわざとそう言ったんじゃないとか、
どういうふうに聞いたの?みたいなことは答え合わせしたような気がする。
意外にみんな、そんな答えもあるのねって。
だから私、当然言い間違えただけでしょとかって思ってるみたいな。
だったら当然言い間違えた。みんなそう思ってんだと思ってたら、
え、そうじゃないの?その後ろにあるんじゃないかって思う人もいるとか。
そういうのを聞くと、なんかいろいろ違うねみたいな感じ。
本当にどうだったの?とか、やっぱりコースだから、それをやってそこでも答えを出さずに、
じゃあ次これやってみましょうみたいな感じで、
じゃあ今度は平仮名の文章を言うから、これはどういうことだと感じたのか発表しますみたいなのがあったりとか。
ありましたよね、この本の中でもやってたけど。
その何だっけ、パリでなんとかだったとか、そういうのがありましたよね。
パリに行ったんですとかね。
そうそう、それをパリに住むなんとかさんなのかとか、パリって店があったのかとか、いろいろ思い方があって、
何をこの人が言いたいんだろう?みたいな、思っている、だったと思います。
おだち。おだちはご飯中かな?聞いてるかな?
結局これというのは、その後のセッションに言える価値が出るっていう感じだった?
そうそう、後のセッションっていうか、人を聞くって本当に何やってるんだろうねっていうのは、もっとその後ずっと喋っていくから、
あなた何聞いてるの?とか、他の人を聞いていくってどういうことなんだろうね?みたいな問いがいくつもあったような気がして、
なんか終わった後に一番私は、おーって思ったのもあったし、自分から聞けてないっていう認識が強かったから、
コースの中でもね、人を聞くってすごい後ろの方にあるんですよ。
だから3円通行、1番最初の毎何とか、なんか1個、2個、3回ぐらい出ないと、次の人を聞くに行けなくて、
人を聞くだけで出たいんだけどって言ってもダメです、みたいな。
えーって言って、聞けてない自覚だけはあるんで、人を聞くだけで出してほしいって言ったらダメです、みたいな感じで言われて、だいぶ後ろだったんですよね、人を聞くのコースが。
自分を知るコースを出ないとダメとかって、なんか2個かそのぐらい出ないと、人を聞くは受けられませんよ、みたいな、なんか分岐があって。
社会のコースとかっていうのがもう一番最後なんですけど、社会の1個前ぐらいに人を聞くがあったような気がする。
だから、1個、2個、3個ぐらい受けてからじゃないと、それを受けれませんよ、みたいな。
結構上級コースだった。
コミュニケーションの本質
森 そうだったって感じですかね。
そんな感じかな。
森 で、本の中でもやっぱでも一番私これが一番わかって、あとなんか書いてるのがよくわからんって言ったんですけど、
バーって言ってもなんか入ってこない?けど、人を聞くのコースのこれはなんか言ってることがわかるし、やっぱり常に何度聞いても
できてないところがやっぱあるなって感じるコースだなっていう感じ。
この話は、じゃあ僕からしよう。ずっとカウンセリングのクライアントセンターを7年ぐらい先生とやってたんですけど、
自分がいかに聞けないってことはまだまだとわかる、という蓄合力を取って、みんなで戦闘するってやるんですけど、
すぐ判断しちゃうんですね。判断本能がすぐ持ち上がって、
ガリ屋とか自分のために聞くとか、自分の疑問解消するために聞くとか、その次に来るのが自分の世界で相手を捉えるという、そういった癖がだんだんわかってきたり、
こっちが空っぽにならないといけないのに、なかなかできなくて、というのが本当に長年あったんですけど、
さっきの 戸島さんが言ってたことも、理解してくれるとか言うじゃなくて、聞いてくれるということだけが嬉しいというのは、
わからんこともないと思いました。本当に何を真剣に、どう真剣に見てくれるんだっていうのは、カウンセリングの場だったらやるんだよってことを。
本当に相手のことを理解しようとか、そういうルーがない感じがするから、こちらはフラットになって、とにかく鏡みたいになって、
入り口だけ打って終わりみたいなのがよくあったんですよね。聞いてもらってる方と、僕もやってもらったんだけど、
だんだん、相手が鏡みたいになってきて、透明になってくる感じがするんだけど、そんな感じをしましたね。
もちろんセッションでやってるんで、当然真剣に聞くんだけど、普段できる方はみんな実はそうじゃなくて、
カウンセリングの仲間って面白くて、普段全然人の話聞いてないですよ。
で、モードが変わって聞くようになる。みんな言ってました。いや、普段全然聞けないんだよ。聞く気もしないとか言ってました。
特に野村さんのことは聞く気もしないとか、お旦那のことは聞かないとか、みんなそんなことばっかり言ってた。面白かったです。
一番大切な人なのにね。
一番難しいっていうか、一番難しいのが、その夫婦の間でね。
どんちゃんどう?これ聞いて、この文章を読んで。
そうですね、いろんなことを思ってたんですけど。
でも、お互いの存在を確かめ合う行為みたいな感じがして、
それがすごい豊かだし心地いいんだろうなって思ったのが一つ。
あと、近い距離の方、パートナーとか、ご夫婦とかの場合は、
やっぱり人を聞くっていうのって、結構脳の処理がすごく使うと思うんですよね、エネルギー的に。
どうしてもやっぱり省エネで暮らしたほうが楽だから、
普段、近しい方とか、普段の生活の中では結構、
なんか最近、面白いYouTubeを見て、会話の0.2秒を言語学するっていう本の紹介の動画だったんですけど、
その0.2秒っていうのがキーポイントになってて、
人が発話した時に、何を買いそうかっていうのも0.2秒で決まってるらしいんですね。
ということは、脳の中で予測変換して、こうだろうっていう検討をつけて、脳の省エネを図っているっていうことらしいんですけど。
じゃあ、なぜそれをするのかっていうと、パートナーとかだと信頼関係があったりとか、そこに甘えがあったりとかするから、
そうなりやすいんだろうなと思っていて、
だとすれば、それはそれでいいんじゃないかなって思ったりもしたところです。
何かトラブルがあって解決しなきゃいけない場合には、それをする必要があるんですけど、
常に常に100%それで日常を生きると、多分すっごいドッと疲れるような気がするので、
やっぱり、近すぎ方とかには、そういう、それでいいんじゃないかなとかっていうふうにもいいなと思います。
なるほど。はい。どうですか?
その0.2秒って話、何だっけ、人が何か行動しようとするときに、自分が意識した0.2秒前に、
もう体の方は反応してるって話を聞いたことあるんですけど、そういうのと一緒ですか?
私その話は知ってるんですけど、それと一緒っていう感じはちょっとしなかったんですけど、
例えば、人が会話、発話し始めて、反応するっていうのをボタンを押すテストをしたらしいんですけど、
人の会話だと0.2秒で反応するのに、それが会話ではなく、普通の何でもないピーとかそういう音の場合は、
0.2秒で反応できないんですって。
言ってることわかりますかね。
もっと反応に時間がかかるんですって。聞こえたっていうのに。
じゃあ、もう最後まで聞かなくても予測してるってことですね。
そうです、そうです。
脳がもう、確かに同じかもしれないですね。もう先に動いてるってことですもんね。
そんなイメージかもしれない。
普通の物音だと0.2秒で反応できないのに、人の会話だと0.2秒で反応するらしいんですよ。
だから最後まで聞けよって話になるわけですよ。
どう、奥村さん、この人を聞く。
一つの方法だと思うんですよね。言語によるやり取りっていうのはね。
それに頼りすぎたらいかんなっていう気がして。
確かに。
補助的なものと捉えるぐらいのほうがいいんじゃないかって。
そっちよりも、その人から発せられるものを受け取るっていうことに力を注ぐっていうか。
医者の中でね、一番難しいのが、周囲だって言うんですよ。
動物たちは言葉喋らないでしょ。
体の状態から全部読み取っていくわけですね。
次に難しいのは、小児科ですよね。
子どもも熱出したりいろいろするけど、自分では症状を言わないから。
難しくなるのは大人ですよね。
違うことを言うから。
こっちが言葉で惑わされるっていうか。
全然大丈夫じゃないのに、全然大丈夫ですとか言ったりね。
正しく報告しなかったりすると、医者はもう混乱するわけですよね。
最近、患者の顔を見ない医者が増えてるって。
パソコンの画面ばっかり見て、数値だけ見て薬を処方するみたいなね。
人は体をいろいろ見た状態で問診して、それで診断するっていうのが本来の仕方だと思うんですよね。
なので普段の人とのやりとりも、まず目で見て指針ですよね。
指針して、ご機嫌伺って、顔を見て。
大事。
今のお話聞いて、人は違うことを言うっていう。
最近、知り合いが言ってた人とのトラブルの中で、畑をみんなで協力し合ってやってるらしいんですけど、
どんどん、なったらお野菜取っていっていいよって言って、場に受けて、取っていってたら、
私まだ一個も収穫してないんだけど、とか言う人がいたりして、あれ場に受けたらダメだわ、とか言うのを聞いて思い出したんですけど、
京都の人とかでよく、いい時計してますね、とか言うと、本当は早く帰ってほしいっていう意味だったりするとか、あるじゃないですか、独特の。
それを今思い出しました。
確かに違うことを言って、そこから汲み取る力って、難しいなと思いながら。
なるほど。
いい時計してますねって言って、時計を見ろよっていう話。
そうそう、時間見ろよっていう、今何時だと思ってんだっていう。
そういうのも考えられる。
なるほどね。
存在の認識
そういうことあるなって思いながら。
私でもこの文章っていうか、存在の認められることが例えば嬉しいんだとしたら、
一番身近な人に対してこんなにおざなりになってしまうのは、もちろん大変っていうのもあるんだけど、
何なんだろうね、存在を一番認めてほしい人が認められないというか、普段なんかおざなりになっちゃうっていう。
何で起きてるんですかね。
うん、何で起きてるか。
あのね、僕の心情を言うとね、なんだろうな、めんどくさい。
めんどくさい。
長い時間いるからですか?
それはある。
ゆっくりね、聞こうとしようとしてもね、
僕の中の何かがざわついて、早く切り上げようとしてしまう。
だから、切り上げるには論理的にパチッと言えば終わっちゃうので、切り上がっちゃうんですけど。
なんかね、待てない感じがあるんだよね。
待てないというか、めんどくさいというか。
話の内容が変わらないことですよ。
本当に今日何やってねみたいな話で。
だから、先ほどももちろん、待てねえ自分がいるな、ちゃんと自覚はできるんですけど。
でも待てないですよね。自覚はしても待てない。
今一つ私の中で浮かんだのは、同じことを繰り返すから。
結構激しいかも、私の場合は。
ああ、そっかそっか。
なんかこう、同じ質問、同じ返しみたいなことにちょっと飽きるというか、激しちゃう。
そこがなんか苦痛に変わるというか、どこか。
なんかそれがちょっとあるのかな。
それが一番大きいのかもしれない。
長い時間いたからとかではなく、なんかデジャブ感が何度も何度もいると、それが日常感になって。
日常感がずっともっと重なっちゃうと、なんか飽きちゃうというか、新鮮味がないから。
またこんなことを聞いてきた。この人はこうに違いないっていう、なんかパターン化するみたいな。
でも本当はパターンに当てはまってないんじゃないかなと、今思ったりはするんですけど。
でもなんか、その繰り返し。
例えば毎日出かける時に、何時に帰ってくるの?とかっていうこと自体も、
なんかこう繰り返し。
例えば最初は、何かいつ帰ってくる?帰ってくるの待ってるよってことなのかなとか、最初はいい感じに思ってるかもしれないけど、
だんだんなんか帰ってきて欲しくないのかなとか、なんかうざいと思ってるのかなとか、
ギャグのこともしっかりなのかもしれないけど、何かこう繰り返していくことによって慣れちゃうというか、
なんかそれはすごく起きてる感じがするかな。
やっぱり特にうちの母の認知症とか、今何時?今何時?とか、今日どこ行ったっけ?っていうのを何度も何度も聞かれると、
その奥、その人は何を感じているからそれ聞いてるのかなっていうところにやっぱり行き着かなくなるっていうか、
なんかできるだけその時間をすごく短くしたいみたいな、っていうのがちょっと発動してしまう感ありますね。
短くしたい。
でも本当は一番大切な人だから何とかって聞いてあげたい気もするんだけど、
本当にでもじゃあ例えば真剣に聞いた時が何回かあったとしても、そこ?っていうところにしか行き着かなかったにすると、
もうなんかあんまり聞いても、あれか、みたいなのはあるのかな。
聞いている中身よりも、かまってほしいっていう。
そうそう、それもあるんですよね。
かまってほしいだけの場合はね、付き合うしかないじゃないですか。
そうだね。
確かに、本当ですね。
時間、今何時って聞かれて、時間が知りたいわけじゃないんですよね、本当は。
なんかね、ちょっとこっち私も存在してますよ、みたいなね。
でもそうすると返す言葉がおざなりで厳しいから、だんだんだんだ。
反応することの誤解
こっちもワンパターンじゃなくて、いろんなパターンを用意しておいたら面白いかもね。
そうね、今思いました。じゃあ何をやりたいのかなと思って。
でも何をやりたいから出てこないんですよね、これ。
わかりますよ、喜ぶのはね、甘いものを食べに行くときに喜ぶんですよ。
アイスクリーム食べようかとか、ケーキ食べて帰ろうかとかって言ったら、めちゃくちゃ喜びますよね。
それはわかるんですけど、どうなんですかね、どういう答えがいいんだろうか。
まあでもそうですね、何となく存在確認とかそういうのに近いかな。
そんな気がしてきた。
もうちょっと読んでみますか。
はい。
おだちはどうなった。
これですね。
はい、そこです。
どこまで行ったんでしたっけ。
牛丸さんのどんなことに気づかれましたか。
聞くことは反応することというところからです。
トンちゃんに次。
聞くことは反応すること、ひろこさん。
いろいろ衝撃があったんですけど。
その前のページ?
その一番最初の授業から読んでもらった方がいいのかな。
ひろこさん。
私も週1回カレッジに参加してて、そこで理論的に聞くを調べるのと、
それに照らして、自分の実際はどうかなっていうことの繰り返しをしてるのが大きくて、
まず心という言葉は考える、思う、気持ちなど、
頭の作用全部含めて一応心としておくと押さえてのスタートだったのね。
相手の心に関心を持つことはそれ全部だからね。
私の中では話がすごく楽になったわけ。
その都度自分だったらどうしてるかなって、
自分の知恵を捕まえていけるようになったっていうのを言うかな。
カレッジの中で聞くことを整理してたどることができたのは、
物分かりの悪い私にはラッキーだったんですね。
触っちゃった。
なんで触れちゃうとこうなっちゃうのね。
まだ途中だったんです、なぎさん。
だよね。
カレッジの。
はい。
しんまるさん、どんなことに気づかれました?
聞くことは反応すること。
ひろこさん、いろいろ衝撃があったんですけど、
私も相手のことを知りたくて聞いてるんですが、
すごく勘違いしているんだなということがいくつかあって、
お願いします。
それはどうも反応しなきゃいけないって勝手に思い込んでいて、
それって習慣でずっときてんのかな。
聞いたら何か言わなあかんみたいな感覚で聞いてるんですよ。
それはあまり意識したことがなかったんだけどね。
相手のことをすごく思ってる。
よく知りたいんだけど。
そのもう一つ前に反応せなあかんみたいな感覚があるから。
そこに一番感染が入っちゃってるのね。
相手が何を本当に言おうとしているか知ってからの反応じゃないんですよね。
聞くことイコールすぐ反応する。
ざっくり言ったらそのぐらいの習慣になっていたということに気がついたんです。
それって自分の頭の枠組みなんですよね。
その枠組みに気づかないで反応したことを一生懸命解決しようとしてきたことに気づいたんです。
疲れたねって言われたらお水でも飲むというのが良いくらいになってる。
本当にどっさに反射で起きるわけですよね。
相手の方に関心がいくというよりは反応することに関心があるからね。
そんなのすごく面白い発見だったんですね。
まずその枠組みの長烈さに気づけたのは大きかったですね。
はい。
人との真正な関わり
牛村さん。
はい。
たぶん今のような話って一般的には普通の会話という認識ですよね。
例えば疲れたねと言ったらお水でもどうとか、それのどこが問題なのかと。
3年ぐらい前だったと思うんだけど、僕の奥さんが腰が痛いって言うんだよね。
で、病院行ったらって言ったわけ。
自分では全然普通の返答なわけね。
腰が痛いなら病院に行けよって。
だけど。
うーん、だけど。
とか言うわけで。
で、また腰が痛いと言う。腰が痛いとか言う。
だから病院行けよって強く言うとまたそうなんだけどそういうことじゃなくてとか言う。
で、いい加減にしろよ。病院に行けって言ってるだろって喧嘩になっちゃう。
なんでそうなっていくのかなって。
何がおかしいか自分ではわからないわけ。
こっちにしたら心配して言ってるのにそういうことを言ってるんじゃないとか言うわけ。
じゃあ何が痛いんだ。腰が痛いなら病院に行くしかないだろって。
言い合いになる。
それが3年ぐらい前でこのことのおかしさに気づくのに随分かかったよね。
腰が痛かったら病院に行くというのは自分の頭の世界だっていうことに気づかないし、
自分の中でははっきりそういう時は医者に行くだろうってなってるしね。
その上で腰が痛いっていう相手の気持ちがわかったとなって、
相手のことを思って言ってるとなってるから、相手の本心があることに気がついて気づかない。
何が痛いのかなと相手の方へ行かない。
さっきもやったんですけど。
次変わってもらいましょうか。
人の話を聞くと人の話を聞く。
宮地さん、人を聞くコースでも心と言葉っていうので調べて、
人から出る言葉って言ってもかなりはかれ知れない心の中の、
そのうちのどこかの部分が言葉として現れてるって調べたらそうだなって思うな。
牛丸さん、具体的にどういうことですか。
宮地さん、僕らの場合、小野さんが僕の話すのを聞いて、
何が立ち上がるかを観察しながら、僕の話をよーく聞いてくださいという課題をやってみた。
例えば先日、SCSで坂井さんがという感じで言っていくわけ。
何を思い浮かべたかを出し合うと、先日と言っても2、3日前という人々や1ヶ月前の人もいる。
SCSと言ったら、鈴鹿カルチャーステーションSCSの玄関のカフェを思い出す、思い浮かべる人もいたし、
坂井さんは全員SCSの坂井さんを思い浮かべていた。
一致したねとか、みんなで言っているの。そんなふうにみんなよく聞いて発表したわけよ。
僕の話ということで、小野さんの話を聞いてみると、先日は数ヶ月前。
SCSは鈴鹿カルチャーステーションなんだけど、奥の部屋の前の廊下というわけ。
坂井さんは生肉をやっている坂井さんのことだったんだよね。
僕の話を聞くとなったら、小野さんの話だよね。
でもそれを聞いた僕は、全部自分の受け止め方で聞いて、それを小野さんの話を聞いたとしている。
それは人の話を聞いているのと、本当に人の話を聞くというのとは違うということなんだよな。
その時は晴れ晴れと全く違うということに気付いた。全く違うんだ。
音柄が当たっていても違っていても、全部自分なりの捉え方。
それからもう笑えてきて、だから一体何が自分の中で残っているかというと、
やっぱりさっきとしみちゃんが言ってた、相手に関心が入っていないというか、
言葉は聞いているけど、その人に関心が入っていない自分なんだなと、すごく楽しく気が付きました。
白子さん、小野さんはこのコースが始まって半年になるけど、
まだ一回も誰一人僕のことを聞いてくれたことがないと言ってましたね。
自分がああ思った、こう思った、ああ思い違いだったと盛り上がって、僕一人が取り残されているんです。
でもそういうことを普段の会話ではしているんだなと思ったんです。
宮崎さん、小野さんがいないということ。
白子さん、そうそう、ああ聞いた、こう聞いた、で盛り上がったね。
宮崎さん、その辺から聞くと、人を聞くとの違いが、僕の中ではポッと出てきたね。
出てきたな。聞くっていうのは耳で聞いて、さっきの病院の話ではない、話でないけど、
何?痛い?それなら病院に行けよという感じ。
いかにも相手のことを思っているようだけど、あればあれと自分側のことで言っている。
白子さん、本当にすごく無防備なことをしているんだなとしみじみ思ったんですよね。
言葉の限界と理解
よくわからないのに、いきなり踏み出していく感じをしょっちゅうやってたな。
だけど言葉でコミュニケーションする以上どうしてもありますね。ありますよね。
そういうことはね、言葉でやりとりする限界があるんだなと思ったわけ。
自分なりの言葉で理解しかできないから、でも自分なりの言葉で理解しているんだと
自覚することとしないのでは全然違うんだな。
さっきも宮崎さんが言ったけど、言葉はどういうものかをよく検討してみたら、
やっぱりいろんな心の状態とか、その人の育ちとかで使い方も言おうとしていることも
その人なりの背景があって、その中で言葉を使って何かを言おうとしている。
日常の聞くというのは、言葉を聞いてそれですぐ連想を始めるという傾向があるんだな。
言葉だけじゃなく。
様子も見てるんだけどね。
でも言葉でやっていく以上、そういうことが出てくるんだよな。
出てくるんだなというのが面白く楽しく発見できて。
子供に接している時はまだはっきり喋れないし、何かを体で表しているでしょ。
体の欲求や気持ちや意思とかも、全部を言葉じゃなくて。
そういう時はやっぱり言葉じゃなくて、その子そのものに関心が向いて
どうなのかなという視点が自分の中に出ているのが自分でもはっきりわかるんだけど
成長して喋り出すと、だんだん自分も言葉で反応してやり取りする。
子供が相手だとまだ観察しようという視点があるけど
大人になるともうほとんど言葉のやり取りが主になっていくのが何でだろう。
言葉を聞いたらわかるみたいになってしまっている。
そういうことは人を聞くためのコースで調べて、相手の音声を聞いて
全部自分の捉え方で解釈しているのは自分なんだということは理解はしているんだけど
でも人と本当に話したい、そういう欲求が誰にでもある気がして。
聞いてもらえる人がいる。
面白かったの人生を知るためのコースの時に、他の参加者の人が話を聞いてもらってないというのをずっと出して
その姿を1週間見てて自分はあまりそういう感覚はないなぁと思った。
自分の一生を振り返った時にやっぱり必ず聞いてもらえる人がいたし
自分からもそういう人を探してた。
聞いてもらってた人がいなくなった時は自分でも探して人に聞いてもらってたなぁ。
聞いてもらえるのは心の安定にもものすごく大きいんだなぁ。
いろこ、自分もそういう実感があってね。
ちょうどマンションの上の、私の上の階に住んでいるAさんは
心センターのスタッフでもあるので話を聞いてほしいなぁと言ったら
家に遊びに行くよと言って来てくれた。
普段は話をしてもなかなか安心できることも少ないんだけど
その時は本当によく聞いてもらったんですよ。
何人にも遮られなかったし、とやかく言われることもなく
励まされることもなく、だけど励まされたなぁと感じたわけ。
言葉で励まされたというよりそのままを認めてもらっているという感じを受けたわけだよね。
だから安心して話ができるわけね。
いちいち言い訳しないでいい感じだった。
ぐちゃぐちゃ解説もいらないし、率直に単純に言える感じになるのね。
楽だなぁと感じた。話しても状況は何も変わらないけど
何か自分が落ち着いたわけね。
自分自身も声に出して話をしてみると
ああ、そんな風に思っているんやなぁと自分でも整理がついた感じ。
なかなか心の中をあからさまに安心して言えないから
頭の中でぐるぐる思っているような面もあったのが
さーっと並べてみれたという感じかな。
自分としては今からどうしていこうかなというのを考えたらいいんだなと思ったわけ。
どう選択しても応援してくれるんだなという感じを受けたわけですよ。
大きく間違ったら言ってくれそうだなとか思って安心したの。
そういうのを味わうと
自分も安心してリラックスしたし考えやすくなったのと
他の人に対してどういうことかを聞いてみようか
そんな余裕が心に出てくるようになったの。
それはごく自然な感じでそうなっていくんだなぁと感じている。
人を聞くことにはそういう一面もあるのかな。
はい。どうでしょう。続けた方がいいのかな。
聴くことの重要性
ここで終わりにしましょうか。とりあえず。
レオさんどう?ここでとりあえず終わりにしてみたらどうか。
本当は死にたい相手の心までは言ってないんですけど。
はい。こんな感じ。
どうかな。もうちょっと言った方がいいのか。
ちょっと先長いですね。
もうちょっとやった方がいいですか。
入れぬいがある。
決めつけに気づくとっていうところ。やめましょうか。
あと2ページとか。ちょっとレオさんに代わってもらおうかな。
宮地さんと。
本当は知りたい相手の心。宮地。
さっき八重子さんが、お母さんがまだ喋れない子供のことを聞くときのことを言ってたけど
聞くのは実は難しいわけではなく、人間にはもともとそういうふうに聞くことができる能力がある。
聞くことができるというか、関心を受けていくということだと思うけど。
知りたいという気持ちがあるということと同じかもしれない。
そこに関心が浮くということ。
小さい子を見ていると子供同士関心を持ってやっていることだと思うんだよ。
分かるかどうかは別として、難しいことじゃないんじゃないかと思った。
でもだいぶいろんなことで、もともとあるものを妨げている要素が大きいんじゃないかなと思った。
すぐ反応するというのも教育の成果だと思うんですよね。
すぐ返事しなさいとか、教育で習慣づけるでしょ。
言うことでも相当、人を触っているなと思う。
聞いたらもう自分の頭にパッと出てくるものに関心がいく。
そっちに関心が行っちゃう。
それがあるために相手に関心が向かないということを、人を聞くためのコースの検討会では調べた感じがするな。
だから本来なら関心がどんどん人に向いていくはずなのに、自分にパッと出てくるものに関心が行ってしまうことで、そこを遮断する。
一瞬で出てくる。
頭で理解できたから出てこなくなるとは思えないな。
じゃあ諦めるもんではないけどね。
反応が出るんじゃないかと思っていて、たぶん聞くということの理解が薄いときは反応に振り回されちゃう。
反応に関心が行っちゃう。
聞くがどうなっているかを少しずつ知っていくと、反応は出てくるけど、反応を捕まえられる。
捕まえられないときもいっぱいあるけど。
聞くのは難しいという印象が強かったけど、さっきの例でも、雑巾って聞いた時点で、なんで雑巾と思っているんだろうと、私の中に疑問が出てくるけど、
それを何か考えているのだろうなと自分で勝手に解釈している。
あの場面では、私の中では、私には実質に言える。
何だこの三画雑巾というんだろうという疑問があって、正直なところを聞きたげるわけよ。
疑問があるのに自分で納得しようとするというのが一つあったな。
また私は知りたいのに、知りたかったら聞けばいい。
そんな簡単なことを素通りにしていると思った。
ここで思ってさ、やりとりがもっとストレートで、「え、なんで?」とか聞くでしょ。
たぶんこの場合だったら、「なんで、それ雑巾じゃないじゃん。ティッシュじゃん。」と言うだろうと思って。
疑問だから相手に聞くんじゃんね。
ああいうのが人を聞くというか、自分を知りたいし、相手にどんどん発露していくといったことがすごく自然な感じがして。
難しく考えて理論でやろうとすると、ごちゃごちゃしてきて、ややこしいから嫌になって。
でももっと自分に素直に当てていくと、そんなん感じるようになれる。
はい、以上ですかね。
どうでしょう、ここまで。
何か感じたこととか、ここ話してみたいなとか思うところありましたか。
反応は出る。
相手に関心を向けるのは難しいので、相手が関心を向けているものに関心を向けるということをティッシュでやったことがあって、それがやりやすかった。
言語と分かり合うこと
相手が関心があることに、こちらは関心がある。
一応話しやすいですよね。
関心がないことを無理やりこっちの言いたいことでやると、無関心になっちゃうし。
相手に関心を向けると言っちゃうとちょっと、人に関心を向けるようになっちゃうんだけど。
相手が関心を持っていることでやると、いわゆる対象ごとになるので、話しやすいなという印象が多かった。
結果としては話を聞いてくれたなという。
両方テーションあったんですけど。
結果としてはどっちもちゃんと聞けてたなという印象は起きてもらいましたね。
ちょっとぶっ飛んだ話なんですけど、犬と会話するっていう。
犬にね、このボタンを覚えさせるんですよ。
お散歩行きたい時はこのボタンとかね。
ご飯が欲しい時はこれを押すとかね。
犬にそういうのを覚えさせて、コミュニケーションをとるっていうのがある。
それに近いなと思って、人間の言葉のやりとりって。
自分の伝えたいことを伝えるスタンプ的な。
何だろう、ラインスタンプとかあれもそういう感じだと思うんですよね。
それで、それに乗せて相手に分かってもらおうとするっていうか。
簡単なスタンプ1個で要件を伝える。
それのいろいろ複雑化したものが言語なんじゃないかなと思って。
その反応を見てるというか。
ラインスタンプ自体は反応ですか、それとも?
反応でもあるし、意思表示でもある。
バスク語が3000語とか、すごい元々少ないワード。
本当にシュタルものしかなかった単語とかも。
日本語も例えば増えていってるじゃないですか。カタカナワードがどんどん増えていくみたいな。
結構その時から使ってなかった言葉がスペイン語に似たような言葉として増えていってるんだけど。
本当に何か必要なことは、生活の中に必要不可欠とか、どうしても表さなきゃいけない言葉だけしかなかったみたいなことを聞いたこと。
聞いたことがあったなと今すごく思い出して。
そう考えると、そもそも分かり合えるっていうことはできないんだよね。
それはなぜならみんなそれぞれの世界で生きてるからね、みたいな。
でもお互い繋がっていたいから繋がっていたいとか、ある程度会話をするんだけど、
全部分からないっていうのはもうお互いに分かってるよねっていう前提で話すから、みたいなこと。
本来そうなのに、私たちは今この現代においてすごく言語に依存してるというか、過信してるのかなって何かだんだん思ってきたんですけど。
何かこう分かり合えるという過信だったり。
聞けばね、聞けば分かり合える。
聞けば分かり合えるとか話せば分かるみたいな。
過信だし、みたいな。
全部が自分の思ったことを表現する、できるっていうのもあれだし、
人が受け取ってくれるとか、分かり合えるっていうのも全然もう無理だし、みたいな。
そんな中で繋がりたいっていう思いがあるのよっていうのだけは知ってるよ、みたいな。
って言ったら何か、もっと何かその存在で、ごめん今聞けないんだけどね、みたいなことも言えたりするのかなとか。
もっとそれぞれ何かちょっと関心のあること喋ろうよ、どうせ聞けない私たちだから。
何かだんだんだんだん過信してるんじゃない、私たちっていう気がしてきたんですよ。
喋ってた。
より何か、何かそこをもっと、分かっても分かんなくてもいいんだけどでも、
なのか、何かそこまですごい期待せずに過信せずに何かもうちょっとフラットに話せたりとか。
自分のこう、今はこれはこういう思いであなたに伝えたいと思ってるんだよねとかっていうこととか。
でもそれは聞きたいなあという思いがあるよとか、何かそういう、何かね、あれですね。
感情の共有と理解
何か先ほどの文章の中にあった腰が痛いと病院に行けないような、あの水かけろみたいな、何だろうあれ。
でもあるあるだと思うんですけど。
うーん。
そうだよね。
その後出てきたりとかするとさ、病院に行きなよって言って、私が病院に行きたくないって知ってるでしょとかって言って返したりとかするとかさ。
何か、どうなんだろうね。
何か読んでて面白かったんですけど、あるなあと思って。
でも何かやっぱ、言ってる方としては分かってほしいみたいな気持ちがあるんだろうなあみたいなのもありつつ。
何かそこに期待が込められてるというか。
寄り添ってほしいみたいなのをちょっと感じたんですよね、読みながら。
でもすごいそこがさ、何か面白いというか。
何か密かに期待してるんだけど、どうせ分かってくれないよねっていう拗ねてる感も全員が持ってる。
うん、そうそう。ありますね。
何か、そういう思いが。
どうせ分かってもらえないみたいな感じに。
どうせ分かってもらえないをみんなが、ほぼほぼみんな持ってるんじゃないか。
どうしてもなんか私は女性の方に感情移入しながらちょっと読んじゃったんですけど。
だから病院に行けって言ってるだろうっていう方の気持ちがちょっと私は分からなくて。
それは聞いた方がいいんじゃない?レオンさん。
聞いた方がいい。
どんな思いって思いますか?
あのね、これちょっとやってみて。
分かってるんだよ。こっち。
分かってる。
僕分かってるんだよ。
分かってるのに、いやだから、分かってるのに関わらず病院に行けよっていう。
うん。
分かってないわけじゃない。
何か分かってほしいなーっていう感じで言ってるのは分かるんだけど。
その次、痛いんだねーというのが恰好恥ずかしいんだよね。
あら、それは子供のような無邪気な素直さがないってことですよね、最後の。
恰好恥ずかしいので、で、病院行ったらって。
という言葉にこれが変換されてしまう。
分かってる。
本当。
実は。
あとね、あんまり近いもんだから、やっぱりなんか今更感もあって。
例えばこれが付き合ったばっかりの感じとちょっと言い方違うね。
やっぱり。
なんと言ってもね、腰痛いのがそうなのって痛いのねって言うよ、俺。
会いたいよってか。
会いたいよって変わる。
会いたいよって変わると。
変わる。
そうですよね。ちっちゃい女の子が腰痛いんだよねってどうしたの?って言うもんね。
そんな若くて腰痛いなんてどうした?みたいな。
痛いねーって。
あとね、もう一個深いところにあるのがね、
こちらがそうやって優しくしたり分かってあげたりすると、
こちらが取り込まれるような気がするのよ。
自由がなくなる、自分の。
なるほど。
自分の自由を渡してしまうような感じになって。
それがね、ちょっと抵抗する。
だからあえて病院行ったらっていう。あえて行ったら。
切り離す。
複雑な男の子。旦那の子に。
面白いですね。
男の子の方が強いな。
新鮮だな。分かって言ってる。
分かってる。分かってるですよ。
言われてみればなんかそんな気はしますね。
あえてじゃあ、あえて落ちた。大変だねーって。
何を言わさがるみたいなこと言われそうだ。
どう答えてもボケそうになる。
なるほど。
なんかね、相手を人として見ちゃうとね、どうしても病院行けみたいになっちゃう。
奥さんとして見ちゃうと。
ちょっと見方を変えて、大きな魂みたいな見方すると、
ちょっと違う感じがあるよね。
へー。
なんか違う感じがする。
もっと温かい寄り添う感じになるんですか。
自分と同じじゃんみたいな感じ。
同じとこにあるなと思うと、会いたいんだねーみたいな。
確かに。
なんとも言えない感じがあります。
基本的には僕は自分のことを手放したくないので、どっかであえて。
病院行ったら、調べましょうかみたいな。
おだちがなんか返ってきてくる。
対話の重要性
話を聞くとき向き合うのではなく、横に座る理にかなってますよね。
分かり合うことを前提にしてしまいますよねと書いてありますね。
ひろこさんの文章で、心なんちゃらっていう人に話を聞いてもらって、
すごく聞いてもらった気がするみたいに書いてなかったっけ。
あったあったあった。
あんな感じでいいのかなって思ったりするけどね。
中身が伝わったとか伝わってないとか関係なく、時間を共有してもらえた。
そこに価値があるみたいな。
それだけでいいみたいな感じじゃないですか。
腰が痛いって言って、病院行きようはね、ちょっと突っ跳ねてる感じやね。
もうもう打ち返してるって感じ。
何か受け止めてほしいなっていう。
僕だったらちょっと申しんしちゃうけどね。
何するかなぁ、腰痛。
でもちょっと腰痛とかって言われた時に、それこそ今のじゃないけど、
その人の内面に行くかとかよりも、
原因は何なんだろうかとか、何ができるんだろうかとか、
なんかそっちの方に行ってしまって、内面に向かない感があるんですよね、私はどうしても。
セラピストですよ、そりゃ。
セラピストになるか、何ができるんだろうとかね。
原因追及か、そっちに向いちゃうから。
結構その腰が痛いとか、他の病気でもそうですけど、
本当に治ろうと思ってない人は結構いますよね。
そうですね。
うちの母はいつも手が上がらないんですけど。
自分が何かができる人でいたいんだけど、
自分が何もできないっていう時に理由がここにあるんですよね、手が上がらない。
それいいじゃないですか。
だから必ず何かがあると、いてててててててって言うんだけど、
本当になんかちょっとヒーリングとか、
なんだろう、それこそ、
ヒーリングじゃないけど、
何か息をついてるよみたいなのを取ってくれる人がいて、
本当にピュンって上がったんですよ。
寄せてるよね、明らかにっていう感じ。
わざとここは痛い人たちだから、
邪気を寄せてる感じがしても、
だから上がらないのっていうのがあるんですけど。
そういうのって、
気からでもあるし、
もちろん多少擦れてるとかね、動きづらいっていうのはあるし、
ここで緊張すればするほどすごく重くなっていくから、
動かなくなってしまうし、
そこは絶対私も触れないんです。
やる気にならない、全く。
治せる気がしないんです。
治したくないんだよねって思っちゃってる。
それはあるかもしれない。
治したくないんだよねとか、
治っちゃったら、
本人が治りたいっていうのがないと。
だから本当にこの時に上がって、
ビデオを撮って、記憶ビデオを撮ってあるんですけど、
あんなに上がったんだよとか言っても、
いやー忘れた、わからん。
もう知らないと思ってるんだけど。
逆に本当に見えない世界の、
ヒーリングをやっただけで上がるっておかしくないですか?
なんか壊れてるとしたら。
惜しいよ、それは。
何度もそういうのが2、3回あっても、
本当にやる気にならない。
だから持ってあります。
でも痛たたたっていつも言う。
そうなんですよね。
でもなんか、そっか、
わかってるのに応答しないっていうのがあるのかっていうのも、
なんとか納得しちゃった、そこが。
救いがあるよ。
わかってないわけじゃない。
つかみ合うね、やっぱり。
なんかでも、どうなんでしょうね。
そういうのって、本当に、
時間を、2人の時間を、
例えば持ったりすると、
その存在を認めてるよ、みたいな時間、
わかんないですけど、知り合いの人が、
朝読書、2人で何かの本、
聖書じゃないけど、結構高尚な本みたいな、
ブッダの単二章じゃないけど、
聴く文化の創造
そういうのを読むとか、
2人でやってるとかっていう、
夫婦2人でご飯の後、
ちょっと何ページかだけ読んでるんだよね、とかって、
そういう共有した時間があると、
そういうのってちょっと減るのかしらと思ったり。
何か2人の共有時間みたいな、
意味で積極的にとって存在を認めている何か、
わかんないですけど、共同作業があるのか、
そういうお互いの存在を認め合う時間とかあったら、
変わるんですかね、こういうのって。
変わりそうですね。
逆に聞くか聞かないかとかって言わないで、
何か日々のルーティーンみたいなものの中に、
そういうのを組み込んだほうがいいのかな、とか。
たぶん要はそういう繋がりの時間が欲しくて、
言ってそうな気がしますよね。
さっきの個性が痛いっていうのは。
だから多いお茶ぐらいしか会話がない。
ご飯が来るとかね。
お風呂なんとかそれしか言わないとか、
日常生活の関係する言葉しか喋ってないとかっていうんじゃなくて、
どうなんでしょうね。
行動作業的なことがあると違ったりするのかな、とか。
自分で病院に来そうですよね、勝手に。
そうですね。
わかんないけど。
こういう行動の変化が起きそうな気がする。
どうなのかなってちょっと思ったり。
面白い。
で、私は一緒に母とのことを思った。
じゃあ何やればいいわけっていう。
つながりの時間。
本読む時間?散歩の時間?
2人で散歩したほうがいい?
散歩でも良さそうだし、
一緒に料理するとか、
一緒に何か作るとかでもいいような気がする。
一緒にミカの顔を向くとかちょっとわかんないですけど。
何か考えようとか。
それ何かやったら教えて欲しいです。
ぴょんちゃんも何かちょっと考えてそれ自分の。
何か思いっきり言うんだったらシェアして。
これやってみるとか。
そうですね。
震災の時にね、訪問して手のマッサージをね。
話を聞いてあげるっていうのがあったんですよ。
手っていうのはものすごく感覚が多いんですね。
手とか、感覚を大きく、
多いところをこうでかくした絵があるじゃないですか。
唇がでかくて。
脳の中のね。
名前忘れたけど、手はバカでかいんですよ。
手を撫でてあげるっていうのはものすごくやられても気持ちいいし。
相手も落ち着く。
今まで凶暴だった人。
怒鳴るような人もそうやってからすごく大人しくなったっていう。
手に行ってからこうね、スキンシップしていくっていうのはいいかもと思ったし。
なるほど。
はい、じゃあ感想などを聞きながら今日は終わりにして、
あともう一回って読み切れるかな?みたいな。
もう一回はいけるんですね。
はい、軌道記号をもうちょっと深めてみましたが、どうですか?
感想、誰から?
感想。
ちょっとじゃあ僕から一つ。
ピカートーがあるんですけど。
はい。
小野さんが自分の言葉を言ったときですね。
何ページだった?
人を聴くことの重要性
僕を置いてきぼりにしたっていうやつですか?
112ページ。
112ページか。
112ページって何だ?
人の話を聞くと人の話を聞く。
それ?
それそれ。
ところで、宮城さんの文章、最後の2行。
僕の場合、小野さんが僕が話すのを聞いて、何が立ち上がるか。
これはすごく大事に覚えて、自分の中にその話を聞いて何が立ち上がるかという、
観察をするっていうのが結構面白いなと思って見てました。
なるほど。
自分の中に何が立ち上がるか。
小野さんがティッシュを尿菌と言ったときに、自分の中に何が立ち上がるか。
今、立ち上がるのは、という感じで。
自分の中を感じるというか。
細かくこの辺り見たいなと思って。
前ね、ダイヤーズ瞑想っていうのをやって、そのときこんな感じなんですよ。
何を?
ダイヤーズ瞑想っていう2人でやるんですけど。
ダイヤーズね。
ダイヤーズ。
ダイヤーズ。
うん。
こんな感じなんですよ。毎回立ち上がってくるのを話すみたいなのをやってて。
すごくこう、なんか。
相手はね、単に合術も打たずに。
はい。
本当にお地蔵さんのように言うんですけど。
立ち上がってくるものを見るって、それを話してみるっていうのは、
これ結構大事だなと今、ちょうど好きなことが書いてあったはずで。
ちょっとこれ、そういう経験したなと思ったから見てました。
言語の限界
うん。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございました。
黒田さん、いきますか。
はい。
はい。
うーん、言葉には限界があるんだなっていうのは。
才能自身からでは。
うん。
自分がどこまでその人と寄り添うんじゃないけど、
近づいていこうとするかっていう、そこをその一点かなと思ったりして。
うん。
それがなかったら、無理しない方がいいな。
うん。
近寄らない方がいいかもと思ったりして。
うん。
相手がどういうふうに思ってるのかっていうのは、最初に知らないと。
さっきの腰が痛いのを治したい人と、そうでもない人がいるっていう。
前提として、腰が痛いって言ったら治したいっていう風に、
こっちは勝手に思っちゃうけど。
世の中そう単純じゃないっていうか。
うーん。
それを利用してる人がいっぱいいるっていうのも。
うーん。
それはでも無自覚ですもんね。
無自覚だけど、自覚させてあげないといけないよね。
あなたは治ろうとしていないって。
そうそう、そこが治ろうとしてないのは無自覚だからな。
それを知るとね、愕然とする場合もある。
うーん。
確かに。
そういう自分が、自分の何かそういうとこがないかなと。
自分が言い訳にしてることがあったりしないかなっていうのをちょっと思いました。
今は思いつきませんけど。
うん。
そんなことです。
はい、ありがとうございます。
そうですね。
なんか、すごいパーマカルチャーに興味があるんですけど。
何にも実践的なことはしてないんですけど。
パーマカルチャーの中では観察するっていうことをすごく大切にしていて。
なんか、人を聞くっていうこともすごくそれに近いのかなーなんていうこと。
関心を寄せるみたいなところを、
なんかやっぱ観察することにすごい近いのかなーなんていうのをちょっと最後に感じました。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
私出てこないかな。
出てくるかわかんないけど、私の先に。
すみません。
ちょっとね、母のお父さん対弟です。
どうする?感想とりあえず。
とりあえず、ちょっと待ってくださいね。
階段見えるところにいますので。
じゃあ私先にやってきます。
はい、すみません。
改めて、思いはあるけど、
言語の限界みたいなものを改めて知ったりとか、
もっと素直に自分の興味・関心があるのかないのかっていうことも含めて、
無理せずに、本当にそこでいいんだなーみたいな、
言語の限界も感じつつ、
本当に私がやりたいのっていうのは、
お互いに聞き合うっていうか、
それもやっぱり自分の世界であくまでも見ているっていうのを踏まえつつ、
人との関わり方
それでも聞いてほしいとかっていう時があるときは、
ちゃんと向き合ってやる方が身があるんじゃないかなとかって思ったり。
普段から何か感じる方法、
それこそ手のマッサージじゃないけど、
何かそういうことで、
お互いを感じる時間というか、
穏やかな時間を持ったらいいのかなーみたいな感じがしました。
はい、以上です。
あれ、おだち、ついたら消えた。
はい、そんな感じです。
おだち、どうぞ。
おだち・失礼しました。
前の質問は、
途中からだったんですけど、
ちょうど私の歌詞があるっていう内編なんですけど、
やっぱり原歌っていうか、
そっちのほうのやっぱり限界とか、
そういうふうなところをちょっと聞いてて、
何かやっぱり心でっていうか、
やっぱりやりたい中で、
経験値でもあるんですけど、
何かそういうところで、
やっぱり少しでも何ていうか、
アイテムをしろっていうか、
そういうふうなやっぱり、
そういうところを人に求めてしまうのもありますし、
やっぱり人から言われて、
どうやって、
どうやって把握しようかっていうか、
そういうふうなやっぱり努力っていうか、
それに対して、やっぱり完璧っていうのを目指すところは、
やっぱり何があるっていう内編ですと、
ある程度やっぱりやりたい気持ちはあるけれど、
それって完全にっていうわけにはいかないので、
その中で自分の心地よさとか、
あと相手にどういうふうに受け取ってほしいのかとか、
そういうふうなことに関しては、
やっぱり聞くっていうか、
そういうのは聞くっていうことに関しては、
何か自分の心もありますし、
相手のこと聞くっていうことも、
なんかやっぱり普段の努力っていうか、
だいたい合格学習になる言葉なんですけど、
結構そういうふうなところ、
やっぱり努力が必要なのかなっていう、
そんなところをちょっと感じていきたいです。
はい、ちょっと母親がちょっと予通で、
ちょうど尻尾張ってくれって言われたので、
はい、
ちょうどタイムリー。
もともとちょっと腰、
ちょっと10年前というか、
ちょっと父が亡くなって、
背後で腰潰してしまって、
そこからいろいろ格闘の次なので、
はい、
それでちょっと、
数日前にちょっとあれ、
何て言うかな、
やっぱり鍛えるっていうか、
そういうようなことをすると、
逆に無理してしまうっていうことになってて、
本当に鍛えられるっていうのがあったりとかもするので、
何かやっぱり自分との向き合いも、
母親から見ててもやっぱり、
自分に向き合いが大事だなという、
そういうようなことを思いながら。
はい。
じゃあ写真撮って終わりたいと思います。
はい、
チーズ、
パチ、
あら、
ピ、
もう一回いきます。
あれ?
ダメみたいだな、
私これ、
なんだよね。
はい、
チーズ、
パチ、
はい。
撮りました。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
じゃあこれで終わりにします。
おやすみなさい。
おやすみなさい。
ありがとうございました。
おやすみなさい。
お疲れ様です。