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「気づき」の仕組み
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タガワシ・イーカネパレットから福岡市の自宅に向かって車を走らせております。
時刻は17時24分でございます。
夕方です。
この夕方、5時半というと冬だったら結構暗い時間帯なんですけども、だいぶ明るくなってきましたね。
僕、夕方になって暗くなっていく時間っていうのが結構嫌いで、明るいという状態から暗いという状態になるのが結構嫌いなんですよ。
かといって、夜から明け方になって明るくなっていく時間っていうのも嫌いなんですよね。
だから、昼間が好きとか夜が好きとかじゃなくて、時間が経過するっていうことを目の当たりにするっていうのが多分嫌いなんですよね。
それくらい僕、昔から時間経過恐怖症みたいなものがあって、とにかく時間がなくなっていくっていうことを考えるだけで恐怖なんですよね。
これはもうちょっとなんかわかんないですけど。
最近気づいたことがありまして、それも気づきについてなんですよ。
気づきって、ここ10何年くらいで言われだした気がするんですよね。気づきがあるとか、気づきを得たとか。
これ気づいたでいいと思うんですけど、あえて気づきを得たっていう、気づくことを名詞化したものを得るとか、あるとか。
そういうふうに言う言い方って、ここ10年くらいじゃないかなと思うんですけど、それともいいや。
パッと何かの物事とか、見たこと、経験したこと、話を聞いたことから何か自分の中であって思う体験ですよね。
これを気づきって言いますけども、やっぱり周りをずっと見てると結構気づける人と気づけない人があるんですよ。
さっきの言い方で言うと、気づきが得やすい人と得にくい人がいるってことですかね。
必ずしも気づきが得やすい人がいっぱいインプットしているかっていうと、意外とそういうことでもないケースってあって、
例えばですけども、同じところに行って同じ時間を過ごしましたと。
何でもいいです。旅行でもいいですし、同じ本を読んだでもいいですし、同じ映画を見たでも何でもいいんですけども、
全く同じインプットをした2人が、AさんとBさんって全然気づきが違ったりするんですね。
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Aさんはめっちゃいろんなところに気づいて、インプットを得たというか、インプットを得る?おかしいか。
学びを得たとしても、Bさんは全然なんか楽しかったねぐらいで終わるっていう状況って結構あるんですよ。
で、これってなんでこんな言葉生まれるのかなっていうのを昔からずっと考えてるんですよ。
単純に頭がいい悪いとかいう話でもないんじゃないかなっていう話は思っててなんですけど、
最近これかなと思うのがあって、ちょっと話してみたいんですけど、
要は気づきを得るってどういう状況かで言うと、
何かわからないことがわかるでもいいんですけども、
これが気づきだと思ってたんですね。
気づきを得るためには、いろんな情報を仕入れないというような状況があるんですね。
気づきを得るためには、いろんな情報を仕入れないという状況があるんですね。
で、気づきを得るためには、いろんな情報を仕入れないといけない。
仕入れた瞬間にわからないことがわかるじゃないですか。
これが気づきになるっていうイメージで気づきっていうのを捉えてたんですけども、
最近ちょっと思ったのが、そういうことじゃないんじゃないかと。
じゃあ何かっていうと、すでに気づいていることを再認識するっていうことが気づきなんじゃないかと思ったんですよ。
ちょっとややこしいですね、言い方。
もっと言うと、無意識下でも自分がわかっていることを有意識下に持ってくることが気づきなんじゃないかなって思ったっていうことですね。
つまり、完全に気づいてないものとか自分の中にないものって気づけないんですよ。
だって、無意識下から有意識下に持ってくることが気づきなんで。
そうなんですよ。
ってことは、無意識下にもうあるってことですよね。
だからイメージで言うと、木から仏像を掘り出すみたいなイメージなんですよ。
掘り師の人ってよく言うのが、僕は仏像を作ってるんじゃないんだと。
木の中から仏像を掘り出してるんだっていう言い方をよくすると思うんですけども、
つまり、もう元々そこにあるものを健在化させてるだけだっていう言い方ですよね、これってね。
僕気づきもそういうもんなんじゃないかなと思ってるんですよ。
つまり、わかってるんですよ。
実は人間っていろんなことを心の中で、もう頭ではわかってなくても、頭を有意識ってあえて言いますね。
で、心を無意識って言いますけども、
すでに無意識下でわかっているものって実はめちゃくちゃあって、人間って。
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それって、無意識下の中で無意識のまま考えてるんですよ。
だから言葉じゃない状態で、理論とかじゃなくても感覚的にわかってるってことですよね。
言語化できない領域でわかってるっていうことが実は結構あると。
ここまでは結構ピンときますよね。
例えば人と話して何か自分の考えが明らかになったっていう経験ってあると思うんですけども、
これって人と話すことによってインプットするからわからない状態からわかるようになったっていうイメージではなくて、
そもそももう自分の中にあるものを言語化できたっていうことだと思うんですよ、この状態って。
つまりこれで何がわかるかというと、心の中にあるものって完全に頭の中で把握できてないっていう前提がわかりますね。
心の中だけで考えるともうすでにめちゃくちゃいろんなものわかってるんですよ。
でも人間ってそれを有意識下に持ってこないと処理できないし、実務に活かせないし、何か判断するときの根拠にできないんですよ。
なんとなくそうだからとかって根拠できないし、これ人にも伝わらないじゃないですか。
何かこうなんよね、わからんけどって全然説得力ないじゃないですか、ある物事を人に伝えるときに。
だから必ず何か人間がその気づきとか知識とかを使うときって有意識下に一旦コピーしないといけないですね、その無意識下から。
その作業をするのってある程度能力とか技術がいるのでなかなかそれができないと。
気づきってその非言語領域のところから言語領域のところに実体化するっていう言い方なんかな。
ここちょっと僕イメージ的にまだうまく言い表せてないんですけども、具現化するっていうか、バンって実現させるみたいなイメージなんですよね。
って捉えてます。
つまり普段から無意識下でめちゃくちゃ考えてないと気づき出られないってことですよ。
無意識下で考えるってもう経験したりとか肌で感じるみたいなことをし続けることでしか無意識下で考えることって難しくて。
だからいくら本読んでも多分ダメなんですよ。
本当に実体験をしないと無意識下での思考ってできなくて、無意識下なのに思考するっていうのがちょっと矛盾してますけど。
これ言語化が難しい。
同じことグルグル言ってて言えてないような感じがしてもう8分ぐらい経っちゃってるんですけど。
そういう感じなんですよね。
だから何が大事かっていうと、常にいろんなものを注意深く見るっていうことが大事だし、体験するっていうことが大事だし、互換で感じるっていうことが大事なんですよ。
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それをやってやって初めて何かの到達点をパンって超えたときにやっと言語にパーンってなるんですね。
もちろんですけど言語にパーンってなるためには言語を知っておかないといけないんでそこの能力がいるんですよね。さっき言ったんですけどこれ。
なんかこうそういう感覚なんですよ。
だから経験しないと気づけないし、言語を知らないと気づけないんですよね。
だから気づきをいっぱい得れる人とそうじゃない人の違いって経験が足りないか言葉が足りないかっていうその2つのうちのどっちかになるなっていうのを思ったし、
同じものを見ても人それぞれ思うことが違うっていうのはもうそれはそうで、
使ってる言語がまず違いますよね。もう言語ってその日本語が同じだからとかいう話じゃないですよ。
例えばビジネスパーソンはビジネスパーソンの言語をいっぱい知ってるし、アーティストはアーティストの言語を知ってるし、音楽に携わってる人は音楽で会話できるための言語をいっぱい知ってるしっていう、
そういう抗議の意味での言語なんですけども。
言語っていうよりもプロトコルって言ったらいいんかな。言語か言語ですね。言語を知ってるかっていうのがまず一つと、
あとはその業界によって全然違いますね。もちろん当たり前ですけど、使う言語って業界によって全然違うので、
違いますし、人それぞれ。で、もちろん人それぞれ体験が違うので、同じものをインプットしても気づきが違うっていうことなんですけども。
伝わったかな。なんかこの言葉を聞いて何か気づきを得ていただけると僕はすごく嬉しいんですけども、
僕がちょっと今回結構言語化できてないなっていうところがあるんですけども、でもなんかこの言語化できない中で一生懸命言ってる僕のこの雰囲気も含めて、
何かパンって皆さんの中で頭にね気づきを得ることができれば僕は嬉しいなと思います。
なんかまあいっか、なんとなくそんな感じです今日は。
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